やまひのすつきりねはぬける こゝろハだんだんいさみくる
はやばやとつとめのにんぢうまちかねる そばな心わなにをふもうや 四 24
いかなるのやまいとゆうてないけれど みにさわりつく神のよふむき 25
よふむきもなにの事やら一寸しれん 神のをもわくやまやまの事 26
なにもかも神のをもハくなにゝても みなといたなら心いさむで 27
だんだんになにもをもハくときゝれば みのうちよりもすゝやかになる 28
四下り目は、おふでさき四号で伝えているように、かんろだいづとめのつとめ人衆を揃えること、それがテーマの一つとなっている。
「身に障りつく神の用向き」 ― この道に導かれて、おつとめの話を聞いて、そこで、自分の身に異状を感じたなら、それについて本気で向き合いなさい ― 神からつとめ人衆として求められている ― 自分に対して起こっている全ては、神の意志と受けとめる生き方の中に、神の子としての真実があるから、それを悟るようにと促す。
「神の思惑、みな説いたなら」 ― 神の思惑は、つとめ人衆として「神に凭れて陽気づとめを」、これが神の意志です。それを拒絶すると、神の意志に抵抗するから、自分自身で苦しみを生みだしてしまう。そこで、神とともにあると意識を変えるなら、「心勇む」ことができる ― 身の内よりも涼やかになる
こゝはこのよのごくらくや わしもはやばやまゐりたい
だんだんとせかいぢううをしんぢつに たすけるもよふはかりするぞや 36
そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ 37
またさきハねんけんたちた事ならば としをよるめハさらにないぞや 38
無量寿経、四十八願の第十三願 ― “私が仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決して悟りを開きません”
第十五願 ― “私が仏になるとき、私の国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決して悟りを開きません”
「極楽」は「極楽浄土」の略 ― 西方十万億土のかなたにあり、広大無辺にして諸事が円満具足し、苦患 (くげん) のない、この上なく安楽な世界。浄土教の理想とする仏の国で、念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願力によってこの浄土に往生するという
みき様は「無量寿経」が伝える『四十八願』と、それに続く『重誓偈』を読破、超越して「前世」、「来世」の誓願をすっかり削ぎ落し、月日の自由が働く「今」に焦点を当てて、この道の教えを展開した。
四下り目、一ツは、「人が何事言おうとも」と一人ひとりの心の治め方を。
二ツは、「二人の心をおさめいよ」、六ツは、「村方早くにおさめたい」と、この二、六ツの「手振り」で、人を表す左右の扇は、平行のまましっかり距離をとる。ここに優越はない。お互いを受け入れ、認め合う ― いつ何処ででも、誰といても、どの様な状況にあっても、「今」自分のいるところが「極楽」となる。
このたびむねのうち すみきりましたがありがたい
うちなるハ上をふもふていづみいる こわみないぞや神のうけやい 69
いまゝでとみちがかわりてあるほどに はやくせきこみをふくハんのみち 70
このみちハいつの事やとをもている はやくてゝみよもふいまの事 71
だんだんとふてにしらしてあるほどに はやく心にさとりとるよふ 72
これさいかはやくさとりがついたなら みのうちなやみすゞやかになる 73
「上を思うていづみいる」 ― 「上」は過去の懺悔と未来への不安を掻き立てて、「怖み」を植えつけ、服従を迫る ― 「憂しの先道」、本当の自分を見失う→ みなが本当の自分を生きて「勇み来る」道を示す。
「心定めて、神に凭れよ」 ― 全てをあるがままに受け入れる ― たとえ起きたことが何であれ、自分にとって最善のために起こるべくして起きたと信頼する。そこに新しい世界が開かれる。ここで、「今」こそと立ち上がれば、その行動は全体と調和したものとなるから、全てが自分にとって有利に、強力的に展開する ― 「ここはこの世の極楽や」 ― 澄み切りましたがありがたい
日々に「から」と「にほん」分ける道 ― パラレルワールド
「にほん」 ― 極楽
「から」 ― 恐れ
― 神の急き込みこれが一条
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
はやばやとつとめのにんぢうまちかねる そばな心わなにをふもうや 四 24
いかなるのやまいとゆうてないけれど みにさわりつく神のよふむき 25
よふむきもなにの事やら一寸しれん 神のをもわくやまやまの事 26
なにもかも神のをもハくなにゝても みなといたなら心いさむで 27
だんだんになにもをもハくときゝれば みのうちよりもすゝやかになる 28
四下り目は、おふでさき四号で伝えているように、かんろだいづとめのつとめ人衆を揃えること、それがテーマの一つとなっている。
「身に障りつく神の用向き」 ― この道に導かれて、おつとめの話を聞いて、そこで、自分の身に異状を感じたなら、それについて本気で向き合いなさい ― 神からつとめ人衆として求められている ― 自分に対して起こっている全ては、神の意志と受けとめる生き方の中に、神の子としての真実があるから、それを悟るようにと促す。
「神の思惑、みな説いたなら」 ― 神の思惑は、つとめ人衆として「神に凭れて陽気づとめを」、これが神の意志です。それを拒絶すると、神の意志に抵抗するから、自分自身で苦しみを生みだしてしまう。そこで、神とともにあると意識を変えるなら、「心勇む」ことができる ― 身の内よりも涼やかになる
こゝはこのよのごくらくや わしもはやばやまゐりたい
だんだんとせかいぢううをしんぢつに たすけるもよふはかりするぞや 36
そのゝちハやまずしなすによハらすに 心したいにいつまでもいよ 37
またさきハねんけんたちた事ならば としをよるめハさらにないぞや 38
無量寿経、四十八願の第十三願 ― “私が仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決して悟りを開きません”
第十五願 ― “私が仏になるとき、私の国の天人や人々の寿命には限りがないでしょう。ただし、願によってその長さを自由にしたいものは、その限りではありません。そうでなければ、わたしは決して悟りを開きません”
「極楽」は「極楽浄土」の略 ― 西方十万億土のかなたにあり、広大無辺にして諸事が円満具足し、苦患 (くげん) のない、この上なく安楽な世界。浄土教の理想とする仏の国で、念仏を唱えれば、阿弥陀仏の本願力によってこの浄土に往生するという
みき様は「無量寿経」が伝える『四十八願』と、それに続く『重誓偈』を読破、超越して「前世」、「来世」の誓願をすっかり削ぎ落し、月日の自由が働く「今」に焦点を当てて、この道の教えを展開した。
四下り目、一ツは、「人が何事言おうとも」と一人ひとりの心の治め方を。
二ツは、「二人の心をおさめいよ」、六ツは、「村方早くにおさめたい」と、この二、六ツの「手振り」で、人を表す左右の扇は、平行のまましっかり距離をとる。ここに優越はない。お互いを受け入れ、認め合う ― いつ何処ででも、誰といても、どの様な状況にあっても、「今」自分のいるところが「極楽」となる。
このたびむねのうち すみきりましたがありがたい
うちなるハ上をふもふていづみいる こわみないぞや神のうけやい 69
いまゝでとみちがかわりてあるほどに はやくせきこみをふくハんのみち 70
このみちハいつの事やとをもている はやくてゝみよもふいまの事 71
だんだんとふてにしらしてあるほどに はやく心にさとりとるよふ 72
これさいかはやくさとりがついたなら みのうちなやみすゞやかになる 73
「上を思うていづみいる」 ― 「上」は過去の懺悔と未来への不安を掻き立てて、「怖み」を植えつけ、服従を迫る ― 「憂しの先道」、本当の自分を見失う→ みなが本当の自分を生きて「勇み来る」道を示す。
「心定めて、神に凭れよ」 ― 全てをあるがままに受け入れる ― たとえ起きたことが何であれ、自分にとって最善のために起こるべくして起きたと信頼する。そこに新しい世界が開かれる。ここで、「今」こそと立ち上がれば、その行動は全体と調和したものとなるから、全てが自分にとって有利に、強力的に展開する ― 「ここはこの世の極楽や」 ― 澄み切りましたがありがたい
日々に「から」と「にほん」分ける道 ― パラレルワールド
「にほん」 ― 極楽
「から」 ― 恐れ
― 神の急き込みこれが一条
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講