陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

いちれつに  大工の人も揃い来た

2018-11-27 15:37:30 | 宗教
みかぐらうた、十二下り目です。

  いちにだいくのうかゞひに なにかのこともまかせおく
   一に大工の伺に 何かの事も任せおく
   不思議なふしんをするならば 伺いたてて言いつけよ
   みな世界からだんだんと 来たる大工に匂いかけ
 十二下り目は、「ふしぎなふしん」の全てを、扇の伺、すなわち月日が「さづけ」を授けた大工に任せよう、という呼びかけが起句となっている。そして、大工のその役目は人間心、「思考」のない、神の「意識」をもってすることはもちろんのことで、それに応えて、我も我もと「ふしん」に集う大工候補に「匂いかけ」と言うが、何を匂おわすか、何を伝えるべきか。それを十二下り目がそうであるように、おふでさきの終わりの十七号の歌から、その解答を引き出してみると、
  この道はどういう事に思うかな かんろうだいの一条のこと
  人間を創めかけたる証拠に かんろうだいを据えておくぞや
  この台がみな揃いさえしたならば どんな事をが叶わんで無し

 この世界だすけのふしんは、おつとめを広めることで達成される、ということはおふでさきで繰り返し歌っているところ。その手段を十七号は「かやし」という語を当てて、歌にしていることが分かる。
  今まではどの様な事も聞いていた この度こそは残念晴らすで
  これからはこのかやしをばする程に みな一列は承知していよ
  この日はな何時の事やと思ている 26日が来ることなら
 月日は、人間が陽気遊山するのを見て、ともに楽しみたいと人間を創めたのに、それが世界中に行き渡っていないことが「殘念」なのです。その残念を「かやし」するために、人間の本来あるべき姿を、おつとめで形にあらわし、おつとめを先ずこの地場で実行する。そこからおつとめを世界中に広めて、我が子一人残らずが陽気遊山する姿を見る。それが月日の願いなのです。

 おつとめをするためには、その人材の確保が急がれる。
   善き棟梁があるならば 早く根本へ寄せておけ
   いづれ棟梁四人いる 早く伺たててみよ
 「ふしん」の用材、つとめ人衆は四人 ― 「四・よ」は、(古語辞典)「四方」ということで、もともとは無限の数量を意味したもの。それをつとめ人衆に当てはめるなら、いづれその数は十人とか三十六人では済まされず、行き着く先は73億人…

   無理に来いとは言わんでな いづれ段々つきくるで
  月日にはどんな所に居る者も 心次第にみな受け取るで
  今まではどんな心でいたるとも 一夜の間にも心入れ替え

   山の中へと行くならば 荒木棟梁連れて行け
   これは小細工棟梁や 建前棟梁これカンナ
  このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた
   この度いちれつに 大工の人も揃い来た
 「ふしん」の用材の切り出しは荒木棟梁、小細工する小細工棟梁、全体を仕切る建前棟梁というように、おつとめをする一人ひとりはみな棟梁で、これが「カンナ」こと大工の人のおおきな役割ということ。かんろだいづとめは、一人ひとりの個性をそのままに発揮する。ここに神に凭れる姿がある。そこには一切の人間心はない。

  「銘々に ほこりばかりを思案している」
 秀司、小寒が亡くなってからでも、みき様の縁者・里の前川家、秀司の長男音次郎、まつゑの実家の小東家などは拝み祈祷の信仰を手放さず「ほこりばかりを思案している」その姿を反面教師にして、

  「これから先は悟りばかりや」
 みき様の在世の明治14、5年頃のおつとめは、よろづよ八首から始めて、十二下りを一下り目から順につとめ、十二下り目までを終えてから、「ちょとはなし」、「一列すますかんろうだい」という順につとめたのです。
 おつとめの中心は、十七号で歌っているようにイザナギ、イザナミのほん真ん中。このイザナギ、イザナミの役割に人間誕生の根源を見るなら、そこに陽気遊山の根源もあるということ。それで、「ちょとはなし」をつとめる前に、(おふでさきの総称)よろづよ八首と十二下りでその根源を周知させてから、「この世の地と天とを型取りて 夫婦を拵えきたるでな これはこの世の創めだし」と歌った、これが史実である。
 月日のこの「かやし」によって、おつとめをつとめた時、創造された時と同じ波動になることができる。その時に、本当の自分と一つになる。
    わたしの原点… すべて此処から…

  この道を早く見とうて急き込んだ さあこれからは陽気づくめや
    しあわせである必要も  ふしあわせである必要もない
    あなたは… あなたであればいい   k-zerostyl

                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

ところ  変えるばかりやで

2018-11-09 16:18:01 | 宗教
みかぐらうた、十一下り目です。

 起句は、「神の館のぢば定め」。ぢば定めは、かんろうだいを立てて、それを中心に据えて「かんろだいづとめ」をするための出発点。この起句と結句をつなぐ転句に「屋敷の土を掘りとりて、所変えるばかりやで」とある、その神意をおさめるために、おふでさきに目を通す。
 「ぢば」、「かんろうだい、だい」の語を一番多用している九号には、「夫婦揃ってひのきしん」のモデルとして「社となるを二人とも」と歌っているから、九号と十一下り目をすり合わせる。

 十一下り目は言ってみれば、それぞれが「今の自分を変えてみなさい」という月日の提言。
  ひのもとしよやしきの かみのやかたのぢばさだめ
   陽の下庄屋敷の 神の館のぢば定め
 この「変える」ことを、おふでさき九号は冒頭の1~5で、月日の伝えることを「今までは人間の心」で聞き流していたようだが、「この度は人間の心さらになし」という「意識」で、しかと聞くように。そう切り出して、世界だすけのため、おつとめを広める。そのために必要となるかんろうだいを据える「ぢば定め」への「心づもり」を12~24の歌で促す。
 その中で「飛びでたことをきいたなら」「かんろうだいを早く出すよう」と歌うが、「飛びでる」は、十号4、5 ― おつとめをすると、つとめ人衆の我が身思案の「思考」が消えて、神の「意識」になるから、その意識に「月日が入り込む」。月日が入り込めば「自由自在をしてかかる」から、「どんな事でも危なきはない」と。

   夫婦揃ってひのきしん これが第一もの種や
   見れば世界がだんだんと モッコ担ってひのきしん
 「夫婦」 ― かんろうだいは、イザナギ、イザナミの身の内のほん真ん中、すなわち生命の誕生と連綿と繰り返される生命の根元の象徴、新しい生命の「物種」。
 おふでさき九号は、5~11で、この夫婦を具体化している ― 「社となる」秀司まつゑ「二人とも」、山沢ら取り巻きから「別間隔てて」しまい、みき様の膝元へ「置いてもろたら」というように二人がともに「生き方を変える」、神の子として生まれ変わる。するとそれが「請け負うの元と」となって、奇跡が起こる ― どんな「難し病でもたすけする」
 また、二人のその「意識の変化」が起こす「夫婦揃ってひのきしん」の衝動は、生まれ変わった新たな生命であるから、それが「物種」となって、「見れば世界がだんだんと」、この二人に心を寄せ、回りの人々がともに「ひのきしん」に合流してくる。

 四ツから七ツの内容は、33~43で前置きしてから、44~51で展開する。
   「欲を忘れてひのきしん」「未だあるならば私も行こ」
   「心あるなら誰なりと」「これが寄進となるならば」
 かんろうだいを「しっかり据えておく」ための土持、それは「ひのきしん」、陽への寄進だから、「何も恐みも危なきもない」という神の自由を見ることができる、と言い聞かせて、実際のかんろうだい建設の話しを具体的に伝える。

   この度までは一列に 胸が分からん残念や
  やしきのつちをほりとりて ところかへるばかりやで
   屋敷の土を掘りとりて 所変えるばかりやで
 所変える「ばかりやで」の手振りは、二歩前に出てから、いっきに一回転して、元の位置に戻る ― かんろうだいを据えようとひのきしんする姿。その見かけは、単に掘り取った土を別の所へ移すだけでも、その手振りは、180度転換して元の位置に戻ることで、人間心から神に凭れる生き方に変わったことを表す。ここには新しい生命の誕生がある。おつとめをして、少しでも早くただシンプルに「変わろう」と選択する。すると、神の意識とつながり、人間心に変化が起こる。

 そのままに、分からんからといつまでも、抵抗して、抵抗して、抵抗し続けると、いずれは「やまい」を引き寄せ、借り物の体の崩壊を招くことになると、それは非常に「残念な」。だから「今年は」、これからは…
   今年は肥置かず 十分物を作りとり   やれ頼もしやありがたや
 「天の与え」 ― 稔りを得たい、肥を沢山やらねばと身骨を砕いてきたが、「自分が変わる」ことが、「唯一無二の肥」になると分かった今、やっと腹をくくることができた…、

    人生を信頼せず 己れを信じるハラくくらぬ人……
    努力と行動の繰り返し 人生は硬直する
    人生を信頼し 己れを委ねるハラくくる人……
    衝動と棚ぼたの繰り返し 人生は変容する      k-zerostyl


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

病のもとは  心から

2018-11-02 21:33:59 | 宗教
みかぐらうた、十下り目です。

 みかぐらうたの「やまい」という語はこの十下り目に集中していて、「病の元は心から」とおさめている。そして、「病で難儀する」のは「我が身恨みである」と歌っているから、おふでさきで「我が身恨み」に相当する語を探してみる。六、十三、十七号にそれぞれ1語ずつあるが、「やまい」を話題にしているのは、六号に限られている。それで、六号とすり合わせることで、「やまい」の神意をより深めたい。

   人の心というものは 一寸に分からんものなりし
  ふしぎなたすけをしてゐれど あらわれでるのがいまはじめ
   不思議なたすけをしていれど 現れ出るのが今始め
 1~64で、「現れ出る」を、2つの手法で表現している。
  ①、5~54 おつとめで、「また始めかけ、確か治める」 ― かんろだいづとめで元始まりを再現して、この世と人類創生を世界中に明かす。「どの様な神も、現れ出して」「元創まりの親がいるなり」 ― 記紀神話の元創まりの親(天皇家の先祖)である神々を、(お百姓を主とする)つとめ人衆の神名に当てはめる(30~52)。
  ②、55~64 神の社として、「確か外へ現れて、何か万づをみな言て聞かす」

   欲に切りない泥水や 心澄み切れ極楽や
 65~79で、「高山は何を言うても思うにも みな人間の心ばかりで」 ― 純粋であった月日かしものの心が、人間心で濁ってしまっている。そういう「思考」、エゴには、良い結果を生み出す能力はない。

   いついつまでもこの事は 話しの種になる程に
 80~88の元始まり ― 「この世は泥海中の事なるし 中に月日が居たるまでなり」、そこで、人間を創めて、陽気遊山するのを見て、共に楽しみたいと「月日より段々心尽くしきり その故なるの人間である」この元始まりを、世界たすけのための「話しの種」として、世界中に伝えたい。

   酷い言葉を出したるも、それはあくまでも早くたすけを急ぐから
  なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに
   難儀するのも心から 我が身恨み恨みである程に
 89~101で、高山がはびかって、世界中一人残らず陽気づくめにすることを妨げ、挙句全てをままにしようとするから、月日は「山崩え、雷、地震、大風」などの「返し」を見せる。
 「どの様な事も恨みに思うなよ みな銘々のみうらみである」 ― 人々の外で起きている変化は、実は人々の意識の中で起きている変化だから、「受けとり次第かやしする」 ― 人間自身が自分の現実をつくっているからということ。

   この度までは一列に 病の元は知れなんだ
 102~で、「やまい」は、九号10で「人間に病というてないけれど この世始まり知りたた者なし」、六号でも「どの様なことでも神のすることや これを病とさらに思うな」 ― 人間が陽気づくめにあるなら「何か万づの守護するぞや」。それに対して、陽気づくめにないなら、そこには月日の自由が届かず、それが「やまい」そのものの姿。
  このたびあらわれた やまひのもとハこゝろから
   この度現れた 病の元は心から
 「どの様な難しきなるやまいでも 真実なるのいき(てをどり)でたすける」 ― さづけとおつとめで、神と一体となったとき、その神の「意識」に変化が起こり、そこに自分の「思考」が「やまい」の元であることに気づく。この気づきによって、その人の内側に、確信ができる。この確信からの衝動が、行動をとらせる。

   見れば世界がだんだんと モッコ担ってひのきしん
    人生を信頼せず 己れを信じるハラくくらぬ人……
    努力と行動の繰り返し 人生は硬直する
    人生を信頼し 己れを委ねるハラくくる人……
    衝動と棚ぼたの繰り返し 人生は変容する    k-zerostyl


                   中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講