みかぐらうた、十二下り目です。
いちにだいくのうかゞひに なにかのこともまかせおく
一に大工の伺に 何かの事も任せおく
不思議なふしんをするならば 伺いたてて言いつけよ
みな世界からだんだんと 来たる大工に匂いかけ
十二下り目は、「ふしぎなふしん」の全てを、扇の伺、すなわち月日が「さづけ」を授けた大工に任せよう、という呼びかけが起句となっている。そして、大工のその役目は人間心、「思考」のない、神の「意識」をもってすることはもちろんのことで、それに応えて、我も我もと「ふしん」に集う大工候補に「匂いかけ」と言うが、何を匂おわすか、何を伝えるべきか。それを十二下り目がそうであるように、おふでさきの終わりの十七号の歌から、その解答を引き出してみると、
この道はどういう事に思うかな かんろうだいの一条のこと
人間を創めかけたる証拠に かんろうだいを据えておくぞや
この台がみな揃いさえしたならば どんな事をが叶わんで無し
この世界だすけのふしんは、おつとめを広めることで達成される、ということはおふでさきで繰り返し歌っているところ。その手段を十七号は「かやし」という語を当てて、歌にしていることが分かる。
今まではどの様な事も聞いていた この度こそは残念晴らすで
これからはこのかやしをばする程に みな一列は承知していよ
この日はな何時の事やと思ている 26日が来ることなら
月日は、人間が陽気遊山するのを見て、ともに楽しみたいと人間を創めたのに、それが世界中に行き渡っていないことが「殘念」なのです。その残念を「かやし」するために、人間の本来あるべき姿を、おつとめで形にあらわし、おつとめを先ずこの地場で実行する。そこからおつとめを世界中に広めて、我が子一人残らずが陽気遊山する姿を見る。それが月日の願いなのです。
おつとめをするためには、その人材の確保が急がれる。
善き棟梁があるならば 早く根本へ寄せておけ
いづれ棟梁四人いる 早く伺たててみよ
「ふしん」の用材、つとめ人衆は四人 ― 「四・よ」は、(古語辞典)「四方」ということで、もともとは無限の数量を意味したもの。それをつとめ人衆に当てはめるなら、いづれその数は十人とか三十六人では済まされず、行き着く先は73億人…
無理に来いとは言わんでな いづれ段々つきくるで
月日にはどんな所に居る者も 心次第にみな受け取るで
今まではどんな心でいたるとも 一夜の間にも心入れ替え
山の中へと行くならば 荒木棟梁連れて行け
これは小細工棟梁や 建前棟梁これカンナ
このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた
この度いちれつに 大工の人も揃い来た
「ふしん」の用材の切り出しは荒木棟梁、小細工する小細工棟梁、全体を仕切る建前棟梁というように、おつとめをする一人ひとりはみな棟梁で、これが「カンナ」こと大工の人のおおきな役割ということ。かんろだいづとめは、一人ひとりの個性をそのままに発揮する。ここに神に凭れる姿がある。そこには一切の人間心はない。
「銘々に ほこりばかりを思案している」
秀司、小寒が亡くなってからでも、みき様の縁者・里の前川家、秀司の長男音次郎、まつゑの実家の小東家などは拝み祈祷の信仰を手放さず「ほこりばかりを思案している」その姿を反面教師にして、
「これから先は悟りばかりや」
みき様の在世の明治14、5年頃のおつとめは、よろづよ八首から始めて、十二下りを一下り目から順につとめ、十二下り目までを終えてから、「ちょとはなし」、「一列すますかんろうだい」という順につとめたのです。
おつとめの中心は、十七号で歌っているようにイザナギ、イザナミのほん真ん中。このイザナギ、イザナミの役割に人間誕生の根源を見るなら、そこに陽気遊山の根源もあるということ。それで、「ちょとはなし」をつとめる前に、(おふでさきの総称)よろづよ八首と十二下りでその根源を周知させてから、「この世の地と天とを型取りて 夫婦を拵えきたるでな これはこの世の創めだし」と歌った、これが史実である。
月日のこの「かやし」によって、おつとめをつとめた時、創造された時と同じ波動になることができる。その時に、本当の自分と一つになる。
わたしの原点… すべて此処から…
この道を早く見とうて急き込んだ さあこれからは陽気づくめや
しあわせである必要も ふしあわせである必要もない
あなたは… あなたであればいい k-zerostyl
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
いちにだいくのうかゞひに なにかのこともまかせおく
一に大工の伺に 何かの事も任せおく
不思議なふしんをするならば 伺いたてて言いつけよ
みな世界からだんだんと 来たる大工に匂いかけ
十二下り目は、「ふしぎなふしん」の全てを、扇の伺、すなわち月日が「さづけ」を授けた大工に任せよう、という呼びかけが起句となっている。そして、大工のその役目は人間心、「思考」のない、神の「意識」をもってすることはもちろんのことで、それに応えて、我も我もと「ふしん」に集う大工候補に「匂いかけ」と言うが、何を匂おわすか、何を伝えるべきか。それを十二下り目がそうであるように、おふでさきの終わりの十七号の歌から、その解答を引き出してみると、
この道はどういう事に思うかな かんろうだいの一条のこと
人間を創めかけたる証拠に かんろうだいを据えておくぞや
この台がみな揃いさえしたならば どんな事をが叶わんで無し
この世界だすけのふしんは、おつとめを広めることで達成される、ということはおふでさきで繰り返し歌っているところ。その手段を十七号は「かやし」という語を当てて、歌にしていることが分かる。
今まではどの様な事も聞いていた この度こそは残念晴らすで
これからはこのかやしをばする程に みな一列は承知していよ
この日はな何時の事やと思ている 26日が来ることなら
月日は、人間が陽気遊山するのを見て、ともに楽しみたいと人間を創めたのに、それが世界中に行き渡っていないことが「殘念」なのです。その残念を「かやし」するために、人間の本来あるべき姿を、おつとめで形にあらわし、おつとめを先ずこの地場で実行する。そこからおつとめを世界中に広めて、我が子一人残らずが陽気遊山する姿を見る。それが月日の願いなのです。
おつとめをするためには、その人材の確保が急がれる。
善き棟梁があるならば 早く根本へ寄せておけ
いづれ棟梁四人いる 早く伺たててみよ
「ふしん」の用材、つとめ人衆は四人 ― 「四・よ」は、(古語辞典)「四方」ということで、もともとは無限の数量を意味したもの。それをつとめ人衆に当てはめるなら、いづれその数は十人とか三十六人では済まされず、行き着く先は73億人…
無理に来いとは言わんでな いづれ段々つきくるで
月日にはどんな所に居る者も 心次第にみな受け取るで
今まではどんな心でいたるとも 一夜の間にも心入れ替え
山の中へと行くならば 荒木棟梁連れて行け
これは小細工棟梁や 建前棟梁これカンナ
このたびいちれつに だいくのにんもそろひきた
この度いちれつに 大工の人も揃い来た
「ふしん」の用材の切り出しは荒木棟梁、小細工する小細工棟梁、全体を仕切る建前棟梁というように、おつとめをする一人ひとりはみな棟梁で、これが「カンナ」こと大工の人のおおきな役割ということ。かんろだいづとめは、一人ひとりの個性をそのままに発揮する。ここに神に凭れる姿がある。そこには一切の人間心はない。
「銘々に ほこりばかりを思案している」
秀司、小寒が亡くなってからでも、みき様の縁者・里の前川家、秀司の長男音次郎、まつゑの実家の小東家などは拝み祈祷の信仰を手放さず「ほこりばかりを思案している」その姿を反面教師にして、
「これから先は悟りばかりや」
みき様の在世の明治14、5年頃のおつとめは、よろづよ八首から始めて、十二下りを一下り目から順につとめ、十二下り目までを終えてから、「ちょとはなし」、「一列すますかんろうだい」という順につとめたのです。
おつとめの中心は、十七号で歌っているようにイザナギ、イザナミのほん真ん中。このイザナギ、イザナミの役割に人間誕生の根源を見るなら、そこに陽気遊山の根源もあるということ。それで、「ちょとはなし」をつとめる前に、(おふでさきの総称)よろづよ八首と十二下りでその根源を周知させてから、「この世の地と天とを型取りて 夫婦を拵えきたるでな これはこの世の創めだし」と歌った、これが史実である。
月日のこの「かやし」によって、おつとめをつとめた時、創造された時と同じ波動になることができる。その時に、本当の自分と一つになる。
わたしの原点… すべて此処から…
この道を早く見とうて急き込んだ さあこれからは陽気づくめや
しあわせである必要も ふしあわせである必要もない
あなたは… あなたであればいい k-zerostyl
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講