これからハ心しいかりいれかへて よふきづくめの心なるよふ 十四 24
これからは心しっかり入れ替えて 陽気づくめの心なるよう
月日、人間の親の思いは全ての子供が「陽気づくめ」にあること。それなのに「いづむばかり」の結果がある、その原因がどこにあるのかを、バッチリ示してみよう! というのです。
月日よりにちにち心せきこめと そばの心わいづむばかりで 十四 2
月日より日々心急き込めど 側の心はいづむばかりで
いづむのもどうしていづむ事ならば、上には何も知らん故なり
世界にはそれを知らずに何事も みな従うていづみいるなり
つとめ場所で秀司が祀っている十二神社の神は、明治新政権が押しつける「神学こふき」の神々で、それは一人ひとりを幸せにすることよりも、国をもっと強くすることを念頭において祀る神なのです。「上(高山)」のその本心を知るや知らずやで、無意識にそこに身を寄せようとする(上たる心で憚る)側なる秀司よ! お前はあくまでも嘘を突き通そうとする「上」に従っているから、いつになっても「いづみ入るなり」、その姿は自明の理なんだよ!
16~24は、不確かな「上」に従う結果として「いづみ入る」その因果律の例を上げる
このよふにかまいつきものばけものも かならすあるとさらにをもうな 十四 16
この世にかまい憑き物化け物も 必ずあると更に思うな
世界にはコレラと言うているけれど 月日残念知らす事なり
「コレラは月日残念を知らす事なり」 ― コレラ! だと、いかにも突発的に不幸が降って湧いたように恐れおののいているが、それは決して訳もなく降った涌いたような出来事ではない。この世には偶然というものはさらに(絶対に)ない ― 「万づ互いにたすけするなら」、「その心をば受け取りて、どんなたすけもすると思えよ」、という月日の思惑がその基にあることを強調して、因果律の法則を確認させる。
月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから 十四 25
月日には人間創めかけたのは 陽気ゆさんが見たい故から
せかいにハこのしんぢつをしらんから みなどこまでもいつむはかりで 十四 26
世界にはこの真実を知らんから 皆どこまでもいづむばかりで
世界だすけの月日の心を我が心とするための最善の手段は、自分が陽気ゆさんの人生を送ること。月日の子として親の願いどおりに人生を生きることによって、 月日は望む方法で自由自在をサポートしてくれるんだと信頼し、「神に凭れる」生き方ができるなら、それがもと立てとなって、陽気づくめという効を生む。
「この真実を知らんから」 ― 「神」を取り違えたら、「陽気づくめ」という成果はない
いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで 十四 29
今までは月日と言うて説いたれど もう今日からは名前変えるで
今日までは大社高山はびかりて 儘にしていた事であれども
日々にをやの思案というものは たすける模様ばかり思てる
全ての我が子をたすけたいと願う「神」を「をや」と呼びかえて、強権政治のために、子供を利用しようと企むための「神」としっかり区別する。
どのよふな事がありてもしんちつの 心したいにこわい事なし 十四 49
どの様な事がありても真実の 心次第に怖いことなし
真実をもって決断すれば、それは実現する。全ての決心は真実から心定めることで、それが実現してしまう。それが真実の決断なら、「何を聞いても楽しみばかり」となるが、「疑う心あるなら、どんな道やら」という前途があることを承知せねがならない。
神の子としてそのままの自分を生きるなら、そこに「真実の心次第に怖いことなし」という「恐れから開放される」至福の「効」がある。
おふでさきは、「この世は理で責めたる世界」であると歌い、その「理」を「前生の因縁寄せて」、すなわちこの世は因果律のエネルギー、法則が働いていることを知らせ、「これは末代しかと治まる」と、執筆の第一号に記す。そして、それを基本にして歌い続けていき、その流れにそって、「心しだいに怖いことなし」という確固たる生き方の手段を身につける方法を、ここで明言したのです。
これさいか確かに承知したならば いつまで居ても陽気づくめや
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
これからは心しっかり入れ替えて 陽気づくめの心なるよう
月日、人間の親の思いは全ての子供が「陽気づくめ」にあること。それなのに「いづむばかり」の結果がある、その原因がどこにあるのかを、バッチリ示してみよう! というのです。
月日よりにちにち心せきこめと そばの心わいづむばかりで 十四 2
月日より日々心急き込めど 側の心はいづむばかりで
いづむのもどうしていづむ事ならば、上には何も知らん故なり
世界にはそれを知らずに何事も みな従うていづみいるなり
つとめ場所で秀司が祀っている十二神社の神は、明治新政権が押しつける「神学こふき」の神々で、それは一人ひとりを幸せにすることよりも、国をもっと強くすることを念頭において祀る神なのです。「上(高山)」のその本心を知るや知らずやで、無意識にそこに身を寄せようとする(上たる心で憚る)側なる秀司よ! お前はあくまでも嘘を突き通そうとする「上」に従っているから、いつになっても「いづみ入るなり」、その姿は自明の理なんだよ!
16~24は、不確かな「上」に従う結果として「いづみ入る」その因果律の例を上げる
このよふにかまいつきものばけものも かならすあるとさらにをもうな 十四 16
この世にかまい憑き物化け物も 必ずあると更に思うな
世界にはコレラと言うているけれど 月日残念知らす事なり
「コレラは月日残念を知らす事なり」 ― コレラ! だと、いかにも突発的に不幸が降って湧いたように恐れおののいているが、それは決して訳もなく降った涌いたような出来事ではない。この世には偶然というものはさらに(絶対に)ない ― 「万づ互いにたすけするなら」、「その心をば受け取りて、どんなたすけもすると思えよ」、という月日の思惑がその基にあることを強調して、因果律の法則を確認させる。
月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから 十四 25
月日には人間創めかけたのは 陽気ゆさんが見たい故から
せかいにハこのしんぢつをしらんから みなどこまでもいつむはかりで 十四 26
世界にはこの真実を知らんから 皆どこまでもいづむばかりで
世界だすけの月日の心を我が心とするための最善の手段は、自分が陽気ゆさんの人生を送ること。月日の子として親の願いどおりに人生を生きることによって、 月日は望む方法で自由自在をサポートしてくれるんだと信頼し、「神に凭れる」生き方ができるなら、それがもと立てとなって、陽気づくめという効を生む。
「この真実を知らんから」 ― 「神」を取り違えたら、「陽気づくめ」という成果はない
いまゝでハ月日とゆうてといたれど もふけふからハなまいかゑるで 十四 29
今までは月日と言うて説いたれど もう今日からは名前変えるで
今日までは大社高山はびかりて 儘にしていた事であれども
日々にをやの思案というものは たすける模様ばかり思てる
全ての我が子をたすけたいと願う「神」を「をや」と呼びかえて、強権政治のために、子供を利用しようと企むための「神」としっかり区別する。
どのよふな事がありてもしんちつの 心したいにこわい事なし 十四 49
どの様な事がありても真実の 心次第に怖いことなし
真実をもって決断すれば、それは実現する。全ての決心は真実から心定めることで、それが実現してしまう。それが真実の決断なら、「何を聞いても楽しみばかり」となるが、「疑う心あるなら、どんな道やら」という前途があることを承知せねがならない。
神の子としてそのままの自分を生きるなら、そこに「真実の心次第に怖いことなし」という「恐れから開放される」至福の「効」がある。
おふでさきは、「この世は理で責めたる世界」であると歌い、その「理」を「前生の因縁寄せて」、すなわちこの世は因果律のエネルギー、法則が働いていることを知らせ、「これは末代しかと治まる」と、執筆の第一号に記す。そして、それを基本にして歌い続けていき、その流れにそって、「心しだいに怖いことなし」という確固たる生き方の手段を身につける方法を、ここで明言したのです。
これさいか確かに承知したならば いつまで居ても陽気づくめや
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講