こゝはこのよのもとのぢば めづらしところがあらわれた
どのよふなたすけするのもしんちつの をやがいるからみなひきうける 七 101
この事をこれをまことにをもうなら まことしんぢつ心したいや 102
心さいしんぢつすんだ事ならば どんな事でもちがう事なし 103
「珍し所」から伝える「たすけ」は全ての「恐れ」からの解放。
『第一』が「おびやほうそ許し」による「過去」と「未来」の縛りからの解放。
「おびや許し」 ― 「恐れ」が生んだ迷信、因習の「過去」から自由になる。
「ほうそ許し」 ― 周りを、敵と見なす「未来」への危機感から自由になる。
『第二』が「時間」の概念から自由になること。
いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら 35
「今」、陽気づくめであるための障害となっている、虚しい「過去」。いつ叶うかも知れず期待して待つ、虚しい「未来」にとらわれている身も心も、一番肝心な「今」に集中させる。
このたびのはらみているをうちなるわ なんとをもふてまちているやら 65
こればかり人なみやとハをもうなよ なんでも月日ゑらいをもわく 66
このもとハ六ねんいぜんに三月の 十五日よりむかいとりたで 67
それからハいまゝて月日しいかりと だきしめていたはやくみせたい 68
それしらすうちなるものハなにもかも せかいなみなるよふにをもふて 69
このはなしどふゆう事にをもうかな これが大一このよはじまり 70
「月日の偉い思惑」 ― 我が身が完全に「今」に根を下ろすことができれば、その「今」は自由自在となって、全ての「怖き危なき」、「恐れ」は消えて陽気づくめとなる。そして過去未来に対して、陽気づくめの視点でとらえようとすれば、この二つの相反するできを「今」のこととして同時に体験することができる ― 月日が「迎え取り」て、「抱きしめている」お秀・「過去」の現象に、「孕みている」たまへという「未来」の現象を上書きするように、同じ一つの現象として体験することができる ― 「今」には「死」は存在しないから、「六年間抱きしめていた」 ― 死んだ後、お秀の魂がたまへという別の生命に生まれ出るという輪廻転生はない ― 「世界並みのように思うて」
お秀とその母は秀司が目覚めて、みき様の名代として勇んでつとめる姿、その陽気づくめの姿を皆に振る舞うことが出来るようにと願って、お屋敷を去る決意をしたのだった。
「何と思うて待ちているやら」 ― 秀司は妻まつゑが身ごもっているたまへを目の前にして、お秀の誕生を再現するかのように、その全てを目の当たりにすることができる。そこから、今度こそ目覚めて、みき様とともに「神一条の道」を歩む好機であった。しかし、秀司は、過去未来に飲み込まれて「今」におさまることはなく、いづみ入ったままで、二人の願いが叶うことはなかった。十八才で逝ったお秀に対して、(おふでさきで命名した)たまへは四歳で逝ってしまう。その事情は「月日の思惑」に反して、「世界並み」の「因果応報」の物語りの中に溶け込んでしまうが…
どうでもしんゞゝするならバ かうをむすぼやないかいな
「講」は、結社または結社による行事・会合である。 講の原義は「講義」「講読」の「講」であり、寺院内で仏典を講読・研究する僧の集団。
「講」については、おふでさき二号で、「神のうちわけ場所」と歌って、それを解説する。
これからハをくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで 二 1
このみちをはやくつけよとをもへども ほかなるとこでつけるとこなし 14
このはなしなんの事やとをもている 神のうちわけばしよせきこむ 16
このさきハたんへつとめせきこんで よろづたすけのもよふばかりを 21
「つとめ」で「よろづたすけ」をあらわして、その実、月日自由を見定める。
月日よりどのよな事もをしゑるで このよはぢめてない事ばかり 七 106
月日にハとのよな事も一れつに みなにをしへてよふきづくめに 108
せかいぢうみな一れつハすみきりて よふきづくめにくらす事なら 109
真の目覚めは、けっして未来ではなく、「今」というときに起こる。完全に「今」におさまるなら、目覚めた気づきによって、悟りを得て「かんろだいづとめ」があらわす一体性を体得することができる。
「今がこの世のはじまり」こそ、「おびやほうそ許し」を説くおふでさき七号の最大のテーマ ― 「おびやほうそ許し」によって、「過去」と「未来」の縛りから自由になり、「今」にしっかり根を下ろす→ 「月日より自由自在を真実に 早く見せたいこれが一条」 ― いつまでしんゞゝしたとても やうきづくめであるほどに
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講
どのよふなたすけするのもしんちつの をやがいるからみなひきうける 七 101
この事をこれをまことにをもうなら まことしんぢつ心したいや 102
心さいしんぢつすんだ事ならば どんな事でもちがう事なし 103
「珍し所」から伝える「たすけ」は全ての「恐れ」からの解放。
『第一』が「おびやほうそ許し」による「過去」と「未来」の縛りからの解放。
「おびや許し」 ― 「恐れ」が生んだ迷信、因習の「過去」から自由になる。
「ほうそ許し」 ― 周りを、敵と見なす「未来」への危機感から自由になる。
『第二』が「時間」の概念から自由になること。
いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら 35
「今」、陽気づくめであるための障害となっている、虚しい「過去」。いつ叶うかも知れず期待して待つ、虚しい「未来」にとらわれている身も心も、一番肝心な「今」に集中させる。
このたびのはらみているをうちなるわ なんとをもふてまちているやら 65
こればかり人なみやとハをもうなよ なんでも月日ゑらいをもわく 66
このもとハ六ねんいぜんに三月の 十五日よりむかいとりたで 67
それからハいまゝて月日しいかりと だきしめていたはやくみせたい 68
それしらすうちなるものハなにもかも せかいなみなるよふにをもふて 69
このはなしどふゆう事にをもうかな これが大一このよはじまり 70
「月日の偉い思惑」 ― 我が身が完全に「今」に根を下ろすことができれば、その「今」は自由自在となって、全ての「怖き危なき」、「恐れ」は消えて陽気づくめとなる。そして過去未来に対して、陽気づくめの視点でとらえようとすれば、この二つの相反するできを「今」のこととして同時に体験することができる ― 月日が「迎え取り」て、「抱きしめている」お秀・「過去」の現象に、「孕みている」たまへという「未来」の現象を上書きするように、同じ一つの現象として体験することができる ― 「今」には「死」は存在しないから、「六年間抱きしめていた」 ― 死んだ後、お秀の魂がたまへという別の生命に生まれ出るという輪廻転生はない ― 「世界並みのように思うて」
お秀とその母は秀司が目覚めて、みき様の名代として勇んでつとめる姿、その陽気づくめの姿を皆に振る舞うことが出来るようにと願って、お屋敷を去る決意をしたのだった。
「何と思うて待ちているやら」 ― 秀司は妻まつゑが身ごもっているたまへを目の前にして、お秀の誕生を再現するかのように、その全てを目の当たりにすることができる。そこから、今度こそ目覚めて、みき様とともに「神一条の道」を歩む好機であった。しかし、秀司は、過去未来に飲み込まれて「今」におさまることはなく、いづみ入ったままで、二人の願いが叶うことはなかった。十八才で逝ったお秀に対して、(おふでさきで命名した)たまへは四歳で逝ってしまう。その事情は「月日の思惑」に反して、「世界並み」の「因果応報」の物語りの中に溶け込んでしまうが…
どうでもしんゞゝするならバ かうをむすぼやないかいな
「講」は、結社または結社による行事・会合である。 講の原義は「講義」「講読」の「講」であり、寺院内で仏典を講読・研究する僧の集団。
「講」については、おふでさき二号で、「神のうちわけ場所」と歌って、それを解説する。
これからハをくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで 二 1
このみちをはやくつけよとをもへども ほかなるとこでつけるとこなし 14
このはなしなんの事やとをもている 神のうちわけばしよせきこむ 16
このさきハたんへつとめせきこんで よろづたすけのもよふばかりを 21
「つとめ」で「よろづたすけ」をあらわして、その実、月日自由を見定める。
月日よりどのよな事もをしゑるで このよはぢめてない事ばかり 七 106
月日にハとのよな事も一れつに みなにをしへてよふきづくめに 108
せかいぢうみな一れつハすみきりて よふきづくめにくらす事なら 109
真の目覚めは、けっして未来ではなく、「今」というときに起こる。完全に「今」におさまるなら、目覚めた気づきによって、悟りを得て「かんろだいづとめ」があらわす一体性を体得することができる。
「今がこの世のはじまり」こそ、「おびやほうそ許し」を説くおふでさき七号の最大のテーマ ― 「おびやほうそ許し」によって、「過去」と「未来」の縛りから自由になり、「今」にしっかり根を下ろす→ 「月日より自由自在を真実に 早く見せたいこれが一条」 ― いつまでしんゞゝしたとても やうきづくめであるほどに
中山みき様を尋ねて 陽気ゆさん磐田講