陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

どうでも信心するならば  講を結ぼやないかいな

2022-06-23 11:11:02 | 宗教
  こゝはこのよのもとのぢば   めづらしところがあらわれた
   どのよふなたすけするのもしんちつの をやがいるからみなひきうける  七  101
   この事をこれをまことにをもうなら まことしんぢつ心したいや        102
   心さいしんぢつすんだ事ならば どんな事でもちがう事なし           103
 「珍し所」から伝える「たすけ」は全ての「恐れ」からの解放。
 『第一』が「おびやほうそ許し」による「過去」と「未来」の縛りからの解放。
  「おびや許し」 ― 「恐れ」が生んだ迷信、因習の「過去」から自由になる。
  「ほうそ許し」 ― 周りを、敵と見なす「未来」への危機感から自由になる。

 『第二』が「時間」の概念から自由になること。
   いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら        35
 「今」、陽気づくめであるための障害となっている、虚しい「過去」。いつ叶うかも知れず期待して待つ、虚しい「未来」にとらわれている身も心も、一番肝心な「今」に集中させる。
   このたびのはらみているをうちなるわ なんとをもふてまちているやら       65
   こればかり人なみやとハをもうなよ なんでも月日ゑらいをもわく         66
   このもとハ六ねんいぜんに三月の 十五日よりむかいとりたで           67
   それからハいまゝて月日しいかりと だきしめていたはやくみせたい        68
   それしらすうちなるものハなにもかも せかいなみなるよふにをもふて       69
   このはなしどふゆう事にをもうかな これが大一このよはじまり          70
 「月日の偉い思惑」 ― 我が身が完全に「今」に根を下ろすことができれば、その「今」は自由自在となって、全ての「怖き危なき」、「恐れ」は消えて陽気づくめとなる。そして過去未来に対して、陽気づくめの視点でとらえようとすれば、この二つの相反するできを「今」のこととして同時に体験することができる ―  月日が「迎え取り」て、「抱きしめている」お秀・「過去」の現象に、「孕みている」たまへという「未来」の現象を上書きするように、同じ一つの現象として体験することができる ― 「今」には「死」は存在しないから、「六年間抱きしめていた」 ― 死んだ後、お秀の魂がたまへという別の生命に生まれ出るという輪廻転生はない ― 「世界並みのように思うて」  
 お秀とその母は秀司が目覚めて、みき様の名代として勇んでつとめる姿、その陽気づくめの姿を皆に振る舞うことが出来るようにと願って、お屋敷を去る決意をしたのだった。
 「何と思うて待ちているやら」 ― 秀司は妻まつゑが身ごもっているたまへを目の前にして、お秀の誕生を再現するかのように、その全てを目の当たりにすることができる。そこから、今度こそ目覚めて、みき様とともに「神一条の道」を歩む好機であった。しかし、秀司は、過去未来に飲み込まれて「今」におさまることはなく、いづみ入ったままで、二人の願いが叶うことはなかった。十八才で逝ったお秀に対して、(おふでさきで命名した)たまへは四歳で逝ってしまう。その事情は「月日の思惑」に反して、「世界並み」の「因果応報」の物語りの中に溶け込んでしまうが…

  どうでもしんゞゝするならバ  かうをむすぼやないかいな
 「講」は、結社または結社による行事・会合である。 講の原義は「講義」「講読」の「講」であり、寺院内で仏典を講読・研究する僧の集団。
 「講」については、おふでさき二号で、「神のうちわけ場所」と歌って、それを解説する。
   これからハをくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで     二  1
   このみちをはやくつけよとをもへども ほかなるとこでつけるとこなし      14
   このはなしなんの事やとをもている 神のうちわけばしよせきこむ        16
   このさきハたんへつとめせきこんで よろづたすけのもよふばかりを       21
 「つとめ」で「よろづたすけ」をあらわして、その実、月日自由を見定める。
   月日よりどのよな事もをしゑるで このよはぢめてない事ばかり      七  106
   月日にハとのよな事も一れつに みなにをしへてよふきづくめに         108
   せかいぢうみな一れつハすみきりて よふきづくめにくらす事なら        109
 真の目覚めは、けっして未来ではなく、「今」というときに起こる。完全に「今」におさまるなら、目覚めた気づきによって、悟りを得て「かんろだいづとめ」があらわす一体性を体得することができる。
 「今がこの世のはじまり」こそ、「おびやほうそ許し」を説くおふでさき七号の最大のテーマ ― 「おびやほうそ許し」によって、「過去」と「未来」の縛りから自由になり、「今」にしっかり根を下ろす→ 「月日より自由自在を真実に 早く見せたいこれが一条」 ― いつまでしんゞゝしたとても やうきづくめであるほどに



                             中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


大和ばかりやない程に  国々までへもたすけ行く

2022-06-08 21:49:57 | 宗教
  やまとばかりやないほどに  くにぐにまでへもたすけゆく
   このみちをはやくをしへるこのつとめ せかい一れつ心すませる   七   99
   このはなしどふゆう事にきいている せかいたすけるもよふばかりを     100
 五下り目を展開するおふでさき七号は、「国々までへもたすけ行く」をこのように歌っている。この二首は、コロナ禍、ウクライナの戦争、多発する民族紛争という目下の厳しい世界情勢を見据えて歌っていると思えてならない。この最悪の人道危機を目の当たりにして、宗教がそれら全てを治める道筋を示すことが出来ないなら、この機を境として消滅するしかないのでは…

 「この道」は、それに対応するためにどのような道筋を示しているか、「国々までへもたすけ行く」その術を求めておふでさきを読み進めると、十号が「世界中の心を澄ます」をテーマにして歌っていることに気づく。
    一寸したるつとめなるとハをもうなよ 三十六人にんがほしいで 十 26
    これさいかはやくしいかりそろたなら どんな事でもでけん事なし  40
 この難局に「この道」がはたすべき役割は、おつとめを世界に伝えることと明記している。つとめ人衆がしっかり揃った「かんろだいづとめ」を世界中で実行して、この世と人類創生をあらわす。人間はみな同じ魂であると目覚める ― 「世界中多くの人の胸の内 みな澄ましたる事であるなら」 ― 戦う意欲が削がれる。
 この「かんろだいづとめ」を、教団が独占してしまい、神聖だから、安易に見せるものではないと、人目に触れないように、いつまでも縁の下でこそこそつとめる。世界が困窮している現状にあっても、それを改めようともしない。このままでいいのか。それが本当にみき様の望む形なのか。

 「かんろだいづとめ」は、「雨乞いづとめ」にその原型があることは多くの資料から確認できる。この「雨乞いづとめ」、実際には、雨は降らないことの方が多かったようだ。ある時、降りそうもないからと、「おつとめ」を中断したとき、みき様が『降らないから止めるようなおつとめではないと言われた。』と記録にある。みき様は「雨乞いづとめ」にかこつけて、実は「かんろだいづとめ」を多くの人びとに見せることを主たる目的にしたのです。だから、「かんろだいづとめ」は本来人目に晒して、目覚めさせる。そこに本来の使命があるはず。

 おつとめの本質について、十号は
    月日よりこれまでなるのさんねんわ 山々つもりかさなりてある   十  60
    いかほどにざんねんつもりあるとても どふせこふせわゆうでないそや  61
    どのよふなたすけするのもみなつとめ 月日ゆうよにたしかするなら   83
 ここに歌う「ざんねん」の中に、おつとめの本質が込められていると言える。
 浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』に説かれる「四十八願」は、阿弥陀仏が法蔵菩薩としての修行中に、建てた四十八の誓願。長い年月修行を重ね、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成り、その誓いをすべて成就して、「念仏すれば確実に往生できる」という悟りを開いた。
 みき様はこの『無量寿経』の「四十八願」を、「ざんねん」という言葉に発展させて、その「ざんねん」を、おふでさきの九十を超える歌に織り込んだ。そして、「ざんねん」の全てを晴らすための「かえし」として「おつとめ」を完成させたのです。このことは、おふでさきのまとめのところで十分に確認できる。
    このみちハどふゆう事にをもうかな 月日ざんねんいちじよの事 十七 57
    このざねんなにの事やとをもうかな かんろふ大が一のざんねん      58
 「かんろ大が一の残念」 ― この「大」、「台」を没収した警察を責めているのではない。そういう状況を招いた回りの人びとに当てている ― みき様が世界だすけのために一身をささげて完成した「おつとめ」に対する、側近のその意識の低さを嘆いている ― 「大」「一」と言う語は、浄土教では非常に重みがある言葉で、58の歌にその二語を配置していることからも、この歌の重みがそこにはある。

 今、「この道」が、すべき唯一のことは
   このつとめどふゆう事にをもうかな をびやほふそのたすけ一ぢよふ   七 97
   このたすけいかなる事とをもうかな ほふそせんよのつとめをしへる     98
 「おびやほうそ許し」の一環として、「ほうそせんよのつとめ」を世界中へ発進すること。

    せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞや 十三 43
    このもとをしりたるものハないのでな それが月日のざねんばかりや     44
    高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひい      45
    これさいかたしかにしよちしたならば むほんのねへわきれてしまうに    49
    月日よりしんぢつをもう高山の たゝかいさいかをさめたるなら       50
    このもよふどふしたならばをさまろふ よふきづとめにでたる事なら     51
 「ほうそせんよのつとめ」、「かんろだいづとめ」 ― 「みな同じ魂」に目覚める ― 「謀反の根を切ろう」 ― 世界いちれつ陽気づくめ ― くにぐにまでへもたすけゆく

                                中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

何でも難儀はささぬ  たすけ一条のこの所

2022-06-02 09:46:15 | 宗教
  むごいこゝろをうちわすれ   やさしきこゝろになりてこい
   いまゝでもをびやほふそのこのゆるし なんとをもふてみながいたやら 七 78
    このたびハたにそこにてハ一寸したる 木いがたあふりみゑてあるなり(16)
    このきいもたんだん月日でいりして つくりあけたらくにのはしらや (17)
    この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく(21)
 「おびやほうそ許し」 ― 「谷底」も「女松」もみな「つくり上げたら国の柱」、月日にとっての子宝、誰一人として欠かすことのできない貴重な生命 ― 「おびや許し」は女性差別からの解放。「ほうそ許し」は人種、民族差別からの解放 
   どのよふなたすけするのもみなつとめ 月日ゆうよにたしかするなら     83
   こらほどに月日の心せゑている そばの心もつとめこしらゑ         86
   つとめでもをなぢ事てハないほどに みなそれぞれとてへをふしゑる     88
 あらゆる生物は、助け合って生かされている。生あるものはすべて、相互依存の関係にあり、自分だけで生きている生物は何一つないということ。だから、この世に生れた生命はみな大切なのです。
 「かんろだいづとめ」は、これらを踏まえて、全ての生命は本質的につながっていることをあらわすが、すべてが等しく差異がないということではない。そのため、全員が同じ手振りをするでなく、個々がそれぞれの個別の手を振る。全ての差異を認めながらも、その差異はすべて相対的。おつとめの舞台は、お互いのそのままを認め合うたすけ合い世界 ― いつまで信心したとても 陽気づくめである程に ― より多く、より強くという人間心は皆無、「酷い心」はたすけ合う「優しい心」の中に溶け込んでしまう。

  なんでもなんぎハさゝぬぞへ  たすけいちじよのこのところ
 「上の支配」は「上」がままにする社会で、それを堅持するための人為的な規則、制約が多い。そこでは「おびやの因習」、「上意下達」が強要されるから、本当の自分を見失って、みなが「じっくりといづみ入る」ようになってしまう。一人残らずの人が陽気づくめであるためには、これら全ての「因習」、人びとの喜びを奪う一切の「過去」を一層して、山々積もり重なるその月日の「残念」を晴らねばならない。
   いまゝでも今がこのよのはじまりと ゆうてあれどもなんの事やら(35)
 「今がこの世のはじまり」 ― 人間心から拵えた制約、因習などにしばられて、自分を見失っていたそのとき、「過去」のできごとの一切には、月日の自由は及ばない。全ての人が喜ぶ世は、それぞれが「意識」を月日自由の溢れる「今」にしっかり留める ― 「過去」を引き込んだまま、拝み祈祷で未来に望みを託して、「今」を「うっかり」無意識に過ごすことの「危うさ」に気づき、「真実」に目覚めて生き方を改める ― 「月日より自由自在を真実に 早く見せたいこれが一条」 ― 何でも難儀はささぬぞへ ― いままでよりも、遥かに大きな力が自分の中に湧いてくるのを感じる。


                          中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講