陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

与えは  何程いるとても

2018-09-11 15:42:25 | 宗教
みかぐらうた、七下り目です。

 みかぐらうたとおふでさきの構成は基本的には、起承転結文となっているから、繰り返し読めば、なんとかおさまってくるように思う。
  ひとことはなしハひのきしん にほひばかりをかけておく
   一言はなしはひのきしん 匂いばかりをかけておく
 と起句を歌った、その結句が
   この度一列に ようこそ種を蒔きに来た
  たねをまいたるそのかたハ こえをおかずにつくりとり
   種を蒔いたるその方は 「こえ」を置かずに作りとり
 「一言はなし」は「ひのきしん」 ― 「一言はなし」は「陽への寄進」だから、神と一体となった「よふぼく」の匂い、立ち振る舞い、その波動エネルギーが種となれば、(外からの加護なしに)肥を置かず、(自由自在の)与えを自分で生みだすことが出来る。

 七下り目は、「屋敷は神の田地」、「ここはこの世の田地」と歌って、「この世は神の体」であことを言い表す。同じ内容をおふでさきに見るなら、三号が、「この世は神の体」と、二首をおさめて、その言葉の深遠さを語っているから、この三号を参考にして、七下り目を的確に把握してみたい。

 みかぐらうたは、後半から、おつとめの完成を目指して、その準備を整えていく。七下り目は、おつとめを広めて、誰もが求める「良き地」を自分の内におさめることが大きなテーマ。
 「良き地」、三号では86~90で、「唐は偉いと言うたれど、これから先は折れるばかりや」「日本みよ小さい樣に思たれど、根がが現れば恐れいるぞや」 ― 「唐の地」におつとめを広めて、「にほん」のように「良き地」を求める根を植えつけようとする。

 なかなか、おつとめに関心を示そうとしない「から」に対して、
   無理にどうせと言わんでな そこは銘々の胸次第
 三号では、「来ん者に無理に来いとは言うでなし 付き来るつきくるならばいつまでもよし」と、実に1~74首とつづる中で、「段々と何事にてもこの世は 神の体や思案してみよ」「人間は皆々神の貸しものや 何と思うて使っているやら」と「から」、「高山」をきつく戒めて、心違いを諭す。

 135の「段々と何事にてもこの世は 神の体や思案してみよ」は、後半の75からの「にほん」に向けて歌っている。おふでさき三号は、おつとめの目標となる「柱」を据えることが大きなテーマ。
 みかぐらうた七下り目は、その「柱」を目標とするおつとめをとおして、「良き地」を求める心の重要性を説き、「ここはこの世の田地なら」と、「良き地」は人々の身近に存在すると歌う。起句の「一言はなし」は、おつとめの地歌。それは神が伝える言葉。それを人伝えることは、「ひのきしん」であって、神と一体、神の代理としての取り次ぎである。そして、「匂いをかける」はおつとめの手振りと、手振りのままの実生活を表していると言える。

   深い心があるならば ― いったんおつとめが実行されるなら、「深い心」、神と一体となって放とうとする波動は、もう「誰も止めるでないほどに」なることは自明の理。そのような意識の高まった「にほん」の人には
  なんでもでんぢがほしいから あたへハなにほどいるとても
   何でも田地が欲しいから 与えは何程いるとても
 「与えは何程いるとても」 ― 「良き地」を心から求める人には、何でも無制限に、欲しいだけを授けようということ。このことを三号では、「自由自在を早く見せたい」と言って、その「与え」の実を「真実の心次第のこのたすけ 病まず死なずに弱りなきよう」、と歌う。

   それもこれも あなたの宇宙……
   存在を与え チカラを与えているのは あなた自身……k-zerostyl
 神の田地 誰でも、想像できるもの全てを完璧に作り出すだけの自由自在の地


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