陽気ゆさん見たいゆえから

 










          中山みき様を  たずねて

そのぢばは  にほんの故郷なるぞや 

2021-10-25 18:06:25 | 宗教
 十七号は 24で「ふでの先がな見えてきたから」と歌うことで、おふでさきをこの号で締めようとしていることが分る。
 その中で、「かんろだい」を「にほんの一の宝」。そのかんろだいをおさめる「ぢば」を「にほんの故郷」という語を用いている。「宝」は十号に一例あるが、十七号では「にほんの一の宝」と表し「一の」を加えて強調している。
 「故郷」については、おふでさきではこの一語のみだから、この締めの号で、それらの語を並べるその神意を探りながら、おふでさきを読みおさめてみたい。

   この道はどういう事に思うかな かんろうだいの一条のこと
  このだいをどふゆう事にをもている これハにほんの一のたからや 十七 3
   このだいをどういう事に思ている これはにほんの一の宝や
 「にほん」、「たから」の神意をおふでさきの中に求めてみると、
   「にほん」には今まで何も知らいでも これから先の道を楽しめ(五 38)
   どの様な難し事と言うたとて 「神が真実受けとりたなら」(五40)
   何事も月日の心、思うには にほんに「こふき」欲しい事から(十87)
   このところどの様なこふきしたるとも これは「にほんの宝」なるぞや(十91)
   またたすけ立毛一れつ何処までも 「いつも豊作」教えたいから(十二96)
   このたすけ一寸の事やと思うなよ これは「にほんの一のこふき」や(十二101)
 「にほん」とは、「いつも豊作」となる生き甲斐を、「自分の内」に求めたいというエネルギーに満ちた領域、またはそれを求めたいという「意識」の人のこと。ここには心の世界が展開される ― おつとめで、「胸のそうじ」をすることで、本当の自分を見つけて、価値ある自分に目覚める。そして、月日と一体であることを自覚して、「神に凭れる」生き方を定める。
 「こふき」は「いつも豊作」の心を保つ起点となる、本当の自分を見つける旅立ちへの導き書 ― 「日本の一のこふき」
 「にほん」と対照になるのが「から」で、自我自力を目指すが、まだ足りないからと不足分を法、術の「拝み祈祷」などと、「外」に利益を求める領域と人。ここでは人間心の物質主義が展開される。

  このもとハいさなきいゝといざなみの みのうちよりのほんまんなかや 十七 6
   この元はいざなぎといざなみの 身の内よりの本真ん中や
   その所で世界中の人間は 皆そのぢばではじめかけたで
 「にほん」と「かんろだい」の関係を
   珍しいこの世はじめのかんろたい これがにほんの治まりとなる(二39)
   この世の地と天とは実の親 それより出来た人間である(十54)
と、歌ったことをここで展開している。

  そのぢばハせかい一れつとこまても これハにほんのこきよなるぞや 十七 8
   そのぢばは世界一列どこまでも これはにほんの故郷なるぞや
 おふでさきが語る「今までに無いことばかり」を話しの起点とするなら、「にほんの故郷」という語には月日のどんな思惑が潜んでいるのだろうか…
 「そのぢは」は、この世と人間の真実の元始まりを、世界へはじめて明かした場所。そのぢばから発する「理り」は、この世と人類創生の親から子へのたすけ一条です。
 「口は人間、心月日」からなる人間は、その親心をそっくり引き継いで育つ。その親心に応える人間の心は、月日の心のままだから、言うなれば欲の一切ない「無」が出発点となっていた。しかし、年限を重ねるごとに「人間心」が発達して「ほこり」を積み、本当の自分を見失ってしまうから、「この道」は「胸のそうじ」をして、「ほこり」、「欲の心」を洗い切って、「無」に帰することに主眼をおく ― 「故郷」〔古語辞典〕- うまれ故郷。もとの住まい。

   月日にはどんな所に居る者も 心しだいにみな受け取るで



                      中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講


何どき  月日連れに出るやら

2021-10-14 11:40:33 | 宗教
   この度の残念というは心からや これを晴らする模様ないかよ(14)
   このことを神がしっかり引き受ける どんなかやしもすると思えよ(15)
  せかいぢうみな一れつハしかとせよ なんとき月日つれにてるやら 十六 22
   世界中みな一列はしかとせよ 何どき月日連れに出るやら
 「どんなかやしもする」 ― 秀司が「名代なりと直ぐにしりぞく」、そのとおりになってしまったからには、「せへつう」に合わせて、今度はまつゑを目覚めさせ、おつとめの完成に導きたい。そのために月日は「かやしする」 ― 「何どき月日連れに出るやら」

  せかいぢうみな一れつハしかとせよ なんとき月日つれにてるやら 十六 22
   世界中みな一列はしかとせよ 何どき月日連れに出るやら
   拵えをやるのは暫し待ちてくれ 泥水中へはめる如くや
 「こしらゑ」、拵え ― 音次郎は亡夫秀司の先妻の子であり、中山家の戸主となるべき長男。まつゑにとっては継子だから、中山家のすべては、実娘のまち(後にたまゑと改名)に次がせたい。そこに魂胆があって、もっか音次郎を養子に出すための「こしらゑ」、支度に夢中… 、

  いかほとにくどいたとてもたれにても きゝわけがないをやのさんねん 十六 49
   如何ほどに口説いたとても誰にても 聞き分けが無いをやの残念
   今日の日の神の残念立腹は よいなる事でないと思えよ
   その所何も知らざる子供にな 太鼓止められこの残念みよ
 「聞き分けが無い」、「容易ならざる事」を重ねて、挙げ句に「太鼓とめる」暴挙に出るまで発展させる。このような行き着くところまで行く人間心の「欲」、「エゴ」を、ここに集約したのが24の「こしらゑ」です。

 「この道」にあって一人ひとりが目指すもの、それは最終十七号で締める「病まず死なずに弱りなきよに」 ― 平生業成 ― 物への執着がなくなる心の世界。その境地に至るためにみかぐらうたでは「欲の心を洗う」、おふでさきでは「胸のそうじする」と、繰り返し歌う。
 ここに表されるまつゑの心根、人間心、エゴの心根が姑(みき様)より目立ちたい、姑以上にみんなの関心がほしいというのです。エゴは常に何かを求めている。まだ十分ではないと感じ、欠乏感があるから、なんとかそれを埋めなければと、必死であがいて、その甲斐があって、一時は欠乏感を埋めたとしても、決して長続きはしない。思い通りにいかないことが重なり苛立つことが多くなって、「太鼓とめる」までに…

   今日の日は何も知らずにいるけれど 明日にちを見よ偉い往還
  このみちがみへたるならばとのよふな ものでもかなうものわあるまい 十六 34
   この道が確か見えたるならばどのような 者でも叶う者はあるまい
 「エゴ」は新しい所有物や一寸した達成で一時的な満足感はあっても、永続的とはなり得ない。そこで「エゴ」のはかなさに気づき、物にではなく、心に豊かさを持つことに目覚めて改めるなら、それが「エゴ」から、自分を解放してくれる。その自らの勇気が無限の可能性を開く ― 「どのような者でも 叶う者はあるまい」

   今までは何も言うたり思うたり  儘にしていた事であれども
  このさきわ神がしはいをするからハ とんな事てもまゝにてけんで 十六 71
   この先は神が支配をするからは どんな事でも儘にでけんで
 物に執着することは、知的ではないと気づけは、その不幸から解放されて自由になる。「エゴ」は小賢しい。小賢しさによって獲得したものは長続きせず結局は、自己の破壊につながる〔ニューアース 125頁〕。
 そこに気づき、「月日向かいに出る」のに応え、「おつとめ」を実行して、「世界一列胸のそうじ」が成るなら、その胸に神が入り込んで「支配する」ことができる。もうそこには「儘にしていた」エゴのつけ入る隙はなくなる ― 「世界中みな一列はしかとせよ 何どき月日連れに出るやら」

   さあ思案これから心入れ替えて 思案定めん事にいかんで


                      中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講

この度の残念というは心からや これを晴らする

2021-10-10 00:08:06 | 宗教
  このたびのざねんとゆうわしんからや これをはらするもよふないかよ 十六 14
   この度の残念というは心からや これを晴らする模様ないかよ
 十六号の結句79で「さあ思案これから心入れ替えて 思案定めん事にいかんで」と歌っていることから、この14の歌が、この号の主となるテーマであると分る。そのため「残念を晴らす」その手段としてすべき「かんろだいづとめ」を、冒頭から13にかけて歌う。おふでさきはここからまとめに入っていくのです。

 「かんろだいづとめ」は、十柱でつとめるが、おふでさきでは六号で、八柱までの神名を明示するが、後の二柱の明示はここまでしていない。それで、ここへ来てやっとその神名を明かすが、月日のそれへの思惑を考えながら読み進めてみる。
  このたびわこのもとなるをしいかりと とふぞせかいゑみなをしゑたい 十六 2
   この度はこの元なるをしっかりと どうぞ世界へみな教えたい
   この元は神楽両人つとめはな これが真実この世始まり
   この度の神楽というは人間を はじめかけた親であるぞや
   この元を知りたる者はないのでな この真実をみな教えるで

 「かんろだいづとめ」は、「神楽」とも言うべき「真実のこの世の始まり」をあらわす、と先ずその神意をここで改めて確認させる。
 また十二号で「人は誰とも言わねども 元は一本枝は八本」と歌う八本は、六号で明示したイザナギ、イザナミ、月ヨミ、クニサズチ、クモヨミ、カシコネ、ヲフトノベ、タイショク天を指すが、「元は一本」であるところの二柱を、ここで「神楽両人」と言い表し、それぞれを「クニトコタチ」、「オモタリ」と命名する。

  しかときけこのもとなるとゆうのハな くにとこたちにをもたりさまや 十六 12
   しかと聞け、この元なると言うのはな クニトコタチにオモタリ様や
   この御方泥水中を見澄まして ウオとミイとを側へ引き寄せ

 クニトコタチにオモタリ ― 先の八柱はタイショク天(阿弥陀経が語る仏教の守護神・帝釈天)以外は記紀神話の創造神であった。このたび加わる「この御方」は、(みき様の説く)元始まり」では、「うをとみいとを側へ引き寄せる」創造神の役割を果たすように、記紀神話でもその二神は同じ創造神である。それゆへ、この二神に「様」をつけることで、先にあげた八神と同様に尊いことを表す。そこには、つとめ人衆は「神の社」であるという自覚を持ってつとめてほしいという月日の思惑もある。

 「この度の残念というは心からや」 ― 「元の一本」の片棒と目される秀司は、戸主という権威を傘に、母親であるみき様が推し進める世界たすけのおつとめには、背を向けるばかりであったが、小寒が逝ってしまってからは、回りで一層と秀司が早く目覚めて、かんろだいづとめ完成の先陣をきってほしいという期待が高まるばかりであった。
 それでも、いっこうに腰を上げようとしない秀司に、月日は「名代なりと退く」と最後通告するが、ここには、秀司が目覚めておつとめする心が定まったなら、まつゑと二人を「クニトコタチ」、「オモタリ」と命名して、十柱を揃え「かんろだいづとめ」を完成させたいという月日の深い思惑が見える。
 しかし、秀司は目覚めることなく、その直後、自殺とも他殺とも知れずに逝ってしまうが、「もうせへつうが来るから、是非なく今はかやしする」と歌って、今度はまつゑにその任を預けようとする。

   世界にはみな何処までも同じ事 子供かたづけ拵えをする 
 ここまでおふでさきの主役となり、回りからも「三人片腕」、「神の社」としてみなの模範を示ようにと期待された三人のうち、小寒に続いて秀司までが逝ってしまい、残るはまつゑ一人となったが、その当人の心意気を語るなら…


                    中山みき様を尋ねて  陽気ゆさん磐田講