先週末、夜にふと上野山功一さんのことが想い出された。
ネットで検索すると、今もなおお元気でご活躍なさっておられるのが分かりうれしかった。早速メールを差し上げると、折返しお返事をいただけた。
上野山さんは日芸の大先輩で、主に60年代から80年代にかけ映画にテレビにと大活躍されたた名俳優である。私が在学していたころ、上野山さんが『上野山功一とブラックジャック』というグループを結成されることがあり、私もそのメンバーの1人として参加させていただくご縁を得た。
グループのメンバーは上野山さんを中心に先輩の石松さんと親友の増田くん、それに私の4人で、主に東京都内・近県や大阪などの大きなクラブやキャバレーに出演していた。ショーは1晩2ステージ、1部が任侠物の寸劇で2部が歌謡ショーという構成だった。
あのころのクラブやキャバレーには専属のバンドがいた。どのバンドも初見が利いた。リハーサル、譜面を渡し、コーダからコーダの進み方やテンポ等をざっと打ち合わせるだけでバンマスの指揮の下、一発で音がそろうのをいつも感心して見ていた。
ただし、本番で曲のテンポがでたらめに遅く、上野山さんがテンポを上げるよう必死に手で合図を送らなければならないようなバンドも希【まれ】にはあった。また、それでうまく調整できるバンドもあれば、最後まで立て直せないバンドもあった。バンドの演奏の上手下手はバンドマンよりもバンマス次第、ひるがえって会社の在り方、地域社会の在り方、国家の在り方、すべてはリーダー次第なのだ。
楽屋でドーランを塗り、真っ白なタキシードに身を包み、白のエナメル靴を履く。さぁ、出番だ。おもむろにステージに上がると、そこへ目もくらむようなスポットライトが当たり、観客の声援を受ける。あの何とも言えない恍惚感【こうこつかん】は今でも鮮明に覚えている。
この頃、上野山さんは石松さんを売り出すのに力を注いでおられた。石松さんをメーンボーカルにレコーディングしたA面『バカは死ななきゃなおらない』とB面『夜の北新地』を懐かしく思い出す。
石松さんは、かつて一世を風靡【ふうび】した浪曲家・広沢虎造のご子息で、虎造の十八番『清水次郎長伝』中の『森の石松』からとったのが『バカはしななきゃなおらない』だ。
これを記しながら、なんとなく『上野山功一とブラックジャック』を検索すると、思いがけずそのレコードが引っかかってきた(ビートルズのボックスセット物に「1」の番号がふってあるが、それを番号順にたどっていき「8」の懐メロ・流行歌&洋楽ロック・ポップス盤が大量に入荷しましたのコーナーの下半分の右斜めになっているジャケットをたどり、山内賢&和泉雅子、坂本スミ子の隣のジャケット)。何十年ぶりだろう。久しぶりに見るレコードジャケットにあまりにも幼なかった頃の私の姿があった(ジャケットの一番左)。
夕方、帰ってきた女房どのとくるみさんにそれを見せた。大受けしたのは言うまでもない。
あれから久しく時が流れた。増田くんとは今でもつきあいがある。しかし、ある時、彼から石松さんが事故で亡くなったらしいと聞いた。上野山さんの話も出たが、東京にはいらっしゃらないようだと聞いていた。ブラウン管でお姿を見かけする機会も少なくなり、どうお過ごしか気になるときもあった。
今回、上野山さんにいただいたメールには、最近作・旧作のDVDを送るとあった。また、芝居その他のチラシ等できたら送るともあった。今月で75歳になられるというが、ウィキペディアによると近年はオリジナルビデオ作品にも出演しておられるという。あの頃の芝居や歌にかける情熱は少しもお変わりないご様子だ。ご自身の『上野山功一のブログ』からもそれがうかがわれる。
お送りいただいたDVDは家族や友人知人はもちろんのこと、できるだけ多くの方にご覧いただきたいと考えている。
ネットで検索すると、今もなおお元気でご活躍なさっておられるのが分かりうれしかった。早速メールを差し上げると、折返しお返事をいただけた。
上野山さんは日芸の大先輩で、主に60年代から80年代にかけ映画にテレビにと大活躍されたた名俳優である。私が在学していたころ、上野山さんが『上野山功一とブラックジャック』というグループを結成されることがあり、私もそのメンバーの1人として参加させていただくご縁を得た。
グループのメンバーは上野山さんを中心に先輩の石松さんと親友の増田くん、それに私の4人で、主に東京都内・近県や大阪などの大きなクラブやキャバレーに出演していた。ショーは1晩2ステージ、1部が任侠物の寸劇で2部が歌謡ショーという構成だった。
あのころのクラブやキャバレーには専属のバンドがいた。どのバンドも初見が利いた。リハーサル、譜面を渡し、コーダからコーダの進み方やテンポ等をざっと打ち合わせるだけでバンマスの指揮の下、一発で音がそろうのをいつも感心して見ていた。
ただし、本番で曲のテンポがでたらめに遅く、上野山さんがテンポを上げるよう必死に手で合図を送らなければならないようなバンドも希【まれ】にはあった。また、それでうまく調整できるバンドもあれば、最後まで立て直せないバンドもあった。バンドの演奏の上手下手はバンドマンよりもバンマス次第、ひるがえって会社の在り方、地域社会の在り方、国家の在り方、すべてはリーダー次第なのだ。
楽屋でドーランを塗り、真っ白なタキシードに身を包み、白のエナメル靴を履く。さぁ、出番だ。おもむろにステージに上がると、そこへ目もくらむようなスポットライトが当たり、観客の声援を受ける。あの何とも言えない恍惚感【こうこつかん】は今でも鮮明に覚えている。
この頃、上野山さんは石松さんを売り出すのに力を注いでおられた。石松さんをメーンボーカルにレコーディングしたA面『バカは死ななきゃなおらない』とB面『夜の北新地』を懐かしく思い出す。
石松さんは、かつて一世を風靡【ふうび】した浪曲家・広沢虎造のご子息で、虎造の十八番『清水次郎長伝』中の『森の石松』からとったのが『バカはしななきゃなおらない』だ。
これを記しながら、なんとなく『上野山功一とブラックジャック』を検索すると、思いがけずそのレコードが引っかかってきた(ビートルズのボックスセット物に「1」の番号がふってあるが、それを番号順にたどっていき「8」の懐メロ・流行歌&洋楽ロック・ポップス盤が大量に入荷しましたのコーナーの下半分の右斜めになっているジャケットをたどり、山内賢&和泉雅子、坂本スミ子の隣のジャケット)。何十年ぶりだろう。久しぶりに見るレコードジャケットにあまりにも幼なかった頃の私の姿があった(ジャケットの一番左)。
夕方、帰ってきた女房どのとくるみさんにそれを見せた。大受けしたのは言うまでもない。
あれから久しく時が流れた。増田くんとは今でもつきあいがある。しかし、ある時、彼から石松さんが事故で亡くなったらしいと聞いた。上野山さんの話も出たが、東京にはいらっしゃらないようだと聞いていた。ブラウン管でお姿を見かけする機会も少なくなり、どうお過ごしか気になるときもあった。
今回、上野山さんにいただいたメールには、最近作・旧作のDVDを送るとあった。また、芝居その他のチラシ等できたら送るともあった。今月で75歳になられるというが、ウィキペディアによると近年はオリジナルビデオ作品にも出演しておられるという。あの頃の芝居や歌にかける情熱は少しもお変わりないご様子だ。ご自身の『上野山功一のブログ』からもそれがうかがわれる。
お送りいただいたDVDは家族や友人知人はもちろんのこと、できるだけ多くの方にご覧いただきたいと考えている。
主人の愛蔵レコードに『広沢虎造浪曲集』があるんですよ。私は聴いたことがないので、喫茶店で一度聴いてみようと思います。
特に、くるみさんはレコードのジャケットを見たことありませんでしたからね。ひととき盛り上がりました。
旅行けば~♪虎造全曲集ですか、ご主人渋いですね^^。虎造節が喫茶店で流れる、いいなぁ。