浪速おやじのつぶやき日記

川柳・都々逸・詩などでボケ防止

浪速夢見頃>原子力発電所大事故歴史(海外編)

2013-02-12 17:38:40 | その他

浪速夢見頃>原子力発電所大事故歴史(海外編)
<ネット上で情報収集 [編集]>
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原子力発電所などで事故が発生した場合には、
国際原子力事象評価尺度 (INES) による影響度の
指標が「レベル0」から「レベル7」までの
8段階の数値で公表
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0)尺度以下
1)逸脱
2)異常事象
3)重大な異常事象
4)事業所外への大きなリスクを伴わない事故
5)事業所外へリスクを伴う事故
6)大事故
7)深刻な事故
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「スリーマイル島事故」
(原子炉格納容器内のメルトダウンだけだった)を遙かに超えており
30年超といわれる廃炉作業の見通しはかなり暗いとされる。
エネルギー総合工学研究所の解析では1号機の燃料は85%が落下し
格納容器の床のコンクリートも2m浸食され、圧力容器が傾いている可能性を
指摘した2.3号機も70%の燃料が落下したという原子力安全基盤機構は
1号機の圧力容器は破損したが2,3号機は健全であるとしている
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カナダ [編集]
1952年12月12日 「チョーク・リバー研究所事故」
1947年にカナダオンタリオ州(オタワの北西150km)に建設された
出力4.2万KWの実験用原子炉NRXの事故である。操作ミスで制御棒が
引き抜かれ、1万キュリーまたは370テラベクレルの放射能が外部に漏れた。
その後1993年まで稼働していた
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ソビエト連邦 [編集]
1957年9月29日「ウラル核惨事 」旧ソビエト連邦ウラル地方カスリ市
(現在はウクライナ共和国)のほど近くに建設された
「チェリヤビンスク65」という暗号名を持つ秘密都市の「マヤーク」
(灯台の意味)という兵器(原子爆弾)用プルトニウムを生産するための
原子炉5基および再処理施設を持つプラントで起こった事故
プルトニウムを含む200万キュリーの放射性物質が飛散した。
放射性物質の大量貯蔵に伴う事故の危険性を知らせた事故である。
原子力における冷却不能が(廃棄物であっても)爆発大事故につながった
事故である。当初この事故は極秘とされていたが、西側に亡命した科学者である
ジョレス・A・メドベージェフが1976年に英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に
論文を掲載したことで知られるようになった
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1986年4月26日
「チェルノブイリ原子力発電所事故」ウクライナ共和国チェルノブイリ
原発4号機が爆発・炎上し、多量の放射性物質が大気中に放出された
レベル7の大事故。原因は諸説あるが、発電実験中、出力が急上昇して
起こったとされている。放射性物質は気流に乗って世界規模で被曝をも
たらした。直接の死亡者は作業員・救助隊員の数十名だけである。
しかし、2005年に発表された世界保健機関 (WHO) 等の複数組織による
国際共同調査結果ではこの事故による直接的な死者は最終的に9,000人
と評価された。2000年4月26日に行われた14周年追悼式典では事故処理に
従事した作業員85万人のうち、5万5,000人が死亡したと発表されている
この事故を契機に国際的な原子力情報交換の重要性が認識され、
世界原子力発電事業者協会(WANO) が結成された
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イギリス [編集]
1957年10月10日「ウィンズケール原子炉火災事故」 世界初の原子炉重大事故。
イギリス北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケイル原子力工場
(現セラフィールド)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により
火災が発生16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。
避難命令が出なかったため地元住民は誰も避難しなかった。数十人がその後
白血病で死亡した。現在の所白血病発生率は全国平均の3倍である。
当時のマクミラン政権が極秘にしていたが、30年後に公開された。現在でも
危険な状態にある。2万キュリーのヨウ素131が工場周辺500平方キロメートルを
汚染し、ヨードの危険性を知らせたことで有名である。
水素爆発のおそれから注水に手間取った。これはスリーマイル島でも繰り返された
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アメリカ合衆国 [編集]
1959年7月13日「サンタスザーナ野外実験所燃料棒溶融事故」カリフォルニア州
ロサンゼルス市郊外約50kmのシミバレーにあったナトリウム冷却原子炉の
燃料棒が溶融した。1500-6500キュリーのヨウ素131と1300キュリーの
セシウム137が環境中に放出されたとされる1960年に閉鎖されその後解体された
1979年に学生が偶然資料を発見し公表するまで極秘であり、2011年8月現在
エネルギー省のサイトに一切情報がない。
1996年にプルトニウム239とコバルト60、2011年にセシウムがそれぞれ
規制値の数倍から数百倍検出された。1961年1月3日 SL-1事故
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事故後、撤去されるSL-1の原子炉容器 SL-1(Stationary Low-Power Reactor Number One)
はアメリカのアイダホフォールズにあった海軍の軍事用の試験炉である。
運転出力は軍事基地のための暖房用の熱エネルギーとして400 kW、
電気出力として200 kWの合計600 kWであり設計出力は3 MWであった。
当事者が死亡してしまったため事故の原因ははっきりとは分かって
いないが、制御棒を運転員が誤って引き抜き、原子炉の暴走が起きたと
考えられている。10センチまでしか引き出してはいけない制御棒が50センチも
引き出されていたが、この制御棒は引き出すときにハウジングに引っかかる
ことが事件前の映像からもわかっており、運転員が力まかせに引っ張った
ものと考えられている。その結果大量の水蒸気が瞬時に発生し炉内が高圧に
なって炉が破壊された この暴走により、13トンの原子炉容器が3メートル
近く飛び上がった。事故で放出されたエネルギーは約50 MJに相当し炉内に
あった約100万キュリーの核分裂生成物のうち約1パーセントが放出された
と考えられている。 なお原子炉は暴走したもののその後減速材である軽水が
失われたため自然に停止したと考えられている。
また、冷却材が失われても炉心が溶融しなかったのは、炉の出力が小さかったため
とも考えられる事故が起きたのは午後9時であり当時夜勤で3人の運転員が
いたが2人は即死であったと考えられる。
事故発生後に救出隊が駆けつけたときは放射線の強さが非常に強く、1時間半は
現場に近づく事さえできなかった。現場に入ると制御室には2人がおり
その内の2人がまだ生きていて救急車で搬送されたが搬送中に死亡した。
事故から数日後に残りの1人が原子炉の暴走により飛び出した制御棒に胸を貫かれ
天井に磔にされた状態で発見された。
3人の遺体は、露出していた頭部や手などが余りにも汚染度が激しかったため、
切断して高レベル放射性廃棄物として処理しなければならなくなった。
搬送に使用した救急車も放射能に汚染されてしまったために後に放射性廃棄物
として処分しなければならなくなった。
チェルノブイリ原子力発電所事故が起きるまでは原子炉で死者が出た
唯一の事故として知られていた
この事故により制御棒の設計は見直され放射線汚染の際の対処方法も開発された
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1966年10月5日「エンリコ・フェルミ1号炉 」エンリコ・フェルミ炉はアメリカの
デトロイト郊外にあった高速増殖炉試験炉である。1966年10月5日に炉心溶融を
起こし閉鎖された。原子炉の炉心溶融事故が実際に発生した最初の例と
されている。後にこの事故について書かれたドキュメンタリーのタイトルには
『我々はデトロイトを失うところであった』と書かれた。
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1979年3月28日「スリーマイル島原子力発電所事故」
アメリカ・スリーマイル島原子力発電所の炉心溶融事故。レベル5の事故であり
不完全な設備保全人間工学を重視していない制御盤配置、そして中央制御室
運転員の誤判断等が重なって発生した。当初は外部へ放射性物質が大量に放出
されたとの報道もあった。この事故の影響によりアメリカ政府は新規原発
建設中止に追い込まれた。
アメリカではこの事故を契機にトラブルや運転等の情報を共有する組織として
アメリカ合衆国原子力研究所 (INPO) が結成され、その後の原子力発電所の
安全性向上に寄与することとなった。
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フランス [編集]
1963年10月フランスの「サン・ローラン・デ・ゾー原子炉で燃料溶融事故 」
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2008年7月7日「トリカスタン原子力発電所事故」7日の夜から8日にかけて、
フランス・アヴィニョン北部ボレーヌ市に接するトリカスタン原子力発電所に
おいて、ウラン溶液貯蔵タンクのメンテナンス中タンクからウラン溶液約
3万リットルが溢れ出し職員100人余が被曝し、付近の河川に74 kgの
ウラニウムが流れ出した。原発は一時閉鎖され、水道水の使用や河川への
立ち入りが禁止されるなどした。フランス原子力安全庁は事故レベルを
0としている。
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スイス [編集]
1969年1月21日 スイスのボー州リュサン(Lucens)の
「研究用ガス冷却地下原子炉での冷却材喪失事故」で、炉心燃料が一部溶融、
放射性物資が洞窟内に漏れた。その後地下水経由での環境中への
放射性物質流出が続いている
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沸騰水型原子炉の臨界事故 [編集]
1973年11月 「バーモントヤンキー原発」(米バーモント州)検査のため抜いた
状態だった制御棒の隣の制御棒を誤って抜き炉心の一部が臨界。圧力容器と
格納容器の蓋は開けたままだった。
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1976年11月「ミルストン原発1号機」(米コネティカット州)
臨界は炉心スクラムで止まった。
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1987年7月「オスカーシャム原発3号機」(スウェーデン)
制御棒の効果を調べる試験中に制御棒を抜いていたところ想定外の臨界状態に
なったが運転員が気付くのが遅れ臨界状態が続いた
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ブラジル [編集]
1987年9月「ゴイアニア被曝事故」ブラジルのゴイアニア市で発生した放射能
汚染事故。閉鎖された病院に放置されていた放射線療法用の医療機器から
放射線源が盗難に遭い地元のスクラップ業者によって解体された事で内部の
セシウム137が露出。放射性物質の危険性を認識できず蛍光物質が暗闇で光る
という特性に好奇心を持った人々が自宅に持ち帰るなどした事で貧民街を
中心に汚染が広がった。同年の12月までに250人が被曝し4人が急性放射線障害で
死亡した。翌年の3月までに汚染がひどかった家屋7軒が解体され
周辺の土壌交換などが行われた。
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浪速夢見頃>原子力発電所大事故歴史(日本編)

2013-02-12 17:28:51 | その他

浪速夢見頃>原子力発電所大事故歴史(日本編)
<ネット上で情報収集 [編集]>
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原子力発電所などで事故が発生した場合には、
国際原子力事象評価尺度 (INES) による影響度の
指標が「レベル0」から「レベル7」までの
8段階の数値で公表
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0)尺度以下
1)逸脱
2)異常事象
3)重大な異常事象
4)事業所外への大きなリスクを伴わない事故
5)事業所外へリスクを伴う事故
6)大事故
7)深刻な事故
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2011年11月30日東京電力は炉心の解析状況を発表した1号機・・14時間の断水で
燃料は3000度に達し68tの燃料がすべて溶けて鋼鉄製の圧力容器を抜けて
格納容器下部にたまったさらにコンクリートの床も最大65cm浸食した
可能性がある。外側の鉄板までの残りは37cmである、2号機は57%、3号機は63%の
燃料が格納容器外へ落下した可能性がある
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レベル4の事故 [編集]
1999年9月30日「東海村JCO核燃料加工施設臨界事故」
日本で3番目の臨界事故で作業員2名が死亡レベル4
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レベル3以下の事故 [編集]
1978年11月2日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故」
日本で最初の臨界事故とされる戻り弁の操作ミスで制御棒5本が抜け午前3時から
出勤してきた副長が気付きゆっくり修正し終わる10時半までの7時間半臨界が
続いたとされる沸騰水型の原子炉で弁操作の誤りで炉内圧力が高まり制御棒が
抜けるという本質的な弱点の事故この情報は発電所内でも共有されず同発電所でも
その後繰り返され、他の原発でも(合計少なくとも6件)繰り返される
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1999年「志賀原発事故」も防げたかも知れず本質的な弱点なので
世界中の原子炉で起こっている可能性がある。
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1991年5月31日「中部電力浜岡3号機」の制御棒が同様に3本抜けた事故である
中部電力は1992年にマニュアルを改訂した国への報告はしなかったが他電力へ
報告したと主張した。事故発生から29年後の2007年3月22日に発覚公表された。
東京電力は当時は報告義務がなかったと主張している
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1989年1月1日「東京電力福島第二原子力発電所3号機事故」
原子炉再循環ポンプ内部が壊れ炉心に多量の金属粉が流出した事故レベル2。
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1990年9月9日「東京電力福島第一原子力発電所3号機事故
主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果原子炉圧力が上昇して
「中性子束高」の信号により自動停止したレベル2。
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1991年2月9日「関西電力美浜発電所2号機事故」
蒸気発生器の伝熱細管の1本が破断し55トンの一次冷却水が漏洩し
非常用炉心冷却装置 (ECCS) が作動したレベル2。放出量0.6キュリー
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1991年4月4日¥中部電力浜岡原子力発電所3号機事故」
誤信号により原子炉給水量が減少し原子炉が自動停止したレベル2。
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1997年3月11日「動力炉・核燃料開発事業団東海」
再処理施設アスファルト固化施設火災爆発事故、低レベル放射性物質を
アスファルト固化する施設で火災発生、爆発。レベル3。
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1999年6月18日「北陸電力志賀原子力発電所1号機事故」
定期点検中に沸騰水型原子炉 (BWR) の弁操作の誤りで炉内の圧力が上昇し3本の
制御棒が抜け、想定外で無制御臨界になりスクラム信号が出たが、制御棒を挿入
できず手動で弁を操作するまで臨界が15分間続いた。点検前にスクラム用の
窒素を全ての弁で抜いてあったというミスとマニュアルで弁操作が開閉逆だった
と言うのが臨界になる主な原因であった所長も参加する所内幹部会議で隠蔽が
決定され運転日誌への記載も本社への報告も無かったとされる
当時の所長代理は発覚時点で常務・原子力推進本部副本部長=安全担当
志賀原発担当。総点検の聞き取りに対しては事故を報告しなかった。
原発関連の不祥事続発に伴う2006年11月の保安院指示による社内
総点検中、報告が出た結果、2007年3月公表に至った。レベル1 - 3。
日本で2番目の臨界事故とされる。日本原子力技術協会が最悪の事態を
想定して欠落データを補完した研究によると定格出力の15%まで出力が瞬間的に
急上昇した即発臨界であった可能性がある。
ただし燃料中のウラン238が中性子を吸収しそれ以上の事態になる可能性は
なかったという。この事故に関して一部マスコミ等で「制御棒が落下した」
「沸騰水型原子炉の制御棒は下から挿入されるので水圧が抜けると落下する
危険がある」との誤解があったが実際は「水圧装置の誤作動により引き抜き
動作が行われた」であり、重力の影響で落下したのでない
ことに注意が必要である
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2011年3月11日 「東京電力福島第二原子力発電所事故」
東日本大震災による地震・津波で原子炉の冷却機能が一時不全状態に陥った事故
原子力安全・保安院は2011年3月18日にINESレベル3であるとの暫定評価を下した
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その他の事故 [編集]
1973年3月「関西電力美浜発電所燃料棒破損 」
美浜一号炉において核燃料棒が折損する事故が発生したが、関西電力は
この事故を公表せず秘匿していた。この事故が明らかに
なったのは内部告発によるものである。
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1974年9月1日 原子力船「むつ」の放射線漏れ事故
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1995年12月8日動力炉・核燃料開発事業団「高速増殖炉もんじゅナトリウム漏洩事故」
2次主冷却系の温度計の鞘が折れナトリウムが漏洩し燃焼した。レベル1。
この事故により、もんじゅは15年近く経った2010年4月まで停止を余儀なくされた。
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1998年2月22日「東京電力福島第一原子力発電所」
第4号機の定期検査中、137本の制御棒のうちの34本が50分間、全体の25分の1
(1ノッチ約15cm)抜けた。
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2004年8月9日「関西電力美浜発電所3号機2次系配管破損事故」
2次冷却系のタービン発電機付近の配管破損により高温高圧の水蒸気が
多量に噴出。逃げ遅れた作業員5名が熱傷で死亡。レベル0+。
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2007年7月16日新潟県中越沖地震に伴う東京電力
「柏崎刈羽原子力発電所での一連の事故」同日発生した
新潟県中越沖地震により、外部電源用の油冷式変圧器が火災を起こし微量の
放射性物質の漏洩が検出された。この地震により発生した火災は
柏崎刈羽原子力発電所1箇所のみであるとされる。 震災後の高波によって敷地内
が冠水、このため使用済み核燃料棒プールの冷却水が一部流失している。
全ての被害の詳細は2007年10月現在もなお調査中である。この事故により
柏崎刈羽原子力発電所は全面停止を余儀なくされた。
2007年11月13日経済産業省原子力安全・保安院はこの事故を
レベル0-と評価した。
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2010年6月17日「東京電力福島第一原子力発電所2号炉」
緊急自動停止 制御板補修工事のミスがあったが常用系電源と非常用電源
(常用系から供給されている)から外部電源に切り替わらず冷却系ファンの停止を
招き、緊急自動停止(トリップ)した。電源停止により水位が2m低下
した。燃料棒露出まで40cm(単純計算で6分)であった。トリップ30分後に
非常用ディーゼル発電機2台が動作し、原子炉隔離時冷却系が動作し水位は回復した
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