浪速夢見頃>原子力発電所大事故歴史(海外編)
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原子力発電所などで事故が発生した場合には、
国際原子力事象評価尺度 (INES) による影響度の
指標が「レベル0」から「レベル7」までの
8段階の数値で公表
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0)尺度以下
1)逸脱
2)異常事象
3)重大な異常事象
4)事業所外への大きなリスクを伴わない事故
5)事業所外へリスクを伴う事故
6)大事故
7)深刻な事故
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「スリーマイル島事故」
(原子炉格納容器内のメルトダウンだけだった)を遙かに超えており
30年超といわれる廃炉作業の見通しはかなり暗いとされる。
エネルギー総合工学研究所の解析では1号機の燃料は85%が落下し
格納容器の床のコンクリートも2m浸食され、圧力容器が傾いている可能性を
指摘した2.3号機も70%の燃料が落下したという原子力安全基盤機構は
1号機の圧力容器は破損したが2,3号機は健全であるとしている
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カナダ [編集]
1952年12月12日 「チョーク・リバー研究所事故」
1947年にカナダオンタリオ州(オタワの北西150km)に建設された
出力4.2万KWの実験用原子炉NRXの事故である。操作ミスで制御棒が
引き抜かれ、1万キュリーまたは370テラベクレルの放射能が外部に漏れた。
その後1993年まで稼働していた
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ソビエト連邦 [編集]
1957年9月29日「ウラル核惨事 」旧ソビエト連邦ウラル地方カスリ市
(現在はウクライナ共和国)のほど近くに建設された
「チェリヤビンスク65」という暗号名を持つ秘密都市の「マヤーク」
(灯台の意味)という兵器(原子爆弾)用プルトニウムを生産するための
原子炉5基および再処理施設を持つプラントで起こった事故
プルトニウムを含む200万キュリーの放射性物質が飛散した。
放射性物質の大量貯蔵に伴う事故の危険性を知らせた事故である。
原子力における冷却不能が(廃棄物であっても)爆発大事故につながった
事故である。当初この事故は極秘とされていたが、西側に亡命した科学者である
ジョレス・A・メドベージェフが1976年に英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に
論文を掲載したことで知られるようになった
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1986年4月26日
「チェルノブイリ原子力発電所事故」ウクライナ共和国チェルノブイリ
原発4号機が爆発・炎上し、多量の放射性物質が大気中に放出された
レベル7の大事故。原因は諸説あるが、発電実験中、出力が急上昇して
起こったとされている。放射性物質は気流に乗って世界規模で被曝をも
たらした。直接の死亡者は作業員・救助隊員の数十名だけである。
しかし、2005年に発表された世界保健機関 (WHO) 等の複数組織による
国際共同調査結果ではこの事故による直接的な死者は最終的に9,000人
と評価された。2000年4月26日に行われた14周年追悼式典では事故処理に
従事した作業員85万人のうち、5万5,000人が死亡したと発表されている
この事故を契機に国際的な原子力情報交換の重要性が認識され、
世界原子力発電事業者協会(WANO) が結成された
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イギリス [編集]
1957年10月10日「ウィンズケール原子炉火災事故」 世界初の原子炉重大事故。
イギリス北西部の軍事用プルトニウムを生産するウィンズケイル原子力工場
(現セラフィールド)の原子炉2基の炉心で黒鉛(炭素製)減速材の過熱により
火災が発生16時間燃え続け、多量の放射性物質を外部に放出した。
避難命令が出なかったため地元住民は誰も避難しなかった。数十人がその後
白血病で死亡した。現在の所白血病発生率は全国平均の3倍である。
当時のマクミラン政権が極秘にしていたが、30年後に公開された。現在でも
危険な状態にある。2万キュリーのヨウ素131が工場周辺500平方キロメートルを
汚染し、ヨードの危険性を知らせたことで有名である。
水素爆発のおそれから注水に手間取った。これはスリーマイル島でも繰り返された
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アメリカ合衆国 [編集]
1959年7月13日「サンタスザーナ野外実験所燃料棒溶融事故」カリフォルニア州
ロサンゼルス市郊外約50kmのシミバレーにあったナトリウム冷却原子炉の
燃料棒が溶融した。1500-6500キュリーのヨウ素131と1300キュリーの
セシウム137が環境中に放出されたとされる1960年に閉鎖されその後解体された
1979年に学生が偶然資料を発見し公表するまで極秘であり、2011年8月現在
エネルギー省のサイトに一切情報がない。
1996年にプルトニウム239とコバルト60、2011年にセシウムがそれぞれ
規制値の数倍から数百倍検出された。1961年1月3日 SL-1事故
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事故後、撤去されるSL-1の原子炉容器 SL-1(Stationary Low-Power Reactor Number One)
はアメリカのアイダホフォールズにあった海軍の軍事用の試験炉である。
運転出力は軍事基地のための暖房用の熱エネルギーとして400 kW、
電気出力として200 kWの合計600 kWであり設計出力は3 MWであった。
当事者が死亡してしまったため事故の原因ははっきりとは分かって
いないが、制御棒を運転員が誤って引き抜き、原子炉の暴走が起きたと
考えられている。10センチまでしか引き出してはいけない制御棒が50センチも
引き出されていたが、この制御棒は引き出すときにハウジングに引っかかる
ことが事件前の映像からもわかっており、運転員が力まかせに引っ張った
ものと考えられている。その結果大量の水蒸気が瞬時に発生し炉内が高圧に
なって炉が破壊された この暴走により、13トンの原子炉容器が3メートル
近く飛び上がった。事故で放出されたエネルギーは約50 MJに相当し炉内に
あった約100万キュリーの核分裂生成物のうち約1パーセントが放出された
と考えられている。 なお原子炉は暴走したもののその後減速材である軽水が
失われたため自然に停止したと考えられている。
また、冷却材が失われても炉心が溶融しなかったのは、炉の出力が小さかったため
とも考えられる事故が起きたのは午後9時であり当時夜勤で3人の運転員が
いたが2人は即死であったと考えられる。
事故発生後に救出隊が駆けつけたときは放射線の強さが非常に強く、1時間半は
現場に近づく事さえできなかった。現場に入ると制御室には2人がおり
その内の2人がまだ生きていて救急車で搬送されたが搬送中に死亡した。
事故から数日後に残りの1人が原子炉の暴走により飛び出した制御棒に胸を貫かれ
天井に磔にされた状態で発見された。
3人の遺体は、露出していた頭部や手などが余りにも汚染度が激しかったため、
切断して高レベル放射性廃棄物として処理しなければならなくなった。
搬送に使用した救急車も放射能に汚染されてしまったために後に放射性廃棄物
として処分しなければならなくなった。
チェルノブイリ原子力発電所事故が起きるまでは原子炉で死者が出た
唯一の事故として知られていた
この事故により制御棒の設計は見直され放射線汚染の際の対処方法も開発された
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1966年10月5日「エンリコ・フェルミ1号炉 」エンリコ・フェルミ炉はアメリカの
デトロイト郊外にあった高速増殖炉試験炉である。1966年10月5日に炉心溶融を
起こし閉鎖された。原子炉の炉心溶融事故が実際に発生した最初の例と
されている。後にこの事故について書かれたドキュメンタリーのタイトルには
『我々はデトロイトを失うところであった』と書かれた。
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1979年3月28日「スリーマイル島原子力発電所事故」
アメリカ・スリーマイル島原子力発電所の炉心溶融事故。レベル5の事故であり
不完全な設備保全人間工学を重視していない制御盤配置、そして中央制御室
運転員の誤判断等が重なって発生した。当初は外部へ放射性物質が大量に放出
されたとの報道もあった。この事故の影響によりアメリカ政府は新規原発
建設中止に追い込まれた。
アメリカではこの事故を契機にトラブルや運転等の情報を共有する組織として
アメリカ合衆国原子力研究所 (INPO) が結成され、その後の原子力発電所の
安全性向上に寄与することとなった。
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フランス [編集]
1963年10月フランスの「サン・ローラン・デ・ゾー原子炉で燃料溶融事故 」
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2008年7月7日「トリカスタン原子力発電所事故」7日の夜から8日にかけて、
フランス・アヴィニョン北部ボレーヌ市に接するトリカスタン原子力発電所に
おいて、ウラン溶液貯蔵タンクのメンテナンス中タンクからウラン溶液約
3万リットルが溢れ出し職員100人余が被曝し、付近の河川に74 kgの
ウラニウムが流れ出した。原発は一時閉鎖され、水道水の使用や河川への
立ち入りが禁止されるなどした。フランス原子力安全庁は事故レベルを
0としている。
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スイス [編集]
1969年1月21日 スイスのボー州リュサン(Lucens)の
「研究用ガス冷却地下原子炉での冷却材喪失事故」で、炉心燃料が一部溶融、
放射性物資が洞窟内に漏れた。その後地下水経由での環境中への
放射性物質流出が続いている
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沸騰水型原子炉の臨界事故 [編集]
1973年11月 「バーモントヤンキー原発」(米バーモント州)検査のため抜いた
状態だった制御棒の隣の制御棒を誤って抜き炉心の一部が臨界。圧力容器と
格納容器の蓋は開けたままだった。
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1976年11月「ミルストン原発1号機」(米コネティカット州)
臨界は炉心スクラムで止まった。
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1987年7月「オスカーシャム原発3号機」(スウェーデン)
制御棒の効果を調べる試験中に制御棒を抜いていたところ想定外の臨界状態に
なったが運転員が気付くのが遅れ臨界状態が続いた
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ブラジル [編集]
1987年9月「ゴイアニア被曝事故」ブラジルのゴイアニア市で発生した放射能
汚染事故。閉鎖された病院に放置されていた放射線療法用の医療機器から
放射線源が盗難に遭い地元のスクラップ業者によって解体された事で内部の
セシウム137が露出。放射性物質の危険性を認識できず蛍光物質が暗闇で光る
という特性に好奇心を持った人々が自宅に持ち帰るなどした事で貧民街を
中心に汚染が広がった。同年の12月までに250人が被曝し4人が急性放射線障害で
死亡した。翌年の3月までに汚染がひどかった家屋7軒が解体され
周辺の土壌交換などが行われた。
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