ニッキ-通信 ~盲導犬ニッキ-のお母さんより~

盲導犬ニッキ-と私の日常。要援護者・障害者の防災について紹介します。

横浜発の写真館の設立から150年

2012年02月13日 | 日記
日本人の手による横浜初 の写真館

 横浜が写真館西端日本発。この情報を聞いて やはり 横浜は近代の発祥の地として 大いに栄えた街であったことを再認識

本当の日本発の写真館は外国人によって1859年に横浜に開館されているが

 1862年 日本人の手により 横浜が開港して3年後横浜の弁天通に写真家の下岡蓮杖(しもおかれんじょうが写真館を作った。
蓮杖は下だの生まれで 13歳に江戸に出て絵を学び その後 写真に出会ってその技術に驚嘆して 横浜に出て写真を勉強した
写真の技術を外国人から学んだが 最初は湿板方式 後に 乾板方式となり 写真技術の進歩著しかった。
蓮杖が40歳のとき 横浜の弁天通に写真館を会館。
そのころには 日本人も写真を写すことに抵抗が無くなって 写真館は 大いに繁盛した。
しかも  蓮杖は多くの弟弟子を育て 何人もの有名な写真家を世に送り出している。
今日の写真術や写真行の日本の祖として 毎年 彼の誕生日の2月12日に 聖誕祭が
行なわれて その業績が顕彰されているという。

 明治時代には「」横浜写真」と呼ばれる写真が外国への高尚な土産品として尊ばれた。それは写真の上に色を塗り 蒔絵の高価な表紙を付けたものだったとか。
それは 今でも鮮明な色が残り あたかもからー写真みたいだと驚くほどの技術だった。

 当時は 仕事が無くなった浮世絵師が焼き物の絵付けなどをして その陶磁器も日本からのみやげ物として又 輸出もされていたが
 それと同様に 美しく彩色された「横浜写真も
人気があったのだ。
横浜歴史博物館には焼き物が所蔵されているが 常設展示かどうかは分らない。

一方 横浜写真は 現在 横浜開港記念簡で展示されている。2月待つまで。の展示。

 下岡蓮杖は下だの生まれだが 当時の下田は アメリカから黒船が来航して 新しくて 物珍しいものを多く運んできた。おかあさんは 連声が下田でこの空気を大いに吸って たった13歳で江戸に出て新しいものに触れたい 勉強したいと思うに至ったことを想像してみる。
 進取の気を取り入れて 日本の写真の糸口を開いた下岡蓮杖のことを思って
ありがとう と言いたい。
彼は 晩年 キリスト教に帰依して幸せな晩年を送ったそうだ。

 さて 我が家のお姫様のニッキーは今朝から何だか変。
朝食は普通に食べて問題は無いと思ったが 11時半ごろ吐いた。
久しぶりだ。
その後 横になって 何だかぶったりしている。
 夕方 盲導犬教会から電話があり ニッキーの様子を聞かれた。そこで 今日の様子を話した。
 先方の電話の趣旨は このところ 体調を壊す盲導犬が続出しているから
ニッキーの様子を聞くための電話だった。タイムリー。

 夕飯は いつもの半分。それで少ないとの文句も出ないのでOK。
 しかし 胃の内容物が口に戻ってくるのか 何だか もぐもぐ。
 そこで おかあさんの鍼が登場。お脈拝見。
鍼を打ったら 何となくしゃぼくれて艶のなかった毛並みに艶が出てきた。
 胃の方も落ち着いてきたらしい。
おかあさんは まるで お姫様月の御典医みたいだ。
やれやれ。
 昨日の外出では体を冷やさないように細心の注意を払ったが 風邪かな。
今は静かに寝ている。