自室に走りこみ、ベッドに突っ伏したアリエナは、むせび泣いていた。胸には、しっかりと母親の写真が抱かれていた。数少ない思い出が、昨日のことのように思い出された。
母の名は、アリスといった。遠い祖先は貴族ということで、どこか身なりのしっかりとした、優しい人だった。都会育ちで、ろくに苦労もしてこなかった彼女が、時代から取り残されたようなこの町で暮らすには、どれほどの苦労があったことか。アリエナはよく、父が母を怒鳴りつけているのを見たことがあった。拳を振り上げながら怒る父の前で、母はしきりに謝りながら、頭をたれていた。父が出て行き、アリエナが心配して近づくと、涙を急いでぬぐいながら、なんでもないのよ、と微笑みを浮かべた。その微笑みがとてもさびしくて、どこかへ飛んでいってしまいそうなほど空虚だったので、アリエナは母の懐に顔をうずめながら、次から次へと、流れ出る涙が涸れるまで、泣き続けるのだった。
アリスが神に召されたのは六年前、アリエナが八歳の時だった。肌が綿のように白く、ただでさえ弱々しい彼女の顔がこけ始めたのは、はた目にも明らかだった。病床に就いた彼女は、何度か医者にかかったが、アリエナは立ち会えず、ケントが医者に変わって説明した。父はいつも、風邪だ、と言うきりだった。病床につく日も数を増し、月が変わっても、母が患っている病気のことを、父はただの風邪と言い張った。
病床から、コホン、という咳ではなく、断末魔にも似た叫びを聞いて、アリエナは止められていたにもかかわらず、思い切って母の病室のドアを開けた。ベッドから這い出し、苦しそうに床の上でもがく母は、口から血を吐いていた。
アリエナの悲鳴を聞き、大あわてで駆けこんできたケントは、その時はじめて、母が不治の病であることを告げた。
母親のアリスは、その翌日、亡くなった。
アリエナの手を最後にしっかりと握りしめ、あのたまらなく優しかった笑顔を浮かべながら、こと切れた。閉じられたまぶたの間から、ひと筋の涙が、流れ落ちた。その涙がゆっくりと頬を伝わり、枕に吸いこまれて消え去るまで、アリエナは嗚咽を洩らさなかった。そして、母の温もりがなくなるまで、泣き続けた。
バードは馬車を御しながら、まだ先ほどの興奮が冷めやらないまま、話していた。
「あいつら、今に見てやがれ。おれの見習いがあけたら、必ずとっちめてやる」
「え、もう見習いがあけるの?」と、御者台の隣に座るグレイが訊いた。
「――もうそろそろ、だな」
「もうそろそろって、いつさ。そしたら、自分の店を持つのかい。それとも、どこかへ働きに行くのかい」
「どこかへ行くってのも、悪くないな――」と、バードは遠くを見るように言った。
「どうするのさ?」
グレイがせかすように言うと、
「おれは、親方の後を継ぐのさ」
と、バードが笑って答えた。
「親方の後って、まだ親方は、元気じゃないか」
母の名は、アリスといった。遠い祖先は貴族ということで、どこか身なりのしっかりとした、優しい人だった。都会育ちで、ろくに苦労もしてこなかった彼女が、時代から取り残されたようなこの町で暮らすには、どれほどの苦労があったことか。アリエナはよく、父が母を怒鳴りつけているのを見たことがあった。拳を振り上げながら怒る父の前で、母はしきりに謝りながら、頭をたれていた。父が出て行き、アリエナが心配して近づくと、涙を急いでぬぐいながら、なんでもないのよ、と微笑みを浮かべた。その微笑みがとてもさびしくて、どこかへ飛んでいってしまいそうなほど空虚だったので、アリエナは母の懐に顔をうずめながら、次から次へと、流れ出る涙が涸れるまで、泣き続けるのだった。
アリスが神に召されたのは六年前、アリエナが八歳の時だった。肌が綿のように白く、ただでさえ弱々しい彼女の顔がこけ始めたのは、はた目にも明らかだった。病床に就いた彼女は、何度か医者にかかったが、アリエナは立ち会えず、ケントが医者に変わって説明した。父はいつも、風邪だ、と言うきりだった。病床につく日も数を増し、月が変わっても、母が患っている病気のことを、父はただの風邪と言い張った。
病床から、コホン、という咳ではなく、断末魔にも似た叫びを聞いて、アリエナは止められていたにもかかわらず、思い切って母の病室のドアを開けた。ベッドから這い出し、苦しそうに床の上でもがく母は、口から血を吐いていた。
アリエナの悲鳴を聞き、大あわてで駆けこんできたケントは、その時はじめて、母が不治の病であることを告げた。
母親のアリスは、その翌日、亡くなった。
アリエナの手を最後にしっかりと握りしめ、あのたまらなく優しかった笑顔を浮かべながら、こと切れた。閉じられたまぶたの間から、ひと筋の涙が、流れ落ちた。その涙がゆっくりと頬を伝わり、枕に吸いこまれて消え去るまで、アリエナは嗚咽を洩らさなかった。そして、母の温もりがなくなるまで、泣き続けた。
バードは馬車を御しながら、まだ先ほどの興奮が冷めやらないまま、話していた。
「あいつら、今に見てやがれ。おれの見習いがあけたら、必ずとっちめてやる」
「え、もう見習いがあけるの?」と、御者台の隣に座るグレイが訊いた。
「――もうそろそろ、だな」
「もうそろそろって、いつさ。そしたら、自分の店を持つのかい。それとも、どこかへ働きに行くのかい」
「どこかへ行くってのも、悪くないな――」と、バードは遠くを見るように言った。
「どうするのさ?」
グレイがせかすように言うと、
「おれは、親方の後を継ぐのさ」
と、バードが笑って答えた。
「親方の後って、まだ親方は、元気じゃないか」