コギト

2008-12-11 21:10:03 | 哲学・論理学

思わぬ所でデカルトのコギト論について議論になった。周りで記録を読んでいた皆さん、場所をわきまえずにごめんなさい。

デカルトが‘cogito,ergo sum’と言った、ということは高校の倫理で習った。そのときはふーんとしか思わなかったが、これはものすごいことだ。そのことに気づいたのは、懐疑論に囚われ、永井均氏の一連の著書を読んでからだ。

いま自分はPCの前に座ってキーボードを叩いているような気がする。だけど、それは怪しい。これは夢ではなくて現実だ、と言い切る自信がない。もっと疑い出せば、生まれてから今までずっと夢を見続けているのかもしれない。

だけど、たとえすべてが夢だとしても、「すべてが夢かもしれない」と疑っているそのことが、疑っている主体の存在を基礎付ける。一応確認するが、ここでいう「主体」とは、生き生きとした自分などとは程遠い。t1時に疑っている主体と、t2時に疑っている主体が同じであるかはわからない。その主体が自我を持ち、他の主体から区別されるかはわからない。中身のないスカスカの「主体」だ。「確実な知識を獲得した!」と力むほどのことではないかもしれない。それでも、懐疑し続ける限り、そのような「主体」が存在することは疑い得ない。

これに対し、「『疑う』ということすら疑えるのではないか?」という横槍が入る。よろしい、「『すべてが夢かもしれない』と疑っている(疑い1)、ということが疑わしい(疑い2)」としよう。だけど、悲しいかな、そのことは、疑い2を持つ主体の存在を証明してしまっている。疑い2すらを疑う(疑い3)、さらに疑い4・・・と続けていっても同じだ。どこまで無限後退していっても、疑う主体からは逃げられない。

ここに、「疑う」ということの特権性がある。「われ食べる、ゆえにわれ在り」とは言えない。「食べているわれ」の存在は容易に否定できる。だけど、「食べていることを疑っているわれ」の存在は否定できない。繰り返すが、その「われ」は無内容だけど。


追記(08-12-20):胡蝶の夢を下敷きにしたといわれる『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を見た。名作だ。

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2 コメント

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Unknown (うずはし)
2008-12-14 23:33:23
永井均に反応しました(笑)
最近は通勤の電車の中で、紛争類型別などではなく、永井均の「翔大と猫のインサイトの夏休み」という本を読んでます。
中高生向きとのことだけど、結構おもしろいよ。ちくま文庫です。
Unknown (横井克俊)
2008-12-20 01:47:29
「インサイト」は培養層の脳の話が面白かったです。永井本の中でも名作&難解だと思いました。

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