外的世界の存在は証明できるか?

2015-08-29 03:16:44 | 哲学・論理学

自室で目の前にPCに向かってキーボードを叩いている。本心を見えば、視界に映るとおりの世界(PC、机、いす…)が『ほんとうに』実在することを確信している。自分が死んでも、その外的世界は変わらずありつづける、と信じている(色とか匂いとかの第二次性質の問題は置く。)。だけど、この確信が正しいことが証明できるのか? 外的世界など存在しないとの懐疑論者・独我論者を反駁できるのか? 書店に行く度に哲学コーナーでめぼしい文献を探すのだけど、すっきりしないまま。豊橋で見つけたトマス・ネーゲル"What Does It All Mean?"を読んで不思議とすっきりしたので、本日時点の一応の解答としたい。

ツチヤ教授やインサイトに言わせれば、言葉の定義・言語規則の問題に解消されるか。「PCが見える」ということは、「PCがそこにある、と思い込む」ということだ。その思い込みがおかしいと主張する懐疑論者が登場しても、その立証責任は懐疑論者にある。納得する根拠が示されない限り、こちらの勝訴となる。…というのがインサイト説。大森荘蔵が「すべて夢だ、という命題は無意味」というのも、同じく言葉の定義という切り口だろう。

だけど、この説明には説得されない。ネーゲルが言うように、すべてが自分(コギト)の「見え」にすぎないのではないか、という懐疑を理解できてしまう。立証責任に逃避するのは不当だと感じる。

じゃあどうなるのか? ネーゲル曰く、「自分自身の心というオリの外に抜け出す方法はないかもしれません」。懐疑論への対抗策はない。それにもかかわらず、懐疑論を信じていくこともできない。外的世界が存在している、というのは抜きがたい本能的傾向だ。そして、その本能を捨てる理由はないのだから(インサイトが言うように、懐疑論者からの適切な反論はいまだない。)、われわれは本能のままに確信すればよい。かつてラッセルに噛みついたが、彼は正しかった。

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