[シッダールタ=釈迦=ブッダ(ほとけ)=如来]
・ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)は、前463年にシャーキャ族の王子として生まれ、383年頃に死んだ(別の説もある)。ソクラテスと生年がほぼ同じ。生誕地はネパール南部のルンビニーといわれる。
・シッダールタは、シャーキャ族の聖者(ムニ)という意味で「シャーキャムニ」と通称される。漢字圏ではこれを音写した「釈迦牟尼」という。略して「釈迦」、敬称を付して「お釈迦様」「釈尊」。
・覚り(=目覚めることbodhi)を得た後は、目覚めた者を意味する「ブッダBuddha」との一般名詞でも呼ばれる。この音写が「仏陀」であり、略して「仏」ともいう。やまとことばでは「ほとけ」といい、「仏」の訓読みとする。大乗仏教的発想で宇宙に無数のブッダが存在するとの立場からは、開祖のブッダを特に「ゴータマ・ブッダGautama Buddha」という。
・サンスクリットの「タターガタ」、漢訳した「如来」もブッダとほぼ同義で使われる。
追記(2016-12-1):魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』に触れたため、以下の記述を全面的に改めた。
[縁起]
・十二縁起(じゅうにえんぎ):すべての「諸行(=現象)」は原因が寄り集まってできた一時的なものであり、ゆえにその原因がなくなれば消滅する。このことへの「無明(むみょう;無知)」に始まり、12の因果を経て苦に至る。反対に、無明が消滅すれば順次消滅していく。
(1)無明→(2)行(ぎょう;行為)→(3)識(しき;選別や好悪につながる対象の識別)→(4)名色(みょうしき;対象の名称とそれが表れている形)→(5)六処(ろくしょ;外界を受け取る6つの感覚の場所)→(6)触(そく;外界との接触)→(7)受(じゅ;六処と触による感受)→(8)愛(あい;妄執)→(9)取(しゅ;執着)→(10)有(う;生存)→(11)生(しょう;生きる)→(12)老死(ろうし)。
「…比丘たちよ、では、無明とはなんであろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。…」相応部経典12-2(増谷文雄訳1p132)
・三相(さんそう):すべての現象は「無常」「苦」「無我」という性質を持つ。ブッダがいう「苦」とは、欲望の対象やその享受が「無常」である以上、欲望の充足を求める営みはいつも満たされないことを示している。ここでいう「無我」とは、自己の所有物ではなく、自己自身ではなく、自己の本体ではないという意味。すなわち、現象は「無常」であり、いつも「苦=満足しない・思いどおりにならない」から、自分の本体でも所有物でもない。
・業(ごう):輪廻の世界観において、現象を規定しているのは過去に積み重ねてきた「業karma」である。この業によって条件づけられた衆生は、盲目的に三毒(さんどく)と呼ばれる煩悩に動かされて生を送る(惑業苦;わくごっく)。三毒とは、貪欲(とんよく;むさぼる)、瞋恚(しんい;外界に心を乱される)、愚癡(ぐち;無知迷妄=十二縁起でいう無明)。
[四諦]
・四諦(しだい):惑業苦のサイクルから抜け出す4つの真理。(1)苦諦(くたい):老病死のように、生きることはすべて苦しみである(=一切皆苦)。(2)集諦(じったい):苦しみの原因は煩悩である。(3)滅諦(めったい):煩悩を消滅させれば苦しみは消える。(4)道諦(どうたい):煩悩を消滅させるためのあるべき八つの道(八正道)。楽しみに耽る一方の極も、苦行に浸かる対極も退けて「中道」であるべき。
・八正道(はっしょうどう):(1)正見(正しい見解)、(2)正思(正しい思惟)、(3)正語(正しい言葉)、(4)正業(正しい行ない)、(5)正命(正しい生活)、(6)正精進(正しい努力)、(7)正念(正しい一念)、(8)正定(正しい精神安定)。
「貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄を除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。」スッタニパータ56(中村元訳p20)
[無我]
・古代インドの宗教者たちは「常住であり、単一であり、コントロールする権能をもった実体的な我(アートマン)」を見出そうとした。ウパニシャッド哲学では「梵(ブラフマン;宇宙全体の究極的原理)」と「我(アートマン;自我)」を合一させることを説く(梵我一如)。
・これに対し、ブッダは次のような態度をとる:
(1)あらゆる現象に恒常的なものはない以上(諸行無常)、その諸要素に常一主宰の実体我を見出すことは誤りである(諸法無我)。
(2)人が死んでも実体的な我が永久に存在するという見解(常見)は誤りだし、反対に、人が死んだら無になるという見解(断見)も誤りである。もっとも、現象を超えた世界に「実体我は有る」のか、それともやはり「我は無い」のかという形而上学質問には答えない。
(3)現象の中で感覚からの情報が認知されることによって経験が形成される場としての「経験我(私)」は否定されない。
[輪廻←→涅槃]
・古代インド文明では「輪廻」が広く信じられていた。繰り返し「五道(六道※)」の世界に生まれ変わらなければいけないという否定的な意味をもつ。(1)神々の「天」、(2)人間の「人」、(3)悪しき神々の「阿修羅※」、(4)動物の「畜生」、(5)「餓鬼」、(6)「地獄」。
・魚谷によれば、ブッダもこの輪廻転生の世界観に依っている。経験我(認知のまとまり)を場として輪廻がつづいていく。正確にいえば、業による現象が継起していくプロセスを「輪廻」と呼び、そこに何らかの主体を前提する必要はない。
・「生まれることへと向かう道=輪廻」と「消滅へと向かう道=涅槃」の二種類の道があることを心得て、心を制御して英知を生み「智慧による解脱」をする。実体のない「我」に執着する煩悩の世ではすべてが苦である(一切皆苦 ※小乗ver)。煩悩の炎を消し去ることで安らぎの境地へ至る(涅槃寂静 ※大乗ver)。釈迦の死を「入滅」というが、肉体や現世の束縛から解き放たれたという意味で「涅槃」ともいう。
「…比丘たちよ、そのように観て、色において厭い離れ、受において厭い離れ、想において厭い離れ、行において厭い離れ、識(意識)において厭い離れるがよい。厭い離るれば貪りを離れる。貪りを離るれば解脱する。解脱すれば、解脱したとの自覚が生じて、<わが迷いの生涯はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生涯を繰り返すことはあらじ>と知るにいたるのである。」相応部経典22-126(増谷文雄訳1p585-6)
「…比丘たちよ、そのようにして、汝らが、怨憎する者と会い、愛する者と別離して、ながいながい歳月にわたり、流転し、輪廻して、悲しみ歎いたときに流し注いだ涙ははなはだ多くして、四つの大海の水といえどもその比ではないのである。それは何故であろうか。比丘たちよ、この輪廻はその始めも知られざるものであって、生きとし生けるものが、無智におおわれ、貪欲に縛せられて、流転し、輪廻したるその始原は知ることをえないのである。だから、比丘たちよ、この世におけるもろもろの営みは厭うのがよく、厭い離れるがよく、したがって、そこより解脱するがよいというのである。」相応部経典15-3(増谷文雄訳1p339)
「(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著(しゅうじゃく)が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれには煩悶が存在しない。」スッタニパータ715(中村元訳p154)
※原典として、中村元訳『ブッダのことば』、増谷文雄編訳『阿含経典1・2』
島田裕巳『世界の宗教がざっくりわかる』[2011]pp126-48
呉智英『つぎはぎ仏教入門』[筑摩書房版2011、ちくま文庫版2016]pp67-109
〔動画〕『宮崎哲弥のトーキング・ヘッズ 「つぎはぎ仏教入門」塾 ゲスト呉智英』
宮崎哲弥、呉智英『知的唯仏論』[サンガ版2012、新潮文庫版2015]p71
☆佐々木閑『本当の仏教を学ぶ一日講座 ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』[2013]pp43-78,146,181-206
中村圭志『教養としての宗教入門』[2014]pp171-97
☆☆魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』[2015] ※帯で末木文美士、佐々木閑、宮崎哲弥というスター3名が激賞している好著。東大インド哲学科・仏教学科の博士課程満期後にミャンマーでテーラワーダの実践に入るという経歴は伊達じゃない。特に「無我」の説明ははじめて腑に落ちた。新潮文庫に入るのは確実だろうが、この充実度で1600円は絶対買い。ブッダの思想を語るのに今後の必読文献だろう(呉の☆を外した)。