17世紀フランス政治(1)

2022-08-11 14:59:09 | 政治史・思想史

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[アンリ4世の暗殺とルイ13世の即位]

・1610年、ブルボン朝を創始したアンリ4世が暗殺された。犯人は狂信的なカトリック教徒であった。暗殺の真相は不明であるが、ナントの王令はカトリックとプロテスタントのいずれも満足させていなかったことが現れている。→《カルヴァンの政治思想と16世紀の宗教戦争》□佐々木61、林田175

・アンリ4世は、1601年に誕生した王太子をルイと名付けていた。これは、ルイ9世(聖ルイ王)(1214-1270)とのつながりを強調して、ブルボン家の王位継承が正統であることをアピールする狙いがあり、以降、王太子の名はルイとされるのが通例となった。アンリ4世が暗殺された時、世継ぎである王太子ルイ13世は8歳であったため、実母であるマリ・ド・メディシスが摂政に就いた。マリは、宿敵スペインとの和平路線を維持するため、ルイ13世とスペイン王女アンヌ・ドートリッシュの結婚、ルイ13世の妹エリザベートとスペイン王太子フェリペとの結婚が合意された。□佐々木60,24-6,62

・1614年、王権との対立を深めていたコンデ親王が武装蜂起すると、その要求を受け、マリは、同年10月にパリで全国三部会を開催した。この時、聖職者身分代表として出席した者の中にリシュリューがいた。全国三部会では諸身分の対立が表面化し、有効な解決策が決議されることがないまま1615年に散会した。□佐々木62-3

 

[リシュリューと「国家理性」]

・全国三部会が開催された1614年、ルイ13世は成人となった。しかし、マリは実権を維持しようとしたため、ルイ13世とマリとの間で権力闘争が噴出した。マリは、イタリア出身の侍女の夫であるコンチニを重用したほか、1616年にはリシュリューを国務卿に取り立てた。1617年、コンチニがルイ13世の配下に暗殺されると、リシュリューも国務卿の地位を追われた。□佐々木63-4

・1618年、ボヘミア(ベーメン)のプロテスタント貴族とボヘミア(ベーメン)国王ハプスブルク家のフェルディナンドの対立が激化し、「三十年戦争」が勃発した。ドイツのほぼ全土を巻き込んだヨーロッパ最後の大規模な宗教戦争であり、戦火の拡大によってヨーロッパが経験する最初の国際戦争となった。□阪口117-20、佐々木67

・1619年、マリは、大貴族層を糾合してルイ13世へ武力蜂起をした。この時、ルイ13世とマリとの間の調停を行ったのがリシュリューであり、1620年、マリがパリへの帰還を約束する「アンジェ協定」が結ばれて一応の終結を迎えた。□佐々木63

・リシュリューは、1622年に枢機卿へ就任した後、1624年に国務会議のメンバーに、同年にはその長である宰相に就任するというように栄達の道を歩んだ。マリは、リシュリューを通じて自らの影響力を行使しようと目論んだが、リシュリューは国王との協調路線を歩んだ。□佐々木63-4

・1626年、リシュリューは、「神の代理として裁きを行いうるのは国王のみである」との考えに基づき決闘禁止令を出した。決闘禁止令の実効性には疑問がつくものの、ここには暴力装置を国家が独占するという思想の萌芽が現れている。□佐々木65

・リシュリューはプロテスタントの弾圧も行った。1627年、フランス国内のプロテスタントから要請を受けたイングランド艦隊が、(プロテスタントの拠点であった大西洋岸のラ・ロシェルの沖合に派遣された。ラ・ロシェルのプロテスタント住民が武装蜂起すると、ルイ13世自らがリシュリューと共に出陣し、1628年に陥落した。1629年、ルイ13世は「アレスの王令」を出してナントの王令の政治軍事条項は撤回したため、プロテスタントの特権が大幅に削除された。□佐々木65-6、林田177-9

・1630年、マリは、リシュリューの解任を宣言した。翌朝、ルイ13世がマリのいるリュクサンブール宮を訪れた際、リシュリューも現れてその後に出立したため、リシュリューが解任されたとの噂が広まった。夕刻、ルイ13世がヴェルサイユに赴いたが、そこにリシュリューも合流し、ルイ13世はリシュリュー支持を表明した(「欺かれた者たちの日」)。1631年にマリが軟禁され、リシュリューは権力を完全に掌握した。□佐々木64、林田177

・1618年にボヘミア(ベーメン)の内戦として始まった三十年戦争は、プロテスタント側にデンマークやスウェーデンが、ハプスブルグ家の神聖ローマ皇帝側にスペインが介入していた。マリを追放したリシュリューは、「国家理性(レゾン・デタ)」を掲げる対外政策を採り、国家の維持を最高の目的と考え、その維持のためには宗教や倫理を犠牲にすることを厭わなかった。リシュリューはハプスブルグ家に対抗するために、プロテスタント勢力(北ドイツ諸侯、オランダ、イギリス、スウェーデン、デンマーク)と提携する道を選び、三十年戦争は第二幕を迎えた。1631年にはスウェーデンへ毎年100万リーブルの提供を定めたほか、1635年にはオランダ・スウェーデンとの同盟を更新して、スペインと神聖ローマ皇帝に宣戦布告をした。□佐々木67,75-6、阪口122、林田176

・スウェーデンへの経済援助と三十年戦争への参戦によって国家支出は急増した。これを賄うために、リシュリューは中央集権的官僚制度を整備して増税策を採った。税に苦しむ民衆による各地での蜂起が繰り返されたが、リシュリューは軍隊によって民衆蜂起を弾圧したが、ルイ14世親政期の1670年代まで各地で蜂起が続いた。□佐々木67-8、林田176-9

・1637年には、ルネ・デカルト(1596-1650)の『方法序説』が公刊された。同書はラテン語でなくフランス語で書かれた。フランス生まれのデカルトは当時オランダに移住しており、最後はスウェーデンで死んだ。

・1642年にリシュリューは病死し、1643年にルイ13世も結核によって死亡した。□佐々木68

 

佐々木真『〔増補新版〕図説フランスの歴史』[2016]

林田伸一「近世のフランス」福井憲彦編『フランス史上』[2021]

阪口修平「三十年戦争と絶対主義的領邦国家の形成」木村靖二編『ドイツ史上』[2022]

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