古代出雲王朝八代目オオナモチ(大穴持ー主王)の八千矛
(記紀では大国主命と書かれた)と、八代目スクナヒコ(少彦ー副王)の
八重波都身の二人は相前後して、当時のシナ大陸秦国から沢山の
秦国人を連れてやってきた、徐福(記紀では素戔嗚と書かれ、和名を
ホアカリとかニギハヤヒと名乗った)らに誘い出されて幽閉され、
命を絶たれた。紀元前3世紀末のことである。
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徐福の家来の穂日(ホヒ)は、事前に徐福の出雲上陸の許可を
八千矛(大国主)から取り付けて、そのまま出雲王国で働いていたらしい。
穂日に言葉巧みに誘い出された大国主は 出雲の「園の長浜」で
行方不明となった。
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結局大国主は日本海に面した 猪目洞窟に幽閉され命を絶たれたという。
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猪目の海 岩場が続く。
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猪目集落
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道路標識
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洞窟案内標識
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道路から洞窟を見る
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洞窟入り口
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洞窟から海を見る。洞窟は東の方向を向いている。
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出雲国風土記に書かれた「黄泉の穴」の説明。
大国主が幽閉され、命を絶たれたこの洞窟は、あの世へと続くと
信じられていた。
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一方 大国主異変の知らせを早船で言代主に知らせるべく
美保の沼川姫屋敷へ 穂日の息子「タケヒナドリ」が 知らせに行き
言代主も誘い出されて そのまま行方不明となった。
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言代主は王の海(中海)を西へ向かったまま行方不明となったという。
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その時の早船の知らせの様子を今に伝える
美保神社「諸手舟(モロタブネ)神事」
詳しくはこちら http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/d/20101018
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残雪の大山と粟島
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粟島は今は田圃の中だが、古来中海の中の小島だった。
江戸中期の干拓で 周りが田圃になったという。
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神社参道。正面の小山の上に社がある。
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石段を登る。186段あるそうだ。
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門を潜ると境内だ。
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本殿はもちろん大社造だ。
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本殿裏手に「出雲大社遥拝所」がある。
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遥拝所には「大注連縄」が架けてある。
古代出雲族が信仰した「龍蛇神」のようだ。
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粟島の裏手には、中海が広がり 水鳥公園がある。
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中海への階段を下りる。
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洞窟がある。志都の岩屋だ。
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少し離れて中海から粟島と洞窟を見る。
今たっている場所はもともと海だったのだ。
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大汝(おおなむちー大国主)も少彦名(少彦 もしくは少名彦の間違いと
思われるー言代主をいう)も二人とも 洞窟、岩屋に閉じ込められたことを
言っていると思われる。
万葉集の頃までは、大国主も言代主も 岩屋で殺されたことが
まだ人々の記憶にあったのだろう。
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