古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

いわゆるヒミコについてのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その1

2021年04月15日 23時05分50秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

宇佐豊玉姫 その1

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支那の歴史書に登場する第二のヒミコは 宇佐王家の豊玉姫です。このお方こそ正真正銘の

「ヒミコ」なのです。しかも支那人から 直接「親魏和王」の認定を受けたお方です。

しかも支那人が直接声をかけて 肩に錦のタスキを掛けた和国の女王なのです。

記紀はこのお方を 完全に無視しています。

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完全に無視する理由はあります。

一つは 和国が当時支那(魏)の属国だったことを潔しとしないことがあるでしょう。

もう一つのほうが大きな理由だと思いますが、記紀では神武が東征して大和入りして以来

大王家は連綿と続く万世一系としていることが 作り事だとバレてしまうからです。

 

九州物部王家と豊王家が連合し、物部豊連合王国が第二次東征してイクメ王が ヤマトの大王になり 

それまで約300年続いた磯城王朝が滅んだこと。

磯城王朝第11代大王彦道主大王が イクメ王に降伏し娘のヒバス姫をイクメ王に差し出して 

名前を彦タツヒコと 変えて稲葉国造になったことは絶対に秘密なのです。

 

第二次東征という戦争により、たくさんの血を流した結果 磯城王朝が倒れて、九州物部王家による

物部王朝が始まったことなど、隠さなくては 「万世一系」が崩れてしまうのです。

流血による政権交代など、記紀の制作を指示した持統女帝にとって 最も忌み嫌う事なのです。

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記紀では九州物部王家の 80年ほど離れた前後二度にわたる東征を一つにまとめて書いています。

第一次東征は 165年頃 九州物部王家の彦渚武王の皇子たち三人による東征です。

物部五瀬を総指揮官として 紀ノ川から大和入りしようとしましたが 高倉下の子孫の名草の戸畔(とべ)

による迎撃で 五瀬は戦死します。

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物部五瀬が祀られている竈山神社です。この神社の横に五瀬の御陵があります。

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残った物部稲飯と三毛入りの兄弟は紀ノ川河口から南下して熊野川河口に着きます。

しかしそこでも磯城王朝の兵士たちにゲリラ戦で苦しめられて前に進めず 秘密裏に協力を求めた大和の

登美家当主加茂建津之身の案内で磐余の地に入り 一応は目的を果たしたかに見えましたが

結果的には失敗と言われます。

 

宗教的な式祭を取り行う姫巫女をもたない物部王家は 太陽の女神を崇拝し祭祀する姫巫女を擁する登美家に

取り込まれてしまいます。武力だけでは民衆の支持を得られなかったのです。

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230年頃に九州物部王家は 再び東征を実施します。これが第二次東征です。

イニエ王は南下して各地で兵力を集めながら 南下します。そして南薩摩の阿多(南さつま市)で

地元の豪族(竹屋の守)の美して姫と出会います。それが阿多津姫です。

イニエ王は その姫を娶り、姫とともに薩摩から日向へまわり そこで一時落ち着きます。

その姫は イニエ王の皇子を生みます。

 

阿多津姫は記紀では この花咲くや姫と名前を書き換えられます。また父親の竹屋の守は

神話の中の神 大山津身ノ神に替えられました。

阿多津姫が生んだその皇子がイクメ皇子です。後に東征で大和の大王となられたイクメ大王

(のちの贈り名を垂仁)です。

各地の神職の祝詞に出てくる「日向の橘の小戸で禊給いし」 といわれたのがこのイクメ王です。

阿多津姫は短命で日向の地でなくなります。

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イクメ皇子が産湯をつかったといわれる橘の小戸に建てられた小戸神社です。

阿多津姫が祀られています。この神社はもともと海岸にあったそうですが嵐で流されたのでここに

移転されたそうです。

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鹿児島神宮にも阿多津姫が祀られています。阿多津姫の出身地ですね。

ご丁寧に 九州物部家の始祖で 徐福と市杵嶋姫との皇子(長男の五十猛の腹違いの弟)の穂穂出見も祀られています。

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イニエ王は宇佐王家から豊玉姫を皇后として迎え入れ、ここに物部、豊連合王国が出来上がります。

宇佐家は代々月読の神をまつる家柄でした。

物部の武力と 豊玉姫の月読の神を祀る宗教性で大和を征服しようとしたのです。

豊玉姫は豊彦と豊姫を御生みになります。のちに豊来入り彦、豊来入姫と呼ばれるお二人です。

イニエ王は西都原に都を作り ヤマトに新しい政権を打ち立てると宣言し 各地から豪族を集めます。

日向の都万国の都西都原は続々と各地の豪族たちが集まり大いに栄えます。

第一次東征で大和へ行った物部の子孫の 物部十千根もそのひとりです。

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イニエ王の重鎮に物部彦布都押(ひこふつおし)がいました。彼は紀国国造家の山下影姫を娶り

物部武内彦をもうけます。物部武内彦は若くして才能にあふれ イニエ王から可愛がられて物部の重鎮の

称号である宿祢の称号をもらい 物部宿祢武内彦と呼ばれます。しかしその才能が豊玉姫に恐れられて

豊玉姫皇后の息子、豊彦より偉くならないように 豊玉姫に意地悪されるのです。

武内彦が魏へ使節として行った時 十千根や田道間守やイクメ王のような魏の官位「中朗将」がもらえませんでした。

豊玉姫が 魏への親書に 使節団のメンバーに官位を与えてくれるように いつもはお願いするのですが

武内彦の使節には 何もお願いしなかったのです。

 

魏へ行っても何も官位がもらえなかったことに武内彦は非常に絶望し 然りがこみ上げてきました。

十千根や田道間守よりも自分のほうが 血筋がいいとおもっていたからです。

それで武内彦は 失意のうちに東征軍を離れて磯城王朝側へ寝返ります。

しかし イクメ王との戦に敗れて彦道主大王とともに稲葉に逃れます。

しかしイクメ大王の放った刺客から逃れて出雲へ行き、出雲王家に匿われて東出雲王家領地の意宇の森

で生涯を終えます。

 

武内彦は出雲王家の姫を娶り出雲王家の称号「臣」を名乗り 武内臣太田根と名乗ります。

出雲王家が 武内彦を匿まって生かしたことで 武内臣太田根の子孫から日向襲津彦(長江襲津彦)

はじめ平群王朝の大王が排出され 古代史に大きな役割を果たします。 

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武内彦が住んだ意宇の森の阿太加夜神社境内です。

古代出雲の信仰は幸ノ神三神でしたが、それとともに竜蛇神も信仰されました。

境内には古代出雲の伝統の大きな竜が ご神木に巻き付いています。

武内の臣太田根が住んだ意宇の森には、日本書紀を書き終えた太安万侶も 口封じのため 不比等に幽閉されて生涯を終えます。

 

太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 東出雲王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に東出雲王家の向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 

多臣家(おおのおみけーヤマト磯城王朝二代目沼川耳の皇子で三代目大王の玉手看の兄である八井耳が始祖)

の末裔で 山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と言ったと出雲王家に伝わります。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して

お礼を述べたと伝わっているそうです。 太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の

「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社 (あだかやじんじゃ)が建てられています。

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武内臣太田根は ここ雲南市神原に葬られました。今は神原神社が建てられています。

この古墳を作ったのは 武内宿禰の腹違いの弟 ウマシウチの宿禰です。


彼は山代の国加茂付近にいたが、武内宿禰が出雲王家に助けられて 意宇の森に住んだのを知り、

山城の国加茂町から沢山の人を引き連れて移住して来ました。

そのためこの付近も 加茂町と名が付いた。彼は出雲王家の姫と結婚し 臣の称号をもらい

 
額田部の臣と名乗り その子孫たちも この地に住み続けた。

彼が兄の古墳をこの地に 方墳の形で作ったという。

この古墳からは銅剣や 三角縁神獣鏡などが発掘されています。この鏡は彼が帯方郡から連れ帰った鏡つくり職人

たちが作ったものと言われています。

※三角縁神獣鏡は和国製で奈良県田原本町に住んだ鏡造り職人たちにより作られました。

詳しくはこのブログの2015年12月26日の記事をご参照ください。

なお三角縁神獣鏡は支那大陸では一枚も発見されていません。

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豊玉姫 その2へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

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