ヤマタノオロチを退治したスサノオはクシナダ姫と結婚し、須我神社に
住んだそうです。古事記で言う須我の宮です。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣造る その八重垣を」
須我の宮で詠んだこの歌が、和歌の始まりといわれ、この宮を「和歌
発祥の地」と言われていて、石碑が立っています。
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須我神社鳥居です。この右脇に「和歌発祥の地」の石碑があります。
須我神社から2キロほど離れた八雲山の中腹にある
須我神社奥宮の盤座(いわくら)です。
祭神は、もちろんスサノオとクシナダ姫です。
大きい磐がスサノオでしょうか。
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この奥宮の参道には、和歌発祥の地らしく、沢山の和歌の記念石碑がたっています。知人の句碑を偶然発見し、びっくりしました。
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実際にはスサノオは「クシナダ姫」なるお方と結婚したことはなく、ヤマタノ
オロチ退治もしていなく、ただ古代出雲王国内で 秦国からつれてきた部下の
穂日や 海童(秦国人の青年)たちと 暴れ回ったに過ぎない。
須我神社の詳しい記録はここから入れます。
「松江の四季」2010年10月15日 http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-matsuesiki/e/cb04efa77aeb64a05fe6d4e1a4c56fc8ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 秦国からの渡来人「徐福」は記紀では「素戔嗚」とかかれたが、 石見の五十猛海岸に上陸する前に 部下の「穂日」に命じて 前もって出雲の第八代主王(大名持ち)の「八千矛王」に上陸の許可を取っていた。 五十猛海岸に上陸してから、和名を「火明かり(ほあかり)」と名乗り 出雲王家の高照姫を娶り 長男 五十猛(後の「香語山」)をもうけ、一旦秦国へ帰国する。 そして「不老長寿の薬」を求める為、秦の始皇帝に 更なる資金と海童、それに技術者を貰い和国(蓬莱島)へ 再出国する。 多数の秦国人たちを 引き連れて、今度は北九州佐賀の『浮杯」後に再上陸して 今度は「饒速日にぎはやひ」と名乗る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー つまり クシナダ姫とか稲田姫なる姫は、記紀の作り話である。 記紀を作るように命じた方、その命を受けて太安万侶らを幽閉監禁して、記紀を書かせた人たちは 自分たちの祖先が 渡来人で しかも征服王朝だということを 絶対に隠したかったのである。 そのために自分たちの祖先は天から降りてきただとか、出雲の王から国を譲ってもらっただとか さまざまな作り話をつくりだしたのだ。 それには穂日の子孫も大いに関係しているのだが それはまたいずれゆっくりとゆかりの地を訪ねてみようと思う。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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