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落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 衝撃の言葉 マタイ 10:34-42

2008-06-23 16:48:53 | 講釈
2008年 聖霊降臨後第7主日(特定8) 2008.6.29
<講釈> 衝撃の言葉 マタイ 10:34-42

1. 資料分析
マタイ福音書には5つの大説教が含まれている、といわれている。「山上の説教」、「派遣説教」、「天国のたとえ」、「教会生活についての説教」、「終末についての教え」である。それらの説教の結びは「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」あるいはそれに類似した非常に明瞭な言葉で締めくくられている(7:27,11:1,13:53,19:1,26:1)。本日のテキストは2番目の「派遣説教」(9:35~11:1)の第3部ということになる。
この部分は大雑把にいうと資料的には3つの出典がある。10:34-36はQs43をミカ書7:6を参照して書き換え、37-39はQs52をアレンジし、40-42はQs23とマルコ9:41との合成である。問題はこれらそれぞれ別な文脈におかれていた文章を3つ並べたマタイの編集作業の意図である。
これらの文章が置かれている全体の流れとしては、イエスによって派遣された場所で弟子たちがもたらす影響ということで、先ず弟子たちがそこに行くことによって、地域共同体の中にイエスに従う者とイエスに反するものとの間に「分裂」が生じること(34~36)、次ぎに、イエスに従うための条件が述べられる(37~39)。最後の文章(40~42)では初めの2つの文章における厳しさが消え、「イエスの弟子だ」という理由だけで「冷たい水一杯」を与えてくれる人への報い(=感謝)が述べられる。
2. 平和ではなく、剣をもたらす
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(10:34)という言葉がイエスの言葉であることには異論はない。しかし、この言葉をどういう文脈に置くかということで意味がかなり変わってくる。もともとは、イエスが自分自身の生き方を示す言葉として単独で流布していたものであろう。従って、この言葉を一般化して、イエスに従う者はいつでも、どこでも分裂をもたらすというように解釈してはならない。あるいは、イエスはイエスの死後弟子集団が受けるであろう迫害を先取りして語ったというように理解してはならない。イエスは決して暴力的革命家ではない。この言葉はあくまでもイエス自身の状況における、イエス自身に関わる言葉である。その名残ともいうべき言葉がルカ福音書には保持されている。「わたしが来たのは、地上に火を投じるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12:49)。マタイはマタイの文脈に関係がない言葉として、この後半の言葉を省略してしまったので、この言葉が持つ独自の重要性が薄れてしまったのである。イエスは好んで「火を投じたい」のではない。むしろ、イエスが生きている社会は、火でも投じて、ぶっ壊してしまいたい状況であった、ということを意味している。ところが、誰も火を投じようとする者はいない。それなら、わたしが火を投じる人間になってやろうではないか、という思いがこの言葉には込められている。
この言葉によって、イエスを革命家に仕立てようとする人もいるが、それはイエスの生き方を見ればそうではないことは明らかである。しかし、穏やかで優しいイエスの心の奥底にこのような燃えるものがあったということは注目すべきであろう。このような思いを持って、「飼い主のいない羊」のような民衆をみて涙を流す(マタイ9:36)。革命家たちは「民衆のため」と称して民衆を踏みにじり、権力を奪取しようとする。イエスの道はそれではない。
マタイにとっては、ユダヤ教が問題でる。ユダヤ教は本来そういう宗教ではないはずなのに、現実にはユダヤ教はユダヤ人の生活のすべてを律法や伝統的な慣習によって根底から縛り付け、すべての人たちから自由な生き生きとした生活を奪っている。その束縛は社会生活の最小単位である家庭にまで及び、個人はそこから抜け出すことができない。そんな社会ならば、そんな家庭ならば「わたしがぶっ壊してやる。わたしはそのために来たのだ」とイエスは言う。マタイは、この言葉をユダヤ教の指導者たちとの闘争の中でとらえている。
3. 現状を維持させる力
社会の現状を維持させる力の温床は家庭にある。古い因習や宗教的な規律は、実は権力者が教権を発動して守らせているのではない。それを守らせている具体的な構造は家庭内の秩序である。権力者は常に家庭が持っているその機能をたくみに利用する。だからこそ、イエスが投じる「火」や「剣」は先ず家庭内に持ち込まれなければならない。言うまでもなく、それは家庭を破壊するためではなく、かえって真の家族関係を樹立するためのプロセスである。イエスが目標とする人格と人格との交わりの関係は、先ず家庭内の親子関係や嫁姑関係からしか始まらない。夫婦の関係も然りである。そこで権力と従属の関係が継続しているのでは、社会の権力関係を維持するための安全装置になるだけである。家庭あるいは家族関係というものが持っている社会秩序の維持機能というものを過小評価してはならない。先ず、家庭が変わらなければ社会は変わらない。これはいつの時代でも同様である。
4. イエスに従う者の条件
すでに述べたように37~39節は、34~37節とは別の文脈での言葉で、イエスに従う者の条件が述べられている。ここには「十字架」という言葉が用いられているので、イエスの言葉というよりもイエスの死後形成された原始教団における「会員資格」を示す言葉であろう。ここではイエスへの絶対的な服従が要求されている。
マタイが手にしているQ資料ではこの文章は以下のようであったものと思われる。「父や母を憎まない者は、わたしから学ぶことはできない。娘や息子を憎まない者は、わたしの弟子になることはできない。十字架を受け入れて[非難に耐えて]わたしに従わなければ、わたしの弟子の一人になれない。自分の命を守ろうとする者は、それを失う。しかし、わたしのために命を失う者はそれを保つ」(Qs52)。この文章を現在のマタイ福音書の該当個所と比較すると、マタイは3つの点で重要な変更を加えている。
第1は、「憎む」という否定的な言葉を方向を変えることによって「愛する」という積極的な言葉に変えている。これは一種のマタイのレトリックであろう。
第2は、「わたしから学ぶことができない」という言葉を「わたしにふさわしくない」という言葉に変えている。「学ぶ」が弟子にはならないという立場もあり得る。しかし、イエスに相応しくない弟子はあり得ない。
第3は、これが最も重要な言葉であるが、「十字架を受け入れて」という曖昧な表現を「自分の十字架を担う」という非常の鮮明な言葉に変えている。重要なことはイエスの十字架の承認ではなく、自分自身の十字架を担うことである。
5. 冷たい水一杯
40~42節の言葉は、10:5~15に通じる雰囲気を残しており、イエスが弟子たちを町や村に派遣する際に実際に語られた言葉であろう。Qs23の「お前たちを歓迎する者は、わたしを歓迎する者であり、わたしを歓迎する者はわたしを遣わした方を歓迎する」という言葉と、マルコ9:41の「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」との合成である。マタイは、マルコにある「キリストの弟子」という言葉に時代錯誤を感じ、削除している。マタイにある「この小さな者」という表現には、弟子集団の中での「小さな者」を意味し、原始教団における「柱と目されるおもだった人たち」(ガラテヤ2:9)と「この小さな者」というハイラキーがあったことを感じさせる。この場合、「小さな者」とは宣教の最前線で働く無名の人々を指している。そこでは生活の実態として、教会の人々と教会外の人々との間はそれ程鮮明ではなかったのであろう。そこで、受けた小さな親切に、神は十分に報いてくださるという思いがこの言葉にはにじみ出ている。その意味では、見逃すことができない重要な言葉である。
そこから見えてくるマタイのイエスに従うということの濃淡というリアリティである。イエスに従うということを非常に厳しく考える弟子もいるし、逆にいわゆる「シンパ(共鳴者)」というあり方もありうるということである。これはマタイの運動論あるいは組織論というよりもイエス自身の「神の国運動」に源があるように思われる。もともと、イエスの神の国運動には弟子とそれ以外の者とを区別するラインはなく、むしろ組織化を阻む雰囲気があったように思われる。
6. 実際の説教では
本日のテキスト10:34~42では、3つのポイントが絡み合っている。「平和ではなく、剣を」という点にイエスの言葉、ここには家庭問題も含まれている。イエスに従うことによってもたらされる「イエスか家庭か」というディレンマの問題、あるいは、教会の組織論としての信仰の強者と弱者との関係、もしくは宣教の最前線での人々の親切ということなど、それぞれで十分に独自のメッセージが含まれている。マタイは、それらをここに並べて1つのメッセージとしている。それは何か、そこが大問題である。

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