2007年 大斎節第1主日 (2007.2.25)
収穫感謝祭 申命記26:(1-4)5-11
1. 信仰告白
5節から10節までの言葉は、古代イスラエルにおける収穫感謝祭の式文の一部である。毎年、収穫の時、初物を捧げる礼拝がなされ、そのとき、民衆は声を揃えて、これを唱える。自分たちの土地に種を蒔き、収穫を得、それによって生活する、といういわば当たり前の生活、この当たり前の生活がイスラエルの人々にとっては大変な恵みであった。
イスラエルの人々は、もともと遊牧民族であった。むしろ、それは彼らの民族的誇りでもあり、価値観の根底をなすものであった。土地に執着し、地べたにべったりとくっついて生きている生き方は彼らの軽蔑するものであった。むしろ、身軽に、どこにでも生きていけるということが、彼らの誇りであった。彼らの先祖アブラハムは「生まれ故郷を離れ」神の示す地に出かけた(創世記12:1)。これが彼らの生き方の原点であった。ある意味で、それは現在にも通じる「かっこよさ」である。そういう生き方を「格好いい」と感じる人々にとって、一定の土地に定着する人々の生き方には「汚れ」さえ感じていたようである。
「わたしの先祖は、滅び行く一アラム人であり、」というときそれは彼らの最も古い民族的な記憶が込められている。ここで「滅びいく」という言葉にはマイナス・イメージが感じられるが、むしろこれは「さまよえる」という意味であり、一定の土地に定着しないで、常に危険にさらされて生きるというイメージである。この生き方を「滅び行く」と感じたときに、農民の生活に対する価値観が変わる。むしろ、そういう生き方をしたいと願うようになる。一つの土地に定着して生きるということが民族的願望となる。この価値の転換は、彼らがエジプトで生きたという経験に基づくものであったであろう。しかし、エジプトでは彼らの願望は成就しなかった。
2. 文化の衣替え
収穫感謝祭という出来事を一つ取り上げても、宗教と文化との関係は複雑に絡み合っている。収穫感謝という祭儀は基本的には農業祭りであり、より多く収穫があったことに対する感謝である。神の恵は収穫の多さ、少なさによってはかられる。もちろん遊牧民にとっても収穫の大小は無視できるわけではないが、遊牧民にとっては厳しい自然環境において、あるいは外敵の襲撃から家畜や家族の生命が守られていること、それ自体が感謝の対象となる。従って、イスラエルの民がカナンの地に定着し、農業生活を始めたとしても、根本的なところで感謝の内容が異なっている。彼らにとってはカナンの地で生きているということ、自分たちの土地の上に種を蒔き、収穫できること、それ自体が感謝である。収穫が多いとか少ないということは問題ではない。
遊牧民として生きてきたイスラエルの民が農民として生きるというときに、一種の衣替えがなされる。しかし、完全な変容に至るためにはそれ相応の時間の経過が必要でありそれまでの間にその信仰は文化的葛藤(conflict)がある。その葛藤が、本日の収穫感謝祭における信仰告白に示唆されている。ヤーウェの神を信奉しつつ、バールの神の習俗を受け入れる。言い換えると、バールの神の祭りを受け入れつつ、そこにヤーウェの神への感謝を捧げる。
その意味では、キリスト教信仰を日本社会において生きるわたしたちの問題もここにある。キリスト教は必ずしも西欧の宗教ではないにせよ、西欧文化そのものを形成する原動力になったことは事実であり、キリスト教信仰はヨーロッパ文化と固く結びついて、その普遍性を主張する。そのキリスト教信仰が日本という非ヨーロッパの文化においてどのような葛藤を生み出すのか。そこには古代イスラエルの文化的葛藤以上の困難さがあるであろう。しかし、わたしたちはそれをわたしたち自身の課題として克服しなければならない。さまざまな「日本の祭り」においても、あるいは葬送儀礼においても、わたしたち日本人キリスト者はいかに関わるのか、その葛藤は単純ではない。
3. 喜びの分かち合い(11節)
さて、もう一度古代イスラエルにおける収穫感謝祭の問題に戻ろう。農業であれ、牧畜であれ、豊かな収穫を得るためには、共同作業が必要である。当然そこに共同体というものが成立し、仕事を分担することによって、より多くの収穫を得ることができる。神に対する収穫の感謝は、共同体全体の感謝であり、喜びの分配である。
本日のテキストにおいて、「あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」(11節)という命令が添えられていることは重要である。これは命令というような事柄ではなく、収穫を感謝するということは「共に生きている」ということの感謝である。ここではレビ人と寄留者とが特に触れられているが、いわば彼らは労働を共にしなかった人々であろう。レビ人とはいわば実業に関わらなかった人々であり、寄留者とはいわば「客人」である。彼らは労働に直接参加しなかったかも知れないが、共同体の一員であることには相違はない。彼らも共に生きている人々である。この人々も喜びを分かち合う。これこそが本当の感謝祭である。
収穫感謝祭 申命記26:(1-4)5-11
1. 信仰告白
5節から10節までの言葉は、古代イスラエルにおける収穫感謝祭の式文の一部である。毎年、収穫の時、初物を捧げる礼拝がなされ、そのとき、民衆は声を揃えて、これを唱える。自分たちの土地に種を蒔き、収穫を得、それによって生活する、といういわば当たり前の生活、この当たり前の生活がイスラエルの人々にとっては大変な恵みであった。
イスラエルの人々は、もともと遊牧民族であった。むしろ、それは彼らの民族的誇りでもあり、価値観の根底をなすものであった。土地に執着し、地べたにべったりとくっついて生きている生き方は彼らの軽蔑するものであった。むしろ、身軽に、どこにでも生きていけるということが、彼らの誇りであった。彼らの先祖アブラハムは「生まれ故郷を離れ」神の示す地に出かけた(創世記12:1)。これが彼らの生き方の原点であった。ある意味で、それは現在にも通じる「かっこよさ」である。そういう生き方を「格好いい」と感じる人々にとって、一定の土地に定着する人々の生き方には「汚れ」さえ感じていたようである。
「わたしの先祖は、滅び行く一アラム人であり、」というときそれは彼らの最も古い民族的な記憶が込められている。ここで「滅びいく」という言葉にはマイナス・イメージが感じられるが、むしろこれは「さまよえる」という意味であり、一定の土地に定着しないで、常に危険にさらされて生きるというイメージである。この生き方を「滅び行く」と感じたときに、農民の生活に対する価値観が変わる。むしろ、そういう生き方をしたいと願うようになる。一つの土地に定着して生きるということが民族的願望となる。この価値の転換は、彼らがエジプトで生きたという経験に基づくものであったであろう。しかし、エジプトでは彼らの願望は成就しなかった。
2. 文化の衣替え
収穫感謝祭という出来事を一つ取り上げても、宗教と文化との関係は複雑に絡み合っている。収穫感謝という祭儀は基本的には農業祭りであり、より多く収穫があったことに対する感謝である。神の恵は収穫の多さ、少なさによってはかられる。もちろん遊牧民にとっても収穫の大小は無視できるわけではないが、遊牧民にとっては厳しい自然環境において、あるいは外敵の襲撃から家畜や家族の生命が守られていること、それ自体が感謝の対象となる。従って、イスラエルの民がカナンの地に定着し、農業生活を始めたとしても、根本的なところで感謝の内容が異なっている。彼らにとってはカナンの地で生きているということ、自分たちの土地の上に種を蒔き、収穫できること、それ自体が感謝である。収穫が多いとか少ないということは問題ではない。
遊牧民として生きてきたイスラエルの民が農民として生きるというときに、一種の衣替えがなされる。しかし、完全な変容に至るためにはそれ相応の時間の経過が必要でありそれまでの間にその信仰は文化的葛藤(conflict)がある。その葛藤が、本日の収穫感謝祭における信仰告白に示唆されている。ヤーウェの神を信奉しつつ、バールの神の習俗を受け入れる。言い換えると、バールの神の祭りを受け入れつつ、そこにヤーウェの神への感謝を捧げる。
その意味では、キリスト教信仰を日本社会において生きるわたしたちの問題もここにある。キリスト教は必ずしも西欧の宗教ではないにせよ、西欧文化そのものを形成する原動力になったことは事実であり、キリスト教信仰はヨーロッパ文化と固く結びついて、その普遍性を主張する。そのキリスト教信仰が日本という非ヨーロッパの文化においてどのような葛藤を生み出すのか。そこには古代イスラエルの文化的葛藤以上の困難さがあるであろう。しかし、わたしたちはそれをわたしたち自身の課題として克服しなければならない。さまざまな「日本の祭り」においても、あるいは葬送儀礼においても、わたしたち日本人キリスト者はいかに関わるのか、その葛藤は単純ではない。
3. 喜びの分かち合い(11節)
さて、もう一度古代イスラエルにおける収穫感謝祭の問題に戻ろう。農業であれ、牧畜であれ、豊かな収穫を得るためには、共同作業が必要である。当然そこに共同体というものが成立し、仕事を分担することによって、より多くの収穫を得ることができる。神に対する収穫の感謝は、共同体全体の感謝であり、喜びの分配である。
本日のテキストにおいて、「あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」(11節)という命令が添えられていることは重要である。これは命令というような事柄ではなく、収穫を感謝するということは「共に生きている」ということの感謝である。ここではレビ人と寄留者とが特に触れられているが、いわば彼らは労働を共にしなかった人々であろう。レビ人とはいわば実業に関わらなかった人々であり、寄留者とはいわば「客人」である。彼らは労働に直接参加しなかったかも知れないが、共同体の一員であることには相違はない。彼らも共に生きている人々である。この人々も喜びを分かち合う。これこそが本当の感謝祭である。