S11T00Ps104(L)
聖霊降臨日 2011.6.12
<講釈>「あなたが息を送られると 詩104」
1.聖霊降臨日とは
日本聖公会の祈祷書では聖霊降臨日は復活節の最後に主日という理解である。そしてその次の月曜日から「聖霊降臨後の節」が始まる。森紀旦主教の『主日の御言葉』では、この季節のことをわざわざ「聖霊降臨節」ではなく、「聖霊降臨後の節」であると断っている(137頁)。その意味は「聖霊降臨」という出来事を復活節の最後、つまり復活節の完成の日、この主日でキリストの復活という出来事は完了するという意味であるとする。そして、その次の月曜日から「聖霊降臨後の節」つまり、「わたしたちの復活」が始まる。私たちの復活とは神から与えられた聖霊によって生き生きとされることを意味する。
では、その日にいったい何が起こったのか。一口に言って、聖霊が集まっている信徒たち一人ひとりに与えられたということである。この場合、聖霊とは「神の息」であると言われている。神の息が吹きかけられたという感覚である。この感覚は一種の興奮状態を起こす。使徒言行録の第2章では最初の聖霊降臨の出来事が記録されている。ここに描かれている情景がどれほど事実であったのかということについては、確証の仕方がない。
2.聖霊降臨日の詩編
A,B,C年共通で詩104:30-35、または詩104:24-35、または詩148の3個所が選択可能とされている。詩148については、復活節第6主日で取り上げているので、ここでは取り上げない。なぜ聖霊降臨日に詩104なのか。それを考える前に先ず詩104の内容について概観しておこう。
渡辺善太先生は詩104について「自然界を歌った代表的な詩である」とし、次のように述べている。詩人は天地万物の中に神を認め、そこでの神の働きを見ている。従って全宇宙は完全に調和取れており、少しの矛盾もない。そこになんら憂鬱なものや、禁欲的なものはない。詩人は次のように歌う。「人の心を喜ばせるぶどう酒も、顔をつややかにする油も、人の命を支えるパンも、神の植えられたレバノンの杉、主の木々は潤いに満ちている」(15,16節)。詩104は実に楽観的な、自然と人生とを楽しみ味わう人の歌である。ここには自由で束縛されない人間の感性が詩化されている(渡辺善太全集1,552頁)。
これが詩104である。そこには「理想的な人生」とそれを支える自然界が豊かな言葉で高らかに歌われている。考えてみると、これこそが神が創造された世界であり、宇宙である。これこそが私たちが求めている世界であり、神が創造されたままの姿である。また私たちが求めている宇宙もこのような姿である。
3.構成と語義
1節 神への賛美
「わたしの魂よ、主をたたえよう」という冒頭の言葉は結びの言葉でも繰り返され、この言葉によって全体が包まれている。
1節後半から30節 神の創造された美しい世界
「わたしの神、主よ、あなたはまことに偉大な方」この言葉の中にこの詩で歌われている内容はすべて込められている。原語での言葉の順序は「主よ、わたしの神、あなたは偉大、まことに」となる。先ず呼びかけの言葉として「ヤハウェ」が叫ばれる。その上で「わたしの神」という言葉が続く。イスラエルの信仰の伝統に従いながら「ヤハウェはわたしの神だ」と宣言される。以下、ヤハウェの偉大さが数え上げられる。
神が創造した世界の基本構造は「光」(2節)と「水」(3、6、7、8,9,10、11,16、25節)と「風」(3、4、29、30、32節)である。特にこの詩では「水」についての叙述が重要である。水の働きを支配する神が強調されている。
24節「主よ、あなたが造られたものは数えきれない。知恵によって形造られたものは地に満ちている」は、ここまでの神の働きを総括する非常に美しい言葉であり、ヤハウェの創造の知恵に対する驚きが率直に述べられる。ヴェスターマンは24節は感動の中断であるという。確かに23節から25節に続く方がスムーズである。詩人は23節まで歌ってきて、思わず中断せざるを得なかったのであろう。おそら人間の働きが語られる23節で押さえられない感動を覚えたのであろう。「人は仕事に出掛け、夕べまで働き続ける」。この平凡な人間の営みも神の知恵のもとにある。ここでは「主よ」という言葉がそれを示している。24節の言葉は27節に続く。その意味ではここでの行の乱れは詩人の心理的なものであって、決して写本上の乱れではない。
「恐るべき怪獣レビアタン」も神にとっては神によって作られた玩具に過ぎない。レビアタンも含めて「命あるすべてのもの」の生死は神によって支配されている。
27-28節「命あるすべてのものはあなたを待ち望み、あなたは必要なときに食物を与えられる。あなたが与えられるものを彼らは集め、あなたがみ手を開くと、彼らは良いもので満たされる」。「いのち」への神の特別な配慮が総括的に述べられる。
29節「いのち」は神の配慮の中で「いのち」である。同時に「いのち」は「死」も含む。「あなたがみ顔を隠されると彼らはあわてふためき、息を止められるとすべては滅び、塵に戻る」。人間もこの中に含まれている。30節の言葉は「いのち」の再生を暗示する言葉である。これは「復活」というよりも季節による「いのち」の再生を述べたものであろう。関根先生はこの節について「詩人はここで、死を世代の交替の観点から見ているようである」と解説している。
27-29節は「いのち」に関する神の配慮が述べられている。
30節の「あなたが息を送られると、すべては生き、地の面は新たになる」という言葉は重要である。J典の人間創造の物語においては神が粘土で作った人間の形に「命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)という。この思想を詩104では人間だけではなく全生物に適用する。つまり神の息とは「いのち」そのものを意味するのであろう。
31-35節 結びの祈り
31-34節では、ここまでの詩の内容をまとめる言葉として、詩人の決意を述べる。「わたしは生涯、主に向かって歌い、命ある限り神をたたえよう」。「生涯」という言葉と「命ある限り」という言葉が重なっている。同じように「主に向かって歌い」という言葉と「神をたたえよう」という言葉とが重なっている。34節の「わたしの思いが神に喜ばれるように。わたしは主にあって喜ぶ」という言葉では、「神に喜ばれる」ということと「わたしは喜ぶ」という言葉が対応している。わたしの喜びは神の喜び、神の喜びはわたしの喜び。そこにはこれを妨げる者の存在の場所はない。いや、無いはずである。しかし現実には妨げる者が存在する。この喜びの詩が35節の最後の祈願によって喜びの詩が突如悲痛な嘆願に変わる。詩人の願いは「妨げる者」の排除である。ここでも「罪人」と「悪人」、「消す」と「いなくなる」という言葉とが重なっている。
4.なぜ詩104は聖霊降臨日の詩編であるのか。
この問題を考える際にまず明確にしておかねばならないことは、聖霊降臨日の経験とは一体何だったのかということを明らかにすることである。このためには長い長い議論が必要であろうが、私はここで結論だけを述べておく。聖霊降臨日の経験とはイエスに対する弟子たちの理解、認識の変化である。それまでのイエスは弟子たちにとって「師」である。その意味では弟子たちはまさにイエスの弟子であり両者の関係は師弟関係であった。しかしイエスの十字架と復活という経験を経て、さらに「昇天」という経験を経てイエスはもはや単なる「私の師」ではなく、もっと普遍的な(現代の言葉を用いるならば「グローバル(地球規模という意味)」な存在である。言い換えると、イエスを神との関係で捉えるという視点である。その日になされたとされるペトロの説教にそのことが明白に表れている。
<イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。>(使徒2:22-24)
<イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。}(使徒2:36)
イエスを神の働きの中において理解する。これが聖霊降臨日における弟子たちの経験であった。
長い話しを端折って、誌104との関係を述べるとしたら、まさに詩104は全宇宙に対する神の働きが語られている詩であり、特にその働きが「神の息」(詩104:29-30)によってなされていることを語っている。特に30節の「あなたが息を送られると、すべては生き、地の面は新たになる」という言葉は聖霊降臨日における弟子たちの経験をそのままに語っている。今日、今ここに、神は神の息を送られ、新しい世界が始まった。
<主の栄光はとこしえに、主のみ業を喜ばれるように。神が目を注がれると、地は揺れ動き、山々に触れられると煙を吐く。わたしは生涯、主に向かって歌い、命ある限り神をたたえよう。わたしの思いが神に喜ばれるように。わたしは主にあって喜ぶ。罪人が地上から姿を消し、悪人がいなくなるように。主をたたえよ、わたしの魂よ、ハレルヤ。>(同31-35)
聖霊降臨日に詩104を読む重要なポイントは、聖霊を聖霊降臨日の特殊な事件として見ないということである。この点がキリスト教における聖霊理解について誤解している。神の息としての聖霊は聖霊降臨日に初めて「注がれた」のではない。聖霊は天地創造の時から全宇宙で働いているのである。弟子たちにとってイエスを神のご計画において理解したという重要な経験は、同時に弟子たちの集団である教会を全宇宙で働く神との関係において理解したことでもある。
聖霊降臨日 2011.6.12
<講釈>「あなたが息を送られると 詩104」
1.聖霊降臨日とは
日本聖公会の祈祷書では聖霊降臨日は復活節の最後に主日という理解である。そしてその次の月曜日から「聖霊降臨後の節」が始まる。森紀旦主教の『主日の御言葉』では、この季節のことをわざわざ「聖霊降臨節」ではなく、「聖霊降臨後の節」であると断っている(137頁)。その意味は「聖霊降臨」という出来事を復活節の最後、つまり復活節の完成の日、この主日でキリストの復活という出来事は完了するという意味であるとする。そして、その次の月曜日から「聖霊降臨後の節」つまり、「わたしたちの復活」が始まる。私たちの復活とは神から与えられた聖霊によって生き生きとされることを意味する。
では、その日にいったい何が起こったのか。一口に言って、聖霊が集まっている信徒たち一人ひとりに与えられたということである。この場合、聖霊とは「神の息」であると言われている。神の息が吹きかけられたという感覚である。この感覚は一種の興奮状態を起こす。使徒言行録の第2章では最初の聖霊降臨の出来事が記録されている。ここに描かれている情景がどれほど事実であったのかということについては、確証の仕方がない。
2.聖霊降臨日の詩編
A,B,C年共通で詩104:30-35、または詩104:24-35、または詩148の3個所が選択可能とされている。詩148については、復活節第6主日で取り上げているので、ここでは取り上げない。なぜ聖霊降臨日に詩104なのか。それを考える前に先ず詩104の内容について概観しておこう。
渡辺善太先生は詩104について「自然界を歌った代表的な詩である」とし、次のように述べている。詩人は天地万物の中に神を認め、そこでの神の働きを見ている。従って全宇宙は完全に調和取れており、少しの矛盾もない。そこになんら憂鬱なものや、禁欲的なものはない。詩人は次のように歌う。「人の心を喜ばせるぶどう酒も、顔をつややかにする油も、人の命を支えるパンも、神の植えられたレバノンの杉、主の木々は潤いに満ちている」(15,16節)。詩104は実に楽観的な、自然と人生とを楽しみ味わう人の歌である。ここには自由で束縛されない人間の感性が詩化されている(渡辺善太全集1,552頁)。
これが詩104である。そこには「理想的な人生」とそれを支える自然界が豊かな言葉で高らかに歌われている。考えてみると、これこそが神が創造された世界であり、宇宙である。これこそが私たちが求めている世界であり、神が創造されたままの姿である。また私たちが求めている宇宙もこのような姿である。
3.構成と語義
1節 神への賛美
「わたしの魂よ、主をたたえよう」という冒頭の言葉は結びの言葉でも繰り返され、この言葉によって全体が包まれている。
1節後半から30節 神の創造された美しい世界
「わたしの神、主よ、あなたはまことに偉大な方」この言葉の中にこの詩で歌われている内容はすべて込められている。原語での言葉の順序は「主よ、わたしの神、あなたは偉大、まことに」となる。先ず呼びかけの言葉として「ヤハウェ」が叫ばれる。その上で「わたしの神」という言葉が続く。イスラエルの信仰の伝統に従いながら「ヤハウェはわたしの神だ」と宣言される。以下、ヤハウェの偉大さが数え上げられる。
神が創造した世界の基本構造は「光」(2節)と「水」(3、6、7、8,9,10、11,16、25節)と「風」(3、4、29、30、32節)である。特にこの詩では「水」についての叙述が重要である。水の働きを支配する神が強調されている。
24節「主よ、あなたが造られたものは数えきれない。知恵によって形造られたものは地に満ちている」は、ここまでの神の働きを総括する非常に美しい言葉であり、ヤハウェの創造の知恵に対する驚きが率直に述べられる。ヴェスターマンは24節は感動の中断であるという。確かに23節から25節に続く方がスムーズである。詩人は23節まで歌ってきて、思わず中断せざるを得なかったのであろう。おそら人間の働きが語られる23節で押さえられない感動を覚えたのであろう。「人は仕事に出掛け、夕べまで働き続ける」。この平凡な人間の営みも神の知恵のもとにある。ここでは「主よ」という言葉がそれを示している。24節の言葉は27節に続く。その意味ではここでの行の乱れは詩人の心理的なものであって、決して写本上の乱れではない。
「恐るべき怪獣レビアタン」も神にとっては神によって作られた玩具に過ぎない。レビアタンも含めて「命あるすべてのもの」の生死は神によって支配されている。
27-28節「命あるすべてのものはあなたを待ち望み、あなたは必要なときに食物を与えられる。あなたが与えられるものを彼らは集め、あなたがみ手を開くと、彼らは良いもので満たされる」。「いのち」への神の特別な配慮が総括的に述べられる。
29節「いのち」は神の配慮の中で「いのち」である。同時に「いのち」は「死」も含む。「あなたがみ顔を隠されると彼らはあわてふためき、息を止められるとすべては滅び、塵に戻る」。人間もこの中に含まれている。30節の言葉は「いのち」の再生を暗示する言葉である。これは「復活」というよりも季節による「いのち」の再生を述べたものであろう。関根先生はこの節について「詩人はここで、死を世代の交替の観点から見ているようである」と解説している。
27-29節は「いのち」に関する神の配慮が述べられている。
30節の「あなたが息を送られると、すべては生き、地の面は新たになる」という言葉は重要である。J典の人間創造の物語においては神が粘土で作った人間の形に「命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)という。この思想を詩104では人間だけではなく全生物に適用する。つまり神の息とは「いのち」そのものを意味するのであろう。
31-35節 結びの祈り
31-34節では、ここまでの詩の内容をまとめる言葉として、詩人の決意を述べる。「わたしは生涯、主に向かって歌い、命ある限り神をたたえよう」。「生涯」という言葉と「命ある限り」という言葉が重なっている。同じように「主に向かって歌い」という言葉と「神をたたえよう」という言葉とが重なっている。34節の「わたしの思いが神に喜ばれるように。わたしは主にあって喜ぶ」という言葉では、「神に喜ばれる」ということと「わたしは喜ぶ」という言葉が対応している。わたしの喜びは神の喜び、神の喜びはわたしの喜び。そこにはこれを妨げる者の存在の場所はない。いや、無いはずである。しかし現実には妨げる者が存在する。この喜びの詩が35節の最後の祈願によって喜びの詩が突如悲痛な嘆願に変わる。詩人の願いは「妨げる者」の排除である。ここでも「罪人」と「悪人」、「消す」と「いなくなる」という言葉とが重なっている。
4.なぜ詩104は聖霊降臨日の詩編であるのか。
この問題を考える際にまず明確にしておかねばならないことは、聖霊降臨日の経験とは一体何だったのかということを明らかにすることである。このためには長い長い議論が必要であろうが、私はここで結論だけを述べておく。聖霊降臨日の経験とはイエスに対する弟子たちの理解、認識の変化である。それまでのイエスは弟子たちにとって「師」である。その意味では弟子たちはまさにイエスの弟子であり両者の関係は師弟関係であった。しかしイエスの十字架と復活という経験を経て、さらに「昇天」という経験を経てイエスはもはや単なる「私の師」ではなく、もっと普遍的な(現代の言葉を用いるならば「グローバル(地球規模という意味)」な存在である。言い換えると、イエスを神との関係で捉えるという視点である。その日になされたとされるペトロの説教にそのことが明白に表れている。
<イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。>(使徒2:22-24)
<イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。}(使徒2:36)
イエスを神の働きの中において理解する。これが聖霊降臨日における弟子たちの経験であった。
長い話しを端折って、誌104との関係を述べるとしたら、まさに詩104は全宇宙に対する神の働きが語られている詩であり、特にその働きが「神の息」(詩104:29-30)によってなされていることを語っている。特に30節の「あなたが息を送られると、すべては生き、地の面は新たになる」という言葉は聖霊降臨日における弟子たちの経験をそのままに語っている。今日、今ここに、神は神の息を送られ、新しい世界が始まった。
<主の栄光はとこしえに、主のみ業を喜ばれるように。神が目を注がれると、地は揺れ動き、山々に触れられると煙を吐く。わたしは生涯、主に向かって歌い、命ある限り神をたたえよう。わたしの思いが神に喜ばれるように。わたしは主にあって喜ぶ。罪人が地上から姿を消し、悪人がいなくなるように。主をたたえよ、わたしの魂よ、ハレルヤ。>(同31-35)
聖霊降臨日に詩104を読む重要なポイントは、聖霊を聖霊降臨日の特殊な事件として見ないということである。この点がキリスト教における聖霊理解について誤解している。神の息としての聖霊は聖霊降臨日に初めて「注がれた」のではない。聖霊は天地創造の時から全宇宙で働いているのである。弟子たちにとってイエスを神のご計画において理解したという重要な経験は、同時に弟子たちの集団である教会を全宇宙で働く神との関係において理解したことでもある。