2005年 顕現後第4主日 (2005.1.30)
当たり前のこと ミカ6:1-8
1. 論争
旧約聖書の面白さは、神と人間とが論争したり、駆け引きしたり、ときには相撲を取ったりすることにある。と言って、日本神話やギリシャ神話のように、沢山の神々が登場して、がやがやするわけではない。神は神であり、人間は神によって創られた人間である。
神は人間に対して絶対で、神のなさることに人間は口を挟むことができないという考えは、キリスト教の神学者たちの思想である。理屈を言えば、恐らく神学者たちの言うことのほうが正しいであろうし、論理的一貫性がある。しかし、そこには生きた信仰の戦いというようなものが見失われてしまう。旧約聖書における神と人間との間には、言い訳や反論、おねだりや甘え、神に対する告訴や駆け引きがある。
2. 人間の言い分
本日のテキストは「主の告発」の言葉から始まる。「わたしはお前に何をしたというのか」(3節)、これが神の人間に対する告発である。「何をもってお前を疲れさせたと言うんだ」。この言葉は面白い。人間は神との付き合いに疲れている、という声が神に届いたのであろう。誰が、どう神に伝えたのか。今で言うと、ブラックメールが神に届いた。あるいは、人間の顔に、態度にそれが表れたのか。ともかく、神からかなり激しい告発がなされた。
それに対する、人間側からの神に対する「疑問」「問題提起」が6~7節に述べられている。「何をもって、わたしは主のみ前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか。幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか」。人間側から出された疑問は深刻である。わたしたちも人間の立場に立っているから、この疑問はよく分かる。むしろ、共感する。わたしたち人間は「神のために」何もすることはないではないか。人間はそもそも、神を喜ばすということはできない。むしろ、こうせよ、ああせよ、と言ってもらった方が楽である。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)と言われても、どうしたらそういうことが出来るのかということになると、何も出来ない。指示されて、それに従うことは出来ても自発的に何かをしようと思うと、何をしたらいいのか、とまどってしまう。それがわたしたちの深刻な悩みである。
3. 「人よ」
それに対する、神の答えが8節である。「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるかは、お前に告げられている」(8節前半)と、主なる神は言われる。神の言葉は非常に単純で明快である。「分かっているはずだ」。人間は「わかっているはず」のことを、それをしたくないとき「分からない」と言う。いろいろ理屈を付けて「分からない」ふりをする。何が善であり、人間としてなすべきことはは明らかである。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(8節後半)。これは何も特別なことではない。人間として当たり前のことである。人間としての当たり前のことを人間はできない。したくない。そのとき、「分からない」と言う。それが罪である。逆に言うと、主イエスはまさに人間として当たり前のことを当たり前のこととして実行された。それ故に、主イエスは「神の子」と呼ばれた。
当たり前のこと ミカ6:1-8
1. 論争
旧約聖書の面白さは、神と人間とが論争したり、駆け引きしたり、ときには相撲を取ったりすることにある。と言って、日本神話やギリシャ神話のように、沢山の神々が登場して、がやがやするわけではない。神は神であり、人間は神によって創られた人間である。
神は人間に対して絶対で、神のなさることに人間は口を挟むことができないという考えは、キリスト教の神学者たちの思想である。理屈を言えば、恐らく神学者たちの言うことのほうが正しいであろうし、論理的一貫性がある。しかし、そこには生きた信仰の戦いというようなものが見失われてしまう。旧約聖書における神と人間との間には、言い訳や反論、おねだりや甘え、神に対する告訴や駆け引きがある。
2. 人間の言い分
本日のテキストは「主の告発」の言葉から始まる。「わたしはお前に何をしたというのか」(3節)、これが神の人間に対する告発である。「何をもってお前を疲れさせたと言うんだ」。この言葉は面白い。人間は神との付き合いに疲れている、という声が神に届いたのであろう。誰が、どう神に伝えたのか。今で言うと、ブラックメールが神に届いた。あるいは、人間の顔に、態度にそれが表れたのか。ともかく、神からかなり激しい告発がなされた。
それに対する、人間側からの神に対する「疑問」「問題提起」が6~7節に述べられている。「何をもって、わたしは主のみ前に出で、いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として、当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか。幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を、自分の罪のために胎の実をささげるべきか」。人間側から出された疑問は深刻である。わたしたちも人間の立場に立っているから、この疑問はよく分かる。むしろ、共感する。わたしたち人間は「神のために」何もすることはないではないか。人間はそもそも、神を喜ばすということはできない。むしろ、こうせよ、ああせよ、と言ってもらった方が楽である。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)と言われても、どうしたらそういうことが出来るのかということになると、何も出来ない。指示されて、それに従うことは出来ても自発的に何かをしようと思うと、何をしたらいいのか、とまどってしまう。それがわたしたちの深刻な悩みである。
3. 「人よ」
それに対する、神の答えが8節である。「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるかは、お前に告げられている」(8節前半)と、主なる神は言われる。神の言葉は非常に単純で明快である。「分かっているはずだ」。人間は「わかっているはず」のことを、それをしたくないとき「分からない」と言う。いろいろ理屈を付けて「分からない」ふりをする。何が善であり、人間としてなすべきことはは明らかである。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」(8節後半)。これは何も特別なことではない。人間として当たり前のことである。人間としての当たり前のことを人間はできない。したくない。そのとき、「分からない」と言う。それが罪である。逆に言うと、主イエスはまさに人間として当たり前のことを当たり前のこととして実行された。それ故に、主イエスは「神の子」と呼ばれた。
読んでみて三つの言葉の意味が私自身よく理解できていないのではないのかと思い広辞苑で調べました。
ぎ【義】
①道理。条理。物事の理にかなったこと。人間の行うべきすじみち。「仁義礼智信・義務・正義」
②利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと。「義士・義挙・義捐金」
③意味。わけ。言葉の内容。「語義・講義」
④(「仮の」の意)
他人と名義上、親子・兄弟など肉親としての縁を結ぶこと。「―を結ぶ」「義母・義兄弟」
人体の一部の代用とするもの。「義手・義歯」
⑤キリスト教で、神の正しさ。また人の、神の前の正しさ。
いつくしみ【慈しみ】
いつくしむこと。めぐみ。恩沢。
へり‐くだ・る【謙る・遜る】
他をうやまって自分を卑下する。謙遜する。
ギリシャ語ではマタイ福音書5章6節と10節の義は同じ言葉が使われているのでしょうか?又それは⑤の意味でしょうか?
慈しみを愛するとは具体的に言えばどういうことなのでしょうか。 TK生
今回の反応も考えさせられました。この辺のところが、わたしの説明不足、とい
うかメッセージの掘り下げ不足なのかと思います。
預言者ミカのこの言葉「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩む
こと、これである」(8節後半)を理解するときの最も重要な点は、文脈から考
えて、「人よ、何が善であり、主が何を求めておられるかは、お前に告げられて
いる」という言葉を受けている点です。簡単に言うと、人間が神に対して、とい
うことは誰に対してでもしなければならないこと、もっと一般的に人間の生き方
の最も基本的な姿は、誰にでも明白なこと、特別に教えられなくても分かってい
ること、大人でも子どもでも、男でも女でも、どこの人間でも、民族、文化、性
別、年齢を越えて共通することを、あえて言葉に出して表現すれば、こういうこ
とであろう、という意味です。だから、逆に言うと、それを辞書などで調べて、
分析して、説明されて理解されるようなことではないという事柄なのです。たと
えば、「正義を行い」ということについて、「正義とは何か」というこを議論し
て、あれは正義ではないとか、これこそが正義だということを知るのではなく、
自分自身が正しいことと思っていることを正しいことだとすること、しばしば、
正しいことだと思っても「違う」と言ったり、不正なことを「正しい」と言うこ
との反対である。これはむしろわたしたちの行為というより「判断」に属するこ
とで、次の「慈しみを愛し」というのが、行動を示していると思われます。あの
人はこうして欲しいのだろうなと判断したら、そのように行動するということで
あり、相手の立場に立って「自分がしてもらいたいことを行動する」という意味
であろうかと思います。この認識と行動が両輪となってバランスを取ることが肝
要かと思います。
「飢え渇く」ということは、何かが欠乏している状況を示す言葉ですから、「義
に飢え渇く」ということは、「正義が行われない」状況に悩むことを意味し、
「義のために迫害される」とは「正義を行うこと」が否定される状況を意味して
いると思われます。
まだまだ、いろいろなことが心に浮かびますが、それはまた次の機会に。