2007年 聖霊降臨後第6主日(特定09) 2007.7.8
<講釈>母なる神 イザヤ書66:10-16
1. 母なる神
聖書には「母なる神」という観念は稀である。ほとんどないと言ってもよい。旧約聖書においては詩編(17:18,36:8,57:2,61:5,63:8,91:4)とイザヤ書(31:5,34:15)に、神はわたしたちを「翼の中で守られる」というイメージが見られるが、それも必ずしも「母鳥(めんどり)」というわけではない。福音書においては「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、お前の子らを何度集めようとしたことか」(マタイ23:37,ルカ13:34)という表現が見られるが、これも比喩のレベルを越えるものではない。直接用法で、神を母というイメージで語っているほとんど唯一の箇所が本日のテキストである。
「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」(13節)。しかし、ここでも厳密には神を「母なるもの」としているのではなく、エルサレムの都が「母なるもの」である。そして、「母なるもの」の本質として「慰める」という言葉が用いられている点には注目すべきであろう。つまり、この「慰める」という言葉は母が子どもに対する関係、産み、育て、守る等すべての関係が含まれている。
旧約聖書において、またそれ故にキリスト教においても、前面に出てくるのは「父なる神」であって「母なる神」という観念が非常に希薄なのは注目に値する。なぜ、そうなのか。イスラム教も当然同様な事情であろう。この点について、いろいろと思索を巡らしているとき、非常に注目すべきエッセイに出会った。それ程長い文章でないので、全文を引用する。
2. エッセイ「インドについての手紙」 岡野潔(九州大学教授、文学部インド哲学科)
お元気ですか。インドを旅して帰ってきました。世界中あちこちリュック一つで歩きましたが、長期間インドを旅していると、人間は大地の上にいる、という感じを強くもちます。インドのどこにいようと、母なる大地のふところに抱かれている、という感じがするのです。インドの宗教であるヒンドゥ-教では男の神様が佃煮にするほど沢山出てくるのですが、根源にあるのは母なるものではないか、と思います。インドの寺院をたくさん見ましたが、どの寺院も形としてはまんまるくて、内側は暗くて、中にいると、まるで子宮の中にいるような感じです。
私はドイツに滞在していたとき、ケルンの大聖堂を見たことがありますが、あの建物は天井から何からすべてが針のように尖っていて、天空に向かってそそり立っています。キリスト教というのは空なる父を見上げる宗教なのですね。それに比べてインド人の宗教は視線を大地に下ろしている、大地の中の母なるものに向かっている宗教だ、と思います。西方の宗教が天なる父の宗教なら、東方の宗教、特にインドの宗教は母なる大地の宗教だと思います。
インド哲学といえばヨーガが思い出されますが、ヨーガ行者たちの宇宙観は、世界という子宮の内部における母なる母胎と自分との関係を語るものであるといっていいと思います。宗教者の宇宙的意識の根底にあるのは、自分と宇宙とが、目に見えない臍の緒でつながっているという感情ではないでしょうか。これは神秘主義的な宗教を成り立たせる最も原初的な宗教感覚ではないかと思います。自己と宇宙との一体感。
たった独りでインドを旅していると、うまく言葉で表現できないのですが、宇宙への帰属感情というようなものが心に湧いてきます。ブッダガヤーで星空を眺めている時、あるいはカルカッタに向かう途中でビハールの広大な大地を列車の窓から眺めている時、私は不意にそんな宇宙への帰属感情に浸されました。その時に私は思いました、人間の奥底には、なぜ永遠なる宇宙的な存在への帰依の感情がこれほど根深くあるのだろうか、と。これは人間の赤ん坊の時の最も深い意識に刷り込まれている感情なのでしょうか。赤ん坊には、本能的に「親に捨てられまい」「抱かれたい」という欲求があります。赤ん坊は、ミルクだけで生きているのではないのです。「赤ん坊はミルクのみにて生きるにあらず」。この言葉は、聖書の「人はパンのみにて生きるにあらず」のもじりですが、赤ん坊はミルクと同時に、「抱かれること」を欲するのです。この「親なるものに抱かれたい」という欲求は、やがて宗教心になるのではないでしょうか。赤ん坊が親に抱かれるように、人間は目に見えない神に抱かれることを欲するのではないでしょうか。子が親を求める心、それが宗教心の基本ではないでしょうか。あるいは生まれる前から遺伝子に書き込まれた感情なのでしょうか。原初に生命は海で育まれてきましたが、生命が陸に上陸して以来、海の代わりに大地が私たちの生命を育ててきたわけです。生命は大地が十億年の間、自分を育んでくれた親であることを私たちの遺伝子は記憶しているのでしょうか。だから人間は自然に帰り、緑の野や山を目にする時、あたかも目に見えない母親に対するような感情を抱くのでしょうか。
インドの宗教は、このような自然への畏敬の感情に素直に出来ています。ですから、それは人間と自然との共生関係を大事にする宗教であるといえると思います。インド人の自然観の例をあげましょう。ジャイナ教は植物を触覚の感覚器官だけをもつ生物、というふうに理解しているようです。人間と植物の違いは、感覚器官を五種類もつか、一種類もつかの違いにすぎません。また古代のインド仏教徒の戒律には、「土を掘っていけない」という不思議な戒律がありますが、これはなぜかといいますと、昔のインド人たちは大地を一つの生命体であると考えていて、掘ると大地が怪我をする、大地が傷つく、と考えていたからだそうです。
また私は次のような話を聞きました。インドのケーララ州では人が生まれた時に1本のマンゴーの樹を植えるそうです。なぜそうするのかというと、死んだ時にその樹を切って薪で火葬にするためです。火葬には300キロ近い薪が必要です。火葬のたびに樹が切っていては、森がなくなってしまうので、赤ん坊が一人生まれるたびに、一本の樹を植えるのだそうです。美しい慣習だと思います。そこには人間と自然との一体感があります。生まれた子供と樹とは兄弟のように育ってゆくのではないでしょうか。子供は自分の誕生と同時に植えられた一本の樹を見る時、自然への不思議な感情をもつのではないでしょうか。まるで自分が森の一部であるかのような感情を抱くのではないでしょうか。そのような感情こそ、地球上の自然破壊をこれ以上進行させないために人類に必要な感情なのではないでしょうか。
日本は今梅雨です。インドも今、雨期です。インドに降っている雨を想像してください。その雨に濡れているインドの大地を想像してください。ぽたりぽたりと雨しずくを滴らせている一本の樹を思い浮かべてください。読者の皆さん、あなたとその樹とは、どこかでつながっているのだと思いませんか? (http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/indology/2harada.html)
3. わたしの感想
著者の岡野潔教授は九州大学文学部インド哲学科でインド仏教を研究教育しておられる。学位はドイツのマールブルグ大学で取得された。教授自身が開設しておられるHPを見ると非常に開放的に活動されておられる。この文章は新入生に対するオリエンテーションとして掲載されているようであるが、部分的にカットできるようなものではないので、全文を引用した。
「人間の奥底には、なぜ永遠なる宇宙的な存在への帰依の感情がこれほど根深くあるのだろうか」。その問いに対して著者自身が次のように答えておられる。「子が親を求める心、それが宗教心の基本ではないでしょうか。あるいは生まれる前から遺伝子に書き込まれた感情なのでしょうか。原初に生命は海で育まれてきましたが、生命が陸に上陸して以来、海の代わりに大地が私たちの生命を育ててきたわけです。生命は大地が十億年の間、自分を育んでくれた親であることを私たちの遺伝子は記憶しているのでしょうか。だから人間は自然に帰り、緑の野や山を目にする時、あたかも目に見えない母親に対するような感情を抱くのでしょうか」。美事な答えである。
とすると、神を「母なるもの」として崇めるという感情は、「父なる神」という観念よりもより根源的なものである。むしろ、「父なる神」という宗教は「共同体」を前提にして成立する宗教であり、その意味では「母なる神」という感情は非常に個人的なものである。この場合、個人的と言ってもけっして近代以後の個人主義ではなく、心理学者ユングのいう個人の深層に潜む「集合的無意識」である。宗教の世界から「母なるもの」がなくなるとき、その宗教は単なる共同体維持のための「律法主義」に陥ってしまう。この点から、「聖母マリア信仰」についても再検討する必要があるであろう。
4. 包む神
わたしたち日本人は「母なるもの」をどういうイメージで捉えているのだろう。「慈母のごとき愛」とか、「無限抱擁」とか、ともかく理想の母親像とは「赦し」「受け入れ」「抱擁する」存在として捉えているのではなかろうか。そのこと自体は間違いではないし、本日のテキストでも、「あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる」(66:12)ということが述べられている。これはまさに神を父親として語る「砂漠の宗教」とは対照的な神観念である。その意味では、ルカによる福音書に登場する「放蕩息子の父親」(ルカ15:20)は母親像に近い。
ユング心理学の研究者河合隼雄氏が、どこかで、母性原理は「包む」機能を主とするのに対して、父性原理は「切る」機能を主としている、というようなことを語っておられたが、これも重要な指摘であろう。しかし、この母性原理としての「包む」という機能には同時に「呑み込む」という働きも含み、母は子を呑み込み、子の主体性は失われる。母性原理を主とする宗教においては、人間は自然の一部になることが究極の解脱となり、歴史を形成する主体性は消滅する。
逆に、父性原理を主とする宗教においては、人間は神から突き放され、自由という名の孤独に生きるか、あるいは共同体において厳しい戒律の中で一種の細胞となる。一人の人間が人間として成長するときに両親が必要なように、宗教が人間社会において有効な機能を果たすためには、父性原理と母性原理との相互補完作用が重要である。
5. 母なる神
本日のテキストにおける「母なる神」の働きは、「あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる」(66:12)という言葉で言い表されている。言い換えると「母なる神」は養い、守る神である。旧約聖書における「母なる神」に変わるイメージは羊飼いであろう(詩編第23編参照)。神を羊飼いとしてイメージするところに、神における母性原理が生かされている。これはわたしの個人的な感想に過ぎないが、母性原理を「大地」におくか、あるいは「羊飼い」におくかという対比は含蓄がある。羊飼いにおいては、秩序維持という父性機能と、養い守るという母性機能とが含まれている。これら二つの機能のどちらかが強調されすぎるときに、その宗教は偏向する。秩序維持者としての羊飼いは全体を守るために、「一」を犠牲にする。ここまで言えば、もうわたしが言いたいことは明白であろう。主イエスは99匹を野において1匹を探し求める羊飼いを語った。それは、羊飼いの母性性に外ならない。
ところで、本日のテキストにおける「母なる神」には、単に「優しい母」以上のイメージがある。恐らく、イスラエルの母親たちの現実に近い母親像がここにあるのだと思われるが、それは「敵と戦う母」である。14節の「こうして」という言葉は「主の御手は僕たちと共にあり」という言葉を受けているとしたら、母なる神とは「わたしたちと共にある」ということが、そのままで「敵と戦う母」でもあることが示されている。
<講釈>母なる神 イザヤ書66:10-16
1. 母なる神
聖書には「母なる神」という観念は稀である。ほとんどないと言ってもよい。旧約聖書においては詩編(17:18,36:8,57:2,61:5,63:8,91:4)とイザヤ書(31:5,34:15)に、神はわたしたちを「翼の中で守られる」というイメージが見られるが、それも必ずしも「母鳥(めんどり)」というわけではない。福音書においては「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、お前の子らを何度集めようとしたことか」(マタイ23:37,ルカ13:34)という表現が見られるが、これも比喩のレベルを越えるものではない。直接用法で、神を母というイメージで語っているほとんど唯一の箇所が本日のテキストである。
「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける」(13節)。しかし、ここでも厳密には神を「母なるもの」としているのではなく、エルサレムの都が「母なるもの」である。そして、「母なるもの」の本質として「慰める」という言葉が用いられている点には注目すべきであろう。つまり、この「慰める」という言葉は母が子どもに対する関係、産み、育て、守る等すべての関係が含まれている。
旧約聖書において、またそれ故にキリスト教においても、前面に出てくるのは「父なる神」であって「母なる神」という観念が非常に希薄なのは注目に値する。なぜ、そうなのか。イスラム教も当然同様な事情であろう。この点について、いろいろと思索を巡らしているとき、非常に注目すべきエッセイに出会った。それ程長い文章でないので、全文を引用する。
2. エッセイ「インドについての手紙」 岡野潔(九州大学教授、文学部インド哲学科)
お元気ですか。インドを旅して帰ってきました。世界中あちこちリュック一つで歩きましたが、長期間インドを旅していると、人間は大地の上にいる、という感じを強くもちます。インドのどこにいようと、母なる大地のふところに抱かれている、という感じがするのです。インドの宗教であるヒンドゥ-教では男の神様が佃煮にするほど沢山出てくるのですが、根源にあるのは母なるものではないか、と思います。インドの寺院をたくさん見ましたが、どの寺院も形としてはまんまるくて、内側は暗くて、中にいると、まるで子宮の中にいるような感じです。
私はドイツに滞在していたとき、ケルンの大聖堂を見たことがありますが、あの建物は天井から何からすべてが針のように尖っていて、天空に向かってそそり立っています。キリスト教というのは空なる父を見上げる宗教なのですね。それに比べてインド人の宗教は視線を大地に下ろしている、大地の中の母なるものに向かっている宗教だ、と思います。西方の宗教が天なる父の宗教なら、東方の宗教、特にインドの宗教は母なる大地の宗教だと思います。
インド哲学といえばヨーガが思い出されますが、ヨーガ行者たちの宇宙観は、世界という子宮の内部における母なる母胎と自分との関係を語るものであるといっていいと思います。宗教者の宇宙的意識の根底にあるのは、自分と宇宙とが、目に見えない臍の緒でつながっているという感情ではないでしょうか。これは神秘主義的な宗教を成り立たせる最も原初的な宗教感覚ではないかと思います。自己と宇宙との一体感。
たった独りでインドを旅していると、うまく言葉で表現できないのですが、宇宙への帰属感情というようなものが心に湧いてきます。ブッダガヤーで星空を眺めている時、あるいはカルカッタに向かう途中でビハールの広大な大地を列車の窓から眺めている時、私は不意にそんな宇宙への帰属感情に浸されました。その時に私は思いました、人間の奥底には、なぜ永遠なる宇宙的な存在への帰依の感情がこれほど根深くあるのだろうか、と。これは人間の赤ん坊の時の最も深い意識に刷り込まれている感情なのでしょうか。赤ん坊には、本能的に「親に捨てられまい」「抱かれたい」という欲求があります。赤ん坊は、ミルクだけで生きているのではないのです。「赤ん坊はミルクのみにて生きるにあらず」。この言葉は、聖書の「人はパンのみにて生きるにあらず」のもじりですが、赤ん坊はミルクと同時に、「抱かれること」を欲するのです。この「親なるものに抱かれたい」という欲求は、やがて宗教心になるのではないでしょうか。赤ん坊が親に抱かれるように、人間は目に見えない神に抱かれることを欲するのではないでしょうか。子が親を求める心、それが宗教心の基本ではないでしょうか。あるいは生まれる前から遺伝子に書き込まれた感情なのでしょうか。原初に生命は海で育まれてきましたが、生命が陸に上陸して以来、海の代わりに大地が私たちの生命を育ててきたわけです。生命は大地が十億年の間、自分を育んでくれた親であることを私たちの遺伝子は記憶しているのでしょうか。だから人間は自然に帰り、緑の野や山を目にする時、あたかも目に見えない母親に対するような感情を抱くのでしょうか。
インドの宗教は、このような自然への畏敬の感情に素直に出来ています。ですから、それは人間と自然との共生関係を大事にする宗教であるといえると思います。インド人の自然観の例をあげましょう。ジャイナ教は植物を触覚の感覚器官だけをもつ生物、というふうに理解しているようです。人間と植物の違いは、感覚器官を五種類もつか、一種類もつかの違いにすぎません。また古代のインド仏教徒の戒律には、「土を掘っていけない」という不思議な戒律がありますが、これはなぜかといいますと、昔のインド人たちは大地を一つの生命体であると考えていて、掘ると大地が怪我をする、大地が傷つく、と考えていたからだそうです。
また私は次のような話を聞きました。インドのケーララ州では人が生まれた時に1本のマンゴーの樹を植えるそうです。なぜそうするのかというと、死んだ時にその樹を切って薪で火葬にするためです。火葬には300キロ近い薪が必要です。火葬のたびに樹が切っていては、森がなくなってしまうので、赤ん坊が一人生まれるたびに、一本の樹を植えるのだそうです。美しい慣習だと思います。そこには人間と自然との一体感があります。生まれた子供と樹とは兄弟のように育ってゆくのではないでしょうか。子供は自分の誕生と同時に植えられた一本の樹を見る時、自然への不思議な感情をもつのではないでしょうか。まるで自分が森の一部であるかのような感情を抱くのではないでしょうか。そのような感情こそ、地球上の自然破壊をこれ以上進行させないために人類に必要な感情なのではないでしょうか。
日本は今梅雨です。インドも今、雨期です。インドに降っている雨を想像してください。その雨に濡れているインドの大地を想像してください。ぽたりぽたりと雨しずくを滴らせている一本の樹を思い浮かべてください。読者の皆さん、あなたとその樹とは、どこかでつながっているのだと思いませんか? (http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/indology/2harada.html)
3. わたしの感想
著者の岡野潔教授は九州大学文学部インド哲学科でインド仏教を研究教育しておられる。学位はドイツのマールブルグ大学で取得された。教授自身が開設しておられるHPを見ると非常に開放的に活動されておられる。この文章は新入生に対するオリエンテーションとして掲載されているようであるが、部分的にカットできるようなものではないので、全文を引用した。
「人間の奥底には、なぜ永遠なる宇宙的な存在への帰依の感情がこれほど根深くあるのだろうか」。その問いに対して著者自身が次のように答えておられる。「子が親を求める心、それが宗教心の基本ではないでしょうか。あるいは生まれる前から遺伝子に書き込まれた感情なのでしょうか。原初に生命は海で育まれてきましたが、生命が陸に上陸して以来、海の代わりに大地が私たちの生命を育ててきたわけです。生命は大地が十億年の間、自分を育んでくれた親であることを私たちの遺伝子は記憶しているのでしょうか。だから人間は自然に帰り、緑の野や山を目にする時、あたかも目に見えない母親に対するような感情を抱くのでしょうか」。美事な答えである。
とすると、神を「母なるもの」として崇めるという感情は、「父なる神」という観念よりもより根源的なものである。むしろ、「父なる神」という宗教は「共同体」を前提にして成立する宗教であり、その意味では「母なる神」という感情は非常に個人的なものである。この場合、個人的と言ってもけっして近代以後の個人主義ではなく、心理学者ユングのいう個人の深層に潜む「集合的無意識」である。宗教の世界から「母なるもの」がなくなるとき、その宗教は単なる共同体維持のための「律法主義」に陥ってしまう。この点から、「聖母マリア信仰」についても再検討する必要があるであろう。
4. 包む神
わたしたち日本人は「母なるもの」をどういうイメージで捉えているのだろう。「慈母のごとき愛」とか、「無限抱擁」とか、ともかく理想の母親像とは「赦し」「受け入れ」「抱擁する」存在として捉えているのではなかろうか。そのこと自体は間違いではないし、本日のテキストでも、「あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる」(66:12)ということが述べられている。これはまさに神を父親として語る「砂漠の宗教」とは対照的な神観念である。その意味では、ルカによる福音書に登場する「放蕩息子の父親」(ルカ15:20)は母親像に近い。
ユング心理学の研究者河合隼雄氏が、どこかで、母性原理は「包む」機能を主とするのに対して、父性原理は「切る」機能を主としている、というようなことを語っておられたが、これも重要な指摘であろう。しかし、この母性原理としての「包む」という機能には同時に「呑み込む」という働きも含み、母は子を呑み込み、子の主体性は失われる。母性原理を主とする宗教においては、人間は自然の一部になることが究極の解脱となり、歴史を形成する主体性は消滅する。
逆に、父性原理を主とする宗教においては、人間は神から突き放され、自由という名の孤独に生きるか、あるいは共同体において厳しい戒律の中で一種の細胞となる。一人の人間が人間として成長するときに両親が必要なように、宗教が人間社会において有効な機能を果たすためには、父性原理と母性原理との相互補完作用が重要である。
5. 母なる神
本日のテキストにおける「母なる神」の働きは、「あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる」(66:12)という言葉で言い表されている。言い換えると「母なる神」は養い、守る神である。旧約聖書における「母なる神」に変わるイメージは羊飼いであろう(詩編第23編参照)。神を羊飼いとしてイメージするところに、神における母性原理が生かされている。これはわたしの個人的な感想に過ぎないが、母性原理を「大地」におくか、あるいは「羊飼い」におくかという対比は含蓄がある。羊飼いにおいては、秩序維持という父性機能と、養い守るという母性機能とが含まれている。これら二つの機能のどちらかが強調されすぎるときに、その宗教は偏向する。秩序維持者としての羊飼いは全体を守るために、「一」を犠牲にする。ここまで言えば、もうわたしが言いたいことは明白であろう。主イエスは99匹を野において1匹を探し求める羊飼いを語った。それは、羊飼いの母性性に外ならない。
ところで、本日のテキストにおける「母なる神」には、単に「優しい母」以上のイメージがある。恐らく、イスラエルの母親たちの現実に近い母親像がここにあるのだと思われるが、それは「敵と戦う母」である。14節の「こうして」という言葉は「主の御手は僕たちと共にあり」という言葉を受けているとしたら、母なる神とは「わたしたちと共にある」ということが、そのままで「敵と戦う母」でもあることが示されている。