2006年 復活節第2主日 (2006.4.23)
<講釈>疑い深いトマス ヨハネ20:19-31
1. ヨハネ福音書における復活物語
ローマ・カトリック教会からプロテスタント諸教会まで、主日のテキストが定められている教会では、この主日の福音書のテキストは毎年ここに決まっている。聖公会でも、A、B、C各年ともここが読まれる。その理由は19節から29節までのペリコーペがイースターの次の日曜日の出来事を記録しているからであろう。
ヨハネ福音書では復活物語は4つ記録されている。先ず、空虚な墓の物語(20:1-10)、次ぎにマグダラのマリアの経験(11-18)、第3に密室での弟子たちへの顕現(19-29)、最後にテベリア湖畔での顕現(21:1-23)である。これらを読んで先ず気付くことは、どの物語も非常にビジュアルであるということだろう。細かい部分まで登場人物の動作が鮮明に描かれ、ストーリーの展開が活き活きとしている。たとえば、最初の空虚な墓の物語にしても他の福音書の比べて描写が細かい。まるで、有能な演出家によって俳優が指導されているかのようである。第2のマグダラのマリアの経験にしても、イエスの遺体が置かれていた場所と2人の天使たちとの位置関係や、マグダラのマリアの動作が計算されているかのように描かれている。本日取り上げる密室での弟子たちへの顕現物語も同様で、まるで舞台の上の演技を見るかのようである。
第1場の舞台は、それだけで十分一つの場面を形成し、トマスの不在を感じさせない演出となっている。ただ第2場への伏線として、「手と脇腹とをお見せになった」という表現があるが、これも決してヨハネの創作ではなく、もう既にルカが述べていることでもある。ただ、ルカは「手と足」(ルカ24:39)であるのに対してヨハネは「手と脇腹」と言い換えている点は注目に値する。第2場で、「ディディモと呼ばれるトマス」が登場し、第1場で不在だったことが問題となる。このサプライズはなかなか大した演出効果である。
2. トマスのキャラクター
ディディモの呼ばれるトマスとはどういう人物なのか。ここで重要なことは、実際のトマスがどういう人物だったのかということではなく、福音書記者ヨハネがトマスという人間にどういうキャラクターを与えているのかということである。トマスについて触れているのはヨハネ福音書だけであるが、ヨハネは、復活の主との出会いにおいてトマスに特別な役割を持たせるために、いくつかの伏線を置いている。ここまでのところで、トマスは2回登場し、2回発言をしている。最初の発言は11:16で、死んだラザロを「起こしに行こう」という主イエスの発言に対して「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とトマスは意見を述べている。その頃、イエスはユダヤ人たちから命を狙われ、ヨルダン川の反対側の辺鄙なところに身を隠すようにしておられた。そこにラザロの病気が知らされたが、数日間イエスはラザロの元に出かけようとしなかった。ラザロの住んでいる町はエルサレムの近郷ベタニヤで、そこはイエスにとって非常に危険な場所であった。弟子たちも、そこに行くことには反対しているようであった。そういう状況で、トマスは前述の発言をしたのである。トマスは死を恐れていない。むしろ、値打ちのある死に方を願っていたのではないだろうか。その意味で、トマスは主イエスと出会い、主イエスを知り、主イエスと共に死ぬことを生涯の目的にしたのだと思う。
第2の発言は、イエスが死後の世界について語ったとき、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)と質問している。これは質問というよりも、「死後の世界」を否定する言葉である。トマスにおいては、「死ぬ」それだけでいいではないか。問題はどういう死に方をするのか、ということであって「死んでから、何処に行くか。そんなことは知り得ないし、知っても無意味である」、というニュアンスであったのだろう。それに対して、イエスはあの有名な言葉を語られた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。この主イエスの言葉がトマスに通じたのか、どうかは分からない。面白いことに、この主イエスの発言に対して、トマスに代わりにフィリポが主イエスとの会話を受け継いでいる。トマスは沈黙してしまった。このトマスの沈黙の意味は何であろう。
3. 迷えるトマス
結局、主イエスはローマの兵隊に捕縛され、十字架の上で死んでしまった。トマスは主イエスと共に死ぬことができなかった。このことについては、福音書は何も語らない。おそらく、主イエスの最期の時には他の弟子たちと共に逃げてしまったのだろう。それ以外の想像をわたしたちはできない。共に死のうと思い、願っていた主イエスは十字架の上で壮絶な死に方をして死んでしまった。トマスにとって、主イエスの死の意味は理解を超えていた。共に死んだのは主イエスと何の関係もなかった2人の盗賊たちであった。トマスは死に損なったのだろうか。それとも、死ななくて助かったのだろうか。トマスは迷った。「疑い深いトマス」である前に彼は「迷えるトマス」であった。「ディディモと呼ばれるトマス」の「ディディモ」とは普通「双子」と訳されているが、読み方によっては「2人のトマス」ないしは「二心のトマス」を意味するという解釈もある。その意味では「迷えるトマス」という意味も含む。トマスは他の弟子たちのようにユダヤ人が怖かったのではない。死ぬことなんか少しも怖くなかった。ただ、「迷った」。主イエスと共に死ぬべきだったのか。主イエスの死は単なる「犬死に」だったのか。その答えがないまま、彼は他の弟子たちから離れて、巷をさまよい歩いていたのかも知れない。それが、復活の主イエスの顕現の際のトマス不在の理由かも知れない。
復活の主イエスが最初に弟子たちに顕現されたとき、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。これは文字通りそういう状況であったのだろう。まさか、ここに復活の主イエスが現れるなどとは思いもしていなかった雰囲気である。彼らは主イエス復活の知らせを聞いていたのかも明確ではない。ペトロとヨハネは一応、主イエスのご遺体が納められていた墓地に出かけ、空っぽであったことは確認していることになっている。しかし、それもいろいろに解釈できる。確かなことは、弟子たちが主イエスの復活を信じていなかったということであろう。もし、信じていたのなら、こんなに怖がるはずがない。頑丈に戸締まりしている部屋の中で、身を寄せ合い震えていた弟子たちの「真ん中に立ち」、主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と声をかけ、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
4. 疑い深いトマス
さて、本日のテーマは、そこにトマスがいなかった、ということから始まる。トマスがそこにいなかった理由については何も述べられていない。ともあれ、10人の弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た」と語った。ところが、トマスは弟子たちの言葉をそう簡単には信じない。おそらく、他の弟子たちとトマスとの間でかなり激しい議論がなされたことだろう。ここで、興味深いことは、最初の顕現の時、主イエスは弟子たちから言われたのでもないのに、「手とわき腹とをお見せになった」らしい。10人の弟子たちはトマスにそのことも語ったにちがいない。その時、トマスは、「そうか、あなたたちは見たのか。でも目で見るということは確かではない。目は見間違うこともある。幻想ということもある。あなたたちは、そこを触ったか」と言ったに違いない。なぜなら、トマスは「わたしは、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20:25)と主張しているからである。この主張の中に、「死んだ後の世界はない」という哲学がある。存在するものは、時間と空間の支配の中にあるもの、つまり「触れることのできるもの」、それがすべてである。人間は死んだらそれですべて終わりである。主イエスも死んだら、それで終わりである。だからこそ、「どのようにして死ぬか」ということが、人生の目標になる。これによって、「疑い深いトマス」は確立した。そこまで言われたら他の弟子たちはもう言葉がない。
5. 信じるトマス
復活の主イエスの次の顕現は「8日の後」であった。なぜ、8日後なのか。理由は書かれていないが、弟子たちは「8日の後」には主イエスが顕現するということを期待していた。これは明らかに、安息日の翌日、つまり日曜日を主日とすることが定着し始めた状況を示しているのだろう。トマスは疑いつつも弟子たちの集いに参加した。ここにトマスの信仰がある。
トマスは決して頑なではなかった。むしろ、真の意味での真理の探究者、その意味では求道者である。だからこそ、自分の疑いをハッキリさせたいという思いで、そこに出かけたのだろう。これが本当の「懐疑」である。信じられないことは信じられないこととして、大いに疑ったらいい。そして、その疑いを晴らすために、真理を追究したらいい。「信じられない」ということと「信じる」ということとは隣合わせであって「対立・反対」の関係ではない。「信なき我」ということが本当の信仰の自覚でさえある。むしろ、聖書が語る信仰の反対は「かたくなさ」「不誠実」「偽り」、要するに「経験しているのに知らないと言うこと」「信じているのに信じていないと言うこと」、「見ているのに、見ていないと言うこと」、「見ていないのに、見ていると言うこと」、これが信仰ということの正反対のこととして聖書は語っている。おそらく、トマスの耳にはあの時のあの主イエスの言葉が鳴り響いていたのだろう。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。
トマスが信じられない理由は「復活された主イエスに出会っていない」ということにつきる。これはトマスをはじめ信じられない者たちにとっては大きな慰めである。「わたしが信じられないのは、経験していないからであり、この無経験ということはわたしの責任ではない。」
興味深いことは、この物語において「信じられないトマス」は不信仰者として批判されていない、ということである。「信じられない」ということは「不信仰者」ということではない。信仰の反対は不信仰ではない。
復活者主イエスがトマスに現われたとき、トマスは信じた。トマスは「見る」という経験したから信じた。しかし、その「見る」という経験はトマスがはじめに言っていたような「見方」ではない。彼は「あの方の釘の跡を見た」わけでもなく、彼の指を釘跡に入れたわけでもないし、その手をわき腹にいれたわけでもない。復活のイエスが彼に現われたのである。復活のイエスはトマスに「あなたの手をここに当てて、わたしの手を見なさい」と言われた。しかし、トマスにはその必要はなかった。もう、彼は復活の主イエスに出会ったのである。明かに、トマスがはじめに要求した「見る」ということと、「復活の主イエスとの出会い」とは次元が異なる。
ヨハネがトマスに割り当てたキャラクターは重い。「死んだ後の世界」とは何か。そんなものはあるのか。丹波哲郎のように単純に、断定的に死後の世界のことを語れるのはおめでたい。現代人はお笑いとかギャグならともかく、そんなことではもちろん納得できない。ヨハネは実に困難な問題を提出したものである。結局、この物語をどれ程分析してもトマスが、なぜ「信じられたのか」分からない。ただ、復活の主イエスを見ただけである。いや、そうではない。復活の主イエスを見たということは、そういうことなのだ。問題は、この「見た」という事実そのものである。この「見た」というのは肉体的視覚機関での出来事ではない。主イエスはトマスに言う。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」この言葉は何を意味しているのだろうか。トマスは「見た」から「信じた」という。しかし、トマスの「見た」という経験は肉体的視覚機関で「見た」のではない。その意味では「見ていない」。これは何回繰り返しても同じところをぐるぐる回転するだけである。つまり、ここでは「見る」ということと「信じる」ということとが同一化している。「見たから信じる」ということと「信じたから見える」ということが一体化している。
6. 「わたしの主、わたしの神よ」(20:28)
主イエスを信じたトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言う。これこそが最も簡潔な、しかし十分は信仰告白である。主イエスの前にひざまずくトマスには、もはや迷いも疑いもない。主イエスがトマスの生と死とを支配する「主」である。トマスは「生きることも、死ぬことも」すべて主イエスに委ねることができた。
ヨハネ福音書における「主」という言葉の用法を調べると、特別な意味はまったくと言っていいほどない。ほとんど日本語の「先生」という言葉と同じで、ごく普通に目上の人に対する呼び賭の言葉である。しかし、日本語の「先生」という言葉も同様であるが、「わたしの先生」というと、これには特別な意味が込められる。「わたしの主、わたしの神よ」という言葉を繰り返し唱えていると、だんだん「わたしの主が、わたしの神である」という言葉に聞こえてくる。わたしの先生がわたしの神である。これはすごい。あらゆる哲学、あらゆる神学を揺るがす主張である。哲学者パスカルの言葉に「哲学者の神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言葉があるが、それに匹敵するほどの言葉である。わたしたちの信仰告白は、これで十分であり、これに付け加えるべき言葉はない。
このトマスの信仰告白の言葉はヨハネ福音書の1章14節の言葉と響きあう。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ヨハネ福音書の本体が20章までとすると、明らかに1:14と20:28とはセットになっている。これこそがヨハネ福音書の初めから終わりまで貫く中心テーマである。
7. わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
どうしても最後に論じておかねばならない厄介な言葉がある。ここでいう「見ないのに信じる人」とはどういう人たちをいうのであろうか。トマスのような人なのか。見ないのに信じるということは有り得るのか。その場合「見ない」とはどういうことなのか。トマスは「見た」から信じたのである。それならば、ここで言う「見ないで信じる人」とは誰のことなのだろうか。
トマスの復活経験は他の弟子たちとかなり異なる。他の弟子たちは「予期していない経験」であった。しかし、トマスは願って、求めて復活の主を見た。それは弟子たちとの交わりの中での経験であった。そこで重要なことは復活のイエスが「現われた」場である。ヨハネ福音書によれば、主イエスが最初に現われたのは、復活の日、つまり日曜日で、弟子たちが集まっていた中に現われており、次ぎに現われたのがその8日あとつまり次の日曜日で、やはり弟子たちが集まっている中に現れている。これは何を意味するのだろうか。結論を言うと、これは教会における主日礼拝における主イエスの顕現を意味している。復活の主イエスにお会いできるのは教会における礼拝、特に聖餐式においてである。トマスはこれを経験した。その意味で、トマスは「見て信じた人」と「見ないで信じた人」とを繋ぐ真ん中に立っている。
一つだけはっきりしていることがある。それは初代教会から信仰を受け継いだ第2代以後の信徒たちは、トマスを含む弟子たちが経験したようには復活者イエスに出会うことが出来ないということである。その点では使徒パウロも同じである。主イエスの直接の弟子たちの「復活経験」と使徒パウロをはじめとするその後の信仰者たちにおける「復活経験」とはその点で異なる。教会における交わりでおいてわたしたちは復活の主イエスと出会う。
補遺:小説「デドモと呼ばれるトマス」(赤木孟一、冬樹社 1975.12.24)
劇作家赤木孟一は、「デドモ」とは双子という意味であるということを鍵としてトマスをイエスの兄と設定して物語を展開しています。バルティマイやザアカイ、イスカリオテのユダや盗賊バラバ、ニコデモなどが、福音書に登場する人物にそれぞれキャラクターを与えて登場させ、当時の政治的状況を背景とするドラマに仕上げています。当然、完全なフィクションですが、それだけに少しでも新約聖書の時代に興味を持っている者には、豊かなイマジネーションを与えてくれます。30年ほど前に出版され、その当時買って読みましたが、あまり面白いとは思えませんでしたが、現在読み直してみると、なかなか読み応えがあります。この人にはもう一つ「ニネベ」という作品があるそうですが、そちらの方はまだ読んでいません。
<講釈>疑い深いトマス ヨハネ20:19-31
1. ヨハネ福音書における復活物語
ローマ・カトリック教会からプロテスタント諸教会まで、主日のテキストが定められている教会では、この主日の福音書のテキストは毎年ここに決まっている。聖公会でも、A、B、C各年ともここが読まれる。その理由は19節から29節までのペリコーペがイースターの次の日曜日の出来事を記録しているからであろう。
ヨハネ福音書では復活物語は4つ記録されている。先ず、空虚な墓の物語(20:1-10)、次ぎにマグダラのマリアの経験(11-18)、第3に密室での弟子たちへの顕現(19-29)、最後にテベリア湖畔での顕現(21:1-23)である。これらを読んで先ず気付くことは、どの物語も非常にビジュアルであるということだろう。細かい部分まで登場人物の動作が鮮明に描かれ、ストーリーの展開が活き活きとしている。たとえば、最初の空虚な墓の物語にしても他の福音書の比べて描写が細かい。まるで、有能な演出家によって俳優が指導されているかのようである。第2のマグダラのマリアの経験にしても、イエスの遺体が置かれていた場所と2人の天使たちとの位置関係や、マグダラのマリアの動作が計算されているかのように描かれている。本日取り上げる密室での弟子たちへの顕現物語も同様で、まるで舞台の上の演技を見るかのようである。
第1場の舞台は、それだけで十分一つの場面を形成し、トマスの不在を感じさせない演出となっている。ただ第2場への伏線として、「手と脇腹とをお見せになった」という表現があるが、これも決してヨハネの創作ではなく、もう既にルカが述べていることでもある。ただ、ルカは「手と足」(ルカ24:39)であるのに対してヨハネは「手と脇腹」と言い換えている点は注目に値する。第2場で、「ディディモと呼ばれるトマス」が登場し、第1場で不在だったことが問題となる。このサプライズはなかなか大した演出効果である。
2. トマスのキャラクター
ディディモの呼ばれるトマスとはどういう人物なのか。ここで重要なことは、実際のトマスがどういう人物だったのかということではなく、福音書記者ヨハネがトマスという人間にどういうキャラクターを与えているのかということである。トマスについて触れているのはヨハネ福音書だけであるが、ヨハネは、復活の主との出会いにおいてトマスに特別な役割を持たせるために、いくつかの伏線を置いている。ここまでのところで、トマスは2回登場し、2回発言をしている。最初の発言は11:16で、死んだラザロを「起こしに行こう」という主イエスの発言に対して「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とトマスは意見を述べている。その頃、イエスはユダヤ人たちから命を狙われ、ヨルダン川の反対側の辺鄙なところに身を隠すようにしておられた。そこにラザロの病気が知らされたが、数日間イエスはラザロの元に出かけようとしなかった。ラザロの住んでいる町はエルサレムの近郷ベタニヤで、そこはイエスにとって非常に危険な場所であった。弟子たちも、そこに行くことには反対しているようであった。そういう状況で、トマスは前述の発言をしたのである。トマスは死を恐れていない。むしろ、値打ちのある死に方を願っていたのではないだろうか。その意味で、トマスは主イエスと出会い、主イエスを知り、主イエスと共に死ぬことを生涯の目的にしたのだと思う。
第2の発言は、イエスが死後の世界について語ったとき、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(14:5)と質問している。これは質問というよりも、「死後の世界」を否定する言葉である。トマスにおいては、「死ぬ」それだけでいいではないか。問題はどういう死に方をするのか、ということであって「死んでから、何処に行くか。そんなことは知り得ないし、知っても無意味である」、というニュアンスであったのだろう。それに対して、イエスはあの有名な言葉を語られた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。この主イエスの言葉がトマスに通じたのか、どうかは分からない。面白いことに、この主イエスの発言に対して、トマスに代わりにフィリポが主イエスとの会話を受け継いでいる。トマスは沈黙してしまった。このトマスの沈黙の意味は何であろう。
3. 迷えるトマス
結局、主イエスはローマの兵隊に捕縛され、十字架の上で死んでしまった。トマスは主イエスと共に死ぬことができなかった。このことについては、福音書は何も語らない。おそらく、主イエスの最期の時には他の弟子たちと共に逃げてしまったのだろう。それ以外の想像をわたしたちはできない。共に死のうと思い、願っていた主イエスは十字架の上で壮絶な死に方をして死んでしまった。トマスにとって、主イエスの死の意味は理解を超えていた。共に死んだのは主イエスと何の関係もなかった2人の盗賊たちであった。トマスは死に損なったのだろうか。それとも、死ななくて助かったのだろうか。トマスは迷った。「疑い深いトマス」である前に彼は「迷えるトマス」であった。「ディディモと呼ばれるトマス」の「ディディモ」とは普通「双子」と訳されているが、読み方によっては「2人のトマス」ないしは「二心のトマス」を意味するという解釈もある。その意味では「迷えるトマス」という意味も含む。トマスは他の弟子たちのようにユダヤ人が怖かったのではない。死ぬことなんか少しも怖くなかった。ただ、「迷った」。主イエスと共に死ぬべきだったのか。主イエスの死は単なる「犬死に」だったのか。その答えがないまま、彼は他の弟子たちから離れて、巷をさまよい歩いていたのかも知れない。それが、復活の主イエスの顕現の際のトマス不在の理由かも知れない。
復活の主イエスが最初に弟子たちに顕現されたとき、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。これは文字通りそういう状況であったのだろう。まさか、ここに復活の主イエスが現れるなどとは思いもしていなかった雰囲気である。彼らは主イエス復活の知らせを聞いていたのかも明確ではない。ペトロとヨハネは一応、主イエスのご遺体が納められていた墓地に出かけ、空っぽであったことは確認していることになっている。しかし、それもいろいろに解釈できる。確かなことは、弟子たちが主イエスの復活を信じていなかったということであろう。もし、信じていたのなら、こんなに怖がるはずがない。頑丈に戸締まりしている部屋の中で、身を寄せ合い震えていた弟子たちの「真ん中に立ち」、主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と声をかけ、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
4. 疑い深いトマス
さて、本日のテーマは、そこにトマスがいなかった、ということから始まる。トマスがそこにいなかった理由については何も述べられていない。ともあれ、10人の弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た」と語った。ところが、トマスは弟子たちの言葉をそう簡単には信じない。おそらく、他の弟子たちとトマスとの間でかなり激しい議論がなされたことだろう。ここで、興味深いことは、最初の顕現の時、主イエスは弟子たちから言われたのでもないのに、「手とわき腹とをお見せになった」らしい。10人の弟子たちはトマスにそのことも語ったにちがいない。その時、トマスは、「そうか、あなたたちは見たのか。でも目で見るということは確かではない。目は見間違うこともある。幻想ということもある。あなたたちは、そこを触ったか」と言ったに違いない。なぜなら、トマスは「わたしは、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20:25)と主張しているからである。この主張の中に、「死んだ後の世界はない」という哲学がある。存在するものは、時間と空間の支配の中にあるもの、つまり「触れることのできるもの」、それがすべてである。人間は死んだらそれですべて終わりである。主イエスも死んだら、それで終わりである。だからこそ、「どのようにして死ぬか」ということが、人生の目標になる。これによって、「疑い深いトマス」は確立した。そこまで言われたら他の弟子たちはもう言葉がない。
5. 信じるトマス
復活の主イエスの次の顕現は「8日の後」であった。なぜ、8日後なのか。理由は書かれていないが、弟子たちは「8日の後」には主イエスが顕現するということを期待していた。これは明らかに、安息日の翌日、つまり日曜日を主日とすることが定着し始めた状況を示しているのだろう。トマスは疑いつつも弟子たちの集いに参加した。ここにトマスの信仰がある。
トマスは決して頑なではなかった。むしろ、真の意味での真理の探究者、その意味では求道者である。だからこそ、自分の疑いをハッキリさせたいという思いで、そこに出かけたのだろう。これが本当の「懐疑」である。信じられないことは信じられないこととして、大いに疑ったらいい。そして、その疑いを晴らすために、真理を追究したらいい。「信じられない」ということと「信じる」ということとは隣合わせであって「対立・反対」の関係ではない。「信なき我」ということが本当の信仰の自覚でさえある。むしろ、聖書が語る信仰の反対は「かたくなさ」「不誠実」「偽り」、要するに「経験しているのに知らないと言うこと」「信じているのに信じていないと言うこと」、「見ているのに、見ていないと言うこと」、「見ていないのに、見ていると言うこと」、これが信仰ということの正反対のこととして聖書は語っている。おそらく、トマスの耳にはあの時のあの主イエスの言葉が鳴り響いていたのだろう。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。
トマスが信じられない理由は「復活された主イエスに出会っていない」ということにつきる。これはトマスをはじめ信じられない者たちにとっては大きな慰めである。「わたしが信じられないのは、経験していないからであり、この無経験ということはわたしの責任ではない。」
興味深いことは、この物語において「信じられないトマス」は不信仰者として批判されていない、ということである。「信じられない」ということは「不信仰者」ということではない。信仰の反対は不信仰ではない。
復活者主イエスがトマスに現われたとき、トマスは信じた。トマスは「見る」という経験したから信じた。しかし、その「見る」という経験はトマスがはじめに言っていたような「見方」ではない。彼は「あの方の釘の跡を見た」わけでもなく、彼の指を釘跡に入れたわけでもないし、その手をわき腹にいれたわけでもない。復活のイエスが彼に現われたのである。復活のイエスはトマスに「あなたの手をここに当てて、わたしの手を見なさい」と言われた。しかし、トマスにはその必要はなかった。もう、彼は復活の主イエスに出会ったのである。明かに、トマスがはじめに要求した「見る」ということと、「復活の主イエスとの出会い」とは次元が異なる。
ヨハネがトマスに割り当てたキャラクターは重い。「死んだ後の世界」とは何か。そんなものはあるのか。丹波哲郎のように単純に、断定的に死後の世界のことを語れるのはおめでたい。現代人はお笑いとかギャグならともかく、そんなことではもちろん納得できない。ヨハネは実に困難な問題を提出したものである。結局、この物語をどれ程分析してもトマスが、なぜ「信じられたのか」分からない。ただ、復活の主イエスを見ただけである。いや、そうではない。復活の主イエスを見たということは、そういうことなのだ。問題は、この「見た」という事実そのものである。この「見た」というのは肉体的視覚機関での出来事ではない。主イエスはトマスに言う。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」この言葉は何を意味しているのだろうか。トマスは「見た」から「信じた」という。しかし、トマスの「見た」という経験は肉体的視覚機関で「見た」のではない。その意味では「見ていない」。これは何回繰り返しても同じところをぐるぐる回転するだけである。つまり、ここでは「見る」ということと「信じる」ということとが同一化している。「見たから信じる」ということと「信じたから見える」ということが一体化している。
6. 「わたしの主、わたしの神よ」(20:28)
主イエスを信じたトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言う。これこそが最も簡潔な、しかし十分は信仰告白である。主イエスの前にひざまずくトマスには、もはや迷いも疑いもない。主イエスがトマスの生と死とを支配する「主」である。トマスは「生きることも、死ぬことも」すべて主イエスに委ねることができた。
ヨハネ福音書における「主」という言葉の用法を調べると、特別な意味はまったくと言っていいほどない。ほとんど日本語の「先生」という言葉と同じで、ごく普通に目上の人に対する呼び賭の言葉である。しかし、日本語の「先生」という言葉も同様であるが、「わたしの先生」というと、これには特別な意味が込められる。「わたしの主、わたしの神よ」という言葉を繰り返し唱えていると、だんだん「わたしの主が、わたしの神である」という言葉に聞こえてくる。わたしの先生がわたしの神である。これはすごい。あらゆる哲学、あらゆる神学を揺るがす主張である。哲学者パスカルの言葉に「哲学者の神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言葉があるが、それに匹敵するほどの言葉である。わたしたちの信仰告白は、これで十分であり、これに付け加えるべき言葉はない。
このトマスの信仰告白の言葉はヨハネ福音書の1章14節の言葉と響きあう。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。ヨハネ福音書の本体が20章までとすると、明らかに1:14と20:28とはセットになっている。これこそがヨハネ福音書の初めから終わりまで貫く中心テーマである。
7. わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
どうしても最後に論じておかねばならない厄介な言葉がある。ここでいう「見ないのに信じる人」とはどういう人たちをいうのであろうか。トマスのような人なのか。見ないのに信じるということは有り得るのか。その場合「見ない」とはどういうことなのか。トマスは「見た」から信じたのである。それならば、ここで言う「見ないで信じる人」とは誰のことなのだろうか。
トマスの復活経験は他の弟子たちとかなり異なる。他の弟子たちは「予期していない経験」であった。しかし、トマスは願って、求めて復活の主を見た。それは弟子たちとの交わりの中での経験であった。そこで重要なことは復活のイエスが「現われた」場である。ヨハネ福音書によれば、主イエスが最初に現われたのは、復活の日、つまり日曜日で、弟子たちが集まっていた中に現われており、次ぎに現われたのがその8日あとつまり次の日曜日で、やはり弟子たちが集まっている中に現れている。これは何を意味するのだろうか。結論を言うと、これは教会における主日礼拝における主イエスの顕現を意味している。復活の主イエスにお会いできるのは教会における礼拝、特に聖餐式においてである。トマスはこれを経験した。その意味で、トマスは「見て信じた人」と「見ないで信じた人」とを繋ぐ真ん中に立っている。
一つだけはっきりしていることがある。それは初代教会から信仰を受け継いだ第2代以後の信徒たちは、トマスを含む弟子たちが経験したようには復活者イエスに出会うことが出来ないということである。その点では使徒パウロも同じである。主イエスの直接の弟子たちの「復活経験」と使徒パウロをはじめとするその後の信仰者たちにおける「復活経験」とはその点で異なる。教会における交わりでおいてわたしたちは復活の主イエスと出会う。
補遺:小説「デドモと呼ばれるトマス」(赤木孟一、冬樹社 1975.12.24)
劇作家赤木孟一は、「デドモ」とは双子という意味であるということを鍵としてトマスをイエスの兄と設定して物語を展開しています。バルティマイやザアカイ、イスカリオテのユダや盗賊バラバ、ニコデモなどが、福音書に登場する人物にそれぞれキャラクターを与えて登場させ、当時の政治的状況を背景とするドラマに仕上げています。当然、完全なフィクションですが、それだけに少しでも新約聖書の時代に興味を持っている者には、豊かなイマジネーションを与えてくれます。30年ほど前に出版され、その当時買って読みましたが、あまり面白いとは思えませんでしたが、現在読み直してみると、なかなか読み応えがあります。この人にはもう一つ「ニネベ」という作品があるそうですが、そちらの方はまだ読んでいません。