落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>エッファタ

2006-09-07 20:36:13 | 講釈
2006年 聖霊降臨後第14主日(特定18) (2006.9.10)
<講釈>エッファタ   マルコ7:31-37

1. 旅程の問題
福音書の研究者の間では先ず、31節の「ティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へ」という旅程が問題になる。つまり、実際にここに記されている地名をたどるのは非常に不自然だというのである。確かにその通りだろう。その点については、いろいろ意見があり、想像をめぐらしてもあまり意味がない。むしろ、ここで重要なことは、イエスはガリラヤ湖畔から遠く離れた諸地方を巡回し、久しぶりに「ガリラヤ湖」に帰ってきた、ということが重要である。イエス自身も、また同行した弟子たちも久しぶりに懐かしい「ホームタウン」に帰ってきてホットしたという雰囲気が重要である。それはイエスと弟子たちの側の事情である。
ところが、同時に「ガリラヤ湖の人々」にとっても、「やっと帰ってこられた」という一種の安心感というか、歓迎の雰囲気がある。それこそ、「待ってました」というムードである。早速、人々はイエスのもとに「耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(32節)という言葉にはそのような思いが込められている。
2. 病人の癒やし
ここに、一般の人々のイエスに対する評判が最も端的に示されている。イエスが自分たちの町やあるいは村に来られるという情報を得たら、先ず人々は何を考えるのか。福音書ではしばしば、人々はイエスをどう思っているのかという問いかけをしている。その答えは「メシヤである」とか、「預言者である」とかいろいろであるが、そういうことでは一般の人々がイエスをどういう人物であると思っていたのかは明白ではない。そういうかしこまった答えよりもむしろ、本日のテキストが明白に答えている。人々はイエスがこの町に来られるということを聞いたとき、「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(32節)のである。これは単純明白である。イエスが近くに来られると聞いたら、ほとんど反射的に、イエスのもとに病人を連れてきたのである。
その意味では、わたしは非常に恥ずかしい思いをしている。信徒から、あるいは信徒でなくても、誰かが病人を連れてきて、「この病人のために祈ってください」と頼まれたとき、慰めとか、励ましのために祈ることができても、その人の癒しのために祈ることができない。その時ほど、聖職者として無力感を感じることはない。昔、わたしが所属していた日本ホーリネス教団では、信仰の柱として「新生・聖化・神癒・再臨」を四重の福音として強調していた。と言っても、日本ホーリネス教団のすべての聖職が神癒を行うことができるということではなく、神癒を行うことができる「特別な賜物」が与えられている聖職がおり、年会や季節ごとの聖会などで「神癒会」が開かれていた。現在もそれが続いているのかどうか不明である。日本ホーリネス教団には聖ルカ国際病院のような立派な病院はないが、彼らには「神癒」という信仰があった。病院であれ、神癒であれ、教会にとって病人の癒しということは重要な課題であることには違いがない。
3つの共観福音書の中に、イエスが病人を癒やされたという記事が115件もある。この数を多いと考えるか、少ないと考えるか。頁数でいうと、共観福音書は全部で187頁あるので、ほとんど毎頁病人の癒しの記事があることになる。ところが、福音書を離れると使徒言行録には多少見られるものの、パウロの手紙ではほとんど取り扱われていない。はっきり言って、使徒パウロはイエスの働きの大半は病人の癒しであったことを無視している。無視というよりも、避けているといった方が正しいかも知れない。特に、本日の記事で見られるような呪術的癒しの業はその後に発展したキリスト教のイエス像とはかなり異なるものがある。ここに描かれているイエスの姿は礼拝堂の奥に鎮座するキリストのイメージというよりも、町の片隅で埃にまみれて、病人を癒やしに奔走する「いかがわしい呪術師」のようである。
3. エッファタ
ここでのイエスの癒しの業については、癒しの方法(手法)が、「この人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた」(33,34)と、細かく語られ、特にそのクライマックスで「エッファタ」という原語がそのまま残されている。5章でのヤイロの娘の癒しの時にも「タリタ・クム」という原語がそのまま記録されていた。つまり、こういう言葉がそのまま残されているということは、その資料が「反省的」フィルターを掛けられずに、地方独自の伝承として、その印象的な手法と共に人々に語り継がれてきたことを示している。マルコは意図的にそういう伝承を収集したものと思われる。従って、ここに語られているとおりの「奇跡」が実際に行われたというよりも、イエスという人物についてそういう伝承と共に語り継がれきたということがマルコにおいて重要なことであった。
さて、ここでひとつ重要な問題がある。福音書記者が奇跡物語を語る場合に、ただ新聞記者のようにそういう事実があったということを報告するためだけのために語っているのだろうか、という問題である。むしろ、そういう個々の奇跡を収集し、それらを語るということは、イエスをそういう奇跡を行う人物として語るということである。そして、それら一つ一つの奇跡物語は、それぞれ一つの隠喩であって、実は著者の時代の重要な問題に対するメッセージを語っているということである。阪神タイガースの現状を批判的に語りながら、実はそこで語られているメッセージはそれとはまったく別なことの隠喩であるということもある。
「人々は耳が聞こえず舌の回らない人」とは、神の言葉がまったく聞こえなくなってしまっている「イスラエル(=ユダヤ人)」や、自由に発言することが抑圧されている民衆を指し示し、イエスをそういう状況からの救済者として語っているのではなかろうか。これは隠喩であるから、明白なことはわからない。それこそ、「耳あるものは聞くべし」である。
4. 「すべて、すばらしい」という評価
そこではじめて、一人の言語障害の人の癒しの出来事とは不釣り合いな賛辞が出てくる理由がハッキリする。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。賛辞としてこれ以上のものはない。この言葉に続く「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」という言葉はイザヤ書35章5節からの引用であるが、この「この方のなさったことはすべて、すばらしい」に対応するイザヤの言葉は「神は来て、あなたたちを救われる」(35:4)である。マルコは意図的にこのイザヤの言葉を「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉に入れ替えたのではなかろうか。この言葉の入れ替えによって、イザヤの言葉がこの場の言葉に変わり、この場の出来事がイザヤの預言に変換される。これは明らかに隠喩のレトリックの一つである。
5. 沈黙の命令
学者の間では、ここでイエスが「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」人に対して、「このことを(誰にも)話してはいけない」と口止めをされた(35,36)ことを問題にする。なぜ、イエスは口止めされたのか。いろいろ事情があったのだろう。現在のわたしたちには理解できないような事情があったのだろう。わたしがそれらの事情のすべてを把握できるわけではない。「しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」(36節)という言葉の方がより重要である。彼は今まで「舌がもつれて」、自由に話したいことも話せなかったのである。それが、今話せるようになった。しかも、話せるようにしてくれたのは、イエスである。このことを黙っておれということの方が無理である。話して当然。イエスは話せるようにしてくれたのである。そして、彼の語る言葉はただ一つ。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。

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