昨日は「みどりの日」。かつては天皇誕生日といわれていた昭和天皇の誕生日であった。たまたまゴールデンウィークの入り口であったというので、彼が亡くなっても「みどりの日」とかわけのわからないネーミングの祝日になって残ったのだ。国民に大型連休をサービスする、という意味なので反天皇主義者も強く異論は唱えてこなかったと思う。ま、今の天皇もクリスマスイブの前の日という微妙なところに生まれたおかげで冬休みを微妙に調整してくれる感じで、日本の教育に貢献している。
ところが最近「みどりの日」を「昭和の日」に使用という動きがあるので要注意。かつて天皇の誕生日を「天長節」と言ったことは教育社会史研究室の諸君なら周知のことだよね。で、11月3日は今では「文化の日」だが、この日に叙勲があるのは(4月29日にも春の叙勲がある)11月3日がかつい明治天皇の誕生日で、後に彼の偉勲を記念して「明治節」という祝日にしていたからに他ならない。「みどりの日」を「昭和の日」にするならば「文化の日」も「明治の日」となって復活するだろうし、「勤労感謝の日」もかつては「新嘗祭」であったから、次第に天皇制の色彩が強く出てくるね。研究室の恒例の「紀元節」集会はこの日が祝日なんかではなく働く日であるということで祝日化に反対し、僕は学生に説教をする、カミさんは料理を作る、学生諸君はいやいや教員の顔色をうかがう、といったサブ労働の日としたのだ。すごく学術的であり、社会運動的なのだ。
そういうわけで、昨日は働いた。『日本の教育史学』の最終的な採点作業だ。各委員の採点結果を集計して5月7日の編集委員会で最終的に論文掲載者を決定する。みんながんばろうね。
細かいことは立場上言えないが、ここに載せることはそんなに難しいことではない。一番重要なのはその研究が研究史的に意義があるかどうかだ。重箱の隅をつつくだけだったり、自分だけのゆがんだ視野から抜けられなかったりする程度の課題意識では相手にされない。それから、自信だな。自分の研究に対する自信だ。誰かに評価してもらおうとか、「何点くらいかな?」というような感覚が見えるとそれだけで通らない。けっこう実力者と言われる人々も投稿してきている。彼らの強みは自信だ。自分の研究が第一線に位置付くことをよく知っているので、書き方にも、査読者に対する「申立書」にも余裕がある。院生の論文でもいいものはそうした自信がみなぎっている。自信というのはキャリアや地位が持たせるものではなく、納得のいく研究をしたという実感がなせるものだ。
だいたい博士課程くらいになれば専門家のはしくれであろう。いちいち指導教員におうかがいを立てるような指導を求めていたのでは一人前とは言えんぞ。指導教員の指導助言なんてキャリアにモノを言わせた、権威主義的な教育アリバイに過ぎない。専門家は自分なんだ、という自負がなければ、どこに出したって通るわけがない。博士課程になればチマチマした指導はしない、論争ならする。こういうふうにいきたい。だいたいよくわかっていないセンセにいらん指導をされる方がストレスになるだろう。研究指導は研究の内容を指導教員に教えてやる程度でいいのだ。で、指導されているようなら、まだ博士課程の研究能力には達していないということだな。素人の指導教員あたりにディスカッションで負ける程度ならどこでも通らない。まして、専門外の他分野の教員に論破されるようではムリムリ…。
次は15日だが、定例の研究会でも発言が少ない。研究者としての自覚が足りないのだろう。指導教員のお言葉を待っているようだと指導教員はますます増長してよけいなお説教を始めるに決まっているのだ。博士課程であればすでに人を指導するだけの力量を身につけていなければならないし、修士課程の人間とて同じコト。研究の世界は研究の能力だけが勝負なのだ。年齢もキャリアも関係はとりあえず、ない。ディスカッションがいちばん研究能力を高める。だから研究者は学会を作り、研究会を組織するのだ。自分たちのために。
本日、僕はさぼっているからどんどん追い越してゆけ。