新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

学会で発表するということ

2009年11月09日 19時55分17秒 | 学府教育情報
近代日本中学校制度の確立―法制・教育機能・支持基盤の形成
米田 俊彦
東京大学出版会

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もうすぐ九州教育学会が開催される。地方学会でもあるし、見知った会員が多いという気楽さもあるだろう。しかし、それでも学会は学会。発表を控えて緊張している人も多いだろう。なにしろ普段は研究室の中だけで指導教員の言うことだけを信じて来たものの、学会では他の研究者の目にそれが晒されるのだ。
今、他の研究者の目に晒される、と書いたが、それは自分の指導教員以外の人に見てもらう、ということではない。学会の会員として発表する限り、それは教員も院生もない。ひとりの研究者として対等の存在で参加しているのだということをまずは肝に銘じておくべきだ。
それは学会で発表するということは研究成果を世に問う、ということである。ゼミの発表を公開するということではないし、学習成果を誰かに見てもらうことでもない。まして、業績づくりと称して、発表1本というアリバイを作ることでもない。
学会は教育学の進展に寄与するべき研究成果を報告する場であって個人の功名心を満足させるためにあるわけではない(そういう下心は動機として否定しないが)。そこで発表したものは世界に公開されたものであって、どこの誰から批判されて然るべきものであるし、そういう責任がともなうものなのである。だから場合によってはさんざんに扱き下ろされることもあるだろう。
それを「他の先生方による指導」などと勘違いしてはいけない。学会は指導の場ではないのだ。よその院生の指導のために旅費を払って出ていくような暇人ではない。あくまで先端の研究成果を得に行くために研究者が集まるのだ。
だから発表したものが批判されたり、非難されたりすることは、研究書の類が時として書評なんぞでコケにされるのと同じことだし、見解の異なる研究者からは否定されることだってある。くだらないものはくだらないと言われる。そういう社会的責任性のあるものなのだ。
九州教育学会は小さな地方学会である。しかし、研究会のような閉じた存在ではなく、そこで発表するということは一研究者として(院生として、などという甘えは赦されない)学界(世界の「界」だ)に問うことだ。「修士論文の一部をまとめてみました」などとふざけたことを言ってはいけないのだ。たとえ、修士論文の一部であったとしても(おそらくは素晴らしい論文であったのだろう)、その一部は学会(学界)になにがしらの貢献をするものだという自負が必要だ。
昔、僕が初めて学会発表をしたとき、恩師の先生は僕の原稿に目を通してこう言われた。
「これなら学会になんぼか貢献出来るナ」
この一言が自分を支えている。軽々に業績稼ぎや、ゼミの学習成果のまとめのために学会発表はするものではない。そこは常に研究の最先端の論争の場なのだ。
発表を控えた院生諸君、覚悟をして学会に臨もう。