新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

史実の証明

2008年04月25日 17時17分56秒 | 教育・研究
 論文の批評をするとき、揚げ足をとろうとするのはやめた方がいい。先般の鈴木論文を読んだときに、行幸に小学校を訪れたのは異例だった、という鈴木の説明にそれは異例ではなく「先駆」であった、と言おうとする批評が出た。これはどういう意味を持つ批評なのだろうか。鈴木さんは明治9年の段階でわざわざ視察する必要のない郡山小学校に天皇を立ち寄らせたことの意味を言いたかくて、「異例」という評価をした。それに「否」を唱えるのは「敢えて天皇を郡山小学校に立ち寄らせた」という御代田の戦略はなかったと言うことになる。それが無かったと言うことになると、この論文の枠組みをすべて否定することになる。それならばなぜ最初からその枠組みを批判しないのか。批評というのは揚げ足をとるのではなく大きな枠組みについて議論することなのだ。とりあえず誉めておいて最後で落とす。こういう手法はよくないし、殊に若いときにはやるべきではない。
 このように「あること」を批判のために否定してみるのならば、必ずそのように否定したがるのは何のためか?という再反論にあうであろう。つまり、天皇はふつうに郡山小学校を視察し、御代田もふつうに郡山小学校に案内し、この行幸に格別の意味はなかった、ということになる。そういう説をほんとうに立てたいのか、ということになる。答は用意してないだろうから、苦しくなるぞ。
 もっともこの場合は揚げ足をとるための批判であったから、批判にはならない。つまり「異例」でも「先駆」でも「明治9年の段階ではありえないこと」ということは変わらないからだ。
 似たようなものに渡嘉敷島において「日本軍の住民自決命令はなかった」というものがある。曽野綾子の手法についての問題ではない。曽野綾子は作家としてぎりぎりまじめな仕事をしたのだと思う。だから、曽野綾子自身も日本軍と住民の関係については相応の把握はしている。しかし、なぜ敢えて自決命令はなかったことを証明したいのか、という問いは残る。これに答えているのは曽野綾子ではなく旧日本軍を免罪したい人たちだ。そのようにひとつの事実についての評価は全体に影響を与える。
 軽軽に揚げ足はとらないことだ。自分に返ってくる。

沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった! (ワックBUNKO)
曽野 綾子
ワック

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歴史への問題意識

2008年04月24日 21時58分26秒 | 教育・研究
 教育史研究を何故しているのだろうか。教育史の論文を何故書くのだろうか。
 業績を作るため、だっらやめた方がいい。例えば明治初期の福島県。そこに血塗られた歴史がある。なにしろ数年前に身内がいくさで死んだのだ。自刃にしろ殺されたにしろ、身内のいのちを奪い、故郷を荒らし、誇りを踏みにじった憎い敵が薩長であり、明治政府なのだ。その思いをどれだけ共感できるか。それなくして事実(のような記述の断片)を並べることに何の意味があるだろうか。それを感じ取らないと明治初期の福島の教育について研究はできない。
 ゼミで鈴木 敦史「明治9年奥羽・函館巡幸における天皇の学校訪問―福島県郡山小学校を事例として―」(『日本の教育史学』第49集 2006年)を読んだ。明治9年の天皇巡幸を素材としたものだ。この巡幸は今になぞらえて言うならば、バグダッドにブッシュが出掛けていくようなものだ。その歴史状況の認識と、その場でいろいろな対応をした人たちのそれぞれの屈折した感性に気持ちが至らないとこの論文は読み解けない。入試の日本史の穴埋め問題とはちがうのだ。
 萩市と会津若松市は友好関係を作るには時期尚早だということで未だ打ち解けていないようだし。そういうことが感じ取れないようでは歴史をやってはいけない。

会津戦争全史 (講談社選書メチエ)
星 亮一
講談社

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