新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

教育基本法改悪ストップ!集会

2006年05月14日 22時34分44秒 | 教育問題
 午前中はF教組の明日を拓く教育セミナー。教組の明日を担う教師たちに「日本利教育の歴史」の講義をしたのだ。今回はCDを流すなど趣向を凝らしたのでまずまずの出来。なにしろ教組の本部で君が代をかけてみた。すごいだろう。あと教組側の要望で教育基本法についてのお話を少しして終了。その足で警固公園へ。警固公園で表題のような集会を行ったのだ。とりあえず僕は名目上の実行委員長。開会の挨拶をしたし、天神の街の行進の先頭にも立った。そしたら予定表に学生から「テレビみたよ」という書き込みがあった。見られたか。集会にはN屋くんも来ていた。
 で、総括会という夕食会を終え、二次会をさり気なくフェイドアウトして蛙。


教育基本法改正論批判―新自由主義・国家主義を越えて

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連休中も…

2006年05月02日 15時31分25秒 | 教育問題
 本日、午前中は福岡市PTA協議会に集合。16日に行う役員研修会パネルディスカッションの打ち合わせを行った。主題は「家庭教育の再生をめざして~生活リズムは『早寝・早起き・朝ごはん』から~」というもの。「家庭教育の再生」とはいうものの家庭教育は再生するものではなく(元々あったものがなくなったのではなく)、新しい時代の新しい家庭教育が必要になっているのだということなんだけど。夜更かしの新谷がコーディネイトする。
 午後は県庁で記者会見。教育基本法「改正」案が国会に出されるので、なんとしても改悪を阻止せねば!ということで、5月14日13:30に警固公園で大集会をやる。多くの学生、市民、労働者諸君結集したまえ!………ということで、その宣伝のための記者会見であった。教育基本法を変えるということはとてもたいへんなことであるとともに今回のような改訂は国家と国法のありようを無教養なレベルで変えてしまう恐ろしいものでもある。教育学に何らかの形でかかわる以上、真摯に考え、行動していかないとならないのだ。
 そんなところに研究院長から連絡があり、某プログラムに関することで相談。ああ、いろいろたいへん。研究室に出勤して雑用をすることになる。で、別件で某氏と密談。連休中だというのに…しかし、明日からはみっちりお休み。携帯は切ることにした。連絡はいっさい受け付けないプライベートな3日間にするのだ。



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新聞コメント

2006年02月26日 10時18分57秒 | 教育問題
 土曜の午後に西日本新聞社から電話があって、「三重県でやっている日教組の全国教研集会で教員のアンケートをしたら家計の格差が学力に影響しているという実感を多くの教師が持っているようなので、コメントを…」ということだった。新聞の電話取材は基本的に人にまわしているのだが、先日、福教組の共同研究者でもあるし、福教組教育総研のニュースに寄稿したりしたこともあって、ちょっと記者と雑談をしていたら結果的にコメントしてしまった。本日の一面に載っている。
 まとめがマスコミ的に「格差が広がるぞ」という警告みたいにしていたので、「一人ひとりの子どもに配慮した教育」を求める、というふうに変えた。
 経済力で格差が広がっているのではなく、根底にある教育のあり方がおかしくなっているのが、経済的な格差化で露呈したということだろう。経済力=学力、ではない。家庭環境=学力の要素はいくぶんはあるだろうが、大きいのは学校の教育力=学力、だ。
 例えば鳩山さんちはみんなあたりまえのように東大を出ている。それは鳩山家という文化環境のなせるところが大きい。品のない言い方をするけど、無教養な親が「勉強せい!」と怒鳴りつけても、金に物言わせて塾を買い取ろうとも、子どもの学力はそうそう伸びるものではない。学力の根底にある学びの力は、人間を見る眼であり、社会を見る眼であり、自然を見る眼である。そうしたものを培う学校の教育力が受験指向の趨勢の中で摩耗してしまったと言っていいだろう。
 M地区の先生たちが今、子どもたちの生活実態と学力の関係を調べている。これは単なる統計的傾向を見るというのではなく、一人ひとりの子どもの抱えている問題を診断し、一人ひとりをたいせつにする教育をめざしているからだ。この結果は9月3日に行われるM地区「」教育研究集会で世に問うことになっている。


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心のノート

2005年04月17日 01時24分49秒 | 教育問題
 今日は教育総研の心のノート検討会。この会の特徴は一人一人の一家言が長いこと。僕も負けられないので長々としゃべってしまった。
 『心のノート』はたぶん特別なファシストを養成するのではなく、素朴で少し差別的なふつうのおっさん、おばはんを作るのがねらいなのだろう。道徳教育としてはそれでいいのだし、普通に国家を信じる人を作りたいのだということ。だから手強いのだ。教育効果は何もしなくても出てくるのだから。
 で、この件については教組だから『心のノート』を使います、とは言えないらしく、『心のノート』にはとりあえず反対しなくてはいけないらしい。結局は『心のノート』の各単元を反面教師としてみる、みたいな発想になるのかな。それじゃあつまんない。積極的に使うような手引き書を作りたいな。個人的にでいいから。

心のノート4

2005年03月02日 23時02分35秒 | 教育問題
そんなわけで「心のノート」の正しい使い方マニュアル、ないしは指導の手引を作ってみよう。但し、僕自身は護憲派ではないけど、なるべく多くの人々が使えるように細かいことにはこだわらない方針を取りたい。
大まかなプロット
0.はじめに
1.道徳の目的
2.学習指導要領に準拠するということ


心のノート3

2005年02月28日 22時31分42秒 | 教育問題
 先ほど学習指導要領からの引用を示したように、『心のノート』は学習指導要領の道徳に準拠して編成されている。なぜそうなったのか。それは特設道徳が「学校における道徳教育は,学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間をはじめとして各教科,特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。」とされて専任の教員を置かずに実施されてきたことに起因する。そのことで道徳の設置に反対した勢力は道徳の授業を何もせずに放置したり、人権教育で代替したり、道徳らしき内容を思いつきでやってきたのではないかと思う。そのツケとして文科省はきちんと学習指導要領によらない教育が行われているという認識に立ち「指導者によっては、計画的・発展的学習とはならず、児童生徒の受身的な学習あるいは偶然的な学習に待つしかないといった状況も生まれかねない」と標的を明確にしている。つまり文科省の期待する方向に沿わない指導者を非難しているのである。だから学習指導要領の内容をきちっと具体化した編成を強調しているのである。
 一方、『心のノート』の使用状況については行政による調査が行われている。これは国会における道徳教育派(ふつう当人は不道徳な人物が多い)による使用強迫の調査であった。聞くところによれば地方議会でもそうした道徳教育派の議員の質問に対応するためのバックデータとして必要だという言い訳がなされている。良心的な行政人の言い訳としてそのままうかがっておくとしても構造的には使用強迫であることに変わりはない。いらんところでペナルティとなって教員の査定に絡んできたらこれはイヤなことだ。
 で、先ほどのところに戻れば、文科省につけ込まれない正しい使い方をすべきなのだ。つまり、学習指導要領に準拠して使う、のだ。えっ!そんなことできるか!って言われるかもしれない。他の教科はみんな学習指導要領に則って教えているだろう。それと同じことなのだ。
 まず学習指導要領の体系を見てみよう。
 総則の「第1 教育課程編成の一般方針」の2には道徳教育について以下のように記載されている。

2 学校における道徳教育は,学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳の時間をはじめとして各教科,特別活動及び総合的な学習の時間のそれぞれの特質に応じて適切な指導を行わなければならない。
道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め,進んで平和的な国際社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。
道徳教育を進めるに当たっては,教師と児童及び児童相互の人間関係を深めるとともに,家庭や地域社会との連携を図りながら,ボランティア活動や自然体験活動などの豊かな体験を通して児童の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。

 道徳教育き教育基本法の根本精神に基づかなくてはならないのだ。ほら元気が出ただろう。教育基本法改定を阻止する気持ちも湧いてきただろう。改訂されたところで問題はない。中教審の改訂方針はここでは特に我々の意図する道徳教育と抵触することはない。この学習指導要領に書かれている「日本人を育成する」という部分は教育基本法改定前からもう強いられていることなのだ。
 重要なのは「個性豊かな文化の創造」と「民主的な社会及び国家の発展」だ。最初に書いたことを思い出してほしい。戦後教育の中で私たちは国家の問題について議論を避けては来なかったか。そして愛国心についても沈黙してこなかったか。「いや、愛国心には反対してきた」という人がいるかもしれない。じゃ、あなたはどういう国家論を持っているのか。愛国心に反対してきたと言う一方で他国の愛国者や民族主義に同情的ではなかったか。現実にこの国際社会の中でこの国家にすがらずに生きているというのか。そしてこの国家に雇われて糊口を凌いでいるのではないか。愛国心について問わずに日の丸、君が代に組織の路線にしたがって反対してきただけではないのか。
 ごめん、言い過ぎた。重要なのは戦後ナショナリズムについては真摯な議論は教育界ではなかったということだ。しかし、たいへんな事態を迎えている。このところ選挙の投票率は落ちている。しかも、若年層ほど低い。これは何だろうか。学校教育の中で民主主義について何も教えて来なかったことの帰結ではないのか。選挙という議会制民主主義の制度に否定的な人もいるだろう。しかし、そうした暴力革命論者が大多数だとは思わない。明らかに学校で民主主義教育を怠っていることの証左なのだ。ここでこそ日教組は何をしてきたのだ、と言いたくなる。日教組が戦後教育をダメにしてきた、というのは右翼の専売特許ではなく、組合員自身が持って瞑すべきなのかもしれない。ちゅうことは「民主的な社会及び国家の発展」という最終目標を掲げて我々も『心のノート』を体系的に使っていこうではないか。平和と民主主義のために、国際平和と人民連帯のために。

 つづく



心のノート2

2005年02月28日 20時34分37秒 | 教育問題
 『心のノート』は逐一読んでいくと、「問題点はいっぱいある」、とおそらく多くの人が指摘するであろう。いま手元にある団体が作った『心のノート』を批判した文書がある(まだどこの団体かは公表しない。僕のメモが一定のかたちとなって世に出すときに明示しよう。なぜなら、足下から制限を受けたくないので)。例えば「自由と権利」の視点からみれば、権利は義務を条件としてしか扱われていない、といった批判である。そうして子の『心のノート』は教材としてよろしくない、という批判だ。しかし、それはおかしい。教材としてよい教材とはどういう教材なのだろうか。完璧に正しい(と思う)教材があるとしたら、それはそのことにおいて子どもたちに教師が正しいと信ずる価値観を教え込むという使い方しかできないものになってしまう。『心のノート』はいろいろな側面から問題の多い教材が盛り込まれている。『心のノート』の内容に問題が多ければ多いほど、道徳の教材として活用の価値は高いと考えなければならない。そのことは大いに喜ぶべきことであったのだ。しかし、教材によっては「使いやすい」という意見もよく聞く。多くは批判力に乏しい人の声だ。今のところ、批判することじたい考えたことのない人々に批判力をつけてもらうためにもそれはいいことだ。
 例えば小学校1・2年用に「うそなんかつくもんか」という教材がある。前述の批判文書には「「うそはいけない」は常套句。うそをついていると心がすっきりしないという経験は誰でもあるはずだ。子どもは明るくなければ、という決め付けの中では子どもは本当の気持ちは飲み込んでしまうだろう。そして、…略… 内心の自由は、子どもに保障されている権利である。子どもの権利条約の発想は抜け落ちている。」と酷評している。だからダメなのだ。学習指導要領では「1 主として自分自身に関すること。」の中の「(4) うそをついたりごまかしをしたりしないで,素直に伸び伸びと生活する。」で扱う教材だ。この内容を深めていくことが大切なのだ。「うそをついてはいけない」というのは正しい。但し、「うそをつかなければならない」「うそをついてしまった」というような人間の行為を問題にするのは応用問題なのである。そして人間の現実的な課題は応用問題の中にある。この教材から子どもたちは大きなことをたくさん学べる。人間はうそをついてはいけないが、うそをついて悔やむ人間もいればうそをつかないと生きていけないときもある。「うそは方便」という別の常套句もある。うそをついてしまって悩んでいる子もいればほんとうのことを言ったばかりに人を傷つけた子もいる。かつ、うそと詐欺とのちがいとか、うそをついても告白しなくていい自由だとか、それこそ子どもの権利条約もこうした子どもの権利が疎外されようと言う事例の中で意味がわかるというものだ。そして安易に「そういう自分は「きらいです」と書き込もうとした人間にオレオレ詐欺とか、振り込め詐欺に安易に引っかからないような犯罪から身を守る基本まで教えられるのだ。「簡単にサインをしてはいけません」というのは蓋し名言だ。殊に『心のノート』に書き込むときには詐欺にひっかからない、カルト集団に引きずり込まれない恰好の練習台となる。
 事例検証が長すぎた。つづく


心のノート1

2005年02月27日 17時39分25秒 | 教育問題
 今日(27日)は教育総研の「心のノート」研究会でした。10時からだったけれど、昨日の福岡県人権研究所の臨時運営委員会での辛い時間が気力を奪い取ってしまったので朝は出遅れてしまいました。 それはさておき、研究会では「心のノート」は正しい使い方をすべきではないか、という方向になりました。
 ということで。うむ。特設道徳教育は1958年に「学校教育法施行規則の一部を改正する省令」によって設置された。以後、学習指導要領に何をするべきかがきちんと盛り込まれている。しかし、文部省の教育政策に反対する人々(日教組や進歩的教育学者と自称する人たちなんか)はこれを黙殺してきた。すなわち学習指導要領を無視して、訳のわからない道徳教育を勝手にやってお茶を濁してきたし、人権教育などで代替することもしてきた。問題は国=文部省(文科省)はそれなりに道徳教育の目標も体系も組み立ててきた。ところが批判勢力には対抗すべき道徳教育観を持とうとしなかった。いや、何らかの道徳教育観を持つことを罪とか、恥とか思ってきたのだろう。殊に国=文部省(文科省)が問題としてきたのは愛国心である。愛国心というのは国=文部省(文科省)の国家観が底流にある。これに対して批判勢力の人々は自らの国家観さえ持とうとしなかった。この怠慢は大きなツケとして今手元にある。
 国家=悪として捉えれば、国家が出てきたとき反対すればすべて事は済む。じゃあ自分はアナキストなのか。そう自問した人はどれだけいるのだろう。アナキストであると思想的に政治的に責任を持つのならば教師という公務員になったり、野口みずきの疾走に声援を送ったり、ワールドカップに驚喜したりしてはいけないし、日本語以外の言語に熟達していないというのも問題だ(つくまり、民族言語と言ってもいい日本語に守られた文化世界=政治的には国家から出ようとしない体質を示しているダロ)。
 そういう逃避的反国家主義者ではもういられない。だって子どもたちに説明ができないだろう。日本という国家が戦争を起こし、アジア諸国を侵略したのだと教え、だから日本国を否定するという一方で、韓国の文化はすばらしい、とか、チマ・チョゴリはきれいだとか言ったところで、何を子どもたちに伝えているのだろうか。日本の民族主義は毛嫌いしているのに他の国の民族自決とか独立運動とかには肩入れするのはどうしてだろうか。
 僕は別にニッポン大好きナショナリストになれと言っているのではない。この国ときちんと向き合うことが必要なのではないかと言っているのだ。「心のノート」は無条件に国家に追従する愛国心を求めている。それならば私たちはどういう方針で日本という国家について子どもたちに教えようと言うのか。方針なしに反国家主義のみを教え、他国の民族主義や国家主義は賞賛するという姿勢ではいくばくかの思想を持った右翼から売国奴と呼ばれてもしかたない。そして売国奴であると認めることは教育公務員である自己否定をすることでもある。獅子身中の虫として闘うなどときれい事は言えない。たった一人で展望のない闘いを獅子身中の虫としてするというのは所詮ポーズに過ぎない。革命の展望くらい示さないと信用されないであろう。
長くなったので続きはまたあとで。