同僚の飯島氏とFacebookでちょっと話した。査読のことだ。業績主義が跋扈するようになったツケで論文の査読というのがしばしばまわってくる。飯島さんから「親分、査読はどうしているか」と聞かれた。(Facebookでの彼の僕に対する呼び方は「新谷ちゃん」→「新谷先生」→「親分」と変わってきている。理由はわからない。) なので、こんなふうに答えた。
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まずは論文としての体裁、問題設定が成り立っているか。引用の適切さ、史料もしくは資料の妥当性。論証の的確さ。オリジナリティ。そんなもののチェックだな。まずいものについてはどこを直せばいいか。査読だから期待は書かない。地方学会では論文としてみっともなくないことが最低基準。全国誌ではオリジナリティ、学会への貢献度だな。
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という感じ。それで今日は定例研究会だったのでこの話を出した。最低基準としてこういうことを満たしておくべきではないか。問題設定の大切さはいつも口を酸っぱくしていっているのだが、まったく身についていない。「○○はまだ誰もやっていない。」というような理由が出てくることが多い。言葉を返すならば「やる意味がないからやられていないのだ」ということになる。研究するにはどうしてもしなくてはならない理由があるだろう。それを立てて問題を設定しなくてはならない。
次いで論証の段取りだ。方法論というものがあるだろうが、これがきちんと示されていないことが多い。滔々と状況的なことが述べられて、「ということで本稿ではこれとあれとそれを明らかにしたい」というふうに「はじめに」が書かれていて、状況的な説明とやろうとしているあれこれとの関連がつかめないものが多い。引用する文献も自分の結論を保証するような引用では自分の研究の意味がない。歴史研究の根幹は史料だ。今まで誰も使っていなかった史料を使うか、新たな読み方をし直すか。いわば誰でもが知っている史料を並べて説明してもそれは研究にはならない。学習に過ぎないのだ。
最も重要なのはオリジナリティだ。地方学会であろうと全国学会であろうと、学会で研究成果を発表する限りは今まで誰も知らなかったことを発表しなくてはならない。喩え卒論であれ、修論であれ、今まで誰も書かなかったことを書かなくてはならない。それがオリジナリティと言うものだ。そのオリジナリティの質の高さが論文の出来のよさになるのだと思う。
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まずは論文としての体裁、問題設定が成り立っているか。引用の適切さ、史料もしくは資料の妥当性。論証の的確さ。オリジナリティ。そんなもののチェックだな。まずいものについてはどこを直せばいいか。査読だから期待は書かない。地方学会では論文としてみっともなくないことが最低基準。全国誌ではオリジナリティ、学会への貢献度だな。
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という感じ。それで今日は定例研究会だったのでこの話を出した。最低基準としてこういうことを満たしておくべきではないか。問題設定の大切さはいつも口を酸っぱくしていっているのだが、まったく身についていない。「○○はまだ誰もやっていない。」というような理由が出てくることが多い。言葉を返すならば「やる意味がないからやられていないのだ」ということになる。研究するにはどうしてもしなくてはならない理由があるだろう。それを立てて問題を設定しなくてはならない。
次いで論証の段取りだ。方法論というものがあるだろうが、これがきちんと示されていないことが多い。滔々と状況的なことが述べられて、「ということで本稿ではこれとあれとそれを明らかにしたい」というふうに「はじめに」が書かれていて、状況的な説明とやろうとしているあれこれとの関連がつかめないものが多い。引用する文献も自分の結論を保証するような引用では自分の研究の意味がない。歴史研究の根幹は史料だ。今まで誰も使っていなかった史料を使うか、新たな読み方をし直すか。いわば誰でもが知っている史料を並べて説明してもそれは研究にはならない。学習に過ぎないのだ。
最も重要なのはオリジナリティだ。地方学会であろうと全国学会であろうと、学会で研究成果を発表する限りは今まで誰も知らなかったことを発表しなくてはならない。喩え卒論であれ、修論であれ、今まで誰も書かなかったことを書かなくてはならない。それがオリジナリティと言うものだ。そのオリジナリティの質の高さが論文の出来のよさになるのだと思う。