新谷研究室

新谷研究室の教育・研究・社会活動及びそれにかかわる新谷個人の問題を考える。

学会というもの

2008年09月25日 01時46分36秒 | 教育・研究
学校は軍隊に似ている―学校文化史のささやき
新谷 恭明
福岡県人権研究所

このアイテムの詳細を見る


学会とはなんだろうか。若い人間にはよく考えて欲しいし、指導者にはあらためて考え直してほしい。
福岡に着任したのが1982年。26年前になる。突然見知らぬ土地に来たわけだし、その頃は交通費は今よりも高く、ややもすると東京に行けない年もあった。そういう中で中等教育史をしていた僕は研究の仲間がほしかった。しかし、個別に研究仲間はいても組織的に議論する仲間はいない。個別の研究仲間なんて言うのは「げんき?」「まあね」で、だいたい終わってしまう関係でしかない。
その不安からどうして中等教育史の研究者を組織したいと思って神辺靖光先生と相談して作ったのが中等教育史研究会だ。同じように幕末維新期の教育史をなんとかということで始まり、仲間に入れてもらったのが幕末維新学校史研究会だった。
大学史研究会に入ったのは院生の時だったが、その頃は四天王と言われた巨匠(当時は若かったのだと思う)が科研費を取って始めたもののようだった。その時代を一区切りするといって、若い研究者に運営を任されたときの隅っこにもいた。みんなそれらの領域で新しい研究の展望を作れるか、という野望に満ちていた。
いずれも今まだ学会にはなっていないが、学会の原点というのはそういうものだろう。学会が変わってきたから、これらの組織は研究会で居続けているのだと思う。
と言うことで、学会に来て思うに、学会をゼミの発表の延長に考えている人や、学会で誰かに教えを乞えるかも、なんて思っている不心得者が多すぎやしないかと思う次第だ。
実際、フロアからの発言が発表者に対する指導になっている場面も多々ある。それはおかしい。
学会は研究の成果を互いに示し合うところであって、自分の研究の指導をしてもらうところではない。その程度の研究発表が殊に院生には多い。
もっと研究者としての自負を以て研鑽を積もう。

教育史学会

2008年09月24日 17時03分44秒 | 教育・研究
学習指導要領を読む視点 2008年版 (2008)
竹内 常一
白澤社

このアイテムの詳細を見る


教育史学会が9月20,21日に青山学院大学であった。研究の中身の良し悪しはそれぞれの努力の結果だから仕方ないとしても、問題は議論のしかただ。某大学院生が質問に対する答を時間を顧みずに滔々とやっていたのには呆れた。自分の研究の不足する点について質問されたときに何とか誤魔化そうとして長い話をするのはよくない。訊かれたことに簡潔に答えて、なるべく質疑の時間をたくさん作るように心がけるべきである。まして大学院生ならば指導教員の顔を見たいと言いたくなる。自分自身の研究に問題点(殊に欠陥部分)があるならばそれを明らかにした方がいいのだ。いつも言うことではあるが、学会は学習発表の場ではなくて研究発表の場だ。つまり、ここで発表することは日本の教育史学の最先端の研究だと言うことだ。何か新しいことを発見したというので、学会発表をするという基本原則を忘れてはならない。
その意味ではこの院生は発表のベースになっている基礎知識自体に不足が多すぎた。研究発表のための研究発表なんていくらやっても意味がないし、高い旅費と時間を使って参加している人たちに対して失礼だ。われわれは他大学の院生の指導のために学会に来ているわけではないのだ。
もう一つ。某非常勤講師という人の発表には呆れた。1870~80年代のペスタロッチ主義の教育観を云々するのに長田新の訳を引用していた。歴史の方法がまったくなっていない。これは小学生でもわかることだ。かつ、知徳体を言えば皆ペスタロッチ主義だとか、論理に飛躍がありすぎる。プロセスがまったく考慮されていない。しかも、それを指摘されても見当違いの対応しかしない。話を誤魔化すことでその場を切り抜けようというのは前述の院生と同じだが、もしかして質問そのものを理解する能力に欠如しているのかもしれない。
この人についても「指導教員は誰だ?」という声が囁かれていた。N大とは彼のところか!と、ある人物は一時不良教員のレッテルを貼られかけた。実際そうであるかどうかはともかく、所属する大学の教員は陰口の中でそれを言われる。九大の院生諸君は九大の面目を背負っていることを重々肝に銘じて学会に出て行くことだな。



筑後地区人権・同和教育研究集会八女郡集会

2008年09月14日 08時40分38秒 | 教育・研究
学習指導要領を読む視点 2008年版 (2008)
竹内 常一
白澤社

このアイテムの詳細を見る


標記の集会が八女郡であり、僕は特別講座に呼ばれた。7月に柳川で筑後地区人権・同和教育研究協議会の課題別研に呼ばれたときに合わせて頼まれたものだ。同じ話でいいとは言われていたが、少し手を加えた。
教育史、殊に近代教育史を研究するときに必要なのは現代及び近代教育に対する批判の視点だ。批判というのを非難だとか反論だとか勘違いする人もいるだろうが、そうではない。
史料批判ということはよく知っていると思うが、それと同じだ。きっちりと点検すること、テレビ的にいえばお宝鑑定することだ。その時現代教育に対するまなざしは絶対に必要になる。研究者を指向する者は往々にしてそこそこに優等生できた人間が多い。最近はそうでもない人が増えてはいるが、そうでもない人も魂を優等生に売り渡すことでこの業界に入ろうとしているのでは同じことだ。(これは教育現場に身を置く者も同じ。あのヤンキー先生の堕落ぶりを見ればわかることだ。)
教育学研究者に被教育者の怨みは見えない。被教育者の怨みに身を寄せることは難しい。まあ、無理だと思えばいい。ただ、自分の感じ方はたぶんまちがっている、と自覚していればいいのだと思う。
話が逸れた。教育史は何のためにするのか。僕はこの十数年、闘う教育史をめざそう、役に立つ教育史をめざそうとひそかに心懸けてきた。教育史とはもとより純粋アカデミズムにはなじまない。あくまで利用主義的に存在させられてきた領域なのだ。ならば、開き直ればいい。現代の教育の矛盾を暴く方法の一つとして教育史を役立てたいのだ。過去をほじくり返されればいやがるのは個別の人間だけではない。制度も同じことだ。
だから、学校の功も罪も暴き出していくのだ。
で、今回は旧師上田薫先生の文章を引用させていただいた。先生が昔から批判していたことが未だに変わっていない。その教え子たちにして然りかもしれない(自分も含めて)。

そうそう昔の河東中学校PTA会長のころの自慢話をしたら、会場にその当時の河東中学校のK先生が来ていた。こっちに移っていたのだ。ちと、みっともなかった。

んで、特別講座だけど、僕は第一部でお話。第二部はイソジンズという教員バンド。
なかなか愉しいバンドで、この日は2人だけの出場だったが、みんなこっちはノリノリだった。ことにギターのinomatchanという人のブログに僕は登場してしまった。
この方高校のセンセイなんだが、僕と趣味がよく似ていた。