前回の続きだが、歴史研究そのものがどういう意義を持っているのか、を問わなければならない。何が面白くて研究をするのかというときに、何らかの成果主義のために(業績を一本作った!みたいな)研究をするのでは楽しくないだろう。自然科学だってそうだろうと思う。論文を一本作るために研究をするのではなく、研究をしていたら論文ができたというのが正しい。論文にまとめる技巧というのはその後についてくるものなのである。昔そんなことがあったんだよ、という研究にどういう意義があるのだろうか。トリビアの泉という番組で「へぇ~」というのをポイントにしているのだが、それは登場してくる知識がほんとうに役に立たないのではなく、実は何らかの意味を持っているということに「へぇ~」がついてくるのだ。二宮金次郎の像には高岡の銅器製造業者による銅像と岡崎の石屋による石像の二つのスタイルがあった、というだけでは「ふぅ~ん」(軽く無視)というだけで「へぇ~」はついてこない。これは皇紀2600年というイベントに乗じて銅像やら石像を小学校長会や地方名士にそれらの製造業者の組合が営業してまわったことによって広まった、というといくばくかの「へぇ~」はついてくる。なぜならそれには歴史的意味がついてくるからである。しかし、「なるほど」というほどにはならないのでなかなか論文にはなりにくいということになる。とは言え、社会史的発想を持てば政策的に二宮金次郎という道徳的人物を押しつけたのではなく、中小製造業者の商売根性が地方名士の「学校に寄付をする売名行為」と結びついて結果的に国民道徳の形成に貢献したという意味を見出すことになるのである。そうすると研究論文のネタにはなる。
最近の研究を見てみると「ふぅ~ん」のレベルの研究が多いと思う。自分の研究を最低「へぇ~」程度にはしてほしい。
本日は福岡市博物館に行った。おりしも浮世絵三大巨匠展をやっていたのだが、広重の東海道五十三次の絵に現在の同じ場所を写真で写したものが一緒に貼られていた。これは確か今年退職した都市・建築部門の萩島哲センセがやってた研究のパクリだぜ。いろいろ探したが萩島センセの名前はなかった。萩島さんは広重でやっただけでなく、ヨーロッパの絵画でも同じことをやっている。萩島センセの冒険だな。
遊びこそ学問の根だと言ひさうな萩島教授が屋台論講ず
(『短歌』2005年1月号特選作品)
最近の研究を見てみると「ふぅ~ん」のレベルの研究が多いと思う。自分の研究を最低「へぇ~」程度にはしてほしい。
本日は福岡市博物館に行った。おりしも浮世絵三大巨匠展をやっていたのだが、広重の東海道五十三次の絵に現在の同じ場所を写真で写したものが一緒に貼られていた。これは確か今年退職した都市・建築部門の萩島哲センセがやってた研究のパクリだぜ。いろいろ探したが萩島センセの名前はなかった。萩島さんは広重でやっただけでなく、ヨーロッパの絵画でも同じことをやっている。萩島センセの冒険だな。
遊びこそ学問の根だと言ひさうな萩島教授が屋台論講ず
(『短歌』2005年1月号特選作品)
広重の浮世絵風景画と景観デザイン―東海道五十三次と木曽街道六十九次の景観九州大学出版会このアイテムの詳細を見る |