etceterakoの勝手にエトセトラ

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雪組「堕天使の涙/タランテラ!」感想要約&補足

2006年09月25日 | 宝塚歌劇

 いつものように作品の話、キャストの話に分けてます。
 今日は作品に関する話です。

 なんで本文と要約が別記事かというと、字数(一万字)オーバーだからです・・・。
 下の記事、長いですけどどうぞ。→いちおう、本文記事にリンク

 ネタバレ容赦なしで書くつもりでしたが、書きあがってみたら、概要の話が多くて、意外とネタバレというほどネタバレ記事じゃないな・・・。とはいえ、当然、エピソードに具体的に触れる箇所がありますので、ご承知おきくださいマセ。

 10000字もあるので、お気が向いたらどうぞ。(10000字って、原稿用紙25枚!?なんたるヒマ人・・・。つーか、もうすこし短くならんのか、自分よ・・・)
 ざっと要約しとくよ。

堕天使
・少女漫画のよみすぎ!
・設定過剰。
・景子先生はわりとモノの見方が紋切り型。
・ディテールを楽しむ作品だ。

タランテラ
・レビュー界の禁をやぶる(?)前衛じゃないか。
・「宝塚」と「前衛」って両立するの?
・抽象絵画を見るつもりで見ようと思う。
・荻田レビューの祝祭と「カーニヴァル化する社会」(これはさわりだけ)

出てくる本
 「ビギン・ザ・ビギン 日本ショウビジネス楽屋口」→ココ(ヤフーブックス)
 「カーニヴァル化する社会」→ココ(ヤフーブックス)



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 本文記事は昨日、イキオイで書き飛ばしたものなんでー、今日読み直してちょっと補足。字数オーバーで、修正して入れることができんかったのだよ・・・。

 ※むかーし、アパシネを「ポストモダン」として語ったときにも、「作品を通して自分と向き合うことに意義がある」んだと書いたことがあります。基本、おんなじようなこと書いてるんだけど、前衛とポストモダンではすこし違うと思うの。(なんか単語の使い方間違ってそうだなぁー。わたし、思想を専門に勉強したことはないからな。でもほかに表現する単語がないんで、「なんちゃって」で使わせていただきます。)ポストモダンでは、従来の物語に近い「ベクトル」はあって、そのベクトルに沿って投影が行われるから、投影を誘発しやすいんだと思うのね。だから、人気がある。
 前衛だと、真っ白なカンヴァスから読み出す作業だから、これは意外とめんどくさい。だから、前衛は通向け。っつーか、前衛はポストモダンより大衆性が低いんだと思うの。

 ※カンディンスキーの絵画、タイトルが教会の固有名詞なのはまだぬるいほうで、「コンポジション●」(●=番号)とか、(本当は意味あるんだろうけど少なくとも表面的には)無意味、無機質なタイトルをつけた、あまりにも前衛、いかにも前衛なヤツもあるじゃないですかー。
 荻田先生もそのうち、
「第1場 コンポジションⅠ」「第2場 コンポジションⅡ」とかの、超前衛レビュー作ったりしてね(笑) 荻田先生なら、やろうと思ったらできるんじゃない?(笑)
 まぁー、宝塚およびレビューに、はたして前衛がふさわしいのか、必要なのかっていうのは、また別の問題ですがねえー。

 はい、というわけで。
 生意気娘Kは、「タランテラは前衛だ!」って結論を(勝手に)出してみましたよ。

 今後、観劇を重ねるうちに「やっぱ違うわ!」って思ったらどうしよう・・・。
 大風呂敷な記事、あいすいません。


雪組「堕天使の涙/タランテラ!」

2006年09月25日 | 宝塚歌劇

【堕天使の涙】
●どえらい少女趣味(※「どえらい」:名古屋弁で「ものすごい」。)
 わかってたことだけど、とにかくどえらい少女趣味。
 そして少女漫画の読みすぎです、景子先生(笑)
 オープニングに、天使とは!云々、ムードを出すための字幕が流れるんだけど、これは少女漫画の扉ページの(または扉の一頁前に大ゴマ使って描く)モノローグだな。漫画の手法だよ、これ。友人Rが「あれ、字幕じゃなくても、ネオダンディズムの「ダンディとは!」みたいに、幕前のスターによる語りでイイんじゃないか。または歌にするとか、って言ってて、ナルホドと思った。舞台、ということを考えると、そっちのほうが適切な演出だったかもしれんねぇ。

 館に青いバラ咲いてたり、抜擢を受けたバレリーナがいじめられたり、堕天使(コムちゃん)がジャン=ポール(ちかちゃん)を選ぶ理由が「目に影があったから」 (少女漫画は、影のあるヒーロー好きだよね・笑 そして、こーゆーえらい抽象的な理由で心が通うことにウットリ効用があったりする・笑)だとか、とにかく出てくる意匠がいちいち少女漫画なんだな。少女漫画はわたしも相当読んでいるから、「ああ・・・」と思った(笑) うまくいえないけど「ああ・・・(知ってるこーゆーの!)」みたいな(笑)

 でもねー。ベルばらの時にも書いたけどねー。少女漫画、少女趣味を含む「少女文化」ってヤツは、意匠のことではないと思うのねー。青いバラが出てくるから、少女漫画として魅力なのかっていうと、そういう話でもないんだよ。青いバラを通して、何を表現するのか、ってトコロが大事でしょ。
 前からうっすら思っていましたが、景子先生は「(自分が好きな)少女趣味」に対して、けっこう無自覚なんだよね・・・。(=批評性がない。)景子先生の武器って、やっぱり「少女趣味」なところだと思うんだよ。その武器をもうすこし自覚的に使えば、もっと飛躍的に向上すると思うんだけど・・・惜しいなぁ、と思ってるんです。いや、景子先生の作品は好きだし、いまのままでも充分魅力はあるんですけども。さらに欲をいえば、ということね。

 今回、ムダな少女趣味が多いんです。設定過剰。
 単に景子先生が好きだから入れたんだなーっていう設定が多い。青いバラの存在も、本筋には関係ないし、もっというと「館」もなくても話進むもんね。(会場か道端で、直に話せばいいじゃんか)呼んで青バラ見せるためだけ!?みたいなね。

どーゆー話なの?
 話の大筋は「人間嫌いだった堕天使が、人の情に触れて改心し、天に帰る!」って話でございます。で、堕天使が眺める「人間ども」が、
・親子で憎み合ってたり(悪)
・仕事で行き詰まってズルをしてたり(悪)
・親に捨てられてもピュアなココロをもってたり(善)
・自分の仕事に挫折しても、挫折より戦争に心をいためてたり(善)
 いろいろ見て、最終的に堕天使も改心!めでたしめでたし、です。最初(悪)だった人たちも、エピソードごとに(悪)→(善)へ改心します。えっらいピュアな話なの。

 いろいろあるけど、人生捨てたもんじゃない!
 人間っていいよね!

 みたいな、人間賛歌に見えました。(わたしには。あってるかどうか自信なし)
 ラストがクリスマスイブってこともありますが、なんでか見終わったあとの感じが「クリスマス・キャロル」に似ていた・・・(あくまでわたしは、です)
 基本、性善説なんだよねー。わたしにはちょっと、キレイすぎたかな。この物語の登場人物みたいにピュアには、わたしはなれん・・・(反省)

●作劇のスキル
 前にも書きましたけど、わたしはそんなに「ストーリーのつじつま」「破綻」にこだわるほうじゃないです。ストーリーにアラがあろうとも、それを上回る魅力があれば、それで良し!と割り切ってます。
 だけどいちおう、今回も思ったことは突っ込んでおきましょうかね。
 今回、ストーリーテリングにアラが多いです。故意なのかマジなのかはわからんですが。

 まず、わたしがまーちゃんのファンだということは別にしても、ヒロインが幕あいて何十分も出てこないのはマズいでしょ。出てきたと思ったら、ベッドのうえで、ピュアに語るだけの役割。ちゃんと主人公と・・・いや、主人公じゃなくてもいいから、とにかくキャラクターに絡ませないとね。動きがないのもNo Good! ヒロインに限らず、全体的にキャラクターが受け身で、アクションが少ないね。これはあんまりよろしくないな。

 それから、見せ場がない。
 景子先生的には、病室での「赦し」シーンが見せ場なんだろうけど・・・ただでさえ、キャラクターが受け身で「アクション」が少ないんだから、「赦し」の結論シーンのほかに、ストーリーを盛り上げる派手な場面があったほうがいいと思うんだけど。
 フツーに考えたら、「地獄の舞踏会」って作品を完成させて、上演するシーンを入れるのが「基本」じゃないでしょーか。(地獄の舞踏会スタッフの決裂を、上演→不評 の結果で示す展開にもできるし)

 もうひとつ。
 展開、設定、結果、心情、セリフで説明処理が多いのはよろしくないね。
 具体的には、館にたどりついたとき、ちかちゃんが「もやに包まれて気がついたら・・・」って、不思議な館だと示すための「もや通過」なら、スモークたいて「もや」やればいいいじゃんかー。できないなら、別になくていい設定だから、カットでいいと思います。セリフで何でも説明して納得させるのは、ちょっちズルいと思うなー。時間が足りない、っていうのは言い訳にならないと思います。時間ありきの作劇なんだから、無理ならストーリーをスリム化しなきゃ。

●もう一歩先を希望!
 あのー。つとに評判のよかったThe Last Party。あれ、わたしも好きだし、「よかったよー」って記事を書きましたけど・・・。「景子先生はロマンティック・ラブのつもりで書いたものを、ゆうひくん&月組が芸術とは!なストーリーに変換したんだと思う」(半分は月組の手柄)という趣旨の文章を書いたのを覚えておいででしょうかー?(←覚えてないって。)
 景子先生は、芸術とは!のテーマ向いてないと思う・・・。今回、あらためて思いました。

 今回、エドモン(えりちゃん)っていう音楽家が、振付家の気に入る曲を作れなくて(=親の七光り音楽家で、スランプという設定)、弟子(ひろみちゃん)の曲を自分名義で発表してモメる、というエピソードがあるんです。
 あーーのーーー、ラスパでこのテーマ気に入っちゃったんでしょうかー、景子先生?(というのは意地悪な見方?)

 ちょっとねー、その描き方がザックリしすぎ!だと思うの・・・。

 芸術っつーか、くりえ~てぃぶな事柄において・・・「能力がある」「素質がある」「才能がある」・・・これらは似ているようでも、まったく別のことだと思うんです。逆にいうと、「能力がない」「素質がない」「才能がない」は、意味がちがう。で、エドモンはどれなのか!ってことが、ようわからんのですよ。
 ・七光りだから才能がない。→才能がないから「スランプ」になる
 いくらなんでも、紋切り型にすぎるでしょ。
 世間によくある紋切り型「ゲージュツ」イメージそのまんまじゃん。
 景子先生、当のクリエ~タ~なんだからさー。もう一歩、踏み込んで書いてほしいですよ。それができないなら、このテーマは使うべきじゃないと思います。自分に向いているテーマ、向いていないテーマ、できることできないことを見極めるのも、クリエイターの能力のうちだと思うよ?(と、エラそうに素人娘がほざいております!)

 この件に限らず、わりと景子先生はモノの見方が「紋切り型」なところがあると思う・・・。いや、紋切り型を悪いとはいわないが、そういうオノレの性質は自覚して、それを生かすかたちで作品つくったほうが、景子先生のよさが引き立つと思うよ。(と、またエラそうに素人娘がわかったようなクチきいております!) 

雑感
 要するにね、話を進めたり動かしたりするより、「景子先生のやりたい場面、ディテール」を優先した結果だと思うんです。だから、ディテールはものすごく凝ってます。プロローグも、指揮者に仮面渡したり、凝ってますね。楽しいですね。
 まぁでもー、今回は「凝り過ぎ」かな。そのせいで、「設定過剰」で、ストーリーは半端な印象になってしまってます。
 「堕天使の涙」は、ディテールを鑑賞する楽しみが強い演目ですね。

【タランテラ!】
●「タカラヅカ」における「新しさ」って?
 宝塚の演目を語るのに「古いからダサイ」「古くさい」という表現は適当なのか、ということを、ずっと考えていたんです。たしかに、若いわたしから見ますと、「この衣装は古い!」「この感覚は古い!」と思うものもあります。でも、それを「古い!」と批評することは、はたして適当なことなのかどうか・・・。
 (ここからまたオレ流意見いきまーす!)
 ・・・そもそもさ、宝塚って、前時代的なノスタルジーをウリにしてるとこあるじゃないですか。最新じゃない、流行に対して慎重である、伝統の名のもとの保守性・・・それらの「なつかしい」気分が幅広い年代の固定ファンを集めてるんじゃないですか。そもそもわたし、「古い」といえば、レビューという形式自体、ひと昔前のモノで、最後に羽根背負うアレこそ、客観的には「古くてダサい」んじゃないかと思うんだよな。いや、わたしがそう思うって話じゃないよ。客観的にってことね。あれは伝統だからイイって??あー、うん。わかってるんですよ。そうなんだけどー、でも、羽根は「伝統だから古くても良し!」として、新しい特定演目については「古くさいー!」と批評する、というのは、(感情的にはありますが)理性的には(えらそうだけど批評者としては、ってこと)わたしにはできないんです。それは、ASIAN WINDS!を見たあたりからずっと頭にあって、じゃあ、宝塚にとって新しいってのはどういうことなんだろう、と。宝塚が進化するっていうのは、どういう方向になるのかなって。

 トリビアコーナーでも紹介した本に、以下のような文章があって、「あ、これ、わたしも考えてたことだ!」って思ったんです。

 日劇も昔はモダンなものが多かったんですが、劇場ってものはそう飛躍したものがあとからあとから出てくるってわけにいかないって言うのか、パリあたりのレビューもだんだんオールドファッションになってきた。それをラスヴェガスに持ってきてお金をかけてスペクタクルにしてるけど、決してモダンではない。音楽が変わってきてるでしょ。電気的なものに変わってきた。音の方が先行して、そいつにイメージがついていかない。あれを具象化してスペクタクルにするとなるとむずかしいわけです。モダンアートなら合うかっていうと、なかなかそうもいかない。どうしても照明にたよるようになる。ストロボを使うとかレーザー光線を使うとか。舞台装置もマテリアルが変わってきますね。今までのベニヤ板に泥絵具で描いた道具じゃ合わなくなってくる。金属性のものを使うとか合成樹脂のようなものとかガラスを使う。モダンジャズまではよかったんだけども、そのあとはむずかしくなってきましたね。
 しかし踊り子がキラキラした衣装で羽根をくっつけて出てこないとレヴューに見えないということになると、完全に今様なものではレヴューになかなかならないんじゃないかな。いつか誰かが新しいレヴューをやるんじゃないかなとも思いますけどね


 「ビギン・ザ・ビギンー日本ショウビジネス楽屋口ー」(和田誠/文春文庫)より引用。東宝の舞台美術家、真木小太郎氏の言葉です。下線は生意気娘Kによる。

 レビューには、バリエーションはあっても、そもそも進化などありえないんじゃないのか、衣装、曲のテンポ(ビジュブリのとき、酒井先生が曲のテンポのことは、座談会で触れておられましたね)に「変化」はあるかもしれないけど、「同時代性(コンテンポラリー)」はありえないんじゃないか、と思ったりしたわけです。そうなると、タカラヅカにおいて「新しい」「古い」を語ること自体がナンセンスなのか・・・。

 それでねえ。
 「タランテラ!」は、レビュー界の暗黙の禁を破った「前衛」なんじゃないか、とわたしは思ったんです。

●「タカラヅカ」と「前衛」は両立するのか?
 そんなわけで、タカラヅカであること(レビューであること)と、前衛であることは、両立しないんじゃないかと思ってたんです、わたしは。

 わたしがしばしば引き合いに出す、例の「ユリイカ」の演出家インタビュー。・・・たしか石田先生だったかなあ?(ごめん。引用したいけど、かなり前に買った本なので見当たらないの・・・。探したんだけどね。)
「ショーというのは、意味もなく楽しいものじゃないとダメだ」
「(ショーにおいて)設定っていうのは、作る側の打ち合わせで必要なだけで、観客にはあんまり関係ない。(なんとなく楽しければいいんだ)」
 みたいな話があったんですよ。
 ここでいう「意味もなく楽しい」っていうのは、深い意味はない、ってコトで、「意味がない」わけではないよね。(なにか、言葉遊びのようだなぁ)
 三角関係だとか、恋人の踊りだとか、アジアの草原だとか、鯨を追う船長だとか、パッと見て「あっ(なんとなく)こーゆー設定なんだな」とわかって、それに深い意味やニュアンスは考えずに、あとはダンスと音楽の快楽に身をまかせる、っていうことでしょう。パッと見て設定の意味はあるんだけど、実は深い意味はない。

 タランテラ!では、真逆なんですね。
 大西洋の場面にしても、パッと見「海!!!」ってカンジじゃない。(ワンダーランドのちかちゃんの場面のほうが、いかにも海!でしたね)パッと見て意味はないのに、実は(パンフレット)を見ると、深ーい意味があるわけです。
 従来の発想と逆なんですね。
 ちょっと、美術の素養はショボいのに、知ったかでモノ言うんで恐縮なんだけども、これは美術における「前衛」と重なりませんか。
 レンブラントとかルノアールとかの絵画は、パッと見て「あ、夜警だ!」とか、「--夫人だ!」とか意味わかるけど、対象に深い意味はない。(対象を選んだ状況はあるだろうけど)
 ところが、前衛といわれる絵画・・・いま手元にたまたまポストカードブックがあるから、前衛画家のカンディンスキーを例にとってみましょうか。カラフルに色ののった絵画です。線の境はあいまい。なにが書いてあるのか、みただけではわからない。風景だ、ということだけかろうじてわかります。それでタイトルを見ると「ムルナウの教会Ⅰ」。教会だったんですね。パッと見わかんないけど、実は意味がある。前衛、です。

●タイトルに意味なし!
 今回、友人Rとしみじみ語らったのは、「タイトルのタランテラの意味が、舞台見ただけじゃわからん!」ってことです。
 レビュー内容は、それこそ「パリゼット」の時代から超定番の、「世界めぐり」なワケです。蜘蛛を思わせる衣装は出てくるけれども、「ネオダンディズム!」みたいに、「これからダンディとは何かをご紹介しまーす」みたいな、親切な解説はないんです。歌詞をよくよくきけば「タランテラ」って出てきますけど、ワンダーランドとかダンディみたいに、キーワードを刷り込むように繰り返して歌う主題歌ではないから、とにかく「タランテラって蜘蛛が化けて世界めぐりしてるんだよ」ということが、観客に知らされない。タイトルが「華麗なる百拍子」とかでも、わたしは驚きませんぜ!
 わたしらヅカファン族は、歌詞もプログラムも予告あらすじも、なめるように読むし、歌劇誌にのる演出家も出席する座談会なんかの周辺情報もあるから、「タランテラって蜘蛛が恋をしてー」って、意味を事前にインプットして見ますけど、バスツアーなんかでくる団体さんのなかの非ヅカファンの方は、フツーに「世界めぐり」レビューとしてみるんじゃないかと思いますね。蜘蛛だなんて、(まぁ、タイトルはのぞいて)夢にも思わないと思いますよ。

 このレビュー、本当の意味で「意味がない」んですよ。
 いや、じつはある。荻田先生のなかには、意味はあります。でも、それを直接的、具体的に伝達していない。荻田先生の「テーマ」のフォルム(形)だけを抜いて、表現したものでしょう。抽象絵画と同じです。

 じゃあ、わたしたちは抽象絵画(なレビュー)をどう見ればいいのか。

●無意味に意味を探すこと。
 国立西洋美術館の常設展に、白い絵の具を塗りたくった絵画がありました。わたしが行った時は、「観客の目」みたいな企画で、一般の観客から館内の絵の感想を募集して、優秀(?)な感想をその絵の横に展示する、というのをやっていたんです。それで、感想が一番数多く展示してあったのが、その白いだけの絵でした。
 さもありなん、ですよねえ。
 パッと見て意味がない、ということは、感想を書くためには自分で意味をひねり出さねばならないということ。これは、難しいようで、じつはそう難しくないよね。だって、単に白いんだよ??ぶっちゃけ、なんでもアリでしょう。昨日落ち込んだこと、明日への不安、友達との不和、恋愛の幸福、「無意味」のうえには、どんな意味をものせることができます。
 そして、無意味と向き合って意味を探しだすとき、それはとりもなおさず、「自分と向き合う」作業になるワケです。感想、意味、といったって、けっきょくは自分の引出しにある要素からしか、出てこないわけですから。感想がある程度、語り手のオノレを投影した「自分語り」になるのは、自然なことでしょうね。(前衛なモノに限らず、文化を受容するときに、ある程度自分を投影するのは、もちろんあると承知しています。ただ、前衛になると、その幅がデカイというか、投影がすべて!何でも投影できる!ということになるんじゃないかと)
 無意味に意味を見出すことで、自分と向き合う。
 これがイイことなのか、見方として間違っているのか、(いつも言うことだけど)良否のジャッジは、わたしにはできません。わかりません。

 タランテラ!はだから、そういうレビューじゃないかと。
 蜘蛛だの恋だの、既成のストーリーにこだわって見ると、わけわかんないんじゃないかと。
 それはそれ。
 蜘蛛も恋も海も、「何か」を表現するカタチにすぎないんですよ、わたしが思うに。前衛芸術をみるように、「タランテラ!」というスクリーンにうつるシルエットを見ながら、シルエットの元を想像するもよし、自分をスクリーンに映すもよし。

音楽が変わってきてるでしょ。電気的なものに変わってきた。音の方が先行して、そいつにイメージがついていかない。あれを具象化してスペクタクルにするとなるとむずかしいわけです。

 ・・・・・・タランテラ!こそ機械的で、電気的な現代の文化に近い前衛なのじゃありませんかね。音はアナログだけれども、やっているのはテクノミュージックと似たようなことなんじゃないかな、と。わかりやすい意味からの脱却、なんとなくの快楽、祝祭的熱狂、ね。

いつか誰かが新しいレヴューをやるんじゃないかなとも思いますけどね

 ついにその時代がきたのかもしれない、というのは、うがちすぎかな(笑)

●カーニヴァル化する社会
 
やばい!もう9000字を超えとるぞ!最後は手早くいきます。
 2005年の5月に出版された「カーニヴァル化する社会」(鈴木謙介/講談社現代新書)を書店の棚にみつけたとき、「ああ、こーゆー言論まってましたっ!!」とわたしは思ったんですよ。まぁ、実際読んでみると、どーーーも読みにくい本で、(文章もわかりにくいし、いくつかのトピックが混在してるから)3回読んでようやく「なんとなく理解した」かんじなんですけども。

 この本がいう「日常のカーニヴァル化」・・・現代に起こるそれらの現象の根底に流れるものと、荻田先生が発信するメッセージには、なにかつながりを感じます。タランテラ!の説明文には「祝祭空間が出現する」ってあったでしょ。
 現代日常の祝祭性を荻田先生は感じていて、(まあ無意識かもしんないけど)テーマのひとつとして書き込んでいるような気がするんだよ。

 あー・・・ほんとはこのカーニヴァル化のところを、もうちっと掘り下げようと思ってたのに、「前衛」に足をとられて、書ききれなかったよ。いいかげん一万字こえたからヤメときます。また気が向いたら、「カーニヴァル化する社会」の件は書くわ。(書かないかもしんないけど) とりあえず、わたしはそーゆーこと考えましたーってことで。

 自分が絶対に正しい、とは夢にも思ってないし、えらそうに書くわりには、自信は意外とないんですよ・・・。もし何かお気にさわること書いていたらすみません。
 長いのに読んでいただいてありがとうございました。