etceterakoの勝手にエトセトラ

「生意気娘Kの勝手にエトセトラ」は改題いたしました。カテゴリ「ブログ改題について」をご覧ください。

かしちゃん退団記者会見、るいちゃん退団

2006年09月06日 | 宝塚歌劇
 るいちゃんも退団(涙)るいちゃんは残って、タニちゃんと組むものだと思ってました。(考えが甘い?)

 なんかもう、何をどう語ってイイかわかんないんだけどね。
 とりあえずわたしは、るいちゃん大好きで、雪の王子様だったかしちゃんと、るいちゃんが組むと発表されたときには「わたしのためのカップリング!?夢のコンビだ(嬉涙)」とホントにすごくうれしかったんですよぅぅぅ。

 かしちゃんがまさかの電撃退団。よもや、るいちゃんもとは・・・。

 かしちゃんの退団会見、「最終ゴールへ手が届いたと、(退団を)決断しました。悔いはありません」って言ったって?(byENAK)

 じゃあ、いいよ。もう、そーゆーことにしておこう!(ヤケ)

 言いたくなかったけどこのセリフを言いましょう。
「かしちゃん、るいちゃん、ご卒業おめでとう」
 ふたりの新しいスタートに、宝塚時代以上の幸せがありますように!

 あとは・・・竜馬を見に行って、最初で最後のかしちゃん率いる宙組に、心からの祝福と惜別の拍手を(自分的に)盛大に送ることにします。

「NDT創設の秦豊吉は、東京宝塚劇場の支配人だったのに左遷されちまったらしい!」 65へぇ

2006年09月06日 | レヴューのトリビア


「NDT創設の秦豊吉は、東京宝塚劇場の支配人だったのに左遷されちまったらしい!」 65へぇ


「小林一三の昭和演劇史」(大原由紀夫/演劇出版社)より
 ※出版は1987年。絶版です。

ヤフーブックス→ココ

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 前回、前々回の一三のトリビア記事、なにやら字体が変で、読みにくかったらすいませんでした。(いろいろいじってみたけど、どうしても戻せなかったのー!←スキルしょぼい)

 今日明日は、日劇の話題でお送りします。

 NDT(日劇ダンシングチーム)創設の・・・例の、ラインダンスをしごいたと噂の秦豊吉とゆーお方、阪急東宝の社員のひとりかなーぐらいに思ってたら、もっとエライ人だったっぽい。(すいません、秦さん!)

 この本は秦さんの話がほとんどですわ。
 どうやらもともとは財界のお知りあいらしくてね、三菱につとめてた人を、東京宝塚劇場を建てるにあたって、制作兼支配人の条件で引き抜いたらしい。

 で、この人は東宝に移籍する直前に、(移籍する前提で)一三の命を受けて洋行したんだそうです。それが昭和8年(1933)。

 それで秦さんはね、西洋を見てまわって、「レビューだけでは飽きられる。これからはストーリーのあるミュージカルだッ」と思って、そう一三に意見したらしい。たぶんこれが、タカラヅカがレビューだけじゃなくて、ミュージカルにも力を入れるようになった所以なのかな?

 あのねえ、後日紹介する別の本に書いてあったんだけど、どうやら1933年にはもう、アメリカのレビューは衰退気味だったみたいなんですよ。パリゼットの白井が洋行した1920年代なかばは、まさにレビュー絶頂期だったと思うのね。それが秦氏が洋行したころには、大恐慌を経て、イマイチ盛り上がっていなかったと。レビュー衰退の兆しを、秦氏はしっかり感じ取って、日本に持ち帰ったということなんでせう。

 そんで、その秦氏、ほかにも「西洋そのままじゃなくて、日本や地方の特色をいかしたものを作るべきだ!」とか「バラエティの要素を入れるべきだ!」とか「これからはラジオ→TVに時代は移行する!」とか、いろいろコダワリ意見を持ち帰ったみたいですよ。

 しかし・・・東宝支配人としては、やがて免職(事実上の左遷)されてしまったとのこと。小林一三との不仲説もあったらしい。(不仲説の真偽のほどは不明)まぁなんか、引き抜きで来た外様ってこともあって、いろいろ難しかったみたいです。

 秦氏は日劇の仕事専属になり(もともと日劇、東宝支配人のかけもちだったのが、東宝支配人を免職になって専属にってことね)、バラエティ、ラインダンス、地方色、などのオノレのコダワリを貫く仕事をしたそうな。バラエティ、って読んで、わたしは「ビギン・ザ・ビギンー日本ショウビジネス楽屋口ー」で読んだ、日劇の様子を思い出しました。なるほどね。歌手とか芸人とか出たっていうのは、東京という(マスコミにつながった)土地柄かと思ってましたけど、創設時の方針もあたんですね。

 地方色としては「九州レビュウ」とか「大島レビュウ」とか作ったらしいですよ。九州レビュウ・・・どんなんなんでしょ。名古屋レビュウもあったかなぁ。(名古屋じゃダメか・・・。金シャチしかないもんな)