シャドーさんやkuritanさんが下の書き込みに質問をされたので、ネットで
調べてみました。
とても歴史の古いものだということが分かったけれど難しいです(^_-)-☆
かの与謝野晶子が最も楽しみにしていた年に1度のお祭りだったとか…
さすが、堺っ子のお祭りのDNAは晶子にもあったとは…
・・・堺における練物の歴史は古く、元禄年間よりと推定されています。
旧堺市の祭礼について考える時、忘れてならないのは、住吉大社の
祭礼との関連です。
諸説あるが約1300年前に、書かれたとされる「住吉大社神代記」で、
住吉大社祭事で重要な祭事とされる「南祭」すなわち六月御祓は、
開口水門姫神社(あぐちのみなとひめじんじゃ)に行宮、飯匙掘(いいかいぼり)
にて斎行される事が記述されています。
開口水門神社とは、宿院住吉御旅所とその奥の院と称される開口神社の
事であり、古来より大変大きな祭事でした。
元禄十四年、岡田渓志著『摂陽群談』に「六月晦日の夏祓は、摂泉大阪堺の
町中、並に在々所々により陸には、練物を出し思々に装え…」という
記述がみられます。
(注)練物とは、地車、屋台、太鼓台、鉾などをあらわす。
戦後、旧堺市の街並が大部分大きく変わり、東西にフェニックス通り
(国津26号線)が貫かれていますが、戦前までは、勿論このような大きな道路は
無く、阪堺線宿院電停より東をのぞめば、大燈楼と鳥居、その向こうには、
住吉、大鳥両大社頓宮が見えてました。
その所で斎行される夏越大祓(俗にお祓いと言う)は、旧堺市で最も賑やかな
祭礼であったと言われています。
堺市甲斐町出身の女流歌人、与謝野晶子の自伝「私の生ひたち」の文中でも、
彼女が最も楽しみにしていた、年に一度の大きな祭礼として記されてあり、
旧堺市は、大変な賑やかさであったとされています。
今日の堺市の祭礼は、八朔祭をはじめ、主に秋祭りとなっており、その際に、
太鼓台等の練物が運行されているのですが、明治期迄は、そうでなく、
夏祭りが中心でした。
堺の練物の起源について、よく語られる事は、「鉾から地車、地車から太鼓台に
変わっていった」ですが、果たしてそうであろうか。
堺では明治時代まではだんじりが一般であった。(ほかにも船地車も曳行)
しかし、明治29年の旧暦八月一日のことである堺市中之町西の紀州街道
(地車が1台通れるほどの細い道であった)において、湊組の船地車と
北の鍛治屋町地車が鉢合わせとなり、お互い道を譲らず争論となり、
あげくの果てには周辺民家の瓦を剥がし瓦合戦になってしまい、
湊組が突きかかり2名の殺傷者を出してしまった。
堺警察の警官が数十名駆けつけ双方の数十名を捕縛した。
この事件は「堺の地車騒動」といわれている。
この事件より祭礼には地車は一切曳行してはいけなくなった。
後に日露戦争に勝利しそれを祝し、翌年明治39年練物曳行は許可された。
その翌年に菅原神社の北開仲、北浜、並松町 船待神社の西湊が地車に
代わり”ふとん太鼓”を新調しそれぞれの神社に奉納した。
この年より4.5年の間に開口、菅原、方違、船待神社の氏子仲が次々に
ふとん太鼓を新調したのである。
特に一番多くのふとん太鼓が奉納されたのは”菅原神社”である、
多いときでは十四台にも及んだしかし昭和16年第二次世界大戦が勃発。
しかし、昭和19年までふとん太鼓が担がれ奉納されていた。
昭和20年に堺も大空襲に合い、ほとんどのふとん太鼓が焼失してしまった。
その後も処分や売却などがあり現在では、開口神社4台 菅原神社2台
方違神社1台(ほかの神社は戦前と変わらず)となってしまった。
ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれている。
出典:「堺まつりふとん太鼓連合保存会 三十周年記念誌」「堺の太鼓台」・・・
あの5枚の大きな布団は神様が座る布団だったとは…(^_-)-☆
べーラベーラベラショショイ~べーラベーラベラショショイ~との
掛け声がかかる。
もともとはだんじりであったのに布団太鼓になったという所が
いまいち判り難いですが、人が担いで練り歩く分、コマで動くだんじりより
安全性が高いのかな~?
布団太鼓もだんじりもいろんな時代を経て処分売却され、
それでも受け継がれている…伝統を守ることって大変なことなのね~
お2人さん、こんなところで宜しいでしょうか? (^_-)-☆
人が担いでいない時の布団太鼓です。
堺のまた別の地区、百舌鳥八幡の布団太鼓の写真です。
担ぎ手の足並みがそろっていてきれいです。
調べてみました。
とても歴史の古いものだということが分かったけれど難しいです(^_-)-☆
かの与謝野晶子が最も楽しみにしていた年に1度のお祭りだったとか…
さすが、堺っ子のお祭りのDNAは晶子にもあったとは…
・・・堺における練物の歴史は古く、元禄年間よりと推定されています。
旧堺市の祭礼について考える時、忘れてならないのは、住吉大社の
祭礼との関連です。
諸説あるが約1300年前に、書かれたとされる「住吉大社神代記」で、
住吉大社祭事で重要な祭事とされる「南祭」すなわち六月御祓は、
開口水門姫神社(あぐちのみなとひめじんじゃ)に行宮、飯匙掘(いいかいぼり)
にて斎行される事が記述されています。
開口水門神社とは、宿院住吉御旅所とその奥の院と称される開口神社の
事であり、古来より大変大きな祭事でした。
元禄十四年、岡田渓志著『摂陽群談』に「六月晦日の夏祓は、摂泉大阪堺の
町中、並に在々所々により陸には、練物を出し思々に装え…」という
記述がみられます。
(注)練物とは、地車、屋台、太鼓台、鉾などをあらわす。
戦後、旧堺市の街並が大部分大きく変わり、東西にフェニックス通り
(国津26号線)が貫かれていますが、戦前までは、勿論このような大きな道路は
無く、阪堺線宿院電停より東をのぞめば、大燈楼と鳥居、その向こうには、
住吉、大鳥両大社頓宮が見えてました。
その所で斎行される夏越大祓(俗にお祓いと言う)は、旧堺市で最も賑やかな
祭礼であったと言われています。
堺市甲斐町出身の女流歌人、与謝野晶子の自伝「私の生ひたち」の文中でも、
彼女が最も楽しみにしていた、年に一度の大きな祭礼として記されてあり、
旧堺市は、大変な賑やかさであったとされています。
今日の堺市の祭礼は、八朔祭をはじめ、主に秋祭りとなっており、その際に、
太鼓台等の練物が運行されているのですが、明治期迄は、そうでなく、
夏祭りが中心でした。
堺の練物の起源について、よく語られる事は、「鉾から地車、地車から太鼓台に
変わっていった」ですが、果たしてそうであろうか。
堺では明治時代まではだんじりが一般であった。(ほかにも船地車も曳行)
しかし、明治29年の旧暦八月一日のことである堺市中之町西の紀州街道
(地車が1台通れるほどの細い道であった)において、湊組の船地車と
北の鍛治屋町地車が鉢合わせとなり、お互い道を譲らず争論となり、
あげくの果てには周辺民家の瓦を剥がし瓦合戦になってしまい、
湊組が突きかかり2名の殺傷者を出してしまった。
堺警察の警官が数十名駆けつけ双方の数十名を捕縛した。
この事件は「堺の地車騒動」といわれている。
この事件より祭礼には地車は一切曳行してはいけなくなった。
後に日露戦争に勝利しそれを祝し、翌年明治39年練物曳行は許可された。
その翌年に菅原神社の北開仲、北浜、並松町 船待神社の西湊が地車に
代わり”ふとん太鼓”を新調しそれぞれの神社に奉納した。
この年より4.5年の間に開口、菅原、方違、船待神社の氏子仲が次々に
ふとん太鼓を新調したのである。
特に一番多くのふとん太鼓が奉納されたのは”菅原神社”である、
多いときでは十四台にも及んだしかし昭和16年第二次世界大戦が勃発。
しかし、昭和19年までふとん太鼓が担がれ奉納されていた。
昭和20年に堺も大空襲に合い、ほとんどのふとん太鼓が焼失してしまった。
その後も処分や売却などがあり現在では、開口神社4台 菅原神社2台
方違神社1台(ほかの神社は戦前と変わらず)となってしまった。
ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれている。
出典:「堺まつりふとん太鼓連合保存会 三十周年記念誌」「堺の太鼓台」・・・
あの5枚の大きな布団は神様が座る布団だったとは…(^_-)-☆
べーラベーラベラショショイ~べーラベーラベラショショイ~との
掛け声がかかる。
もともとはだんじりであったのに布団太鼓になったという所が
いまいち判り難いですが、人が担いで練り歩く分、コマで動くだんじりより
安全性が高いのかな~?
布団太鼓もだんじりもいろんな時代を経て処分売却され、
それでも受け継がれている…伝統を守ることって大変なことなのね~
お2人さん、こんなところで宜しいでしょうか? (^_-)-☆
人が担いでいない時の布団太鼓です。
堺のまた別の地区、百舌鳥八幡の布団太鼓の写真です。
担ぎ手の足並みがそろっていてきれいです。
だんじりからふとん太鼓に移行した経緯についてですが、明治以前の堺ではだんじりの曳行がメインでしたがふとん太鼓な全くなかったわけではなく、ふとん太鼓自体は江戸時代からあったのでではないかと言われいまして、明治のだんじり騒動で曳行禁止になりその後、曳行が許可されたときにはだんじりは売却や処分が多くされていたこともあって、新調する際に以前に事故があっただんじりは危険であろうといことで、ふとん太鼓に移行されたのではないかと思われます。
布団太鼓の情報をありがとうございます<m(__)m>
だんじりの地域で生まれ育ち、今もだんじりの地区に住んでいますが、布団太鼓もおしゃれですね~
子供のころはかいずかの布団太鼓を祖父に連れられて観に行きましたが…
どちらにしてもお祭りというのは心が浮き立ちますね。
ありがとう。なるほどよく観ると布団が重ねて積んであるのですね。前回はよくみてなかったらしくてわかりませんでした。
安全、安心だけではなくきっといろいろあるのでしょうね。
お祭というのは表面だけでなく、内にものすごく深いものを秘めているのですね。
おかげで知らないことをいくらか知ることが出来ました(*^_^*)
与謝野晶子がお祭り好きだった…楽しい発見でした!
お祭りの歴史、守り続ける情熱…大切にしたいものです。
ひく人も見る人もみんなを興奮させて・・・すごい力を感じます
あかりちゃんにもまただんじりや布団太鼓も見せてあげたいね~