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Natural Mystic ~ナチュラルミスティック~

There's a natural mystic blowing through the air

水遊び

2007-08-08 21:39:23 | 
さて、借りた知人の別荘に着いたはいいがやはりべらぼうに暑い。日が傾げば一気に気温は下がり過ごしやすくなるのだがそれまでには若干の時間がある。そのため白州のスーパーに買い出しに行く。このスーパー、隣に道の駅があり、天然水で有名な南アルプスらしく、ちょっとした小川が流れ家族連れが水遊びを楽しんでいた。我が家のチビどもも同様に遊びだした。


【ランニングシャツに麦わら帽子だと何故か純朴な子供に見えてしまうのが笑えるところである】

私の幼稚園の頃のこと、夏休みに家の庭先に洗濯盥(たらい)を出し水を入れ水遊びを毎日のようにしていた。ある日私の母親が近所に住む女の子が水疱瘡にかかったからしばらくは近寄らないように私に伝えた。その子も私と同様に家の庭で水浴びをするのが日課だった。しかし、私と大きく違った事はその子の水浴びにはビニール製のよく見かける空気で膨らませるプールが使われていた。羨ましい反面、子供心に毎日そのようなもので水遊びをしているから水疱瘡にかかるのだと気の毒に思った記憶がある。ビニールのプールは使った後に水で流して日干しになっているのに対し、私の盥は私が使った後、母親が洗濯板を出して洗剤を入れ靴下等を洗っていた。そのため子供の私にはこっちの方が断然衛生的なモノに思えたのだ。

余談だが我が家には決して洗濯機が無かったわけではなく、身内が土仕事をした後の激しい汚れを盥で前洗いしていたのだ。

私はつい2年半程前まで水疱瘡には罹らなかった。成人して罹ると大変であるが、水遊びとは全くの因果関係がないにせよ、何となく子供の水遊びを見ているとこの病気を連想してしまうのだ。

圏央道

2007-08-07 22:04:24 | 
我が家から高速道路へのアクセスは関越道が最も近い。またそれに沿って外郭環状道路を利用して東北道・常磐道・首都高を経由しての東関東自動車道・館山道と比較的便利な生活圏である。しかし、更に近いところに圏央道の青梅インターが10年以上前から存在する。ところがこれは関越道に交わるのみで何の役にも立たないインターであった。ところが6月23日にようやくその青梅インターから中央道八王子までが開通となった。それまでは中央道は国立・府中で降りて裏道をひたすら走っていたのだが、それ以前の八王子までの渋滞が常でいつも別の一般道を探す始末であった。

先週末、暑いし時間的余裕もあまりない。ということで週末昨年行った山の家へ行くことにした。折角なのであきる野インターから圏央道に入る。道は予想していたようにガラガラであった。八王子が近づくに連れトンネルが多くなる。このトンネル開発に伴い、動植物の生態系に大きく影響を及ぼすということで裁判沙汰になり開発は延び延びとなったらしい。


【左:圏央道八王子付近・右:中央道ジャンクション】

ともあれ、このガラガラの調子で行けば別荘の最寄りの須玉インターなどあっという間につくかと思われたが、八王子ジャンクションから中央道に入り唖然とした。渋滞5km通過に30分...。結局は車の量が予想以上に多いと言うことである。

がっかりしながらも山梨の北杜市(旧武川村)を目指すのであった。

奥久慈 竜神大吊橋

2007-07-22 19:48:10 | 
袋田の滝で食事を取り、帰路、常磐道を目指す。途中『竜神大吊橋』の案内が各所に目立つ。ふと以前テレビで見た吊り橋を思い出す。それは茨城の山中に造られた歩道専用の吊り橋としては日本一の長さを誇るもので、総工費33億円、税金の無駄遣いと言われているモノであった。折角なので行ってみることにする。



駐車場には3連休の晴れた休みと言うこともあり車はそこそこで、観光バスまで止まっていた。袋田の滝とセットで立ち寄れる観光地となっているらしい。橋を渡るには大人で300円のお金がかかったが支払い渡ってみる。吊り橋の両側は柵以外にもネットが設けられ、万一にも事故的に落ちる心配は考えられなかった。ちび共は大喜びで駆け回っていた。橋脚間375mの橋を対岸へ向かってヤツらは先を駆けだした。途中立ち止まりしゃがみ込んでいる。ブラブラ追いつくと何と橋のあちこちが強化ガラス張り、金網になっていて100m下の川が見下ろせるようになっていた。ちび共は面白がりガラスの上に乗って跳び上がっていた。


【吊り橋からの竜神ダム・強化ガラスの下は深さ100mの谷底である】

ブラブラしながら10分程かけて対岸へ行って笑ってしまった。何と行き止まりである。正確には山を下る歩道は存在するのだが、ハイキングコースのようだ。生活道路への接続は見受けられなかった。橋のたもとには100円投入すれば記念のカードが出て鐘が鳴るという機械があるのみであった。町おこしの観光目的に33億の投資。確かに観光の名所ではあり年間30万人の客が来るそうだ。回収するにはいささか大きすぎる感がある。

帰り道で気が付いたが、この橋までの道すがら多く見受けられたお土産や・ドライブイン・蕎麦屋等々は殆どが3連休にもかかわらず閉店、廃墟であった。

新規観光名所、これが地元の活性化に繋がるかどうかの判断も難しかったのだろうか...。

奥久慈 袋田の滝

2007-07-21 22:06:13 | 
さて、帰ろうかと言うことになる。しかし普通に東北道を帰っても面白いことはない。会津から奥只見・新潟に入り魚沼経由で関越道で帰ろうと実家を出る。

しかし、東北道で新潟で地震発生との掲示。ラジオを点けると柏崎が震源らしい。昨日までの豪雨で地盤も弛んでいる可能性があるので予定はパスとした。南下しながらどこか寄れる場所はないか頭を巡らす。阿武隈川の支流が増水しているのを見て茨城にある日本三大瀑布、『袋田の滝』を思いつく。台風一過の翌日、かなりの水量が期待出来るのではないか...。



矢吹インターで降り、阿武隈山地を抜ける一般道をひた走り、茨城県に入り12:00着。天気は快晴であった。お土産屋の駐車場に車を止め滝に向かって歩き出す。沿道には川魚の塩焼きや煎餅を焼く店が建ち並び観光地の様相を呈している。暫く進むと階段を登り、券売所があった。小学生以下は無料で大人は300円。入場料を支払い歩道用のトンネルを進む。トンネルの中は滝の音と人の声で騒然としていた。200m程進むと滝の展望所へ出た。しかし、観光客は5m程向こうの手すりに近寄ろうとするモノは殆どいなかった。滝の飛沫が多すぎてびしょぬれを覚悟しなくてはならないからだ。5年ほど前に来たときとは比べものにならないほどの水量であった。折角なので手すりまで行くとすぐに顔は濡れ、またカメラを構えるとレンズに水滴が付着し、写すのも一苦労であった。



嫁と待たせていたちび共の所へ戻るとちび共は怖がって近寄ろうとしない。嫁となだめ手すりまで行くと、
「おー、虹だね~。凄いね~。怖いね~。」
と濡れながらも連呼していた。

この大瀑布、他の『華厳の滝』や『那智の滝』のイメージや辺りの景色から考えるとかなり山深い気になるが、実はこの滝に流れる水は農業用水や生活排水の一部も入っているようだ。日光連山や大峯山脈の滝上には修験者の山や湖を頂いているが寂しいかな阿武隈山地。滝の上にも田んぼや農家があるのが現実である。

かき氷

2007-07-20 19:55:33 | 
かき氷。この食い物を初めて食ったのはかなり幼い頃のことであると思う。親父の仕事の配達の車で出かけた際、あまりの暑さに親父が、
「氷水(こおりみず)を食うぞ!」
といって食堂に入り食った記憶が私の中では一番古いものであろう。

雨の日、留守番で暇をもてあましている親父がタッパーに作った氷を鉋(カンナ)で削りおやつ代わりに氷水といって作ってくれたこともあった。

忘れられないのは幼稚園のときのことだ。終業後バスにて家へ向かう途中、私は母親に2km程離れたマコト君の家の前でバスを降りるように言われた。歯医者に検診に行く都合がありそこで降りて母親と待ち合わせた方が予約の時間を早く設定出来たかららしい。

ところが、マコト君と一緒に降りたはいいが、母親はその場所にいなかった。暫くそこで待つも一行に来る気配がない。幼い私は当然のように泣きじゃくり、途方に暮れていた。

見かねたマコト君の母親は自宅の向かいにある廃業した自分の家の定食屋へ招き入れてくれ、そこで赤と黄色と緑の今で言うラスタカラーの特別製のかき氷をご馳走してくれた。その間、わざわざ私の自宅に電話を入れ母親の到着時間の確認までしてくれた。暫くしての母親が来たときは私はニコニコ顔で店では絶対に食えないラスタカラーのかき氷を食っていたそうだ。



赤べこを作った後、向かいの店でかき氷を食うことになる。こんなものを食うのは何年ぶりだろうか...。

待つこと5分。小豆ミルクが出された。食ってみて驚いた。私の知るかき氷は粗目が基本であった気がするが、雪のようにふわふわなモノであった。半分ほど食うと店のおばさんは更にシロップを追加してくれた。

ふわふわの雪のようなかき氷、幼い頃雪遊びをしていて雪に放尿し、黄色いかき氷を作ったと言うことを思い出した。

かき氷の思いではどうも尽きないようだ...。

会津若松 赤べこ

2007-07-19 20:51:24 | 
工作というものが楽しくなくなったのはいつの頃だったろうか。それでも小学校辺りまでは楽しい時間であったような気がする。

会津若松七日町に地元の名産赤べこに色付け体験をさせてくれるという店があると聞き、食後その店を訪れる。店に入り、申し込むと、まずおばさんの赤べこについての講釈があった。



『赤』とは茶色をさし、『べこ』は会津の方言で牛のこと。柳津(やないづ)虚空蔵尊の建立時に活躍したと言われる神の化身がこの茶色の牛であり、会津地方に疫病(天然痘)が流行った際、この張り子の赤べこを作り玄関先に置いたら疫病が静まったそうだ。以来、子供が生まれると守り神として飾られるとのことである。

いざ作ろうとするとおばさんは色を決めるように言った。しかし、我々は一色のノーマルなデザインなど作る気などさらさら無い。この要望をおばさんは快く受け入れてくれ、テーブル上のアクリルカラーと筆を使い、それぞれに作り始めた。

2歳になる我がちび共も意外に真剣に色塗りをしていた。胴体を塗り、それが落ち着くと頭を塗った。色を重ね塗りする際は色が溶け合わないように、備え付けのドライヤーで乾かしての作業であった。意外にこれが楽しい物であっという間に2時間近くの時間が経った。

塗り終わるとおばさんは胴体に針で穴を開け糸で縛り付けてくれた。この作業だけは経験がいるらしい。

長男は青べこ、次男は赤べこ、嫁は何と迷彩べこ、私は何ともおかしな南国風デザインのべことなった。仕上げのニス塗りは持ち帰って自宅で行って下さいとのことであった。



それにしても工作をしての楽しみというのは果たして何年ぶりのものであろう。1体あたり840円で良い時間を過ごせたと満足したのであった。

会津若松 ソースカツ丼

2007-07-18 22:12:16 | 
「会津の人は頑固だからなっし、お味噌仕込むにも、じっくり造るのなぁ~...。」
というローカルCMがかつて放映されていた。幼い頃これを見た私は漠然と地域性の違いというモノを意識したような気がする。

上京して知り合った知人に会津若松出身の輩がいた。大酒飲みであったが剣道のインターハイ出場が自慢で、ヤツが言うには全国大会出場の際、
「出身県を訊かれたら、福島とは言わず会津と言え!」
教えられていたそうだ。更に語るには、対戦したことはなかったが万一、山口県の学校と対戦した場合、負けて帰るとどうなるか分からないとのことであった。

会津若松。戊辰戦争で官軍相手に激しい戦争を繰り広げた歴史的城下町である。この町は未だに長州(山口)を快く思わないときく。20年程前、山口の萩市側から友好都市の申し入れがあったが、戦争を背景に拒絶したという事があった。またその後これを推進した市長も落選となったらしい。

3連休2日目の15日、田舎へ帰ったついでに、雨ではあったが久々に会津にでも行こうと兄の家族と一緒に実家を出た。行ってみてまず気付いたのは車のナンバープレートである。昨年度より導入が認められたため自治体のPRを兼ねた『会津』のご当地ナンバーの車両が目立った。



とりあえず、昼飯を食おうと言うことになり適当に食堂を見つけ入店。10数年前までは耳にすることがなかった煮込ソースカツ丼が会津の名物となっていた。



店のおばちゃんに事情を訊くと大正時代から食っているモノというだけで他に理由は無いらしい。ラーメンで近隣の喜多方に先を越されたからではと訊くと、ラーメンも本家は会津であると譲らない言葉が返ってきた。やはり格式と伝統を重んじる地域性であろうか、
「会津の人は頑固だからなっし...。」
という台詞が実感出来た。

ちなみに煮込みソースカツ丼の味はまあまあであった。

犬吠埼

2007-06-22 22:10:23 | 
潮来・香取をふらついている内に13時になってしまった。今日の目的は鰹である。利根川沿いに走り、銚子にある犬吠埼を目指す。白い灯台が有名で山頂・離島を除き、日本で一番早く初日の出を見ることができる場所として有名な観光スポットでありふと北海道の襟裳岬を思い出す様な風景ではあったが犬吠埼は期待していたほど素晴らしい景色もなかった。



とりあえず立ち並ぶおみやげ物屋・食堂の中から最も灯台寄りの店に入る。既に昼時は過ぎていたため店は空いていた。席に着き、店員のお姉さんに鰹を頼むとこんな答えが帰ってきた。
「ないことはないんですが高いですよ。」
訊けば2,000円。一瞬怯むがそれが目的なだけにそれでも注文する。するとお姉さんはこういった。
「...スミマセン。今日は入っていないんです。代わりといっては何ですが鯵のナメロウが今は旬でして...。」
結局は無いことが判明した。他の店に代えようかとも考えたが結果は大きくは変わらないだろう。

確かに房総では初鰹はまだ若干早いのかも知れない。6年前高地桂浜で食った鰹は旬と言われ最高であった。3週間程度のずれではまだ房総沖には殆ど回遊していないらしい。



あきらめお奨めを食う。確かにうまい。目的は違ったがそれなりに満足したのでその後、九十九里浜を目指す。何とも長閑な田舎の漁村的風景をいくつか通過し、九十九里着。白い砂浜の延びる有料道路をひた走るもあまり面白い景色でも無かった。時間は15:00、白子から千葉外房道路を乗り継ぎ、首都高経由での帰着となった。

潮来笠

2007-06-21 23:09:04 | 
5月22日(火)は休みであった。平日の一人の休みは貴重である。天気予報は快晴。前日何をしようか色々考えたが今ひとつ良い案が思い浮かばない。山の気分ではないし映画も天気が良い分勿体ない。地図を広げふと思いつく。そろそろ登り鰹の時期である。房総に鰹を食いに行こう!!

8:30、先週定期点検を終えたあまり乗らないバイクを引っ張り出し出発。水道道路経由で和光北から外環・京葉道を乗り継ぎ、利根川を越え潮来着。辺りはすっかり都会的な様相は消え失せ大水田地帯である。流石に『水郷の街』、青い早苗の水田に青い空白い雲が映り非常に気持ちが良い。

折角なので水郷の街を見ていくことにする。とはいえ地図を見ても何処へ行けばいいのか良くわからない。インターそばで草刈りをしたいた女性に声をかける。向き直った女性を見て一瞬尻込みをした。長靴にピンクの割烹着を着たその人物は麦わら帽子に手拭いでマスクをし、草刈り釜をぶら下げこちらに寄ってきてくれた。一瞬子供の頃我々の世代を恐怖のどん底にたたき込んだ『口裂け女』を思わせる様相である。

女性は草刈り釜を抱えながらこういった。
「水郷つったらこの辺だよ...。ほだなぁ...えぎ(駅)のもこう(向こう)に行ってみな...。あやめが綺麗に咲いでで、案内もいっから(いるから)。」と茨城弁で丁寧に教えてくれた。手拭いのマスクを涎で濡らしながら丁寧に教えてくれたのでこちらも頭を下げ、駅を目指す。



♪潮来の伊太郎 ちょっと見なれば...。

おそらく私が生まれて初めて覚えた旅人の歌であろうその橋幸夫の曲を頭に流しながら走ること5分。道なりの潮来駅の向こうにはもんぺに潮来笠という昔ながらの出で立ちの女性船頭さんが数人いた。スピードを落とし流していると船頭さんに呼び止められた。
「お兄さん、船乗ってかない?」


【利根川沿いの船着き場】

聞けば短いコースでは30分ほどで水郷を案内してくれるらしい。料金は一人だと5,000円。相乗りだと1,000円。今日は暇なので貸し切りで3,000円で良いとのこと。周りを見れば船待ちの人もいなく、だからといってこの婆さんと2人きりでの30分はある意味辛そうだ...。
今度子供達を連れてくることで今回は遠慮した。
「6月にはこの船を使っての結婚式もあるんでおいで...。」
立ち去り際にこんな事を言われたので聞き返した。
「雨が降ってもやるんですか?」
「結婚式の船は屋根がないから雨が降ったら順延だねぇ。毎年この船の上での結婚式を公募してアヤメの咲く6月にやるんだよ。」

日本版のジューンブライドなるほど、『潮来花嫁さん』は健在のようである。


【千葉・香取市川の水郷】

潮来花嫁さん(昭和35年)


潮来花嫁さんは
潮来花嫁さんは 舟でゆく
月の出潮を ギッチラ
ギッチラ ギッチラコ
人の噂に かくれて咲いた
花も十八 嫁御寮


一体何で私はこんな曲を知っているんだ...。


【水田地帯】

橋を渡り利根川の中洲部分に入る。非常に広い中州には水郷に沿って家が並び、また広大な水田地帯が広がっていた。確かにこの地形と穏やかな川の流れから考えるといちいち橋を渡るより自分の船で川や水路を越えていった方が生活は便利であろう。昔は水田で使う農機具や取れる農作物も船で運んでいたのだろうか...。

源氏香

2007-06-20 21:51:25 | 
与論・関西と書き綴っているうちに日が経ってしまったがその間にも多々出かけてはいた。遅くなってしまったがその間のこと。

5月12日(土)の朝、ようやくエクストレイルのスタッドレスをノーマルタイヤに履き替えた。窓からは富士山も見えるほどの快晴。出かけない手はない。総出で七峰縦走の際立ち寄った東秩父村の和紙の里へ行くことにした。

約2時間で目的地到着。七峰縦走のときは水を汲んだのみで入口しか見なかったが、和紙製作の建物の裏手には日本庭園が広がり食事の出来る建物もあった。そこで名物のそばとうどんを適当に採った後、庭園をぶらつく。なんともな心地よい香りがあちこちから漂ってくる。何の香りなのか疑問に思いながら池の鯉に喜ぶちび共を眺めていると庭園の各所に着物を身につけた男女が十数人筆記具を持ってうろついていた。年齢は様々である。

一体何をしているのか...。俳句を作っているにしては手に持っているのはメモ帳と鉛筆である。しばらく遠目に眺めていると庭園各所にある茶碗のようなモノに手を伸ばしその香りを試してはメモを取っている。私の全く知らない遊びのようだ。たまたま近くでメモを取り終わった若い男性がいたので話しかけてみた。
「『源氏香』っていう平安時代の貴族の遊びなんですよ...。」
親切に教えてくれた彼が言うには、25の香りの内無作為に選んだ5つの香りを聞き分ける(この遊びでは嗅ぎ分けることをこういうらしい)。そして5つの香りを聞き分け図にしていくとのこと。例えば5つ全てが違えば右から縦棒5本。5つの内3番目と5番目が同じで他が違うなら右から3番目と5番目を横棒でつなぐ事をするらしい。これによって出来上がる図が52種類有り、それぞれが源氏物語54巻の最初と最後を除く各巻に当てはめられ、出来上がった図に合わせた各巻のタイトルが答えとなりそれぞれに吉凶・時候の意味があるそうだ。


左が帚木・吉・五、六月:右が乙女・吉・四季を現すらしい

平安時代の貴族の遊び、体よりも五感を使う遊びが現代に残っていると言うことであろうか。和服を着て快晴の日に庭で遊ぶこれだけでもかなり金がかかりそうであるが、よく考えてみれば現代に置いても山にせよバイクにせよ遊びには金のかかるモノである。

関西周遊

2007-06-19 23:14:51 | 
『大道三間 軒下三寸』を気取るわけでもないが、私は自分なりの安全基準を確保出来るシュチュエーションであればあまり寝るところにはこだわらない。テントはある意味必需品であるが、ときには面倒になりシュラフ一枚で橋の下に寝てみたり、星が見たくて高原のおみやげ屋の軒先で寝たこともあった。ときには見知らぬオッサンの家に泊めて貰ったことさえある。

ところが、現在地は大阪。まして明日からは仕事である。せめて風呂くらいは入りたい。ウメさん宅で荷物をまとめ直しレンタカー屋への道すがらコンビニにて山道具や今後使わない物を自宅に返送する。車を返した後、明日の宿泊先を予約するため新大阪駅内の旅行代理店を当たる。一件目は18:00ジャストで閉店してしまっていた。焦りながらも2件目を探し向かう。時計は18:05、営業時間は過ぎていたが中に客がいたためJTBがかろうじて営業していた。扉を叩き入れて貰う。素泊まりでひたすら安いことを条件に探して貰い、西中島南方駅3分の所にビジネスを予約。代理店としてはかなり安い部類らしいがやはりネットで自分で探すべき、あるいはカプセルホテルで良かったと思い直した。

夕食は、伊吹山の帰り道、道の駅で買った野菜やウインナーで作った洋風鍋であった。ビールには最高で酒がすすんだ。

それにしてもこの日の山行で私は日焼けが著しく顔も腕も真っ赤であった。翌日からの仕事の際の言い訳を考えながらの就寝となった。

※ 言い訳はべたなもので日曜に知人とバーベキューをやり、酔っぱらって直射日光のもとで寝てしまいました。というものであった。

さてさて、翌日からは仕事へ突入であった。特に目立ったことはなかったが、一つだけ面白い発見があった。一流ホテルでのレセプションではたこ焼きとソース焼きそばが名物として出されていた。


【3日(日)に仲間と飲んだくれたJR天満駅前の風景】

3月の山陰出張のようなノンビリモードとは対照的に今回は金曜夜出のかなりアクティブな関西遠征であった。しかし、仲間達の気遣いにより非常に楽しいものであった。次の機会には大台ヶ原の晴天を期待したい。

計画

2007-06-15 23:50:47 | 
98年9月初旬の週末の事であった。何となく山梨の角の部分となる身延方面へツーリングに出た。しかし、身延に着いたのは昼を少し回ったくらいであった。キャンプ場に落ち着くにはまだ早すぎた。そのためそこで買い出しをして九十九折りの林道をひたすら上り南アルプス支稜となる安倍峠を越えて静岡側の梅ヶ島温泉に出た。

そこの県立キャンプ場でテントを張って酒を飲んでいると隣のバイク乗りのグループに声をかけられ宴会となった。そのグループは屋久島で知り合ったという連中で、あろうことかその後何度もキャンプ宴会を一緒にするようになった。翌年、これがきっかけで私は屋久島を訪れるようになる。

ここにはいなかったこの連中の友達、さらにその友達、さらにさらに...。が広がり今回の洞川でのキャンプ、大阪での宴会という付き合いがあるのだ。

泊めて貰う予定のウメさん宅に上がり込むやいなや地図を広げて明日の山の打合せになった。六甲山・武奈ヶ岳・伊吹山が候補であった。六甲山に置いては電車移動となるためレンタカーは今日の返却でいいが、後者二つとなると丸1日の延長が必要である。

六甲山は里山歩きが楽しめる関西では有名なエリア
武奈ヶ岳(1,214m)は琵琶湖が望める滋賀県の西側の名山
伊吹山(1,377m)は滋賀県の北西部の滋賀の最高峰である。

いずれも魅力的ではあるが、どれも4時間程度である。普段なら何でもないが正直なところ、一昨日の強行軍、昨日の八経ヶ岳・その後の宴会。そして今日の大台ヶ原散策その後の車移動、また本日この後に予定されている関西組との酒宴。明後日からは仕事である。ここで体力を使い果たすわけにはいかない。登り3時間程度の緩い山が理想である。そんなわけで頂上直下まで車で行き20分で頂上に登れる伊吹山を提案する。



※ 実はここまでの行程で伊吹山の地図は橿原で入手してきた。

ウメちゃんは言った。
「じゃあ、伊吹で決まり。その代わり1合目からやで...。」
その後さんざん交渉し、1合目からの登山口側から車で行ける3合目まで行き、そこから3時間ということで決定した。

但し、お互い起きれればの話。その日の晩の宴会で飲み過ぎて動けなくなったら頂上直下までのドライヴとなる。

その後、新大阪のレンタカー屋に移動。延長を申し込み明日の朝まで車を預かって貰うことにして天満へ移動。何故か韓国料理屋にて昨夜もキャンプ場で一緒だったムラカミ君、その他6年ぶりの再会となる面子を含め6人でひたすら呑んだ。

ドライヴ

2007-06-14 21:13:34 | 
タイトルは80年代を席巻したリック・オケイセックが率いたロックバンド『ザ・カーズ』の曲とは全く関係ないので念のため...。

  

日常もそうであるが運転中は音楽を流すのが常である。朝夕の仕事の行き来は先日も書いたようにラジオでありドライヴのときはもっぱらiPodである。一昨日、奈良県に入ってからFMラジオは電波の入りが非常に悪い。今回はiPodは持参していない。やむなくAMラジオを流す。

おそらく私の偏見であろうが、どうにも昼間のAM放送は内容がオヤジ臭く感じられる(AM特性の振幅変調とFM特性の周波数変調による音の違いは無視)。リスナーのメール等を聞くと20~30代もいるのだがどうにも乗りが悪い。ナビゲーターや局アナの言葉だけで生じやすい誤解を如何に少なくするかという気遣いから来る当たり障りのない丁寧さがどうにもつまらないのだ。
これは首都圏であろうが、地方であろうが大差はない。比較的夜の番組はまだ聞きやすいが、夜に至っては地方局もオリジナルの番組をやめてネット化するので大差がないのは当たり前である。まあ、歌謡曲メインというのがその臭さを押し上げる一因であるのだろうか...。

橿原市に近づいてきたためそろそろFMも入るかと適当にスキャンをかけると、周波数が止まった。表示は、NHK-FM。クラッシックの歌劇であった。あまり興味もなく他のスキャンもかからなかったためAMに戻す。更にスキャンをかけるとNHK第1放送。歌謡演歌特集であった。これでは先ほどの民放と変わらない。またもやスキャンをかけると今度はNHK第2放送。何故かハングル語講座であった。休日の昼の3時にハングル語講座を楽しみに聴いているヤツなんざ日本中探して一体何人いるのであろう。そんなことを思いながらNHKのリスナーの満足度を全く無視した放送体制に苦笑しながら、葛城から南阪南道路に入る。

大阪市内までは約50km。渋滞を考えると微妙な時間である。中央道で考えると大月から国立府中程度の距離となる。休日の16時過ぎに乗ろうモノなら2時間ほどはかかる。19時から大阪の仲間と飲むつもりなので間に合わないかも知れない。そんなことを考えながら進むこと40分。車の数はそこそこ多かったが渋滞に出くわすことなくあっさり梅田のインターを下りることが出来た。後で分かったが関西の渋滞は何時間も車が動かなくなることはあまりないらしい。

コンビニ・よろずや・MAWSON・MORIQLO

2007-06-11 22:24:19 | 
学生のときのことである。単発のアルバイトでベネトンのバーゲンの仕事に関わったことがあった。東京ドームのプリズムホールで行ったそれは、会員限定のイベントだったような気がする。3日間ベネトンブランドの様々な商品に群がる人々に倉庫から品出しをするという気楽な仕事であった。未だにそうであるが私はほとんどと言っていい程このようなブランド品には興味がない。そんな仕事の帰り、国分寺の駅前でレバノン人が露天を広げていた。最近はあまり見かけなくなったがこのような光景はバブル期には日常のことであった。露天にはアクセサリーやバッジもあるので適当に冷やかしていると何とさっきまで品出ししていたベネトンの財布があった。バーゲン品の1/10程度の値段である。明らかにおかしいので手にとってよく見ると『benetton(ベネトン)』ではなく『benelton(ベネルトン)』と書かれ一見しただけでは分からないパチモンであった。

大峰山下山後、昨夜来た道を戻る。結構な狭さの上、谷も深い。対向車のヘッドライトが無いとはいえこの道を60km/hでぶっ飛ばしてきた事実に我ながら呆れてしまった。御手洗渓谷を抜け天川村に入ると携帯のアンテナが立った。夕方から関西の仲間と合流しキャンプの予定である。時間もあるので近所の温泉にでも入ろうかと考えながら下山を知らせようと仲間に連絡を入れると意外にも、
「もう面子はみんな揃ってるで~。良かったらみんなで温泉行こうや~。」
との回答が返ってきた。
そこからわずか10分程度で着いた洞川(どろがわ)温泉キャンプ場にはやはり屋久島関連の仲間のカズヤファミリーとムラカミ君が設営を行っていた。

久々の再会であった。とりあえず全員で温泉へ行き、買い出しに行くことにする。来るときに気づいていたが天川村におかしなコンビニもどきがあった。昨夜遅くに店は閉まってはいたモノのこんな山奥にコンビニがあるのかと感心した反面気づくとこれでいいのか...。と思った店であった。


【MOWSONとその店内。何故か標章がヤカンである。】

なんと『LAWSON』ではなく『MAWSON』である。中へ入ってみると『コンビニ』というよりその元祖となるであろう『万屋(よろずや)』であった。狭い店内には商品棚が2列ほどしかなく、また驚いたことに一角には衣料品が置いてあった。さらに笑えたのにはその後ろの壁に『UNIQLO』ならぬ『MORIQLO』という看板があった。


【MORIQLOは残念ながらオリジナル製品ではないとのこと】

しかも店内にはそれぞれのステッカーまで売られていた。ここまでやると確信犯である。店員さんに訊いてみると『森田商店』のためこのような店になっているそうだ。かなりすれすれのラインであることを指摘すると店員さんは言葉に窮していた。まあ、チェーン店ではないため問題と化す可能性は非常に薄いだろうが、洒落としてもここまでやる店主も凄い。

ふと『benelton』と思い出す出来事であった。

大阪

2007-06-07 23:53:20 | 
冬に今回の大阪出張が確定した。4日~6日の2泊3日である。一月ほど前から関西の知人達との計画を練り始める。

出発の金曜の午後、ここで大きな誤算が生じた。月曜の仕事がキャンセルとなったのだ。当然の事ながらこの場合月曜は普通に出勤となる。しかし、以前から出張として仕事自体を組んでいたため月曜は忙しくはない。このため月曜を代休扱いとし、金曜に早退を入れ、大阪へ向かうこととなった。

19:40、新大阪着。手配していたレンタカー・軽のピノを受取り予め店宛に送っておいた登山道具等を受け取る。目指すは行者還トンネル。近畿最高峰となる大峰山系の八経ヶ岳。カーナビ相手に持参した地図を広げ作戦を練る。約90kmの道のりを考えふと地図に気づく。今まで何度か訪ねたことがある知人の家が新大阪の駅から意外に近かったのだ。早速連絡を取り訪ねてみる。何と10分かからずの再会であった。この人物、我ら夫婦の屋久島関連の知人で過去には青森や鹿児島で遊び、東京のわが家にも遊びに来て貰った事もある。また2年前の天城山黒部下ノ廊下等で山行も一緒に行った仲間である。土産を渡しながら明後日の月曜が休みになった旨を伝えると、良かったら休みを合わせて六甲山近辺を案内してくれるとの有り難い申し出があった。明後日の晩、泊めて貰うことをお願いし出発となった。



大阪市内を南下する。大阪のバイパスは信号がない。東京の首都高速の様な高架であるがジャンクション時の渋滞も少ない。大阪も富田林を過ぎ、南東部の千早赤阪村まで来ると水田地帯があり、車の窓を開けると季節柄カエルの鳴き声が聞こえ非常に気持ちがいい。金剛山地を貫く水越トンネルを過ぎると奈良県となる。

途中で買い出し、食事をしたモノの快適に飛ばし一般道309号を進み23:15、吉野郡天川村に入る。ここら辺りから世界自然遺産の看板が目につき始める。流石にここから先は国道とはいえ道幅も極端に狭く山深かった。遥か高見に十五夜の月影が見える以外は暗闇のため対向車のヘッドライトにのみ注意を払い快調に曲がりくねった山道をぶっ飛ばした。当然といえばそれまでだが対向車は一台もなかった。

0:00、ラジオの時報と共に今日の目的地である行者還トンネル着。私以外に5台の先客がいた。ザックからシュラフを引っ張り出し、車のエンジンを止めると同時にシートを倒し、そのまま眠ってしまった。