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Natural Mystic ~ナチュラルミスティック~

There's a natural mystic blowing through the air

一里飴

2006-02-20 23:07:18 | 
私の祖父は商人だった。戦前・戦中・戦後商いのため日本中を旅して回っていたそうである。面白いことで私も各地を旅した際、幼少の頃その祖父がお土産に買ってきたものを意外な場所で見つけ驚くことがよくある。

先週末の土曜、ちょっとした嫁の用向きで車で埼玉の日高市へ出かけた。事が済んだのが13時30分。若干寒いが天気も良いしこのまま家に帰るのは勿体ない。コンビニで埼玉のるるぶを立ち読みして越生梅林に行くことにした。

毛呂山町から単線のJR八高線沿いに走る。何とものどかな風景に感激しつつも越生市内に入る。道路脇右側に立つ看板を見て驚いた。"一里飴本舗"と書かれていた。

私が育ったのは南東北の養蚕(ようさん)が盛んな過疎の町である。幼い頃、腹が減って祖母に何かせがむとこの一里飴がよく出された。日常的に我が家にはこの飴があったため、地元のものとばかり思っていた。しかし、いつのまにか我が家ではこの飴を見かけなくなった。それ程好きなものでも無かったためこの看板を見つけるまで記憶の隅に追いやってしまっていた。



この土地がこの”一里飴”の名物であるとすれば当然祖父がここを訪れているということになる。ある推測を立てた。あたりの風景には桑畑はなさげだが、この越生近辺は養蚕が盛んだったのではと考えた。そのため絹織物業が当然のように栄え、その取引先がこの越生にあり、私の爺さんが出張で来るたびにこの”一里飴”を土産に買って帰ったに違いない。と考えた。

ともかくこの懐かしい飴を買おうと駅前の店に入った。何と飴は私の幼い頃の記憶のパッケージそのままで缶入りのものまでそのままだった。店主に訊いてみたところやはり越生は養蚕が盛んな土地であり、昔ほどではないにせよ今でもわずかに養蚕・織物業が残っているとのこと。思えば我が家で”一里飴”を見かけなくなった30年程前が衰退期のはじまりだったとのことであった。ちなみにネーミングの由来は一粒口に入れれば一里歩くのに要する時間は楽しめるという意味で一里飴というネーミングらしい。グリコの一粒300メートルの元祖といったところだろうか。またパッケージのデザインは私の記憶通り昔から何の変化もなく現在に至っているとのこと。一袋は我が家用に、また一缶は実家へ発送した。



日曜日、実家の母から電話があった。本当に懐かしい飴を贈ってもらってありがとうとのことであった。予想通り祖父は越生に行くたびにこの”一里飴”を土産にしていたそうだ。祖父の旅のルートは国鉄八高線沿いに高崎・越生・八王子、更に中央本線で長野の諏訪方面と絹織物業が盛んだった土地を回るのが普通だったそうだ。

長野オリンピック

2006-02-15 17:44:50 | 
長野オリンピックのときも私は野沢温泉村にいた。着いた当日スキー場・日影ゲレンデの一角でバイアスロン競技があり後30分ほどで始まると民宿の女将に教えれれた。チケットがない旨を言うと、
「どうしても観客席で見たいならダフ屋が出てるらしいがわざわざお金を払わなくても無料で見れる良い場所を教えてあげるわよ。予選からダフ屋が立ってるらしいけど、人気のない競技だから誰も相手してないし。」
と教えてくれた。
生で、しかも無料でオリンピック競技を見る事なんて滅多にないだろうから見に行くことにした。



会場への道すがら確かに歩道脇で外人が様々なボール紙を持ってあちこちに立っていた。確かに相手にしている人はいない。無視して進むとゲルマン系の外人が"SELL TIKETS "と書かれたボール紙を持ち日本語で話しかけてきた。
「いちまんごーせんえん。2枚ですぅ。」
後にも先にもこれ以外に外人のダフ屋は見たことがない。聞こえないふりをして訊いた。
「2枚で15,000円?」
ゲルマン野郎は体をのけぞらせ原の前に両手のひらを出し左右に振りながら
「さんまんえんですぅ。」
と答えた。
「高けぇなぁ、こんなマイナー競技にそれはないだろ?」
立ち去ろうとすると背後からその人物に呼び止められた。
「2枚でごせんえんですぅ。」
一瞬言っている意味がわからなかった。あっという間に80%を超える下げ幅である。しかし、こちらは民宿で良い場所を教えて貰ったため端から買うつもりはない。からかい半分で指を3本出してこういった。
「後10分程で始まるんだよな。3,000なら買うよ!」
一瞬怯んだ顔でゲルマン野郎は言った。
「ごせんえん。ペア。」
再度指を三本突き立てこういった。
「3,000ペアだな。」
ここまで言ったらそばで遣り取りを見ていたカップルから横やりが入った。
「問題なければ欲しいんですが...。」
私はあっさり言った
「いいよ!譲るよ!」

結局私は日影ゲレンデを鉄砲担いで滑り上がってくる競技者を無料で見れる位置に陣取り観戦できた。近くでは"バイアスロン鍋"と称した"豚汁"が無料で配られしこたま食った。

長野オリンピックの記憶である。

リレハンメルオリンピック

2006-02-14 17:21:47 | 
冬季オリンピックが開幕した。今回はイタリア・トリノである。1992年アルベールビル・1994年リレハンメル・1998年長野大会のとき、私は長野県の野沢温泉村にいた。

※ この時期、夏季オリンピックと同じ年に冬季を開催したが2年ごとに夏冬を交互に行うための調整で冬季オリンピックが4年で2回行われた。

毎年2月に野沢に行っていたが村の盛り上がりは例年とは完全に違っていた。野沢温泉村出身の選手の垂れ幕があちこちに飾られ、バスターミナルではオーロラビジョンまであった。

94年のときである。仲間と行きつけの居酒屋でおでんを突きながら日本酒を引っかけていた。丁度ジャンプ競技の中継をしていて、日本は3本飛んでほぼメダルは確実となった。居酒屋のオヤジは
「あと一本で決まるからよ!そしたら俺がみんなに一本付けるからよ!」
とニコニコ顔だった。しかし、最後の原田の失速。その瞬間オヤジは店の奥に引っ込みその後出てこなかった。幸い客は少なかったため女将が一人での切り盛りとなった。女将は言った。
「ごめんなさいねぇ。期待させておいてねぇ。」
別に女将が謝ることでもないが何とも不幸な結末であった。



しかし、翌日の夕方、野沢温泉村出身の選手が銀メダルを取った。村の盛り上がりは凄かった。バスターミナルの広場は群衆で溢れ、振る舞いの樽酒が配られていた。その後一杯機嫌でオヤジの様子を見に行くと今度は上機嫌であった。
「おう!昨日はすまなかった。今日は昨日の分付けるからガンガンやってくれ!」
といってごちそうしてくれた。

その後、しばらく野沢へ行く機会がなかったが、3年ほど前の秋に行ったところそのおでん屋は健在だった。

オリンピックが始まると思い出す事である。

お猿日記

2006-01-19 21:09:06 | 
タイトルでピンと来た方はおそらくバブル期に夜更かし好きだった人です。

福島在住の知人の子供さんが通う小学校の裏にサルが出て児童達は外で遊ぶのを控えているそうだ。 詳細はこちら

おそらくはサルに襲われる心配があるための学校側の対策と思われる。
過去にサルの集団に囲まれ、ややこしいことになりかけたことがある。

99'初めて屋久島へ行ったときのこと。GWだというのに暑く半袖が気持ちよかった。ライダーハウスに宿泊を決め、軽装で島を回り始めた。海岸まで広がる照葉樹林に感激し、山中へ延びる荒川林道へ向かった。

高さが増すにつれ海の向こうに平べったい種子島が見えた。バイクを止め写真を撮っていると背後の土手にヤクザルの群れが現れ、こちらに寄ってきた。喜んでいるが妙に数が多い。バイクに戻ろうとすると一匹がバイクに乗りタンクバッグを物色していた。



このバッグはマグネット式なのでサルでも引っ張るだけで簡単に取り外せる。慌てて、バイクに戻るがサルは「ギィー!ギァー!」とこっちを威嚇して退こうとしない。こっちも負けじとサル同様に意味不明の喚き声を返すが相手はエキサイトするばかりである。被っていたキャップを取り振り回すとサルはようやく退いた。とりあえずバイクのエンジンをかけると私を取り囲んだサルの群れが若干退いた。クラクションを鳴らすと更に退いた。バイクに乗れば怖くはない。サル共を蹴散らすように出発。

荒川林道の終点部まで進む。そこは樹齢7,200年と言われる縄文杉への出発点となっていた。そこで一服していると、環境庁の管理人に話しかけられた。サルの事を話すと、最近人間慣れしたサルが人を襲い困っていると語っていた。原因は観光客がサルに餌を与えたためサルが人に慣れてしまったことだという。また私のように襲われそうになったときの対処法は大声で威嚇するのではなく、手ぬぐいや上着などを振り回すと逃げていくとの事だった。

後に読んだ本『ひかりのあめふるしま屋久島・田口ランディ著』に著者が同じようにサルに囲まれてびびりまくった経験が載っている。彼女の場合は徒歩だったため決して目を合わせようとはせず一点突破で脱兎のごとく走って逃げたそうである。



いずれにしてもサルとはいえ野生の獣に囲まれたときには独特のやばさが漂う。
”サルはこっちが完璧に無視すれば、向こうも無視する。これは野生動物との暗黙の掟だ”
彼女はこのように書いていた。

三峯神社

2006-01-15 22:52:36 | 
久々に暖かい(東京の最高気温は13度だったそうだ)。天気も良いので正月には行けなかった初詣に出向く。とは言っても近場じゃ勿体ないので秩父の三峰神社を目指す。

この辺りは家から100km程度の場所で山深く思い立って簡単に出かけられる手頃な場所である。今まで何度もツーリングやドライブがてら訪れた。
また雁坂トンネル開通前は深い山中で道路が行き止まりとなり、滅多に人が来ない場所なので思い立ち午後からテント持参で一人で出かけ、満天の星を眺めながら酒を飲んだ思い出深い場所でもある。

所沢から299号をひたすら走る。正丸トンネルを過ぎると秩父の名峰両神山が見えてきた。雲一つ無く快晴である。市街から140号を雁坂方面へ南下。道路もすいていて2時間ほどで目的地に着いた。この三峯神社は東京都最高峰雲取山の北側からの登山口となる。
深い谷の向かい側には路がはっきりしない200名山の和名倉山(白石山)2,036mがどんと構えていた。この山は秩父山塊の難峰といわれ、秩父側から片道8時間その間水場は一切ない。登山口となる秩父湖からの標高差は1,436mとなる。

駐車場からの参道を歩くこと10分。ほとんど参拝者がいない本殿でお参りを済ます。



その後、小教院に向かうとそこでは大きな焙烙(ほうろく)で大人が6人がかりで豆を煎っていた。



訊けば休みごとに参拝者に節分に使う豆を煎るのを手伝って貰っているそうだ。眺めていると氏子のオッサンにそそのかされ、嫁がいつの間にか白い半被を着せられ豆を煎らされた。続いて私も煎らされた。適当に煎るのを切り上げると近くのテントに呼ばれ、お礼にと籤を引かせてくれた。我が家のちび共に引かせたところ二人とも神社の箸をゲットした。我々も勧められたので引いてみると3種のお面から一つだけ選ぶように言われた。赤鬼・青鬼・お多福の面があったが、鬼は対になっているためお多福をゲット。嫁は煎ったばかりの豆を手に入れた。暖かな日差しの中、何とものんびりした休日となった。


【山道の売店横にある謎のオブジェ・宇宙人ではない】

※ たまには落ちのない文章です。

初詣

2006-01-01 21:03:22 | 
家の裏の雑木林の丘は埼玉県と東京都の境となる狭山丘陵の東端に当たる八国山緑地である。アニメ『となりのトトロ』の舞台となった場所であり、現在ではトトロの森の愛称で近隣住民から親しまれている。その一角に浅間神社を奉った標高89.4mの荒幡富士という場所がある。この荒幡富士、明治時代に近郷の有志が16年かけて造りあげた人工の山である。しかし昔から住んでいる地元民くらいしか知らない場所である。ふとしたきっかけで私はこの場所を知り、ときより気分転換に訪れるようになった。

それだけマイナーなせいか元日にもかかわらず人はまばらにしか参拝しておらず、それだけに氏子が奉納する獅子舞もじっくりと楽しめた。


【獅子舞の手入れをする氏子さん】

長男とこの浅間神社にお参りを済ますと、背後のテントから声がした。
「こっちでお清めしてくだぁ...。」
北多摩弁で呼び止めた60歳代と思われるこのオッサンは、おそらく神社の氏子なのだろうがスーツにネクタイという場違いな出で立ちだった。
「ありがとうございます。でも車なんで申し訳ありませんが...。」
と断るとこのオッサンは言った。
「だいじょうぶだよぉ!警察だって今日は飲んでるだよぉ!」
と何の根拠も無いことを叫びだした。隣で御神酒を注いでくれる若い男性は笑いながら
「じゃあ、形だけでも...。なめる程度なら平気ですよ。」
といってくれたので本当に数滴垂らして貰い口に含んだ。
お礼を言い立ち去ろうとすると先ほどのオッサンは私が抱きかかえている長男を指さしこう叫んだ。
「ぼうずが飲んでねえだ!」
さすがに今月2歳になる幼児に飲ませるわけにも行かない。先ほど返した杯をとりなめさせる振りをした。するとオッサンは満面の笑みで長男にこういった。
「ぼうず!折角拝んでもお清めしなきゃ何の御利益もねえだからこれで今年もだいじょぶだぁ。あははははは!」
と叫んでいた。
とても首都圏とは思えない程のんびりしている。


【御神酒を勧めるマーキーテント】

その後荒幡富士登山。1分もあれば登れる山だが頂上からの眺めは素晴らしい。快晴で条件が揃えば新宿の高層ビル街は勿論。筑波山・赤城山・奥武蔵・奥多摩そして富士山などが見られる。残念ながら今日は奥多摩とぼんやりした富士山しか確認できなかった。


【右が浅間神社・左が荒幡富士】

これらの見えるはずの山々の属する国が上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐と八つの国に渡るため八国山と呼ばれるそうだ。

※ 余談だが『となりのトトロ』で登場するお母さんが入院している『七国山病院』はこの八国山のもじりである。

雪中キャンプ

2005-11-24 19:15:07 | 
白樺湖までもどり何となく霧ヶ峰方面へ行ってみた。さっきまで登っていた蓼科山が夕日に赤く燃えてきれいだった。その後Uターンし、白樺湖を抜ける。

【ビーナスラインからの蓼科山】

14年前の2月ここで初めて仲間のオイカワ・イタバシと3人で雪中耐寒キャンプをしたことを思い出した。
3人とも雪中キャンプは全くの初めてで翌日残りのメンバー12人が来るための先発隊だった。装備に至っては当然高額なものには手が出ず、目出し帽・Tシャツ・綿シャツ(薄)・綿シャツ(厚)・トレーナー・MA1で下はジーパンに長靴、雪が降ればカッパでどうにかした。どこからどう見ても怪しい格好であった。

3泊で最低が氷点下10度程度であったが、行った初日は体が慣れていないためかべらぼうに寒くてどうしようもなかった。夜8時に閉鎖されたキャンプ場に到着するも面倒だったため吹きっさらし駐車場にテントを設営した。温まるため酒盛りをするも持って行ったテントが7人用のドームテントだったためなかなか暖まらなかった。ようやく暖まりかけたので寝ようとするもシュラフは夏用のものを2枚重ね。着込んでいるためシュラフにもぐるのさえ大変であった。おまけに私の外側に使ったシュラフは兄貴のお下がりでなぜか足下が破れていて風が入ってきて寒い。しかも当然のことであるが温まるために酒盛りをしたため寝ているとトイレに起こさせる。深夜寒くなる一方の時間帯、寒いため寄り添って寝ている仲間が入れ替わり立ち替わりテントの外に出るわけである。初日はそれほど眠れなかった。

翌朝、目覚めるとテントの中はびっしりと霜で覆われていた。3人の人いきれがテントの内面で冷えて凍ってしまっていたのだ。「どうにか生き延びたな。」今となっては当たり前のことだが初めての3人にとってはこのオイカワの言葉は感激だった。日が差し始めたので外へ出て朝食を作り始めた。前の晩途中のコンビニで買ってきた冷凍食品は凍ったままであった。そればかりか私のコンタクトレンズの保存液も凍っていた。幸いにして硬化ケースに入れたレンズは無事だった。もはや笑うしかなかった。

昼過ぎに残る12名が合流した。その日からは雪中トレーニング&設営の合間の3食毎に鍋を作って食った。忘れられないのは雪と水で氷のテーブルを作ったときのことである。一息入れようとシェラカップをそこに置きコーヒーを注いだら見る見るうちに熱で氷が溶け、カップがテーブルに埋もれていった。全員分炒れて飲むときには既に先に注いだメンバーのカップはアイスコーヒーになっていた。

【2月の蓼科山】

このキャンプが元となり、雪の上での遊びにはまっていった。その後、嫁と行った北海道での耐寒キャンプツーリング・スノーシューイング・低山雪山登山等に発展していったのである。

今のところの最低気温の記録は2002.12.30屈斜路湖和琴半島での氷点下25.1度のテント泊である。その年の夏は沖縄波照間島へ行き37度を体感した。温度差62.1度。日本の国土の広さを実感したものだ。

焼酎

2005-11-18 23:18:13 | 
昨日に続き酒の話。

私は6年前までは酒といえばビールか日本酒であり、たまにウィスキーを飲む程度だった。

焼酎に関してはろくに酒の味も知らない学生の頃、大学の小汚い部室に転がっている安い合成アルコール焼酎をまさに浴びるように飲んでいたため味自体はあまりよくわからず、また飲み屋で頼んでもサワー程度であった。

6年前の5月、屋久島へ初めて行ったときのことだ。ライダーハウスの庭にテントを張らせてもらい自炊をしていた。翌日は樹齢7,200年の縄文杉を見に行くため、早めに食って寝ようと考えていた。ところが、そこで知り合った面々と宴会になった。ビールも3本も飲めば違うものを飲んでみたくなる。とはいっても私は早く寝ようと考えていたため、他に酒を買って来てはいなかった。すると一緒に飲んでいた人達が島の名物・芋焼酎を勧めてくれた。断るのも悪いので何となくシェラカップに注いでもらった。思った通り臭いがきつくて非常にまずい。しかし酔ってくるとどうでもよくなる。がんがん飲んで酔っぱらって寝てしまった。

翌日はあれだけ飲んだにもかかわらず二日酔いはほとんどなく縄文杉登山に行った。

下山後、酒屋に行って改めて驚いた。島の酒屋にはビールや洋酒類は普通にあるが、日本酒類はほとんどおいていなかった。
結局滞在した9日間ビールとこのまずい三岳という芋焼酎をひたすら飲んでいた。



帰宅後、日常に戻り仕事から帰りビールを飲むがなぜか物足りない。思いだし、ライディングジャケットのポケットを探ると飲みかけの三岳のペットボトルが出てきた。島へ行っている間に焼酎の味がなんとなく理解できてきたらしい。

こうして新たに焼酎というレパートリーが増えたのだ。

多摩川・羽村堰(はむらせき)

2005-11-12 21:31:03 | 
雨のち晴予報がはずれ、朝には雨も上がり良い感じの小春日和である。
家の窓からは富士山がしっかり見えるがどうしたものか?

午前中、嫁と子供二人を連れ、思いつきで新青梅街道を西へ。羽村堰へ向かう。我が家から車で30分程の東京都羽村市にある羽村堰から取水された多摩川の水は、玉川上水(たまがわじょうすい)に流れ込み、浄化されて東京都の上水道に供給される。江戸時代17世紀半ばの事業というから驚きである。

【多摩川上水】

この上水、意外に長く西武拝島線・新宿線とJR中央線の間を延々と43kmを流れ、最終地点は新宿御苑の四谷大木戸となる。

途中西武拝島線玉川上水駅近くで分岐した一方は野火止用水となり北多摩地区を北東に進み、埼玉を流れる柳瀬川を経て荒川へ流れ込む。あまり知られていないらしいが多摩川と荒川は繋がっているのだ。


【中央が玉川上水取水口・この辺りは夏場、子供達の格好の遊び場となる】

この羽村堰、ちょっと遊びに行くには良い場所である。この辺りの多摩川は東京都の主流の割には比較的水は綺麗である。春は堤を覆うように植えられた桜が、夏は水浴びや川遊び、秋はバーベキューで賑わう。何より駐車場が無料なため時間を気にしなくていいのがすばらしい。


【奥の河原ではBBQが手前では魚釣りが良く行われている】

今日も堰でヘラブナ・マブナを中心とする釣りやバーベキューをする人々で賑わっていた。木枯らし1号が吹いたらしいがそんなに寒くはなく、子供を散歩させるにはうってつけの場所だった。

鮭の日

2005-11-11 21:04:14 | 
今日は鮭の日との事。部首の圭をばらすと十一月十一日という解釈だそうだ。
鮭は大好物で中学高校の頃の弁当は母親に頼み極力塩焼きを入れてもらっていたものだ。

数年前、北海道を旅したときのこと。夕暮れどき知床の宇土呂の町(知床オホーツク側の東端の町)で地のものを食おうと定食屋に入った。壁に貼られた品書きを見るもどれがオススメなのかよくわからない。その中に『鮭児定食・時価』というメニューがあった。女将に聞いたところ今日は2,000円で出せるという。私は旅先でケチることはしない。とりあえず注文してみた。厚切りの焼き鮭が2切れが皿に乗せられ出された。女将の説明だと手前が鮭児で奥がメヂカ(目近)といった。



詳しい説明を聞くと
メジカ(またはメヂカ)は秋の鮭漁で獲れる。
名前の由来は眼が近くに寄っているため「目近」。
種類は、シロザケ(秋味)。
定置網で1千尾に一匹程度の割合で獲れる。

鮭児(けいじ)
アムール川(黒竜江)系は日本近海やカムチャツカ半島(日本の鮭はベーリング海を回遊)を回遊する夏サケ(7、8月に遡上するシロザケ)。
11月上旬から中旬にかけて主に知床から網走付近でとれる脂ののった若いシロザケ。
1万尾に1~2匹の割合でしか獲れない。

とのことだった。

しかし、この2種類を食ったところ今ひとつ味の違いがわからない。確かにうまいがそこらのスーパーで売っているちょっと高価な鮭とあまり変わらない気がした。
それに伴い疑問が湧き上がる。なんでこんな貴重な魚が定食になっているのか?しかも、秋から冬にかけて捕れるのに私が行ったのは7月下旬である。
ふと考え、にっこり笑いながら女将に言った。
「珍しい鮭だからもし、まだ残ってるなら魚を見せて貰えますか?」
女将はあっさり
「良いですよ。ちょっと待ってて下さいね。」
といい、板場へ入るとトレーに乗った鮭を2尾持ってきてくれた。

【手前がメヂカ・奥が鮭児】

なんと、切り身の跡がないそのままの姿の2尾だった。そんな貴重な魚が何故1尾ずつこの時期に残っているのか。少なくとも私の食った片方が鮭児だとするならこの店には8ヶ月もの間定食で出せる程それが冷凍保存されているということである。あり得ない話である。目の前にあるこの鮭は本物のメヂカ・鮭児だとしても、確信は持てないが私が食った鮭はおそらく普通の鮭だったのだろう。まあ、笑い話のネタを得たこととして複雑な心境を抑え代金を払った。

まさに、まんまと一杯食わされた話である。

ETC エレクトロニック・トール・コレクション

2005-10-27 22:39:35 | 
18:50扇沢発。豊科で高速に乗る頃には土砂降りとなり、諏訪から中央道に入ると50km/h規制となった。100km/hで走るとワイパーが意味を成さず、前方が見えない状況だった。

ラジオでパ・リーグプレーオフセカンドステージ ホークス・マリーンズ戦を聞きながらひたすら車を走らせた。甲府にさしかかり9回土壇場で同点に追いつかれたマリーンズに嫌気がさしたとき、電光案内を見て更に嫌気がさした。上野原~相模湖間で事故のため高速を下ろされると知ったからだ。結局は逆転負けをし、リーグ優勝が先延ばしとなったマリーンズに落胆した頃、上野原が近づき渋滞が始まった。

ようやく料金所が見える場所へ行って驚いた。3カ所ある出口のうち混んでいるのは中央のETCの箇所のみ。両側の一般料金所はガラガラだった。私のジムニーにはETCシステムは搭載されていない。路肩を走り、料金所へ入りチケットを出すとおじさんは言った。
「お疲れ様でした...黒部の紅葉はどうでした?」
驚いて聞き返す。
「何故黒部の帰りって分かるんです!?」
「失礼しました。助手席のお土産袋に黒部って書いてあるもんで...。」
「なる程、そうですか。まだ、ちょっと早かったですね。後10日から2週間ですかねぇ。」
それにしてものんびりしている。後ろを見ようとした私の様子から察したのかおじさんは
「大丈夫ですよ。後続はいませんから。」
と言った。確かにその通りだった。更に言うには、
「ETCの普及率が鰻登りの割にはここのような小さな料金所はまだまだなんですよ...。このインターは出るとすぐに信号機があるんでETCでも渋滞するんです。相模湖で乗るならこれを下りる場所で一緒に出してください。24時間以内なら割引適用になるチケットですので...。気をつけて!」
そういっておじさんはピンクの紙を渡してくれた。

【表】
【裏】

ETCがこのまま普及していけば料金所によっては今まで通り現金払いの方が早くなる場所もあるという事だろうか?

その後、甲州街道(国道20号線)は混雑していなかったため相変わらずの豪雨の中、そのまま八王子経由で0:10自宅へ到着となった。

打ち上げ

2005-10-26 20:20:00 | 
宇奈月駅は観光客でごった返していた。しばらく土産物を買ったり眺めたりしたが折角なので温泉に浸かろうということになる。扇沢から回送サービスをかけておいた仲間のワンボックスに乗り込む。その後500円払って黒部川・宇奈月ダム湖の高台にある公衆浴場『とちの湯』に入浴。この宇奈月温泉、実は湯元はトロッコ電車の途中駅の黒薙温泉で大正13年、引湯管を設置して、現在の場所に温泉街が開かれたということであった。雨に叩かれた体には最高に気持ちが良かった。露天はまたもや我々3人の貸し切りである。40分程時間をかけてゆっくりと浸かる。時折対岸を欅平に登って行くトロッコ電車を眺め、その先の黒部峡谷に目をやると何ともいえない達成感で満たされた。3人とも同じ気分だったらしい。
ノサカさんが突然言った。
「俺、実は死んでたかも知れないんですよ...。」
よく理解できずに聞くと、昨日、下ノ廊下で写真を撮ろうとしてカメラを構えた際、うかつにもザックを歩道の壁面にこすり、谷側に押し出されたらしい。咄嗟にバランスを取りどうにか助かったが今思い出しても体に戦慄が走るとのこと。
ともかく無事で何より。入浴後、地ビールで乾杯!宇奈月地ビールは苦かったが美味。まったりする。



売店のおばさんは我々が黒四から下ノ廊下を抜けて来たと聞くと、
「よくもまあ、無事で何よりだねぇ。若い頃行ったけどもう、怖くて怖くて...。人もいっぱい亡くなってるし、熊も出るっていうし、落ちたまま見つからない人もたくさんいるからもう行きたくないよ。」
と言っていた。ここへ来る前に調べたデータでは過去5年に1人亡くなったという話以外に聞いていない。
「そんなに落ちてるんですか?」
「最近は死亡事故はあまり聞かないけど、昔は多かったのよ。テレビなんかで取り上げられるようになってかなり危ない景色が映されるからしっかりした人しか来なくなったからねぇ。」
と言っていた。

その後、女性陣が打ち上げを兼ねて富山湾の寿司が食いたいというと、黒部市街の『きときと寿司』という店を紹介してくれた。
車でわずか20分あっという間に日本海である。8号線沿いのその店は石川の氷見を拠点とする回転寿司らしいがネタは地元民にも定評があるとのことだった。
6人で乗り付け食いも食ったる35皿。さすがに満腹満足状態となった。



『きときと』とは富山弁で『ぴちぴち』という意味らしい。しかし魚にしか使われることはなく、けっして『きときとのギャル(なんともオヤジ臭い例えだ)』とは使わないらしい。

その後、小谷・白馬で土産物を買いながら130km離れた扇沢まで移動。


【小谷で買った地ビール・よなよなエール メチャメチャ美味かった】

白馬を過ぎると雨がまた強く降りだし、扇沢近辺では霧が濃くなり出した。
自分たちの車を認め、ノサカさんは言った。
「なんか、何日も前にここを出たような気がする。」
誰もがそう感じていた。出発したのは前日の朝のことである。それでもこれだけ非日常的な体験が続くとやはりここを出発したときが遙か昔に感じられる。
秋の山行は終了となった。また、このメンバーが主で来年またどこかへ行くことを約束し解散となった。

霧積温泉

2005-09-28 19:07:59 | 
「目的地に到着しました。案内を終了致します。運転お疲れ様でした。」
カーナビは電子音と共にそう言い残し、ナビをやめた。
碓氷峠手前、JR信越本線終点横川の駅から北へ12km。人里離れた霧積ダムを越えた細い林道。周りには掘っ立て小屋すらない。左側の土手ではサルの群れがこちらを「ギィー!ギィー!」と威嚇している。

【威嚇するサル】

夕暮れ間近のこの時間、台風17号の影響で雨と風が強い。目的地の霧積温泉までは一本道であるためそのまま進む。薄暗い林道はところどころ狭くなり、対向車が来たらすれ違うのがやっとである。

突然、頭上遙か高みに場違いな架橋がそびえる。長野新幹線の一ノ瀬トンネルと碓氷峠トンネルの間にかかる300m程の橋であり何とも不気味であった。

霧が濃くなるばかりの曲がりくねった山道を恐る恐る進むこと5km、ようやく建物が見えた。しかしこれは『きりづみ館』という宿で目的の温泉とは違う。手前にゲートが開いた道があり、更に右の山側へ続いているが、通行禁止の表示が出ている。よく見るとそちら側に『金湯館』の案内が出ていた。不審に思いながら更に通行禁止のはずの狭い林道を進む。霧は濃さを増し更に両側にある側溝は深く、道を切り開いた山側の斜面にはところどころに落石の跡がある。

子供はさすがに心細いのか泣きわめき、嫁はあやすのに必死だった。5分ほど進むが途中、案内は一つも出ていない。ナビはすっかり林道が消えて何もない大平原の中にウェイポイントを残すのみとなっている。更に5分ほど進み、Uターンしようかと考えていると旅館の案内板が立っていた。安心して進むとまもなく、車が4台ほど林道脇に止まっていた。その左側の谷に建物があった。『金湯館』到着である。

雨の中、子供を抱きかかえ、歩道を5分ほど歩いて下りると、川の向こうに明治時代に建てられたという鄙びた建物があり、水車が回っていた。

【金湯館入口】【この2階の窓の部屋に宿泊しました】

受付を済ませ、案内された部屋は湯治用の2回の座敷でエアコンはなく、既に温風ヒーターと電気炬燵が用意してあった。荷物を運び込み落ち着いたので風呂に浸かる。アトピー・皮膚病に効くという硫酸カルシウム塩泉は39度とぬるく、ゆっくり浸かるにはもってこい。運良く子供と貸し切りになり広い浴場に大はしゃぎだった。

部屋に戻り夕食。決して豪華とは言えないが川魚と山菜をメインにして名物の鯉コクが自慢の料理だった。

国道18号から40分程度であるが、林道が開通したのが昭和56年それに伴い、電気・電話が通ったとのこと。

歴史的には明治憲法の草案が作成され、近代日本が輩出した各界の著名人が訪れたというこの霧積温泉・金湯館。秘湯の宿としてかなり趣のあるところだった。

余談だが、温泉はぬるいため30分以上の入湯が勧められている。ゆっくり入ったつもりではあったが私はその後、風邪をひいてしまった。

中秋の名月

2005-09-18 23:34:42 | 
中秋の名月である。



幼い頃、父親に連れられ浴衣姿で家の近くを流れる川の堰まで散歩したのを思い出した。
そんな話を嫁に語ったら、別な記憶が蘇った。

02'9'20のこと。金曜の仕事が終わった後、嫁と関西へ向かった。翌日から3連休である。バイク2台で中央道をひたすら西へ向かった。松宵(まつよい)月。夜風が気持ちが良く、夜中の1時過ぎ、愛知県春日井の内津峠のP.Aにテントを張った。

快晴の翌21日、琵琶湖まで走り福井の敦賀へ抜けた。その後、三方五湖経由で舞鶴の港を眺め、兵庫の但東シルク温泉で親しくしている大阪のバイクを乗る夫婦と合流した。彼らの案内で林道を走り、近くの郷路岳の山頂で中秋の名月を眺めながら野宿宴会をした。

翌日、彼らと別れ福知山から大阪へ出た。結果、嫁のバイクを使った日本一周全都道府県制覇は達成された。

その後、奈良の東大寺で大仏参拝。終わったのが16:10だった。日が沈んだら適当に野宿しようと東へ向かう。

19:00、名古屋を通過。中央道へ向かう。十六夜(いざよい)月を眺めながら中央道を西へ。21:30、諏訪S.A。もはや我々のテンションは信じがたいものがあった。

25:30自宅着。

何と郷路岳の山頂から832kmを観光をしながらオフロードバイク2台で走破してしまったのだ!

3連休最終日はひたすら家で寝ていたが、今考えても何故あんなに元気に走ったのか疑問である。

満月の夜は統計的に交通事故も多いと聞く。人間の気も昂ぶるという。中秋の名月の思い出である。

金ちゃんラーメン

2005-09-13 23:54:20 | 


コンビニで金ちゃんラーメンのカップ(金ちゃんヌードル)を見つけた。関東以北ではおそらくあまり知られていないブランドである。
本社が徳島にある会社の製品である。私が確認した限りでは発売地域は九州から東海まで(北陸は不明)である。

ちなみに関西以西であまり見ないカップ麺のブランドは群馬のペヤングである。

この金ちゃんラーメン、味は日清のチャルメラのようなものだが、この製品には思い出がある。

95年の夏、お盆明けの残暑まっただ中、昼13時に初めての四国である徳島へ上陸した。日本で指折りの全長95kmという長さを誇る、剣山スーパー林道を制覇してやろうと考えたからだ。

前日フェリーの中で飲み過ぎ、二日酔い状態でこの山深い四国の林道を走った。18時過ぎ、ようやく林道の最終地点である高の瀬峡を抜ける。そのまま徳島・高知県境の四ッ足峠トンネルを抜け、物部村に入る。

キャンプをするための食料を買おうと店を探すがスーパーはおろかコンビニさえ見つからない。そうするうちに陽が沈み真っ暗の国道をひたすら南下する羽目になった。岡ノ内という集落でよろずやを見つけ、食料を探すがソーセージとカップ麺程度しかなかった。そのとき買ったのがこの金ちゃんの袋ラーメンだった。

店の婆さんにキャンプ場を聞くが、そんな物は100km以上先の高知まで行かなければおそらく無いんじゃないかと言われた。困っていると、裏の小学校の校庭にテントを張るようにすすめられた。
小学校へ行ってみると、近所の親子連れが花火をしていた。事情を話すと、ここで張るのも良いが、10km程先の香北町にキャンプ場があることを教えられた。

腹が減り、疲れきってようやく着いたこの教えられた『轟の滝キャンプ場』で汗をかきながら食った晩飯がこの金ちゃんラーメンであった。

仕事のやりくりをして取った夏休みに手に入れたばかりのバイクHONDA SUPER XR BAJA で四国まで来て何とも侘びしい夕食にげんなりした記憶が今日の昼このカップ麺を食って蘇った。

あのときの暑さもげんなりした気持ちも今となっては懐かしい思い出である。