高樹のぶ子のSIAブログ
2009年03月29日 / 最近の出来事
レオナオール・フジタの展覧会を見てきました。
日本から逃げ出して、フランス人となり、その特異な風貌でパリ画壇の寵児となり、ベルエポック時代の画家としては、幸せな生涯だった(外から見れば)画家の人生とともに、その画歴を見てみたかったからです・・・
レオナール・フジタ展スペシャルサイトへ
というのも一つの理由ですが、男と女と猫・・・
彼は女性と猫を書くことでもよく知られていて、甘苦上海にコンを登場させている以上、見逃すことの出来ない、展覧会でした。
そしてたしかに、沢山の「コン」が、いました。
多くは、女性の艶乳白の肌を浮き上がらせる役目、あるいは、男にジェラシーを覚えながら、そっと素肌に寄り添う役目として・・
艶乳白、と言うことばは、展覧会でのわたしの造語です。
その艶乳白に引かれた、細い線。この世界が好きです。コンの目も、女や男の目も、強いのだけれど、主張の強さではない。
展覧会を見終えると、疲れて、眠くなって、それに時々気弱になって泣きたくなります。
仕方なく、美術館でランチを食べました。それから大濠公園をちょっとだけ歩きました。
ずいぶん昔ですが、フジタも描いている「モンパルナスのキキ」と呼ばれているモデルの生涯を訪ねてパリに行ったことがあります。
婦人雑誌の取材でした。
モンパルナスの当時の画家たちの住まいも訪ねました。一番悲劇的だったのはモデイリアニーで、モジリアニーの死後、身重の妻が飛び降り自殺したアパルトマン(旧い階段を上った最上階のアトリエから、中庭に投身)の窓を見上げたときにも、足下に猫を見つけました。
暗い階段を上って、アトリエに行くときも、猫がついてきました。あの家には、猫がいるのです。
キスリングは、モデイリアニーの葬式を出してやりました。キスリングの息子は、16区のアパルトマンで父親の「遺産」を守って、身を縮めて生きていました。わたしにも、父親の絵(勿論写真)にサインして何枚もくれました。
父親を越えられない息子の「悲しみ」をわたしが感じたとは、気がついていなかったはず。
キキの故郷「シャテイオン・シュル・セーヌ」にも足を伸ばしました。
ブルゴーニュの寒村でした。セーヌの流れに沿った、美しい村でした。
キキの子供時代を過ごした家が廃屋になっていて、ここにも何匹もの猫がいました。
キキは、キスリングやフジタや、他の多くのモンパルナスの画家を触発し、絵のなかに生き残っていますが・・最後は太って、カフェでスカートを持ち上げては、お酒をねだっていました。
モデルというのは、画家に執着されて絵になりますから、それぞれの画家に女としても愛されていたとして当然でしょう。だからこそいま「その姿が残って」いるのです。
キスリングの息子(画家)は、父親とキキの男女関係を否定しましたが、二人の旅先からの写真と恋愛関係を示す文章が残されています。
息子は、「神聖な芸術家である父親」を、「娼婦のようなモデル」と「関係」を持ったことにしたくない。
だからかなり強く、否定しました。
「キキと父は、当時のことですから、性的に関係があったと思いますよ。なぜなら、父は全身芸術家だったからです」
そう認めることの出来る息子であったなら、息子は父親を越える芸術家になり得たかもしれないと思いました。
キキは、公共の一番安い墓地に埋葬されましたが、この墓地は5年で掘り起こされて、処分されました。
高樹のぶ子
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許されていることを識った時、限りなく寛い心になることが出来る、と。
芸術も、ひとに与えられているもの、それらを通して最後には、崇高な世界に至るものだと。
さて、猫ちゃんは、何を見て、示唆しているのでしょうか!?
独特の白色を思い出しました。
藤田はネコ好きだったのでしょう。
パリは
ネコもネズミも多かったのかもしれません。
モジアニーの最期も
妻のジャンヌも悲劇的でした。
キキは、逞しく生きたのですね。
若い時は自由奔放に暮らし、やがてカトリックのクリスチャンとなった藤田嗣治の一生を想像しました。人生感も変わるのでしょうか。それとも・・よく分りませんが。
コンはこれからどのように、誰に寄り添って生きていくのかな・・
からみつくようなジェラシーに満ちた猫の目をよそに、性欲に陶酔する女の艶乳白の背中。
この絵も素晴らしいですが、ぼくの好きな彼の一品は<カフェ>です。
黒いドレスの大きく開いた胸元からのぞく艶乳白の胸。
過ぎ去った<あの時>を思うのか、カフェでワインを前にひとりたたずむ透き通った目の女。
前者が<動のドラマ>ならば、これは<静のドラマ>を演出しています。
藤田嗣治について見てみました。波乱の人生ですね。
素晴らしい絵とフランスでの評価がありながらも、日本では生前に評価されずに苦しんだようです。
上記の言葉は彼の辛い立場と心情をあらわしているように思います。
そんな彼には、5人の妻が次々と寄り添ってい行きます。藤田には常に女は必要であったでしょうし、女もまた、そんな藤田に惹かれていくんでしょうね。
艶乳白に描かれた数々の人の肌、母親を早くに亡くした藤田が求めてやまないものだったのかも・・・。
「疲れて、眠くなって、それに時々気弱になって泣きたくなります」
わかります。でも、どこで、どんなふうに泣いたら楽になるのか、よく分からなくて・・・。たまたま泣けるドラマがあったりすると、ティシュ片手に泣いてます。
何故だか27日分の更新がなく、氏家とのメールのやりとりがわかりません。
「もし完全芸術という概念が成立すれば、そのときは芸術者は絶対的狂死者として消滅し、芸術作品は神の製作物のような姿で個々に存立するということになりそうである。」(吉本隆明「『死霊』の創作メモを読んで」)
この文の中の狂死という言葉をもっとおだやかに解釈して自我との死闘というふうに解釈すれば、天才画家の生涯は、ほとんどこれに当てはまると思われます。つまり天才画家の作品は、自我との熱狂的闘争の果てに、神の製作物のような姿で歴史に残されているといえましょう。自我との死闘という場合、世間は自我の殿堂そのものですから、それは、世間との死闘をも意味します。その分、天才画家の生涯は一層すさまじいものとなる他ありません。
藤田嗣治の生涯もその典型といえるようです。
のぶ子先生が示されたサイトを見た範囲では、「構図」と題された二つの作品がいいですね。これを見て僕はロダンの作品を思い出しました。絵に描かれたロダンです。ここに描かれているのは、体壁系としての人間です。
三木成夫によれば、あらゆる脊椎動物のからだは、体壁系と内臓系の二つに分かれます。体壁系は、外皮系と神経系と筋肉系からなり、それぞれが感覚、伝達、運動の三つの動物機能を営み、その中心は神経系の一部が変化した脳です。それに対して内臓系は、腸管系と血管系と腎菅系の三つからなり、それぞれ吸収・循環・排出という三つの植物機能を営みます。その中心は循環系の一部である心臓です。生殖器官は、内臓系と体壁系の二つにまたがり、内臓系の中心は子宮であり、体壁系の中心は雄(人間の場合だと男性の)の脳ということになるのです。これは興味深い指摘です。生殖器官としての脊椎動物は、雄(男性)と雌(女性)の両方にまたがり、どちらかの一方では、成り立たないということのほかに、内臓系は雌(女性)の側にあり、体壁系つまり生殖としての脳は雄(男性)の側にあるというのです。人間の場合、心を生み出す土台は、内臓ですから性としての心は女性の側にあり、性としての感覚(見る、聞く、臭う)は主に男性の側にあることになります。ポルノ産業が男のためにあるのは、当然だといえますね。
藤田が「構図」という作品で描いているのは、男女とも体壁系としての人間でありますから、その中心はあくまで性的意味も含めて脳ということになります。頭脳という概念は、西洋の文化の中心を形成するものといえるのではないでしょうか。
これに対して東洋の仏教芸術、特に仏像にまつわる芸術作品は内臓系(そお中心は心臓)だと、三木成夫は言っています。
藤田嗣治は晩年にカトリックに入信し、宗教にまつわる作品を残していますが、自我との死闘に決着をつけたという意味でよく分かる気がします。その洗礼名が、レオナール・フジタです。
締めくくり頑張りましょう
子供の頃にTvで見た藤田嗣治の動きの映像は、僕にとっては単なる奇人だったです。
若い頃から彼のモンパルナス時代の絵は、所謂グラッフィック世界と捉えています。
ところがサイトで戦争画を数点拝見したところ、彼自信が戦争画を描くことに、高揚しているのが明白に感じられ、彼は情熱を傾け生き生きとした構図も密度も凄いレベルでした。
彼が戦争高揚画を描き始めたのは、分別も有る52才、それから60才の間は戦争画を描きましたが、余程異常な心理状態だったのでしょう。
当時の脈々と続いて来た、画壇に対しての反アカデミニズムの観点から、これからの日本の画壇の重鎮になろうと、猛烈なエネルギーを使って、精魂込めて描いたと感じました。
彼は敗戦で日本の画壇にはいられないと、自ら悟っていた筈ですが、画壇に対して捨て台詞を残し、羽田を発ったこともとても奇妙です。
藤田嗣治の思春期から初めての結婚までの、プライベートな部分の様相が掴めませんでしたが、学生時代から吉原通いが大好きだった男のようです。
何故その時代に興味が有るかと言うと、画面を大きく占め構成する「白」です。
長年の直感ですが「白」を占める色使いは、心が硬直するほどの、深い悲しみが原体験に有る色です。
何だか藤田嗣治は女性遍歴はあっても、子孫もいないようだし、きっと彼は子供のまま逝った感じがします。
あの天才ピカソが渡仏し初期の藤田の絵を見て、お前は凄い天才だ!と言ったそうですが、そのインスピレーションは狂人だったのかも知れません。
遠くの距離の有る世界を結び付ける才能だったのか。
最後に宗教に安らぎを求めたのも、人生に疲れたのかも??
ときどき小説家も、異風ないでたちでメデイアに出て自己アピールをする人がいますが、案外、気が小さくて自信がないのではないかしら・・カッコよく、ダンデイでいたいのは、誰しも同じなんですが・・
同じ意味で、サングラスをかけてテレビに出る人も、ちょっとシャイで、自分のすべてをさらすのが辛い人なんでしょう。
最近わたしも、サングラスではないけれど、メガネでテレビに出ようかな、と思っているのですが、これはもう老眼で手元のメモを見ながらしゃべる必要があるもので・・・鼻眼鏡より、遠近両用のほうが、テレビ的にいいのかな、などと思ってるのです。
それと、めのまわりの皺隠しにもなるかな。。
自己アピールではないけど、ま、似たところがあるかもしれませんね・・
決して茶系のレンズは選ばないで下さいね?笑
藤田の画業や内外の女達との遍歴も、その全てがフアッション的だった気がします。
グラッフィック的に生きると、狂気を孕むのは致し方ない結末でしょう。
最初の日本の妻との生活の中で裁縫を教わっていたらしく、パリでは自分のズボンや上着を縫って作ったりもしています。
オカッパ頭もパリでの貧しい時代を、忘れない為にと語っていますね。
彼がもて囃されたのは1920年代のいっとき、世界恐慌で彼の絵も大して売れなくなりました。
彼と結婚したパリで出会った女は二人とも、堂々と不倫をしてましたから、何か彼の性癖にもその原因が有ったのでしょう。
藤田は恐慌の後、戦前戦後日本に滞在したが、八月の原爆投下をどう思ったのだろう?
ピカソがゲルニカを描いたように、例え藤田が狂気を孕んでいたとしても、彼は広島や長崎を取材しその地獄絵も描き、逃げるように行ったパリからでも良いから、知名度を生かし世界に向けて告発するべきだったと思います。
しかし残念ながら彼の精神は痩せていたので、彼にはそんな考えは更々なかったようです。
フアッション的と云えばダリ、しかしダリの人生には愛が満ち溢れていて、妻(或は女や人)を愛し続けたし、シュールな作品にもそれが根底に存在しています。
藤田のその後の、悍ましい表情の幼児の絵の数々は、一体何を意味しているのだろう?
栄光時代の思い出の女達を、幼児の姿にして描いたのでしょうか。
↑昨日の朝の下書きから。
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・・・。
ロンドン留学時代の夏目漱石の日記に、ホテル(アパート?)の姿見にみずぼらしい男の姿を認め、それが自分自身であったと悟ったときの驚愕が認められています。
パリという街は、誰もが自分の好きに自由に生きていける街だと思います。冬の外套を纏った人と、ミニに半袖の人、黒装束、マルチカラーの衣装、全て同じ空間に存在し得ます。ただ、街、人々の反応は、それぞれに応じて当然のことながら違ってきます。
日本人だからといって馬鹿にされたくない。ついつい、肩肘張って、必要以上に上を向いて、ヒールの音高く、闊歩してしまいます。変に自己意識が強くなります。無視をされると、心から傷つきます。
辻邦生も肌の違い(劣等感)をテーマにフランスを舞台とした男女関係を描いていますが、人間として永遠のテーマなのでしょうか。
基礎体温がラテン人より日本人は低く、肌を合わせるたび、肌の色を含め、違いを容赦なく認識させられます。
ですから、フジタにとり艶乳白とは、憧れであり、嫉ましさであり、愛おしさであったのだと、思われます。。。パリに住む異邦人としての私にとって、そうである様に。
漱石さんは、霧の深い町ロンドンで、悶々と日々過ごしたことでしょう。
今とは時代が違います。今の日本ならば、後ろに経済大国という看板も有りますし。
経済力は、大切ですよ。やっぱり。
この間、フランス人実業家と結婚しパリに暮らしている某テレビ局のアナウンサーだった女性が、パリでの暮しを紹介していました。
おお、世の中には、どんな暮らしをしていようとも、悩みが尽きないんだと思ったものですが、それでも、彼女の悩みも、異文化の中で暮らす事の、不安を感じさせるものでした。
異邦人という思いは、日本で生活する者には分らないことかもしれません。日本にいれば、ついと手を伸ばすと、欲しいモノが直ぐに手に入ります。モノに限ったことではなく。特に彼女のような立場ならば余計です。
彼女のような女性にとっては、それはとても大きな犠牲のように感じられることでしょうと・・
クッカバラさんは、きっと今日もパリの街を颯爽と、闊歩していることでしょう♪
乳白色の女性にはない魅力をいっぱい発揮してくださいませ。
高樹先生のブログに長々と、何を書いているのでしょうか。
失礼しました。まとまりませんがお許しを。
数年前に開催された展覧会のポスターを、ずっと部屋に飾っていました。イエローが主体のその絵にも、物憂げな瞳のパリの女性と猫が描かれています。
フジタの描く裸婦の乳白色には、日本画の影響があるのでは?と聞いたことがあります。
確かにフジタは、パリの女性やパリそのものを愛していたー。でも、心の奥底で「日本」を捨てられず母国を羨望していた人であったような気もします。
私には、彼の描く女性の肌の色は、色白の日本人の肌に似ているように思えてならないのです。
キキのことも様々な画家の展覧会で聞き知ってはいましたが、こんなに詳しくは知らなかったので、面白く拝読しました。
日本人が海外で異邦人になった時、その精神は解放されると同時に、圧迫もされるのかもしれません。個人差はあるでしょうけれど。漱石はロンドンで精神的な病を得たといわれていますし、逆に鴎外は、非常に社交的な生活を送ったそうです。
京や紅子さんは、どうなんでしょう?
数日前の甘苦上海に、京の記者時代の様子が描かれていましたね。あぁ、こんな記者、確かにいるよなぁ、と思って読みました。もしも、もっと早い時期に、この記述があったなら、私は京のことを理解して愛しながら読み進められたかもとも思いました。
上海やパリに桜の木はあるのでしょうか?パリには、それこそ絵を観るために行ったことがありますが、アメリカのように桜の木があったかどうかは覚えていません。
彼岸桜や早咲きのしだれ桜は、もう満開ですね。
桜の花は、どうして、こんなにも日本人の心を捉えるのでしょうか。
もしかすると「花の下にて春死なん」と思ったのは、西行だけでなく、フジタも同じことだったのかもしれないと思いました。
フジタは両方だったのかもしれないですね。
彼の艶乳白の素肌の秘密は、とても面白いテーマですね。白人女性へのあこがれだったか日本女性へのノスタルジーであったのか・・
異国が人間を「変える」「別の要素を引き出す」のは、小説でも大事なポイントだと想います。紅子さんは日本では平凡でごく普通の中年経営者のままだったと想います。上海に出店して、幸せだったのかどうか・・・作者もまだわかりまえん・・
この先、地球外留学で母国を思う「ヒトごころ」などと考えたら、文学観も地球離れしてしまって?!
もう亡くなってしまいましたが、ある天文学者の事を思い出しました。
宇宙時代に突入してゆくこれからのこと。
地球にへばりついた思考を強烈に皮肉っていたあのひと。
今頃は、冥王星の辺りを旅しているのでしょうか? 宮沢賢治さんと銀河鉄道で同席して。
文学って、地球空間での想念やあれこれ。
ああ、艶乳白の素肌!!
京は、きっと「日本から逃げてきた人間」なのでしょうね。
私は、野心を持って来た人間よりも逃げてきた人間の方に興味があります。傷のある人、欠けたところがある人は、魅力的ですから。
私も職を二度ほど変えました。
一度目の転職は、京の逃亡に心情的には似ていたかもしれません。投げやりになる京の気持ちは、わかるような気がします。
昨日、私の職場にマスコミから転身した方が入ってこられました。立派な経歴を捨ててなぜ?と思い、事情を聞こうかと思いましたが、やめました。報道の現場には、人には言えない、常識離れした何かがあるような気がします。
まぁ、どんな職場にも、しんどいことはあるんですけどね。時々、私も逃避行(といっても海外へ行く余裕はなく温泉に行く程度です)をして、適当にバランスととりながら常に前を見れる自分をキープしつつ生きています。
上海も機会があったら行ってみたいです。何かしらのエネルギーを得ることができる街なのでしょう。
野心を持ってやって来た人間は、挫折の苦しみに悶えることもあります。そうして苦しみを他人に言えない(言いたくない)変な気概を持って、その孤独を抱えています。
そうして、ああ、山のあなたの なほ遠く 幸ひ住むと人の言ふ とつぶやくのです(カールプッセ)。
紅子は、日本に帰っても戻るところがある、贅沢な環境にいるのですよね。でも、異国の地だからこそ、今の紅子があるので、日本に帰ったら平凡な中年経営者になってしまう。彼女の意地が、上海に彼女を引き留めることになるのでしょうか。それともビビッドな毎日よりも、普通の生活にこそ幸せがあると達観し、日本に戻ることになるのでしょうか。
人生、疲れてきたら、ポールのパンではなく、玄米とお味噌汁で朝を迎えたくなるかも、しれませんよね。
連翹の濃厚な黄色が眩しい春の只中にあるパリより
ps メルシー satoko 様。
ps 2 パリでも、桜が咲き誇ります
ちょっと恐い。
犯罪の匂がしてきそうです。
犯罪も、あることでしょう。今、テレビも新聞も犯罪記事には事欠きません。ああ・早く続きが・・・知りたい。
殺人モノは苦手ですけれど。
どうぞ、紅子さん気をつけて!
クッカバラ様、パリも春を迎えているのですね。
昔読んだサガンの小説を思い出します。
再来週は復活祭ですね。もうそういう宗教的な行事は少なくなっているのでしょうか。
私も昨年の暮れに東京で同展をみました。戦争中に日本で過ごした時期がスッポリ抜けた展示内容で、それがかえってフジタとフランスの関係に照明を当てているように感じました。
結局、最初にフジタを認めてくれたのもフランスだったし、戦後、失意のフジタを迎え入れてくれたのもフランスだった‥。
展示作品では、晩年の宗教画が圧倒的に面白かったです。あれはフジタが最終的に自分を受け入れてもらうための努力――フランスにたいする忠誠――だったと感じました。
あのとき、里見宗次先生にも取材されていましたよね。
実は私は、1990年に里見先生に出会っています。
里見さんのアパートでもあり、佐伯祐三の絶筆でもある
カンパーニュプルミエール27番地の扉の前で
私は油絵を描いていました。そのとき、里見先生に声をかけられたのです。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/harada-ya/episode1-2.htm
藤田のアトリエも、里見先生のアパートの近くにありました。藤田はあこがれの画家、福岡の展覧会も見に行きました。