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高樹のぶ子のSIAブログ

2010年12月07日 / 最近の出来事

東アジア文学フォーラムについて

先週の金曜から、北九州の国際会議場で、東アジア文学フォーラムが
4日間に渡り、開催されました。
中国、韓国と日本の参加国の作家が、合計30人ばかり集まり、東京からも
メデイアや出版人が参加されました。日本側責任者は島田雅彦さんです。


写真は、地元の少女たちが書道パフォーマンスで「国境を越えて」と書いた
ものです。レセプションのときに、何人もの少女たちが音楽に併せて書いて、
照明を落とすと、蛍光色で大きな字が浮かび上がりました。その前に立つのは、
中国の現代作家ではもっとも著名だと言ってもいい莫言さんです。


私の役目は、三つのセッション「貧富と欲望」「場所の創造力」「恋愛と文学」
の最後の「恋愛と文学」セッションでの基調報告でした。


この文学フォーラムについては、新聞や文芸誌などで、今後成果が公表される
かと思いますので、それについては、第三者の評価に譲ります。
ただ、これほど多くのアジアの作家が集合したのには、意義があると感じました。
同時通訳による、文学的な会話には、おのずと限界がありますが、
みなさん、頑張ったと思います。
何より、門司港のレトロホテルに泊まり、夜ごと共に食べて飲んだのは、
楽しい思い出になりました。


「恋愛と文学」の基調報告の原稿を、アップいたします。
この原稿は、同時通訳の正確さを期すために、事前に提出したもので、
この通りに話したわけではありませんが、おおむね、こんな内容でした。


SIAは、アジアの人々の「共通性」の発見を目指しましたが、このフォーラム
では「異質性」を考えたいと思いました。


高樹のぶ子


=================================


東アジア文学フォーラム基調報告


「恋愛と文学」


日本には千年の昔から脈々と続いてきた恋愛文学の流れがあります。
平安朝時代の貴族を中心に読まれた「源氏物語」がもっとも有名ですが、
それ以後も男女の関わりへの関心は、途絶えることなく続いてきました。


恋愛文学と呼ばれるジャンルが、いつどのように成立したのか、
あるいはまだ成立していないのか、成立する必要があるのかどうかも判りません
が、小説やエッセイを読む興味の極めて大きな部分を占めてきたと考えられます。


恋愛は文学の他のテーマとくらべて 、いくつかの特徴を持っています。


*極めて個人的な状況や感情が描かれる。
*恋愛感情が、社会の規範や過去のルールや宗教などの(公的秩序)に反する
 か超越するものとして描かれる。
*しかも「理不尽な感情」を「人間的な感情」と見なす土壌がある。
*肉体(性)を包含する恋愛感情は、当事者の中での煩悶や葛藤自体が、
 ドラマとなる。


こうしたことが容認される土壌が、平安の貴族社会に在ったからこそ、
「源氏物語」が愛されたのだろうと思います。
しかも、かたちの上では恋愛の受け身であった女性の作家によって、
「源氏物語」が書かれたのは、特筆するべきことです。


恋愛小説のキーワードを三つ挙げたいと思います。
女性、貴族性、閉鎖性。
それぞれに対立する言葉を置いてみると、説明がラクになります。


女性に対して、男性は恋愛小説が一般的に苦手です。
これは「男のくせに女々しい」という古い価値観のせいもありますが、
それ以上に、男性は感情の駆け引きが一般的に苦手です。
あえて言えば肉体や精神は強いけれど感情は女性に比べて弱いと言えます。
男性は傷つきやすく、短絡です。理不尽な情動に耐える力が弱く、
持久力もありません。


このような男性の感情を補強するには、自分が所属する組織や精神世界への
大儀や忠誠心が必要になりますが、女性の感情はそのような補強を必要と
せず、単独で、自らの「肉体的感情」だけで充分に男女間のやり取り、
駆け引きが可能です。


男性は性の衝動が強く、精神性を支配すると思われていますが、むしろ精神を
支配するだけの肉体を持っているのは女性です。従って男性が描く恋愛は、
しばしば肉体の衝動が伴わない観念になってしまいがちです。


さもなくば、精神と肉体が対立するキリスト教的世界に人間を置きがちです。
女性が描く恋愛感情は、感情の中に肉体の欲望が含まれています。
わたしはこれを「肉体的感情」と呼んでいます。


この性の違いが直接、恋愛小説の主流を決めるとは言えませんが、
男性は苦手な恋愛模様を好んでは描かないし、女性はごく自然体で、
感情バトルに筆先を踊らせます。


男性が書く恋愛小説は、一般的にですが感情バトルに集中せず、大きい
社会的枠組の中で恋愛の悲劇性か喜劇性を炙り出す方向に行きがちです。
あるいは恋愛感情の反社会性や超良俗性のパワーを利用して、既存の公的な
壁に穴を開けようとします。
恋愛そのものを描くのではなく、恋愛はツールになりがちです。


「そこにともかく感情がある」から「書く」のが女性なら、「そこに
ともかく感情があるのは何故か」を考えてから「書く」のが男性です。
このような本質的な違いを自覚しないで眺めると、男性は「女はなぜこんな
些末なことに必死になれるのか」が不思議でしょうし、女性から見ると
「男は恋愛が判っていない」となります。


にもかかわらず、「源氏物語」が生き続けてきたのは、日本人の感性が
女性的であったからです。公家文化が後退して武者文化が興ってくると、
権力の衰亡が物語としての魅力を持ってきますが、その影で、
公家文化の女性性は生き続けてきました。


さてその公家文化、貴族性ですが、恋愛という言葉は、フランス文学からの
輸入言語だという説に、頷かされます。
フランス貴族の男女間に芽生えた「不穏当」な感情を小説にし、
下半身の問題はとりあえず棚上げにして物語にしたのが恋愛小説の始まり
だとすると、千年の昔から存在する日本の男女の関係は、恋愛というより
「色事」であり「好色」と呼ばれるものかも知れません。


ですから「源氏物語」を現代の定義で恋愛小説と呼ぶべきかどうか、
悩むところです。
貴族は17世紀のフランスであれ平安朝であれ、武器による闘いでなく、
知性や教養や文化の力で他者と競います。
知性や教養や文化は、明瞭な勝ち負けがつかず、表層の勝敗と裏面での
勝敗が違っていたり、複雑な妥協も成り立ちます。


男女の関わりは明瞭な一元的な決着に馴染みません。
武者性に対する貴族性は、こうした曖昧な弾力を持っています。
武者性の時代では、勝敗を決めるのは武力なので、誰にも明快に決着します。
この武者性は、男女の問題も明快にしてしまいます。
つまり、男性はハンターに、女性は獲物になってしまうわけです。
このような状況においても恋愛は成立し、その希少性ゆえに文学になりえます
が、その場合は、男性が武者性を捨てなくては難しいのではないでしょうか。


日本人は比較的それが上手だと思われます。荒々しく武力を奮う場面でも、
「あわれ」の心が起動します。「あわれ」が起動するとその瞬間、武者力は
減退します。「武人(もののふ)のあわれ」は、本来矛盾した言葉です。
このような言葉があり、この「あわれ」が尊ばれる性向を視ると、
本来日本人は武者性が弱い民族ではないかと思います。


最後に閉鎖性ですが、一つの社会のかたちが成熟し、行き詰まると、
恋愛文化が興ってくるのでは無いでしょうか。
平安朝もそうですし、フランスの貴族社会も行き詰まり、ブルジョワが
台頭してくる時代に、恋愛文学が花開きました。
未知の領域を力で開拓し、新天地を拓いていく時代は、恋愛よりもっと
別の関心事に目が行きますし、駆け引きの手間暇、男女の懊悩になど
関わっていられない事情があるはずです。


武者性が必要とされなくなった時代でなくては、ハンターと獲物ではなく、
男女として向き合うことが難しいとも言えます。
男女が向き合う(惹かれ会う)のは、ですから、無限に外に向かって
拡大していく時代には、困難なことのように思えます。
これは男女関係だけでなく、文化一般に言えることかも知れませんが、
大きく動く時代ではなく、停滞の時代に、苔むすように人間の感情が熟成し、
そこに恋愛が、恋愛文学が、花開くのだと思います。


恋愛小説が消費される土壌とは何でしょうか。
私は「理不尽な情動」への共感だと思います。
理不尽な情動は社会的に視れば弱点です。公序良俗の大きな力によって、
ひねり潰される極小の感情です。恋愛感情さえなければ、
強い良識人でいられる存在が、恋愛によって、弱者となります。


恋愛小説とは、ですから恋愛によって弱者となった人間の姿を描くと
言うことも出来ます。この弱点に読者として触れることが、
快楽にならなくては、恋愛小説は普及しません。共感という快楽です。


この快楽が、どの程度広く深く存在するかどうかは、
個人的な感情の豊かさのバロメーターでもあると思います。
まず恋愛小説は、杯の体験者と、どんぶりの体験者では、
共感の快楽が、杯とどんぶりほどの差があります。
恋愛小説を発表すると、その反応や受け止め方が、他のジャンルの小説より
バラツキがあります。そのバラツキは、それぞれの人の恋愛体験の違い
だとも言えます。


アジアの10カ国をまわって、限られた数でしかありませんが、
その国の小説を読んでみると、「恋愛文学への感受性」において、
いろんな特徴が見えてきます。


以前、上海の女流作家と対談したとき、「恋愛の欲望」についての会話で、
どうもズレがでてしまう。お互いに変だと気づきました。
私が考える欲望とは、相手への肉体的な性欲であり、精神的には所有欲の
ことですが、彼女は、恋愛事情がもたらす「結婚や経済的な人生上の損得で
あり、恋愛がもたらす効果への欲望」を含んでいました。


どちらが良い悪いではなく、中国では「住処を持たない男性は、恋愛に
臆病になる(結婚ではなく)」という話はあちこちで聞きました。
純愛の「純」という概念も、正確には通じない気がしましたし、
それはただの概念でしかなく、実態からは離れたものだと、中国人からは
見えるかも知れません。


今回このフォーラムに参加されている、莫言さんの短編中にも
「いわゆる純粋というものも、相対的」という文言が引用されています。
非常に精緻な現実直視の姿勢が見えてきます。
同時に日本人の「純粋」好きが、あぶり出されても来るのです。


恋愛フィールドでは人間みな同じ、と言ってしまうのは簡単ですが、
実は違う、韓国と日本、中国と日本、いずれも違いがある、ということを
知ることもまた、お互いの理解には必要なことだと思います。


最後に、恋愛小説を書く立場での困難を申し上げます。
私は女性であり、確かに閉鎖的な爛熟の時代に生きていますが、
それでも恋愛小説を書く立場として、日々大変困難なものを感じています。


ひとことで言いますと、現代人が生きものとしての熱を失っているからです。
書く側も読む方も、自己の内なる懊悩の熱、対外的な摩擦熱が失われています。


細い窮屈なフィラメントを電流が通過するとき発熱や発光が起きるのですが、
制約や抵抗がなければ、熱も光も起きません。
恋愛あるいは性愛というものが、個人の人生に与える効果が、限りなく小さく
なっています。恋愛の喜びも苦しみも、さほど大きなものになりません。

消費されていく性になにがしかの意味や色合いを付加するものにしか
成り得ていないのが現実です。


それは現代人が「自由」を手に入れた結果だと言えなくもありません。
恋愛の障壁となる戦争や貧困、身分差が取り除かれ、性は個人の意志に
任されるようになりました。


その結果、恋愛における勝ち組と負け組の差は著しくなり、精神偏重から
肉体派まで、あらゆるバリエーションが存在し、恋愛という共通概念も
もはや崩壊しています。


性体験が低年齢化すると同時に、30才という定点観測において、
4人に一人は男女ともにヴァージンであるという異様な状況が生まれています。


このような中で恋愛文学がどのような共感を得るのかは、とても心細いことです。
今後は、「共感」ではなく、「美しい化石」を視るように、恋愛文学が
読まれるのかも知れません。「憧れ」や「お手本」になるのは、恋愛文学としては
良くない存在の仕方です。
「アブナイ火」にこわごわと近付く。それが恋愛小説と読者の理想的な関係です。


恋愛感情は肉体の性欲と連動していることを思えば、他者に働きかける
この感情は、いかに理不尽で反社会的であろうと、生きものとしての生命の力
そのものでもあります。生命力が衰退していく中で、恋愛文学がどのように
生きのびるのかは、かなり絶望的ですが、私は日本より若い、アジアの国々に
その希望を託したいと思います。


=================================

コメント ( 24 ) | Trackback ( 0 )

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コメント
 
 
 
興味深いですね (rika)
2010-12-07 20:25:31
楽しく拝見しました

「恋愛感情は、生きものとしての生命の力そのもの」に共感します

ときに理不尽な湧き起こる感情を消してしまうのが、正しいと錯覚してしまいますが、恋愛感情も社会で起こるさまざまな感情も自分自身で味わいつくして受け入れることで、破壊力から、昇華された新しい力になると感じています
 
 
 
恋愛が (見開きサイト)
2010-12-07 22:25:02
今日の日本では、恋愛はあっても輝かない、そんな移動している状況。仮にドラマチックであっても、波乱と多様化の波の中で霞んでしまっているのか。はたまたそれ以上に生きることが曖昧になっているのか。
 
 
 
お疲れさまです。 (satoko)
2010-12-07 22:25:27
仰ることの意味、何となく理解できます。

恋愛小説は、いつの時代になっても形態が変わろうとも、きっと無くならないことを、願うものです。
それは、何方かタレントさんも仰っていたように、恋愛も文化だと思うからです。(笑)

ちょっと思ったのは、
本当に幸せな恋愛の最中には言葉がいらないような気がします。言葉が必要なのは・・まだその恋に自信が無いとき。でもそれじゃあ小説は書けませんね。

恋愛についての自信もないんですけれど小説など読んでの感想です。。いろいろ難しい理屈も(すみません)いらない。

う~ん、良い歳をしているのに、こんなことしか書けないことが、恥ずかしい。文才が無いということで、失礼します。



 
 
 
なんともタイトルのつけようがありません?! (ボニー)
2010-12-07 23:22:57
 正直、わたしは長いこと、「恋愛小説」ジャンル、に一寸抵抗があったのですが、(受け手、本の選び手?としてのこちらとしては、「この作品が恋愛小説かどうかは自分で決めるワイ、」みたいな変なこだわりがあって?)高樹先生のこの記事を拝読して、「どうして高樹のぶ子が自分のことを『恋愛小説家』と呼ぶのか」、とっても納得がいきました。
「源氏物語」も一度はちゃんと読んでみようと思いつつも、40代半ばの今に至っています、、、vvv。
(やはり、「なんで、けっきょくは終始、『色事』にうつつをぬかしてるような男の話しを日本人はそんなにありがたがるんだ?」みたいな固定概念も邪魔していたのだと思うのですが、、、)
 
 ちょうど昨夜、曾野綾子さんのエッセイ集を読んでて、「相手の男性が、女性を娼婦とわかってて受け入れ、それでも(その人の、「過去」ごと、)受け入れ、愛すところに『文学』が生まれる」とおっしゃってたところに、リンクしましたね~。
(オペラにもそういう話しが多いですしね。「芸術」全般、そういうものなのかもしれない、、、、)

 男性が女性を(配偶者?恋人?)「ツール」として、使いたい(恋愛という道筋を通って?)ビジネスの一部のようなものにしてしまう傾向がある、というのは、女性の側にも、とっても言えるなあ、と時々呆れることがあるくらい、、、。
たまーに「彼はNY駐在になるようなエリートだから、絶対結婚したいと狙って手に入れた」みたいな話しも聞きますしね~。
(そういうところには絶対「文学」や芸術は生まれないと思いますけどね、「哲学」も然り、では?)
 そういう意味では、わたしはむしろ、「同性愛」の方がより「純粋」なのかもしれない、とか思ってしまうときがあるわけです、、、。
(社会的な保証とか安定とかを得たい為の「恋愛」ではないから、、、)←もっとも、彼らもそういった、法的な保障を求めて、「同性愛婚」を認めろ、と戦ってるわけでもありますが、、。
(正直、ストレート、とはいえ、国際結婚をして渡米し、差別や偏見、日米共の人の時々の無理解、にも我慢した上での婚姻という法の守りにあずかる者としてはそれも一寸複雑な所がありますが、、、)
 
 ところで「億夜」読ませていただきました。
高樹先生の長編は「満水子」に次ぎ、2作目、でした。
なんとも、こちらも「大きな『体験』をさせていただいた」、といったような感じでした。
(余韻がすごくて、読了してから2,3日、ぼお~っとしてるような、、、)
けっきょく、竹雄と沙織は再会してからは一度も結ばれなかった、というのがとってもとってもよかったです。
 三部作の、「その細き道」「時を青く染めて」も是非入手して読ませていただきたいです!
なんか、だんだん「恋愛文学」って、人間の「核」のようなものかもしれない、というような気もしてまいりました、、、。
話しがなかななかまとまらないのですが、日本ではなんだかんだ言っても、まだ男女が=対等になってないから、お互い「男も女も一人間」として向き合えないような、だから、正面切っての「恋愛」が難しい?(若い男性は逆に、女性恐怖症も増えてるようですし、)ような気もしています。
 どちらにしろ、日本でも、いずれの人間関係もアメリカのように「無機質」、相手に何を望むか、何が得られるか、の「目的」次第になってきてるようにも思いますね。
(やっぱり又そういうところでも文学も芸術も、&こちらでは、大きな産業の映画、でも「ネタ」にならないのだと思うのですが、)

 
 
 
愛は盲目 (Gc)
2010-12-08 19:01:49
恋愛小説は女性が書いた物しか読みません。
女性を理解するのには最適ではないかと思うからです。
ところが、実際は何故ここまで的確に男心を表現出来るものなかと驚くばかりなのです。
先生の中には間違いなく男が居ると都度思ってしまいます。

satokoさんも仰ってましたが盲目の時期には言葉は要りませんし恋愛小説を手にすることも無いのでは、と思います。
脳内からドーパミンが減少しはじめて冷静を取り戻し始る頃からが地獄の1丁目です(笑)
共感を求めて本屋さんを彷徨うのです。
失恋を病とするなら薬は時間と恋愛小説だけです。

先生の作品を読み終えると、きまって2、3日ボォーとなります。
湯あたりに似た感じですが何なのでしょうか。
何か変な物質が脳内に分泌されるみたいです(笑)
ここが閉じられたあとも先生の作品を追い続けてゆく所存です。

satokoさんのコメント好きでしたよ。

 
 
 
初期化 (高樹のぶ子)
2010-12-08 19:57:48
上記の原稿には無いけれど、フォーラムで話したことのひとつは、「恋愛により、人間の感情は初期化する」ということを、トーマス・マンの「ベニスに死す」を引用して話しました。
功成り名遂げた老大家が、美しい少年に恋をして、無様なままに死んでいく話しですが、それまで生きてきた知識も知恵も役に立たない、ということ。
だから、無惨であり尊いとも言えます。
人間をそんな風に危険にさらす事は、他にありませんね。

私もきっと、自分の老いた姿に絶望しながら、にも拘わらず、あくせくと、惨めになりながら、誰かを恋し続けて、冷笑の中で哀れな死に方をするんじゃないかしら・・

仏門などには、ゼッタイ入りません!
 
 
 
生み出し後に初期化かな? ()
2010-12-09 02:43:48
女性は新たなる恋愛感情で、
初期化ができるのかも知れませんね。

仕事が多忙なころ一仕事終わると、
脳の初期化にと、バーやクラブで遊んで帰ってましたが、
余り体に良く有りませんでしたね。苦笑

恋愛は落差が有れば有る程、
恋のエネルギーがより強くなると、
諸先輩が宣い何となく納得してましたが、
今、振り返ってみると僕はそうではなかったようです。

身の回りの女性の存在に関してそれ程の疑問点はなく、
僕なりに理解できていたので僕に好意があるかを、
慎重に判断するだけでよかったです。
性格でしょうか。

商家の娘でしたが割りと人に興味の強い妻と、
巡り会えたので幸せだったと思います。

女性の書いた恋愛小説は停滞した状況の、
社会で栄えて生き残って来たと、おっしゃっていながら、
経済成長著しいアジアの国々に期待します、
とはよく考えると矛盾した発言ですよね?

ウィキリークス創設者がイギリスで別件逮捕され、
イギリスの旧称からMI6(エムアイシックス・ 軍情報部第6課)、
現在のSecret Intelligence Serviceを調べると、
僕も中学生の頃によく読んだイギリスの作家、
短編「雨」を書いたサマーセット・モームも、

40才からMI6の諜報機関に所属し、
同性愛者だったそうで少し驚きました。

もう一つジャン・コクトーの「恐るべき子供達」は、
レイモン・ラディゲの死で悲嘆し、
阿片中毒に陥っていた時に書いたとか、
子供達の言葉のやり取りが尋常ではなく、
若い頃に驚いたので妙に納得しました。

えっ?高樹さんは仏門には入れませんよ!

菩提寺が有れば皆さんそれぞれに、
染み付いた気風が有ると感じます。(多分昭和世代の方までは。)

ピース・リヴァーさんは既に胃腸が弱点の方だったので、
仏門どころか渡り掛けてるのではないかと心配です。
長々と失礼しました。

 
 
 
私も。。。 (satoko)
2010-12-09 07:19:17
仏門には入らないという自信だけはあります。

修道院にも・・
その昔ちょっとだけあこがれたことがありましたが、赤い靴にあこがれた少女には到底無理なことでした。

で、
思っていたような人生ではなかったかも知れませんが今こうして曲がりなりにも母親業が出来ることに感謝です。

高樹先生の生き方は、私にとっては憧れの姿です。

自分の老いていく姿に絶望しながら、何事も成せなかった人生のほうこそ惨めです。もちろんですね。

こんな風な事を仰る作家、高樹先生に乾杯!!

私もいくつになっても恋愛小説愛好家でいるつもりです。

 
 
 
「あるよきものに結びつける情念」 (木蓮)
2010-12-10 10:54:28
スリランカは、最大の援助国である中国に配慮してノーベル平和賞の授賞式に参加しないと表明しました。20カ国目。

「東アジア文学フォーラム」に北朝鮮、台湾からの参加はなく、スポーツ大会が超えた壁を、文学交流で感じさせました。

歴史、国家、軍隊。。。様々な装置の中で、私達一人一人の存在はとても小さいけれど、確かなものは、心に育み、育まれる愛であると信じます。

愛の形態は、人の数だけあるのでしょう。
夫婦と契った彼は、魂の伴侶でした。いつかやってくる、肉の別れを思うと悲しくなります。その時まで、恋ひ恋ひて言尽くし、あるいは、言なくぬくもりに歓び、二人の関係を大切にしようと誓います。
体制や死に魂の伴侶と引き裂かれる痛切を思いつつ。

タイトルは、「愛とは」に続く、フォ-ラムでのお言葉と伺いました。感慨深くかみしめております。
 
 
 
M-Swift IN FUKUOKA ()
2010-12-10 18:57:00
ちょいと失礼して、こちらでご紹介させて戴きます。

福岡の皆さま今夜遅く、仲良くして貰ってるNomaも、
下記で『M-Swift』と一緒にヴォーカル&トークで出演します。

深夜にも強い方々は、
お集まりなってお楽しみ下さい。
宜しくお願い致します。

M-Swift『Sunshine of Love』'3thは
「Love」がテーマのアルバムです

12/10 (金)場所;福岡市中央区舞鶴1-8-28
マジックスクエアビル1F

Keith Flack
092-762-7733(ご連絡は夜8時以降かな?)

Keith Flackにて深夜1時頃より、
「Love」がテーマのブラジリアンテイスト、
ロック&ダンスミュージック。

費用は不明ですが3000円~程度?ご確認下さい。
(株)ナノ・ユニバース協賛のイベントです。

M-Swift 『Sunshine of Love』 Release Tour
supported by nano・universe

iTunesで試聴。
http://itunes.apple.com/jp/album/sunshine-of-love/id405912047

YouTubeは携帯試聴も可。
http://m.youtube.com/watch?desktop_uri=http%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DSBP0lK1Fdis&v=SBP0lK1Fdis&gl=JP

楽しみましょう!?

 
 
 
Unknown (頭痛持ち)
2010-12-10 21:37:30
ほんとに寒いですね
体調崩してないですか
お元気で頑張ってください
 
 
 
参加無料。 ()
2010-12-10 22:08:48
ご紹介したイベント参加は無料で、
気に入ればCD購入ですね?

M-Swift『Sunshine of Love』'3thは
「Love」がテーマのアルバムです。

是非、お近くの方はお立ち寄り下さい。

尚、イベント元の(株)ナノ・ユニバースはファッション関連の若者から中年向けの会社です。


 
 
 
一途 (サイヤ)
2010-12-11 21:35:09
恋愛小説の旗手による恋愛小説論。
男と女の違い、日本の特異性、私には難解でしたが、アジアの小説家の皆さんにはよく理解してもらえたのでしょう。

初期化のコメントを見て恋愛小説を書くにはやはり恋愛が必要だとわかりました。

福岡のどこかで先生とばったり出会ってそのまま恋におちるなんてことが起こらないとも限らない。そんな期待をしました。

男の愛は一途。ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」という映画を思い出します。
50年間ひとりの女性を追い求める。ただし、肉欲は適当に処理しているからある意味健全な一生を送っている。

結ばれる前に晒した老いた醜い躰。それが輝いて見えたのが不思議とリアルだった。

まもなく閉じられるこのブログ、残念です。


 
 
 
文化交流など (夢の中へ)
2010-12-12 01:42:59
「日中韓 東アジア文学フォーラム2010in北九州」のご成功おめでとうございます。
日本側の責任者が、「小説作法ABC」の著者の島田雅彦先生とのことで、きっと論理的にも整理された素晴らしい会になられたものと羨ましく思います。
ますますのご発展をお祈り申しあげます。

でも、とても難しい内容で、思うようにコメントできず、遅れてしまいました。
本当に難しい。すぐに理解される皆様が羨ましい限り。恋愛観も多様化しているし、自分自身、恋愛が分かっていないのかもしれませんが。
何度か読んでもしっくり理解できず、部分的な感想になりますが。

冒頭の「源氏物語」は、「かな文字」の賜物かなという気もします。
漢文では表現できなかった日本人特有の(恋愛)感情を、二重言語化より、高度な表現能力を獲得した日本人と文化の優秀性は誇らしく思います。
フォーラム開催地を「門司」にされたのも隠れた意味があるのでしょうか。
ハングルオンリーの韓国は今後どうするのでしょうか。

「初期化」
初期化といえば、イニシャライズ、フォーマットとなりますが、恋愛は、むしろ不連続的な強制修正(一気に置き換える)のような感覚です。
意識の中の柱や梁が解けたような、風がすうーっと通り抜けるような、不連続的な置き換えのような・・・感覚でしょうか。

「仏門に入らない」
流行の「希望」をキーワードにしてみれば、仏教というのは、苦境でも「希望」を持たずに、すべてを仏に委ねて救済される生き方になるようです。
仏門に入らないとは、すべてを捨てずに、恋愛という希望をいだき続ける生き方でしょうか。


「文化の摩擦」
フォーラムでは、いい意味での文化の摩擦と融合が図られたことがよく伺えます。
3テーマとも素晴らしく、参加された方は、ハードだったと思いますが、着実に歩を進められたことと思います。
文中で、上海の女流作家との「恋愛の欲望」観のずれについて言及されておられますが、歴史的・社会的な背景と「恋愛観」についてのご教示を楽しみにしております。
「愛」、サラン、LOVE、アガペー・・・いろんな概念がありますが、その民族の個人が、何にどう感じ、どう行動するかなど。
異なる文化を伝え、理解することは本当に大変な労力を要することと思います。

「SIAーTV」
バリ編をネット視聴して、当日の様子がありありと思い出されました。
画面に小さく自分の横顔がチラリと、変な表情(顔が変?)
異文化を理解しようするには、Imaginationなど大変なエネルギーを必要とし、自分の中で文化の摩擦が生じていた様子が客観的に確認できました。


まとまりのないコメントになりましたが、さて、本日はクリスマスの第3ADVENT、パリ、ニューヨークはクリスマスマーケットなどで華やかでしょうね。山口も?
Weihnachtsmarktで買ってきたドイツのクリスマスソングのCDを聴きながら書いています。
 
 
 
おはよう、ございます。 (satoko)
2010-12-12 11:02:34
まもなく、閉じられるかもしれないとなると、少しでも足跡を残したくて、まいど失礼します。

Gcさん、コメントにお心遣いありがとうございます。名前がでると、何だか気恥ずかしいものですね、でも、感謝です。

高樹先生にもいつか、きっとお目にかかれるような気がして来るから不思議です。

あの時の、satokoさんも、もう少しがんばりたいと思います。

異文化を理解するのは、頭だけではなくて心であるかもしれないと思ったりします。
恋愛は謎に満ちています。
究極の愛は、アガペーであろうかと思いますが、悲しいかな、人はそこに行き着くのが難しい。

というか、私などは、本物の恋愛経験があったかどうか・・

時々、恋愛の果てに自滅する人のことを、とやかく言うものですが、ただ、運が良かったというだけかもしれません。

恋愛はばら色とは限らない場合が多いように思います。
 
 
 
「恋愛と文学」 (Unknown)
2010-12-14 04:00:54
冒頭で「恋愛文学の流れ」があるとしながら、「恋愛文学と呼ばれるジャンルが、いつどのように成立したのか、あるいはまだ成立していないのか、成立する必要があるのかどうかも判りません」と続いた時点で、混乱が生じました。以降も、言葉の定義が示されていないせいでしょうか、矛盾点が邪魔をして、理解を妨げます。
「知識は愛に及ばず」の草稿も同様でしたが、論理的に読むには、かなり難解です。
しかし、考えようとせず、感じるままに拝読すると、なんとも味わい深く、わかったような気になるから不思議です。これは、私が女性だからでしょうか。それとも、私の恋愛体験によるのでしょうか。


平安時代。「同じアジアでも、同時代の中国に目を向けると、男女の格差が固定しており、女性に地位も権限もなかったのに対し、日本では、平和で内向きで、女性はplayingに興じ、女流文学が花開きました」との、米国人の日本中世文学博士の説明に、「いえ、当時の日本女性も、父や夫の姓や官職で呼ばれ、男女の格差はありました」と反論したものの、それを建前の性差だと理解すれば、精神的には対等だったといえるのかもしれません。
豊かな恋愛は、対等な関係から生まれ、育まれます。

日本の貴族支配が武家支配に移り、その間にも「恋愛文学」が息づいたとすれば、それは、庶民が支えたといえないでしょうか。「貴族性」に対して「武者性」を挙げられましたが、私は、「庶民性」を思い浮かべました。武家支配の下、芸術性には欠けるが、生活の躍動感あふれる、御伽草子に始まる庶民の文学は、風紀にうるさい江戸幕府、男性国家である近代国家となってからも地下水脈となって受け継ぎ、戦後の戦争放棄を宣言した国家にて、高樹のぶ子を生みだしました。

恋愛小説を得意とされる高樹先生には、読み手の体験「どんぶり・杯」の違いなど一顧せずに共感を呼び起こす創作を期待しています。

 
 
 
↑記名忘れていました (木蓮)
2010-12-14 20:43:43
中高生で古典を学び始めた頃、女流の歌や物語には、大変心惹かれました。(女流ではありませんが)伊勢物語も恋の歌物語として大好きでした。恋愛に憧れ、夢見る10代に
手引きしてくれたのは、書店で求めた当世女流による解説書(?)でした。一応男性の著書も読みましたが、どこか違和感がありました。

古典も手がけられていると伺っています。心から楽しみにしています。
 
 
 
Unknown (大鶴義丹)
2010-12-17 09:36:35
>「美しい化石」を視るように、恋愛文学

うまいですね
確かにそんな感じがします。
 
 
 
フォーラム等 (夢の中へ)
2010-12-18 06:46:16
「Mandarin Note」様のフォーラム報告は、簡潔で様子が伺え感謝いたしております。
「愛とはあるよきものに結びつける情念のこと」という高樹のぶ子先生の愛の定義や各国の作家の愛の定義など、興味深い内容でした。
また、各国の作家の作品紹介など他では得られにくい貴重な情報が掲載されていました。


前記コメントを省みて、フォーラムの内容が難解に感じられたのは、知識で理解しようとしてしまったからでしょう。
木蓮様が、「感じるままに拝読すると、なんとも味わい深く、わかったような気になるから不思議です。」とおっしゃったような視点から見れば、なるほどそのように思えます。
一昨年のブログで、「人間というのは、描ききれない。」とのことでしたが、「知識は愛に及ばず」というのもそのような視点からで、知識や言語の限界性のお話と理解しています。

思い起こしてみれば、「象は鼻が長い」という文章は自然に浮かびます(日本人的感覚として)が、文字にしたとたん、おそらく私は主語を意識して文章を書き直してしまうでしょう。
わが国の教育の成果か、職業病か、ちょっと反省させられるところです。
そろそろ日本人的な言語感覚を取り戻して、そうすれば、世界がより豊かに瑞々しいものに感じられ、生活が一日一日新鮮なものとなるような気がします。
そして、一見平凡な生活、社会の中でも、「素敵な生き方・演じ方」ができるように、自然体で全身の五感で感じて、感覚に素直に行動してみようと思います。外見は素敵にならないので、せめて振る舞いでも。


(もうこのような会話機会がないので)
NYの木蓮様につまらない質問ですが。
何十年も前に(商社系のひと?)伺ったのですが、「アメリカ男性の見つけ方」。
ネクタイのストライプが、アメリカ系は向かって右肩下がり、ヨーロッパ系は向かって右肩上がり、大体これでシティーかウォール街か見分けがつきますが、なぜ違うのか聞くのを忘れて未だに分からずじまいです。
NY木蓮家もそうでしょうか。
ご存知ありませんか?
 
 
 
ストライプ (木蓮)
2010-12-21 02:20:48
すっかり遅くなり、失礼しました。先週末をもって学校がクリスマス休暇に入り、我が家は客人を迎えて賑わっております。が、ストライプの向きの由来は誰もわからず、もうしばらく、お時間くださいませ。(確かに、我が家で愛用しているアメリカントラディッショナル、昔は軍服を仕立てていたBBも、右肩下がりでした)

シャツが、ウォール街は白、シティーは派手。と言われていました。信頼を得るために、ウォール街は見た目にまで細心の注意を払っているのに対し、シティーは「生まれ」で得てるからおしゃれできる、という理由ですが、今や、シティーの3分の2がアメリカ生まれとあって、そのあたりは融合してしまってるような。。。

大きな声では言えませんが、金融関係者によれば、アメリカ人は表面上こそNo1だと誇っていても、内心のヨーロッパコンプレックスは相当だと伺えるそうです。だとすれば、、、。

アメリカ人の見分け方、も併せて、改めまして、後ほど。
 
 
 
夢の中へさま (木蓮)
2010-12-22 02:47:21
忙しさにかまけて、いい加減な事を書いてしまいました。まずは、訂正です。失礼しました。

「シティーの3分の2」→「シティーの(ざっくりと)3分の1」
「BBも、右肩下がり」→「BBは、右肩上がり」

我が家は、いわゆる「ブランド」や「アウトレット」が苦手で、それでも相応の服装を求められる時には、「アメリカントラディショナル」と位置付けられるBrooks Brothersに頼っています。しっくりくるからです。軍服の仕立てで創業した、英国調のブランドです。
このネクタイのストライプは、右肩上がりです。
でも、モデルの男女は、アングロサクソン系だけではありません。
ウォール街で愛用してる方もお見受けします。

シティーもアメリカ式を取り入れて(活性化して)久しく、由緒や生まれだけが幅を利かせたのは昔の話、それでも、アメリカが特殊といえば、イギリスもヨーロッパにおいて特殊、そもそも、EUではなかったし、、、と、表面的には、服装やスタイルなどは融合しているようでいて、内なる対峙心は厳然とあり。

米国では、採用において、年齢・性別・未既婚すら聞けません。ましてや~人、~族、~系はタブー中のタブーです。でも、会えば察せるし、話をすればわかります。グローバル化が進んだ今は、シャツやネクタイの知識が、かえって邪魔するかもしれません。

夢の中へ様が問われたのは、違いの由来でした。
右肩下がりは、軍服のベルトに併せてたもの、という説もありましたが、服飾史に明るい方のご教示をいただきたいところです。

日本では、右肩下がりが多いとか。イギリス(ヨーロッパ)に倣っているから、とは、日本語サイト。
こちら、ブランドの枠を外して、近くのデパートを見ると、ざっくりですが、右肩上がりと右肩下がりは半々でした。

時間ばかりかかった割には、とりとめもなく、失礼しました。

「伝説と化すWASP」を、映画「The Social Network」でも感じさせられました。
「Chariots of Fire」を彷彿させる、テムズ河のボート競走の描き方に、WASPが幅をきかせた時代が過ぎ去って行く様が重なります。
不器用にしか人と関われない若者たちに、観終わった後、しみじみと心を寄せてしまう、良い映画でした。スピード感ある展開にも惹きこまれました。
 
 
 
木蓮様に感謝! (夢の中へ)
2010-12-23 11:38:58
ご多忙中お手を煩わせ、時間泥棒になってしまったことお詫び申し上げます。
何分アメリカ大陸に行ったことがなく、同郷の親しみでお尋ねしてしまいました。

「右肩下がりは、軍服のベルトに併せてたもの」というお答えが妥当かもしれませんね。
何かそんなところだと思います。
ありがとうございました。

因みに、私の数少ないネクタイは、すべて(日本、イタリア、フランス、イギリス製等)向かって右肩上がりです。
それに対して、テレビ等で見るオバマ大統領や政府関係者のネクタイは、向かって見方下がりだったものですから、そのように思えました。

ボストンやコンコードなどのニューイングランド、ペンシルバニア、ヴァージニアは、憧れの地で、是非行ってみたいと思っています。

映画「The Social Network」も予告編で伝統的なWASP文化が伺え、魅力を感じています。
WASPとは少し違うかもしれませんが、生きる姿勢という観点からは、「Chariots of Fire」を彷彿させられるようですね。
WASPが幅をきかせた時代が過ぎ去って行く・・・、でもクリスマスシーズンには、パーティーの種類で明瞭に浮かび上がってくるのではないでしょうか。
今はもうそのようなことはなくなっているのでしょうかねぇ。
小学生のときに、“Little Women”(若草物語)の家族、生き方、行動力に感動とコメントしましたが、WASP(差別心や偏見を除いて)的なものが会うようです。「和SP」なんでしょうか。意外と右肩下がりのストライプが似合ったりするかもしれませんね。

映画「ノルウェーの森」を見ましたが、少し世代が違うからか何かよく分かりませんでした。同郷の著名作家ですし応援したいところですが。
深く見せかけているだけという批判も見受けられますが、海外での高い評価もあり、やはりよく分かりません。
でも、播磨北部の草原(砥峰高原)や特に神戸の灘のあたり(神戸高校?)の映像には馴染みがありとてもうれしく感じました。

王子公園や高校前のレストラン精養軒は映りませんでしたが、(住まいは違いますが)王子公園や水道筋あたりにはよく行きます。
ご帰国の際は、知らずに兵庫県のどこかですれ違っているかもしれませんね。
ご家族で、よいクリスマスと新年をお迎えください。
 
 
 
Unknown (木蓮)
2010-12-24 02:09:39
時間泥棒なんて、とんでもないです。こちらこそ、いつも面白い視点を提供くださって、ありがとうございます。
新年からの「自省録」にも、ショパンはじめクラシカルが大好きで、No1映画がChariots of Fireという最愛の夫が乗り気で、家族で予定しています。来年から家族が別れて暮らすことになり(私はNYに残りますが)、ネットでの繋がりとはまた違った、「絆」の思いを込め、それぞれの地で取り組みたいと思っています。
“Little Women”からのご感銘、(僭越ですが)わかる気がします。アメリカの誇らしい伝統でしょう。「原爆を落とした国」「覇権国家」と決めつけてしまっては見えてこない、「創り主に謙虚な独立自尊」は、地域のボランティア活動や慈善活動など、脈々と受け継がれています。もっとも、ご年配の方は「クラブで仕事の話をするようになった」「最近の者は礼儀がなっていない」などと嘆かれますが。。。

「女性はネクタイの色しか・・・」とは元首相ですが、例外はつきもので、話の内容は覚えていても、服飾には関心がなく、つい見落としています。知識として詰め込んで何とかしのいでいましたが、この度のご提示で、自然な興味が湧いてきました。ありがとうございました。

渡米した2007年のNYは、その15年前とはすっかり様変わりしていました。当時経済大国1位に迫る勢いの日本。普通に日本人作家の英訳本が書店にありました。春樹氏の作品が海外での評価が高いのも、米国文学からの影響や、大学などの活動に拠るだけではなく、大手出版社の強力な英訳本販売の成果でもあるでしょう。経済の後押しは、あなどれないですね。

電子書籍も、また国内でもたもたしているように感じます。名のある作家には要らないし、出版社や書店は権益を崩さない形で対応するのでしょう。ただ、海外に日本語文学を発信し、発展に繋がるよい機会として、内向きの争いはせず、統一して、世界の歩みと同調してほしいと願っています。
 
 
 
“Chariots of Fire” as №1 (夢の中へ)
2010-12-25 08:12:24
(最後になるかもしれませんが、魂の琴線に触れたので、最終コメント)
私も、“Chariots of Fire”が最も好きな映画です。(とても言葉では語りつくせませんが)
テーマ音楽も魂を揺さぶり、自分の人生を真っ直ぐに駆け抜けて生きたい衝動に駆られます。

宗教や文化の本質を抑えた本当によくできた映画です。
冒頭のクリケットシーン(クリケットはRureではなくLawとして定められていて、審判絶対主義)、イギリス文化(特にスポーツ文化)とユダヤ文化の際立たせて方。
リデルにみる「プロテスタンティズム」。
一般的には、スコットランド人=ケルト系=カトリックですが、彼はプロテスタントの牧師で、神の定めた役割(道)を果たすために努力をするという「生きる姿勢」が明確に描かれています。
そして、牧師でもある父親に陸上競技を極めることについて、「お前は多くの才能を神から与えられた。走ることに妥協はいけない。妥協は悪魔の言葉だ。ジャガイモの皮むきでも完璧にすれば神を称える行為だ。」のような会話だったと思います。そして聖書を拠りどころにするというプロテスタントの典型。
よくビジネスマンが、「アングロサクソンの連中は~」という表現をしますが、アングリアのザクセン人程度であまり意味がないように思います。
むしろ経済行動で問題としているところは、「プロテスタンティズム」だと思います。
宗教関係を理解していれば、映画の意味もより深く理解できるように、ビジネス、外交等においても有効であると思います。

そして、ケンブリッジでの生活も街も本当に羨ましいような魅力あふれるもので、エリートが大学から出たがらないのがよく分かります。
将来、子供が留学でもすれば行くチャンスがあるかなぁと淡い期待をいだいていますが。

“Little Women”も、モンロー主義に守られた内向きの時代のWASP文化の醸し出す「アメリカの誇らしい伝統」だと思います。
米国も、ローマ帝国、大英帝国と同様に、ヘゲモニーによって繁栄し、それによって失速していくことになるかもしれませんね。
アメリカ社会の精神的な底流である「プラグマティズム」により、大胆な変革や再生、そして新たなモンロー主義を選択するかも。
でも、これは日本にとって悪夢で、より複雑で難しい外交問題を抱えることになりますから、米国が内向きにならないように共存関係を保っていきたいですね。

そして、「自省録」もご賛同いただいているようで、感激しています。
折々の社会情勢や実生活における事象にからみ、ある時は指針とし、ある時はAntitheseとして、精神的な矯正・研さん・励まし・創造など無限の広がりが得られるものと期待しています。
もう相互に会話はできませんが、NY等、兵庫県そして地球上のどこかにおいて、このような精神活動が息づいていることは素晴らしいですね。
同じようなお考えや家庭環境(同郷)なんでしょうか、思索中に木蓮家の方々のお声が聞こえてくるような気がします。
ショパンファンとのことですが、NYでは、1月19日のシンフォニーホールのガラコンサートは無理でしょうね。

言葉ももどかしく、思いのままに書いてしまいましたが、兵庫県のどこかでお話できたらもっとも盛り上がり楽しいでしょうね。
ご家族のご多幸とご健康そしてご活躍をお祈り申しあげます。
 
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