去る2021年8月2日に、歌手で俳優の本郷直樹さんが亡くなられたとインターネットのニュースで知りました。それ以来、彼のデビュー曲「燃える恋人」がずっと頭の中をぐるぐる回って響いております。今もまだ。
そして、その曲のことをいろいろ調べたり、本郷さんのことをネットで検索してみたりしました。子供の頃「素敵なお兄ちゃんだな」と思い、テレビに出るのを楽しみに待っていたことを懐かしく思い出しましたが、俳優になられて時代劇などに出ていらっしゃったことも思い出しました。
燃える恋人をずっと歌っていて、歌謡曲って3分のドラマなんだなと思い、いろいろ、その曲にまつわることを書こうと思いました。そして、好きな曲のことを書いていこうと思い、新しいカテゴリー「Viva歌謡曲」を作りました。
後になって、何か思うことがあったら、加筆していくかもしれません。
まずは、そんな「想い」にしてくれた本郷直樹さんの「燃える恋人」からです。
「燃える恋人」by 本郷直樹
https://www.youtube.com/watch?v=veTuIFxpiWM&list=RDveTuIFxpiWM&start_radio=1
1.
燃える恋人 (1971年、レコード大賞新人賞)
作詞:阿久悠
作曲:中村泰士
編曲:馬飼野俊一
歌唱:本郷直樹
歌詞はこちらでチェックお願いします
https://www.uta-net.com/song/213131/
詞)この曲が新人賞を取った時と同年の1971年、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦歌唱)でレコード大賞をとった、めっちゃ上り調子の阿久悠氏。その後の阿久悠氏の、派手だったり、時に奇抜だったりする作風のイメージからすると、ごくごく普通の感じの詞。
曲)1968年に「いまは幸せかい」(佐川満男歌唱)や1970年に「愛は傷つきやすく」(ヒデとロザンナ歌唱)などのヒットがあった中村泰士氏。すでに有名な作曲家になっていたと思う。中村氏の作風は多彩。10代の女性アイドル歌手の歌や、演歌風の曲から、日本のソウルミュージックファンに根強く愛されていて、さながら日本のフィリー・ソウルとも言える「涙の河」(マギー・ミネンコ歌唱)もある。
「燃える恋人」は、歌い出しのメロディーが、実は音が取りにくい難しい音程ですが、非常に印象的で他にはないようなインパクトがあり、覚えやすく、歌いたくなるような曲。全体を通して広がりのある、風通しの良い品のある曲。
編曲)1969年「夜と朝のあいだに」(ピーター歌唱)、1970年「戦争を知らない子供たち」(ジローズ歌唱)の編曲でヒットがある馬飼野俊一氏(作曲家でもある)は、この曲の少し後ぐらいから、天地真理さんの一連の大ヒットで大成功する。
歌手) 作詞・作曲・編曲に上り調子の3人を起用した曲でデビューということで、のちに大手事務所となるバーニングの第一号タレントの本郷直樹さんが、当時かなり期待されていたことがわかる。編曲の内容も、冒頭がマリンバ、そこからホーン、ストリングス、コーラスなども入っていて豪華。
1971年1月から3月まで日本テレビ系列(水曜19時枠)で放送されていた「スターヘばく進!」という番組でグランドチャンピオンになった本郷さん。その後、8月にこの曲でレコードデビュー。そしてその年のレコード大賞で新人賞獲得ですから、番組以前のことはわかりませんが、番組出演以降はかなりのトントン拍子です。8月から12月の間でレコード大賞新人賞が決定したのですから、まさに「スターへばく進!」でしょう。
今の時代は、誰かをデビューさせるためにオーディション番組を作ったりするけど、この当時には今ほどあからさまなのはなかったでしょうし。
1971年のレコード大賞新人賞は本郷さんだけが男性の受賞者。他は、欧陽菲菲さん、小柳ルミ子さん、南沙織さん、シモンズ。最優秀新人賞は小柳ルミ子さん。
この曲がヒットしたのは、本郷さんの声と真摯な歌い方も要因だと思う。
本郷さんの歌は、若さあふれるイケメン声で、色っぽいけど少しシャイなルックスもあり人気があったのでしょう。歌い方には変なくせもなく、真っ直ぐ歌っていて好感が持てます。しゃくらない歌い方のアイドル。本郷さんがどうかは分かりませんが、この当時はアイドルさんでも、作曲家の先生の家に住み込みでレッスンを受けることもあったりした時代。なのでどの歌手も、ちゃんと歌っていた印象。(アイドルはとても難しいジャンル:私は多分世界一難しいジャンルだと思いますが、歌唱力という意味ではあまり高くない人も多いので。)
例えばアイドルという言葉がはっきりと使われ始めたのは天地真理さんからという印象がありますが、彼女も音楽の学校に通っていた人だし、当時天地真理さんと同じ事務所所属で、アイドルという枠にもカテゴライズされていた小柳ルミ子さんも宝塚出身で、音楽を勉強していた基盤がありますね。
この曲の本郷さんの歌い方はどちらかというとダイナミックな感じで、プレスリーの大ファンというのも頷けます。音楽的にはプレスリーは世界に影響を与えたけど、好みで言うと、私は歌もまた男性としても、本郷さんの方が好きです。長めに伸ばすところはビブラートも嫌味なくかけていて、歌が上手いです。
本郷さんは、この後、歌手活動とともに、人気テレビドラマ、映画などで俳優としても活躍。爽やかな青年の役柄から、時代劇の悪役もこなす演技派でした。
詞と曲のイメージ)この詞に登場する2人はまだ若く、20代前半。遠距離恋愛のようにも思える。もしそうでなくても、まだ日曜日だけしか休日がなく、インターネットも携帯電話もない時代なので、カップルも今より連絡が取れる回数は少なかったでしょう。
男女の恋愛は今ほどオープンではなかったので「誰にも気がねしないで」という表現が自然なのだと思う。また、しばらくお別れしなくてはならなくなっても、心の繋がりを大切にしようという、純粋で今よりずっと幼いというか、一途な恋愛。
もし、これが遠距離恋愛ではなく、土曜の午後からデートして、日曜の夜まで一緒に過ごすというカップルだとしても、次にゆっくり会えるまでの1週間が待ち遠しいという気持ちを表している。
本郷さんは、しっかりと声を出す、歌の上手い人ですが、見た目もかっこよく:誤解を恐れず表現するならば、超美形というよりも女好きするタイプの色気のある人。そこにまだ若々しい爽やかさもあり、いわゆるアイドルとも分類される人。
でも、郷ひろみさんのような、とにかく明るく可愛く元気な魅力という感じではなく、少し落ち着いていてセクシーで、微妙に影があるタイプ。異性ファンが主なターゲットでしたから(本郷さんは西城秀樹さんと同じく同性のファンも多かったタイプですが)、恋愛の歌詞でも強すぎるものは合わない。どこかに爽やかさがないと、特に当時の若い日本女性には支持されなかったでしょう。2人のプライベートな親密な関係と爽やかさのバランスが良い歌詞です。
レコーディングされたバージョンはエンディングがラララ部分の繰り返しでfade out。そこが、当時の青春歌謡ポップスの王道という感じで、個人的にも好きです。ラララのフレーズで終わることによって、この2人が自分たちの未来に希望を持っていることを表している。
この当時、歌謡曲の歌詞には「会う」を「逢う」、「思う」を「想う」、「淋しい」を「寂しい」、「探す」を「捜す」のように表記することが多かった。なんとなく生活感がなくて歌詞という感じがする。私は好きです。
(エピソード)
エルヴィス・プレスリーの音楽活動は1962年の「好きにならずにいられない/ I Can’t Help Falling In Love」の大ヒットまではとんでもない絶好調を保っていましたが、翌年ぐらいからは不調になり始めます。が、1972年に発表した「バーニング・ラブ」が大ヒットとなりました。
曲調も違うし、こじつけのようですが、プレスリーファンの本郷さんが「燃える恋人」でデビューを果たした翌年に、それまで若干低迷していたプレスリーが「バーニング・ラブ」(燃える恋)で、再度大ヒットを飛ばしたことはとても面白い偶然だと感じます。
そして、その曲のことをいろいろ調べたり、本郷さんのことをネットで検索してみたりしました。子供の頃「素敵なお兄ちゃんだな」と思い、テレビに出るのを楽しみに待っていたことを懐かしく思い出しましたが、俳優になられて時代劇などに出ていらっしゃったことも思い出しました。
燃える恋人をずっと歌っていて、歌謡曲って3分のドラマなんだなと思い、いろいろ、その曲にまつわることを書こうと思いました。そして、好きな曲のことを書いていこうと思い、新しいカテゴリー「Viva歌謡曲」を作りました。
後になって、何か思うことがあったら、加筆していくかもしれません。
まずは、そんな「想い」にしてくれた本郷直樹さんの「燃える恋人」からです。
「燃える恋人」by 本郷直樹
https://www.youtube.com/watch?v=veTuIFxpiWM&list=RDveTuIFxpiWM&start_radio=1
1.
燃える恋人 (1971年、レコード大賞新人賞)
作詞:阿久悠
作曲:中村泰士
編曲:馬飼野俊一
歌唱:本郷直樹
歌詞はこちらでチェックお願いします
https://www.uta-net.com/song/213131/
詞)この曲が新人賞を取った時と同年の1971年、「また逢う日まで」(尾崎紀世彦歌唱)でレコード大賞をとった、めっちゃ上り調子の阿久悠氏。その後の阿久悠氏の、派手だったり、時に奇抜だったりする作風のイメージからすると、ごくごく普通の感じの詞。
曲)1968年に「いまは幸せかい」(佐川満男歌唱)や1970年に「愛は傷つきやすく」(ヒデとロザンナ歌唱)などのヒットがあった中村泰士氏。すでに有名な作曲家になっていたと思う。中村氏の作風は多彩。10代の女性アイドル歌手の歌や、演歌風の曲から、日本のソウルミュージックファンに根強く愛されていて、さながら日本のフィリー・ソウルとも言える「涙の河」(マギー・ミネンコ歌唱)もある。
「燃える恋人」は、歌い出しのメロディーが、実は音が取りにくい難しい音程ですが、非常に印象的で他にはないようなインパクトがあり、覚えやすく、歌いたくなるような曲。全体を通して広がりのある、風通しの良い品のある曲。
編曲)1969年「夜と朝のあいだに」(ピーター歌唱)、1970年「戦争を知らない子供たち」(ジローズ歌唱)の編曲でヒットがある馬飼野俊一氏(作曲家でもある)は、この曲の少し後ぐらいから、天地真理さんの一連の大ヒットで大成功する。
歌手) 作詞・作曲・編曲に上り調子の3人を起用した曲でデビューということで、のちに大手事務所となるバーニングの第一号タレントの本郷直樹さんが、当時かなり期待されていたことがわかる。編曲の内容も、冒頭がマリンバ、そこからホーン、ストリングス、コーラスなども入っていて豪華。
1971年1月から3月まで日本テレビ系列(水曜19時枠)で放送されていた「スターヘばく進!」という番組でグランドチャンピオンになった本郷さん。その後、8月にこの曲でレコードデビュー。そしてその年のレコード大賞で新人賞獲得ですから、番組以前のことはわかりませんが、番組出演以降はかなりのトントン拍子です。8月から12月の間でレコード大賞新人賞が決定したのですから、まさに「スターへばく進!」でしょう。
今の時代は、誰かをデビューさせるためにオーディション番組を作ったりするけど、この当時には今ほどあからさまなのはなかったでしょうし。
1971年のレコード大賞新人賞は本郷さんだけが男性の受賞者。他は、欧陽菲菲さん、小柳ルミ子さん、南沙織さん、シモンズ。最優秀新人賞は小柳ルミ子さん。
この曲がヒットしたのは、本郷さんの声と真摯な歌い方も要因だと思う。
本郷さんの歌は、若さあふれるイケメン声で、色っぽいけど少しシャイなルックスもあり人気があったのでしょう。歌い方には変なくせもなく、真っ直ぐ歌っていて好感が持てます。しゃくらない歌い方のアイドル。本郷さんがどうかは分かりませんが、この当時はアイドルさんでも、作曲家の先生の家に住み込みでレッスンを受けることもあったりした時代。なのでどの歌手も、ちゃんと歌っていた印象。(アイドルはとても難しいジャンル:私は多分世界一難しいジャンルだと思いますが、歌唱力という意味ではあまり高くない人も多いので。)
例えばアイドルという言葉がはっきりと使われ始めたのは天地真理さんからという印象がありますが、彼女も音楽の学校に通っていた人だし、当時天地真理さんと同じ事務所所属で、アイドルという枠にもカテゴライズされていた小柳ルミ子さんも宝塚出身で、音楽を勉強していた基盤がありますね。
この曲の本郷さんの歌い方はどちらかというとダイナミックな感じで、プレスリーの大ファンというのも頷けます。音楽的にはプレスリーは世界に影響を与えたけど、好みで言うと、私は歌もまた男性としても、本郷さんの方が好きです。長めに伸ばすところはビブラートも嫌味なくかけていて、歌が上手いです。
本郷さんは、この後、歌手活動とともに、人気テレビドラマ、映画などで俳優としても活躍。爽やかな青年の役柄から、時代劇の悪役もこなす演技派でした。
詞と曲のイメージ)この詞に登場する2人はまだ若く、20代前半。遠距離恋愛のようにも思える。もしそうでなくても、まだ日曜日だけしか休日がなく、インターネットも携帯電話もない時代なので、カップルも今より連絡が取れる回数は少なかったでしょう。
男女の恋愛は今ほどオープンではなかったので「誰にも気がねしないで」という表現が自然なのだと思う。また、しばらくお別れしなくてはならなくなっても、心の繋がりを大切にしようという、純粋で今よりずっと幼いというか、一途な恋愛。
もし、これが遠距離恋愛ではなく、土曜の午後からデートして、日曜の夜まで一緒に過ごすというカップルだとしても、次にゆっくり会えるまでの1週間が待ち遠しいという気持ちを表している。
本郷さんは、しっかりと声を出す、歌の上手い人ですが、見た目もかっこよく:誤解を恐れず表現するならば、超美形というよりも女好きするタイプの色気のある人。そこにまだ若々しい爽やかさもあり、いわゆるアイドルとも分類される人。
でも、郷ひろみさんのような、とにかく明るく可愛く元気な魅力という感じではなく、少し落ち着いていてセクシーで、微妙に影があるタイプ。異性ファンが主なターゲットでしたから(本郷さんは西城秀樹さんと同じく同性のファンも多かったタイプですが)、恋愛の歌詞でも強すぎるものは合わない。どこかに爽やかさがないと、特に当時の若い日本女性には支持されなかったでしょう。2人のプライベートな親密な関係と爽やかさのバランスが良い歌詞です。
レコーディングされたバージョンはエンディングがラララ部分の繰り返しでfade out。そこが、当時の青春歌謡ポップスの王道という感じで、個人的にも好きです。ラララのフレーズで終わることによって、この2人が自分たちの未来に希望を持っていることを表している。
この当時、歌謡曲の歌詞には「会う」を「逢う」、「思う」を「想う」、「淋しい」を「寂しい」、「探す」を「捜す」のように表記することが多かった。なんとなく生活感がなくて歌詞という感じがする。私は好きです。
(エピソード)
エルヴィス・プレスリーの音楽活動は1962年の「好きにならずにいられない/ I Can’t Help Falling In Love」の大ヒットまではとんでもない絶好調を保っていましたが、翌年ぐらいからは不調になり始めます。が、1972年に発表した「バーニング・ラブ」が大ヒットとなりました。
曲調も違うし、こじつけのようですが、プレスリーファンの本郷さんが「燃える恋人」でデビューを果たした翌年に、それまで若干低迷していたプレスリーが「バーニング・ラブ」(燃える恋)で、再度大ヒットを飛ばしたことはとても面白い偶然だと感じます。