goo blog サービス終了のお知らせ 

思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

計画は徐々に下方修正の飛弾山脈・蝶ヶ岳登山  

2006-10-24 08:00:36 | 登山
21日から22日にかけて、長野県は飛弾山脈・蝶ヶ岳(2677m)を登ってきた(写真参照)。
ここ1か月はなぜか、東京都奥多摩・沢登り、北海道・羊締山と登山づいている。だが実はこれは当初は7月か8月に登るはずだったが、なんだかんだでまとまった休みが取れずに9月下旬に延期し、さらにそれも中旬に沖縄県に行った影響で金銭面の不安から延期することになり、今の時期になってしまった。
しかも、ルートも当初は蝶ヶ岳からこの北の常念岳・大天井岳・燕岳(つばくろだけ)を3~4日かけて縦走するはずだったが、今回、結局は上高地→徳沢→蝶ヶ岳→横尾→上高地という小学生の子どもを連れた家族登山的なかなりやさしい行程になり、雪山登山もたしなむワンゲル上がりの身としてはかなり堕落した山行になってしまった。が、それでも今回は飛弾山脈の登山にこだわりたかった。なぜか。

僕は1994年から4年おき、つまりサッカーワールドカップの開催年には飛弾山脈の山を結果的に登っていて、近年僕のなかでは恒例行事になっているこれを今年も継続したかったから。ちなみに、1994年は大学ワンゲルの夏の合宿で白馬から唐松岳→白馬岳→大雪渓→猿倉を縦走(行程短縮)、1998年は夏に単独で折立から薬師岳・北ノ俣岳を薬師峠小屋定着・往復(行程短縮)、2002年はふたりで簗場→鹿島槍ヶ岳→爺ヶ岳→扇沢を縦走、いう内容だった。
また、なぜ今回はこんなにひよった結果になったかについても触れると、今回もいつもの登山のように単独行のつもりだったが、6年前からたまに山行をともにしている大学ワンゲルのときの先輩に、9月の酒席で今回の登山の話を出したら乗り気で、即決し、また一緒にふたりで行くことになった。

1歳上のこの先輩とは、埼玉県出身、そのためにJ1・浦和レッズサポーター、A型、タバコ嫌い、酒好きなどと共通点が多く、大学卒業後もふたりで飲みに行ったり山に行ったりすることが多い。こういう、1対1(サシ)で向き合える人って多くはいないので、普段から何かと助けられている。ほかの方はこういう密な関係が持てる人って何人くらいいるのだろう?
ただ、この先輩は学生時代は山行でパーティを組むと常に先頭のほうで登り・下りともに対向するほかの登山者とほとんど挨拶も交さずに蹴散らすくらいの激しさというか強さがあったのだが(今考えるとかなり素行の悪い登山者だ)、ここ数年は運動不足などによって膝の調子が悪く、現在では学生当時のワンゲルメンバーのなかでは比較的非力な部類に入っていた僕よりも疲労が蓄積されやすくなり(加齢も影響しているか)、今回の計画も先輩の体調を第一に考えて下方修正することになった。
また、今月上旬に白馬岳や奥穂高岳で悪天(吹雪)に捕まって死者が数名出た、という報道も受けたため、防寒対策の微妙さからもひよった、ということもある。この時期の登山は先のような吹雪の可能性もあるため、装備の選択が難しい。

ちなみに、先輩とふたりでの登山は2000年からこれまた偶然にもちょうど2年おきに継続していて、2000年は冬の山梨県・富士山吉田口(強風のため山頂到達は断念し、8合目まで)、2002年は上にも挙げた夏の長野県・鹿島槍ヶ岳など、2004年は冬に山梨県・大菩薩嶺に行き、今回でふたり山行は4回目になる。なお、2000年の富士山登山については、山岳雑誌『岳人』の2000年5月号(通巻635号)の81ページの読者投稿写真のコーナーに、僕が撮影したそのときの写真がほぼ半ページというかなり良い扱いで掲載されている。図書館などでバックナンバーを“ご覧アレイ”(ごらんあれ。このギャグがわかる人って全国にどのくらいいるのだろうか?)。

で、肝心の登山の結果だが、21日に東京都内から松本→上高地→徳沢でテント泊、22日に徳沢→蝶ヶ岳→大滝山往復で蝶ヶ岳ヒュッテでテント泊、23日は蝶ヶ岳ヒュッテ→蝶槍→横尾→上高地→帰京、のはずだったが、22日に大滝山往復を省略して、徳沢を基点に日帰りでそれ以外の行程を周回した。
と言うのも、先輩は今回の登山のためにテント(ICI石井スポーツ・ゴアライトX)や寝袋(イスカ・エア280)やフリース(ユニクロ)などのほとんどの装備を新調し、装備面では2人組パーティと言うよりは単独行者がふたり揃った、共同装備はガスコンロ(スノーピーク)のみ、という様相になったが、そんな新品装備の数々を駆使しても徳沢の夜の気温0度近い冷え込みが思いのほかこたえたそうで(夜勤開けで寝不足でもあったためか)、徳沢から標高にすると約1100m上がって気温はさらに7~8度以上は下がる蝶ヶ岳ヒュッテでのテント泊なんか無理、22日じゅうに下山したい、ということで当日も計画をまた下方修正した。先輩は以前は冬の八ヶ岳に3季用の寝袋で行くくらいの寒さへの耐性もあったのだが、やはり寄る年波には勝てないのか、と10年ほど前の彼の全盛期を知っている僕としては少々しんみりもした。

でもこの計画変更は結果的には正解で、僕もやや風邪気味で頭痛がひどくて不調だった(独身男2人組も30代になると健康面から何かと問題が発生するようになるな)。しかも22日は日中は快晴だったものの夜は雨になった。
でもまあ日中は360度ほぼ晴れ渡っていて、蝶ヶ岳からは西のほうでは槍ヶ岳~大キレット~北穂高岳~奥穂高岳の相変わらず日本離れした岩稜線、北は常念岳、大天井岳、ほかにも様々な山の眺めを久々に存分に堪能した。
よく考えると、僕は今回が9年ぶり3回目と随分ご無沙汰だった上高地周辺での登山になったが、これまでとは違って秋に来たので、紅葉も楽しめて、反省点はいくつかあるものの予定が延びたのは結果的には良かったのかもしれない。

そんな感じで、僕個人的な恒例行事と、先輩とのちょっとした“お約束”を一挙に片付けることができた、結果的にはなかなかの山行だった。



2006年10月21日、週末の上高地バスターミナルの午後の人出はこんな感じ。登山に最適な夏に限らず、秋の紅葉の時期も登山以外の目的で訪れる旅行者でかなりの賑わいになるのね、と今回この時期に初めて訪れた僕も驚く。大半が旅行会社が用意した大型観光バスで連なって訪れた団体旅行者のようで、人数が揃わないわ! などと旅行会社の添乗員が小旗を持ちながらテンパッている様子も垣間見られた。



2006年10月21日、そんな騒がしい上高地バスターミナルを離れ、夕方、明神から徳沢を目指して移動している途中。相変わらず、梓川と山並みが合わさった景色が良い。ここはホントに日本なのか? と錯覚し、9年ぶりに歩くこの道からの眺めの良さを再確認する。まさに日本が誇れる絶景だ、と断言できる。



2006年10月22日、徳沢キャンプ場から長塀尾根を登る。夜中は氷点下の気温になるこの時期の標高の高い場所では当然ながら霜柱が立ち、ちょっとした水たまりにはこのように薄氷が張る。



2006年10月22日、蝶ヶ岳の最高点(2677m)。雲は少なく、天気は最高。あまりに良すぎてあとが怖いくらい(実際、この9時間後には雨が降り出した)。
ちなみに、山頂などで記念写真を撮影する場合、多くの人はふつうに二本指(ピースサイン)を立てたり、跳躍したり、逆立ちしたりする人が多いが(複数人で写る場合は、組体操や映画『タイタニック』のあの十字のポーズもあるな)、僕の場合はふつうに手の親指を立てるヒッチハイクポーズか、ダチョウ倶楽部が客前に登場するときの「やー!!」か、その時々の流行りモノで決めている。近年では、ゲッツ!(ダンディ坂野)、東MAX!(東貴博。Take2)、命!(ゴルゴ松本。TIM)など。そして今回は、現在は深夜枠のテレビアニメも好調な週刊モーニングの連載マンガ『働きマン』の主人公・松方弘子の決めポーズにした(単行本第1巻の表紙参照)。働かずに山に来ているのにもかかわらず。



2006年10月22日、蝶槍の分岐から横尾に下山。この区間の山道で気になったのが、木の幹に黄色のペンキの印がやたらと多く付けられていたこと。道自体はそんなに迷いやすいわけでもないのに、なぜ余計に付けられているだろうか。ひどいものでは、4~5mおきに付けられている箇所もあった。こういう人工的なものは行き止まりの箇所のみの必要最低限にして、あまり山の雰囲気を壊さないでほしいよなあ。せっかく「自然」を楽しむために登山しているのだから。
これは明らかに山のことがわかっていないヤツの仕業で、悲しくなる。たとえこの付近の小屋の管理者が山道の整備の一環として善意で付けたとしても、これはやりすぎである。これらを見ると、逆に悪意を感じる。

「登山の日」の後方羊蹄山の登山はこんな感じ

2006-10-08 09:00:57 | 登山
先週に北海道へ行ったさいに10月3日に、“蝦夷富士”とも呼ばれている後方羊蹄山(以下、羊蹄山)を登ってきた。ちなみに、この日は非公式ではあるが語呂合わせで山岳関係者のあいだでは「登山の日」と称されているが、たしかに天気も良く、絶好の登山日和となった。



比羅夫コースの9合目(約1680m)を登る僕。左後方は倶知安の街並み。ただ、このときは前夜のJR倶知安駅の駅寝であまり安眠できずにやや寝不足で、身体がいつも以上に重く(まあ普段から人並み以上に重いが)、JR比羅夫駅から歩き始めてからここまでで5時間30分以上かかっている。ちょっと遅いペースだったかな。
この辺りが森林限界で、本家・富士山の6合目付近(約2400m)のような様相。



羊蹄山最高点(1898m)に達したのが15時30分頃とかなり遅い時間になったため、西日のなかで東のほうに目を向けると、“影富士”ならぬ“影蝦夷富士”が広がっていた。登山の基本からは大きく外れた登頂時間だったが、このときは天候悪化の兆しは見られなかったし、こういう現象を見ることができたのは逆に良かったことなのかもしれない。



羊蹄山頂にある一等三角点(1895m?)。中央後方の尖がりの最高点(1898m)よりはやや低い位置にある。これらの山頂付近は想像していたよりも岩山という感じで、本家・富士山の日本最高点(3776m)よりも自然味があった。お鉢巡りをするときは山頂付近にはちょっとした岩場もあるが、長野県の八ヶ岳や飛騨山脈よりは道は明瞭で、遠くからの見た目よりは歩きやすい。単調な樹林帯歩きよりは数段楽しめる。



翌4日、前夜に下山した京極町のバス停で野宿してから早朝に、前日に登った羊蹄山を仰ぎ見る。このときは早朝から霧が出ていたため、ちょこっと幻想的な雰囲気があった。



京極町の湧水ふきだし公園の湧水。旧環境庁が選定した「名水百選」と、北海道が指定した「北海道遺産」のひとつに挙げられている。実は僕は1999年秋の自転車旅の途中にここに立ち寄っていて、今回、7年ぶり2回目の訪問になる。ここの湧水量の多さは相変わらず圧巻で、全国の名水巡りが趣味の僕としても、100か所以上行ったなかでも五指に入るくらいの名水、と認めている。朝6時台から地元の人がポリタンクや大きなペットボトルを、台車を利用したりして何個も持参して水を汲んでいた。取水口はたくさんあってどこからでも汲めるので、全国各地の湧水量の少ないところでよくある「水汲み行列」ができるということもない。その許容範囲の広さがまさに北海道。


ちなみに、以下は他人から見るとどうでもよい話だが、実は僕は羊蹄山については20年前の小学5年生の頃から思い入れがあるため、ようやく今回登頂できていつもの登山以上に嬉しく思う。と言うのも、その頃の学校の図工の時間に絵を描くときの題材として山を選択し、羊蹄山の写真を参考に絵を描いた、ということがある。
この年頃で山を描くとなると一般的には、山梨県と静岡県にまたがる日本最高峰・富士山(3776m)を、しかもその山頂付近に雪が被った(秋から初冬の)状態のものを描くことが多いが、当時からひねくれ者の僕としてはそんなありきたりな絵を描くのが好きではなく、ほかの山の資料に当たっていたとき、北海道のこの羊蹄山を発見した。この山は独立峰ゆえに富士山に山容が似ていて、そんなことから地元では「蝦夷富士」と呼ばれていることもこのときに初めて知った。
羊蹄山の写真を見ると富士山とはちょっと違うが、それと同様に威風堂々という感じの山容で、そこそこ描きやすくもあり、羊蹄山のことがいっぺんに気に入ってしまった。と同時に、いつかはこの山に登ってやる! という目標も立てた。ただ、本ブログでも以前に触れたが、小学生当時の僕は家庭環境からほかの同級生よりは山を登る機会は多かったが苦手で、まだ今のように自ら積極的に山に向かうという感じではなかった。だが、こと羊蹄山に限っては「必ず登りたい!」という感情が不思議と沸き立ってきた。これは日本人であれば大概の人は目指す本家の富士山よりもその順番は先で、そんな日本最高峰よりも僕のなかではいち早く登っておくべき山である、と認識した。
近年も、僕の北海道での初登山はぜひ羊蹄山を、と思っていたが、2005年にちょっとした成り行きの変化から、初登山は利尻島の利尻山になってしまったが(ホントは羊蹄山もその前に登るつもりだった)、昨年の続きということで今回登山した。

で、今回、20年越しの目標がようやく達成されたわけだが、実際に登ってみて、独立峰だけにさすがに登山口から山頂(およびお鉢)への登りと下りの距離と標高差は本家・富士山と同様に大きくてかなり疲れたが(お鉢巡りの距離と火口の大きさも富士山とほぼ同じ)、それでも登り甲斐のある山であった。深田久弥が日本百名山に選定したのもよくわかる。
とりあえず今回、羊蹄山の雰囲気はある程度は掴めたので、今回登りで辿った比羅夫コースと下りで辿った京極コースのほかにも、喜茂別コースと真狩コースの2ルートもあるから、再訪するときはこれらのコースも上り下りして、ほかの季節にも再訪して、特に積雪期の登山もやってみたい。日本に明治時代後期にスキーを伝えたオーストリアのレルヒ中佐がこの山を訓練のために冬に登ったときもスキーを利用したと聞くし(登ったあとの滑降重視だったのかな?)、そうなるとこの山の本領は実は冬にこそあるのではないか、とも思っている。
今後も本家・富士山と同様に何回も訪れることになる山であろう。

年に1度の大冒険!? 奥多摩・石津窪単独遡行   

2006-09-24 23:45:30 | 登山

毎年1回、夏から秋にかけてのどこかの晴れた日を狙って、日帰りできる範囲の山域で沢登りに行っているのだが、今回は奥多摩、というか武蔵五日市のほうの千ヶ沢・石津窪という沢に行った。

僕は基本的には元々は「命の危険を犯して何かを行なう」という緊迫した意味合いのある「冒険」という言葉はあまり軽々しく使いたくないし、世間でもテレビや雑誌などでやたらと多用してその言葉の価値を余計に下げないでいただきたい、と人一倍強く思っているのだが、僕のこの毎年の沢登りに関しては冒険的要素が多々あるため、あえて「冒険」と呼んでもいいかな、と思っている。

と言うのも、パーティを組まずに単独で沢を遡行するからなのだが、ふつうの一般登山道のみを行く登山のときよりも足場の悪さなどによって進みにくいいわゆる“ヴァリエーションルート”をひとりでやる場合は、いつも以上に気を引き締めなければならず、緊張感も数倍増す。しかも、僕の沢登りはほかの入渓者が比較的少ない(やや忘れ去られた感のある)交通不便な1級の沢ばかりに行くため、もし遡行中に負傷したら助けを呼びにくいし、発見されにくいということもある。

今日はJR武蔵五日市駅からバスで荷田子まで行き、そこからはずっと徒歩で、荷田子峠を越えて林道盆堀線に出て、ヤマメがいるらしい川を見ながら入渓点に向かったが、沢登り本の遡行図コピーと1/25000地形図を照らし合わせても、そこがホントに目的の沢かどうか自信がなく、登り始めてからルート中のゴルジュや滝のようなわかりやすい地形を確認して、やっと目的の沢に来ていることがわかり、ホッとしたりした。これが一般の登山道であれば案内図や指導標や目印のために木に巻いてあるテープなどで現在地がわかりやすいが、“規格外”のヴァリエーションルートにはそんな親切な表示なんてほとんどないから(先人の踏み跡や残置ハーケンで判断するしかない)、登り始めからかなり不安。

だが、この不確定要素や自分で進むべき道を決めてじりじり進むことは、ある種お仕着せ精神で成り立っている一般登山道よりはやりがいがあって面白いことは面白い。でも今回、自分が石津窪に入っているという確証を得るのに、遡行を始めてから20分かかった。

で、今回さらに冒険的要素を増幅させたものに、このルートの後半にある核心部の、落差25mの大滝(上の写真参照)があった。沢登り初級者レベルの僕がこれまでに単独遡行した沢のなかでも最大の滝で、今回はたまたま水量は少なかったがそれでも迫力満点で、複数人で登ってロープで確保し合いながらザックを別途吊り揚げにして空身で登るのであればなんとか登れそうだったが、単独行ではほぼフリーソロ(ハーケン、カラビナ、シュリンゲなどの道具による確保なしで登ること)の状態で登らなければならないため、ただでさえ岩登りが不得手な僕にはそれは困難なため、当然のごとくそこは高巻きした。ただ、落差6~8mくらいの登りやすそうな滝であると見極められればフリーソロで直登することはよくある。

でも、よく考えると高巻きでも滝の直登よりは少しは登りやすくても基本的にはフリーソロになるので、登り方を誤ると滑落して死ぬ可能性もおおいにある。しかも今回は大きな滝だったので、高巻きもそれ以上の高さ、このときは高さで言うと30~40mを登ったため、今考えるとかなりヤバイことをしていたかも、とも思った。
一応、高巻きの登りで行き詰まったときのためにロープ(と言っても8mm×20mの簡単なやつ)はすぐに出せる、懸垂下降もできる態勢は整えていたが、それでも登るのに夢中になると確保を忘れることもあり、これもやはりマズイ。今後気を付けないと。

さらには終了点への道も間違え、一般的な遡行時間よりも30分以上無駄な登りをして、そこから北の臼杵山(824m)を越えて下山する頃には真っ暗になってヘッドライトのお世話になってしまうというオチもついた。実は朝も寝坊してしまったため、そんな時間になってしまった。元郷に下りたら、西東京バスの武蔵五日市駅行きは21時頃まで運行しているのには助かった。

まあそんなこんなでふつうの登山以上にいろいろな汗をかいた、客観的に見てもかなり冒険的な沢登りになった。ロープの出番も例年よりも多かったくらい、僕個人的には際どい箇所が目白押しのルートであった。やはり沢の単独行は良くも悪くもしびれる。

今回の僕自身の落ち度は当然反省して次に必ず生かさなければならないが、何事においてもぬるま湯的な現代でいつものお気楽尾根歩き登山よりも創造性のある、またそれ以上に「生」と「死」を否応なしに意識せざるを得ない登山もたまにやる必要があるよな、と改めて思った。
まあその理想は、最近売れまくっている服部文祥氏の『サバイバル登山家』(みすず書房刊)にあるようなもっと生々しい登山なのだが、今の僕の実力とやる気、(登山以外にも徒歩や自転車やスキーなどなんでもやりたがる)欲張りな性格ではそのレベルにはなかなか、というか一生到達しそうにないが、自分のペースで少しずつ段階を踏みながら経験を積んでいきたいとは常に考えている。
マジメに考えて改善していかないと大ケガするか死ぬかもしれないから、僕としては普段の生活のなかでもそれが(一般成人男子が特に力を注ぐ)賭けごとやクルマ・オートバイの改造や女遊び以上に超重要な課題なのだ。

鍋割山で水運び

2006-06-06 23:55:17 | 登山

鍋割山(1273m)と言うと、山頂やその周辺の植生やここからの眺め云々よりも、登山者のあいだでは山頂にある鍋割山荘とここの主人の草野延孝氏のほうがよく知られているかもしれない。
山荘への荷揚げは一般的なヘリコプターに頼らずに人力でやっていて、草野氏は1回の荷揚げで多いときには100kg近い荷物を一気に上げる、ということを各種媒体で数回見かけ、そのたびに凄いなあ、と感心したものだ。
ただ、完全人力と言っても宿の関係者だけのその荷揚げだけで山荘を維持し続けていくのは難しいので(特に調理用の水の確保)、山頂付近に水場がない山荘のために、林道終点の登山道入口に水道水入りのペットボトルを用意して、登ってくる登山者にそれを上げてもらう、というボランティア活動を頼んでいる。今回この登山道を初めて登る“初参加”の僕としてもこれは前々から知っていて、たしか、以前は山頂の裸地化抑止や登山道整備のために石の荷揚げもやっていたような気がしたが、とりあえず現在は水だけのようだ。

大倉バス停から四十八瀬川沿いの林道をつめ、二俣経由で林道の終点まで行くと、クルマが入れる終点にすでに水道水が入った2リットルのペットボトルが30本近く置いてあった。ちなみに、沢の水は不衛生で飲用に適さないということで、滅菌された水道水を用意しているとのこと。まあ僕は沢の水も平気で飲むのだが、一般の人すべてがそれを真似るわけではないので、まあ水道水のほうが無難と言えば無難か。山小屋などの人工物がたくさんあったり、登山者がやたらと多い登山道の近くでなければ沢の水でもそんなに気にはならないが、さすがに人口が多い関東圏の丹沢ほどの登山者も多い山域だと水道水になってしまう、という最近の事情もまあわかる。
ここから登山者は自分の体力やボランティア精神の旺盛さを考慮しながら、デイパックやザックにそれを詰めて、林道終点から後沢乗越を経由して山頂に至る水平距離2.4km、標高差約630mの登山道を登っていくことになる。
まあこれは余裕があればお願いします、というものだから強制ではないしべつに無理して運ぶこともないのだが、山荘でコーヒー、かき氷、おでん、味噌汁などの水を必要とする食事をとったり、宿泊したりするのであれば運ぶべきではないかと思う。で、僕も食事はとらないけれども以前から「人力」にこだわっているというところに共感できるので、それを理由にペットボトルを2本(4リットル)持って協力して、登った。山荘への協力というよりは、自分の登山のトレーニングという意味合いでぺットボトルを何本も持ってたくさん水を運ぶ人もいるのかな。

登山道自体はここより東側の大倉尾根のようなキツイ傾斜ではなく、登山道のつづら折りの付け方も適切で、ふつうの荷物であれば登山地図のコースタイムのとおりに1時間30分もかからずに行けるのだろうが、いくらかの水を持って荷が重くなるとちょっと時間がかかるかも。
ほかの山域でもよくある木の階段はもちろんのこと、山道には斜面の段差をできるだけ少なくしたり、悪天時に足を滑らせないようにするためなのか所々でブロック塀や木の切り株が埋め込まれていたりして、草野氏が荷揚げしやすいように登山道がきっちり整備されている、という印象を得た。木の階段の段差も僕がよく行く秩父や奥多摩の山に比べると低く、足を上げ下げしやすくなっている。階段の段差があまりに開いていると、特に下りでは膝や足首への衝撃が強くなって余計に疲れるし、これを避けたい登山者が段差のない階段の脇を登り降りすることによって土道が踏み固められて登山道の裸地化が進むというか新しい登山道ができてしまう、という悪循環がよく見られるが、比較的段差の小さい丹沢では登山者もおおむね階段を利用しているようでそれが改善されている。良い整備である。

草野氏は30年近くここで大荷物を担ぎながらほぼ毎日荷揚げしているのか、凄えなあ、いくら大学山岳部出身でヒマラヤ登山の経験もあると言っても毎年300回近い荷揚げをこなし、しかも必要であれば100kg以上の荷揚げも行なったりするのは並大抵のことではないよなあ、とその道を草野氏の凄さを改めて強く実感しながら登っていき、僕は最近の運動不足や体重増加によって重くなった身体を無理矢理に押し上げながら、1時間45分もかかりながら鍋割山に到達した。草野氏は1990年代の全盛期はこのコースを2時間30分を切るくらいの速度で荷揚げしたというのだから、これまた凄い。

僕が登り始めた時間は比較的遅かったから、できるだけ明るいうちに早く先に進みたかったし、登山者はもう誰もいなくなった平日の昼下がりの山荘でひとりで食事をとるのも、本来は昼の忙しい時間帯をしのいだあとのゆっくりできる休憩時間に草野氏に余計な手間をかけさせるようで悪い気がしたので、今回はここでの大休止は控えて早々に塔ノ岳に向かった。いつか再訪するときは、もう少し早い時間帯に訪れて、鍋割山荘名物の鍋焼きうどん(980円)を熱々のうちにハフハフ言いながら食べたいものだ。

いつになく厳かな気持ちで久々の丹沢登山

2006-06-06 23:45:41 | 登山

今日、神奈川県・丹沢の鍋割山(1273m)と塔ノ岳(1491m)を登ってきた。鍋割山は初、塔ノ岳は小学生の頃の家族登山から数えて5回目の登頂であった。
実はこの登山は3月から計画していたのだが、行ける日に限って寝坊したり体調不良になったり天候が悪くなったりしてことごとくタイミングが合わず、先延ばしになっていた。だが、さすがに3か月も経つといいかげん行かないとな、と思い、義務感に近い強い気持ちのもと、平日にもかかわらず行ってきた。

で、ふつうは登山であれば「山は逃げない」ので山はいつでも行けそうなものだが、僕個人的に今回に限ってはできるだけ早く行っておきたい理由があった。本ブログでも記したが、3月上旬に神奈川県鎌倉市に住んでいた祖母が亡くなり、その追悼の意を込めてあえて神奈川県内の山を登りたかった。
僕は十数年前から、親戚や大学時代のワンダーフォーゲル部の先輩が亡くなると、その追悼の意を込めて人力移動の旅に出ている。とは言っても、実際にはその死が旅のきっかけではなく、元々進めていた計画にその気持ちを乗せる、というだけのことで、実際にはいつもの旅とほとんど変わらないのだが、ただひとつ違うのは、自分にとっての身近な人の「死」をもって生き残った自分の「生」を再確認する、ということに精神的に重点を置いていて、いつもよりも俗っぽいことは考えないようにして厳かな気持ちで、その人が亡くなってから近いうちに、できれば1、2か月以内に旅に取り組むようにしている。
しかもそのさいは、移動手段は動力に頼らずに「人力」で、自らのきっかけと力で、全身を駆使しながら進んでいかなければならないのだ、という条件を設けている。亡くなった人に対し、生き残った僕ができることとしては、
「僕は今後もバカが付くほど愚直に身体を動かして生きていきますよ」
という意思を行動で示しながら、今後も妥協せずに精一杯生きていくことを約束することしかできない。しかも基本的に旅バカの僕の場合はそうなると、やるべきことはやはり旅しかない。そうやって現代に生きていることをより強く意識しながら、実際に僕が(本ブログでも度々記している)人力で生々しく旅することが亡くなった人への追悼になるかな、ということで継続している。
まあ元々ある計画にそういう気持ちを乗せるということで、単にこじつけているだけでは? と言われればそうとも言えるのだが、生きていなければ旅にも出られないわけで、それをより強く実感する機会を持つことはどんなことであっても大事なことだと思う。普段の街なかでの緩い生活で「生」と「死」を意識することなんてほとんどなく、旅は動物(の一種である人間)が生きていくうえでは基本的でしかも何よりも重要なそれを感じる絶好の機会である、と思って強く意識して取り組んでいる。
で、いつもは泊まりがけで行くのだが、今回は神奈川県内と近場なので、日帰りで行くことにした。また、登山に限らず徒歩の旅や自転車旅でもよかったのだが、神奈川県と言えば丹沢でしょう! と、今回は行き先は思い立ってからものの数分で決まった。まあ元々はまだ登頂したことのない鍋割山を登ることは数年前から考えていたので、その計画を実行に移すだけのことなのだが。丹沢の山に行くのは今回が5年ぶりで、学生時代は毎年行っていたのに近年はずいぶん間が空いてしまったなあというちょっとした罪悪感もあり、丹沢行きはすぐに決まった。

朝の混み合う新宿駅から小田急線に乗り、渋沢駅で降り、丹沢に来るときは毎度お馴染みの大倉バス停に行く。近年は宿泊できてフリークライミングの人工壁もある神奈川県立山岳スポーツセンターや秦野ビジターセンターが整備されて、バス停付近の景観はガラッと変わってしまったが、ここから北側を仰ぎ見ると山の尾根・稜線が間近に大きく見られる様子は何年経っても変わっていない。バス停の時刻表を見ると、渋沢駅行きのバスは21時台まで走っているのは知らなかった。これなら下山で遅くまで時間がかかっても助かるな、と渋沢駅から大倉にかけては元々山に親しんでいる土地柄で、それを感じさせる措置が取られていることに少し安心する。

今回はただのお気楽山行ではなく一応は追悼山行なので、喪章を付けて登ることにする。これまでの旅でも、徒歩の旅ではできるだけ黒っぽい服や靴下を身に着けたり、自転車旅では喪章代わりに黒色のガムテープをフレームに巻いて走ったりもした。だが今回は喪章が用意できれば付けたかったので、なんとか用意した。ただ、それを腕に巻くと山道を登るときに身動きを取りづらいので、デイパックの表面にピン止めして行動した。
大倉バス停には9時頃には着いたのだが、景観の変化に驚いて散歩したり、いろいろと想うことがあったりして時間が経ち、結局バス停を出発したのは10時になってしまった。

バス停から西のほうに歩き、林道に入り、川の上流へ向かって歩く。以前も二俣までは沢登りのアプローチで歩いたことのある道なのだが、そのときの記憶があまりなく、丹沢はずいぶんご無沙汰であることに改めて気付く。天気は曇り空で、たまに太陽が見えて陽射しが差し込むこともあるが、全体的に雲に覆われている。でも雨が降るほどでもなく、気温はちょうどよい。
クルマも数台停めてある林道終点から登山道に入り、最初の目標である鍋割山に向かってじりじりと登っていく。登り始めの時間が遅く、しかもいつものようにデジカメで写真を撮りまくったりしたために時間がかかる(今回も1日で250枚近く撮った)。そうなると下山してくる登山者とぽつぽつすれ違うことになる。結局、鍋割山へは14時30分に登頂。次項で詳述しているが、林道終点からは水を4リットル持ち運んだこともあって、ややお疲れ。でもまあその水も鍋割山荘で手放せるのでかなりラクになる。

僕個人的にようやく初登頂の鍋割山頂では45分ほど昼寝したりしながら独占し、塔ノ岳へ向かう。少しガスが上がってきたりもして下の景色は見えないが、気にせず粛々と進む。
鍋割山から大倉尾根の合流点までは木道がきちんと整備されて、屋久島・縄文杉付近にある階段と同等の強度がありそうな頑丈な木製階段もある。ただ、登山道周辺は立ち枯れした木々が結構見られ、鹿や酸性雨の影響なのかな? と少し気になる。ブナの黄緑色の葉色よりは、倒れた木々の白色っぽい樹皮が目立つ。
金冷シで大倉尾根に合流すると、過去数回歩いている見慣れた登山道が出てきたことに安心する。相変わらずの長大な木製階段を根気よく登っていくとすぐに塔ノ岳の頂上に着いた。と言っても、16時35分とかなり遅い時間になってしまった。
ここでもこんな遅い時間に登ってくる人はそんなにおらず(頂上にある尊仏山荘に泊まる人くらい)、むしろこの周辺で草を食んでいる鹿のほうを多く見かけた。
塔ノ岳は今回で5回目の登頂なのだが、実はここに来たのは8年ぶりで、ここもずいぶんとご無沙汰になってしまった。しかもその8年前の1998年というのは2月の真冬に来ていて、ちょうど東京都心でも雪が積もるくらいの(関東地方にとっては)大雪に遭い、塔ノ岳から北の丹沢山の往復では新雪の、膝上のラッセルを強いられたりもした。あのときは丹沢最高峰の蛭ヶ岳も経由して津久井郡の西野々まで抜けるはずだったの
に仕方なく断念して悔しかったなあ、そんな大雪を予想していなかったうえでの単独でのラッセルは大変だったなあ、最近も雪はそのくらい降るのかなあ、などと思い出にふけりながらここでも45分休み、大倉尾根の下りに入る。

等間隔の木製階段と、その下部は石がゴロゴロと転がっている大倉尾根も久々に下る。
まあここはもう地形図を確認しなくても下れるくらいに道筋を覚えているので、特に身の危険を感じることはないが、そんな緊張感のない状態でこそ気を引き締めないといかん。浮き石に足を取られて転倒して頭を強打して流血、最悪の場合は脳挫傷で開頭手術、という可能性もあるから慎重に行かないとな、といつも以上に神経を使いながら下る。
普段の下界の生活では何事も前向きにプラス思考で取り組むべきだ、という言い分もあるが、こと登山に限ってはそういった最悪の、マイナスの事態を想定しながら行動することも大事だよな、植村直己(故人)のように、臆病さというか慎重さを持ちながら普段以上に「生」と「死」を意識することはそんなに悪いことではないよな、と改めて思いながら下り坂をじりじりと下る。
夏至が近いので、19時頃まではヘッドライトなしで下れるので助かる。登山の定石からは外れた行動時間だが、これはこれで楽しかったりする。ときには街の喧騒からあえて離れて山中の暗闇のなかに一時たたずんだり、下りで膝や爪先に痛みや疲れを感じることも生きていくうえでは大事なことだよな、などと平日の登山をいちいち正当化させながら、水平距離約7km、標高差約1200mの大倉尾根下りを終える。この尾根は相変わらず長いな。
舗装路に出た頃には眼下の平塚方面の街並みはすでに夜景になっていたが、こういう時間帯の歩きも結構好きだったりする。10時間20分ぶりの大倉バス停は人っ子ひとりおらず、店も当然閉まっていたが、そんな暗いなかで帰りのバスを気長に待つ、まったりできる時間も好き。これでビールなどのアルコール類があればなお良いのだが、帰宅するまでは厳かな気持ちを保ち続けることにする。なお、今回の行程のコースタイムは以下。

大倉バス停10:00-二俣11:55-後沢乗越13:10-鍋割山14:30-塔ノ岳16:35-堀山の家18:45-大倉バス停20:20

行動中の休憩の時間は約3時間だが、それでも行動時間は10時間を超えてしまった。事前の予想ではもう少し順調に行けると思っていたが、日頃の運動不足がたたり、かなりの体たらくである。まあこれが現状での僕の登山の実力で、これを見た方としては「むむっ、なかなかやるな」と思うか、「その程度の実力で山を語るなよ。たいしたことねえな」と思うかは人それぞれで、まあ読む方に判断はお任せする。僕は現状ではこれが精一杯。
下山してからの筋肉痛もひどく、これで偉そうに「登山経験者」と自称できないよなあ、情けねえなあ、とやや落胆した。学生時代に比べると体重が10kg以上増えていて、セルフタイマーで自分の写真を撮ると下腹が出ているのもよくわかり、それを見てさらに落ち込む。昨年あたりから健康診断や献血時の血液検査などで肝機能の数値が異常である、という結果もちらほら出ているし、いいかげんマジメに運動しないとヤバイ、全身を駆使して脂肪がよく燃焼される人力の旅にガンガン出て減量するぞっ、と改めて思った。

ちなみに、今日の行程で見かけた、すれ違った登山者は19人、うち単独行者は6人だった。まあ平日であればこんなもんか。それにしても三分の一が単独行か。僕もそうだが、これはやはり平日ならではの割合なのか。大倉バス停などで「単独登山はやめましょう」という注意書きを見かけたが、登山道が明瞭な丹沢東部の、そんなに身の危険を感じるような道はほとんどない一般登山道のみを行き(まあこれは登山経験にもよるが)、事前にそれなりに装備も行動食も用意している周到さがあれば単独でも問題ないと思うのだが、登山初心者も多く訪れる山域ではそういう告知がよく見られるのも仕方ないか。
それと、塔ノ岳の頂上から大倉尾根にかけては鹿もよく見かけて、鹿を見かけた、というか鹿と4、5mの距離でバッチリ目が合ったのは13頭だった。このほかにも登山道脇の茂みをガサガサと鹿が動く音はよく聞こえた。以前よりも鹿が増えているなあ、と実感する。北海道では鹿を保護しすぎたことによって増えすぎて、それによる食害が数年前から問題になっているが、丹沢でもそうなのだろうか。前々から登山道脇に広葉樹の苗木や草木を鹿から守るための金網はよく張られていて、それもいくらかは効いているのだろうが、ガサガサという音を以前よりもよく聞いたので、ちょっと気になる。

まあいつも以上に、いろいろな面で「生」を実感できた、僕にとっては特筆すべき山行であった。今後も、「生きているから山を登れるんだ」という意識を持ちながら、亡くなった人たちに恥じない生き方を心がけていこう、と毎回誓って締めくくるのであった。
ワンダーフォーゲル部出身の僕は基本的に“ワンゲラー”であると自認していて(「渡り鳥」「さまよう鳥」を意味するドイツ語の「ワンダーフォーゲル」を略して名詞形にした言葉。「旅人」「放浪者」の横文字表現の一種)、やはりあちこちに旅することが人生のなかでの最大の目標(やりたいこと)と課題(やるべきこと)というか、つまり「仕事」であると思っている。
“ワンゲラー”は今後も1か所に引きこもってなんかいないでとにかく動き続けることが肝心だな、言い換えると旅は「義務」だよな、と昔も今も、誰が何と言おうとも思い続けていて、しかも今後も実践し続ける所存である。

再びマンガ『イカロスの山』の第2集と、山においての純粋さ  

2006-05-23 23:30:39 | 登山
今日、週刊「モーニング」で連載中の山マンガ『イカロスの山』の単行本第2集が発売されたのだが、本ブログでも2006年3月27日の投稿で触れた第16話「パンドラの匣(はこ)」が最後のほうにやはり収録されていた。
これに関してはもう御託を並べる必要はないから、山好きな人がなぜ山に登るのか、ということに興味のある方は、とにかくこの本を読んでほしい。
今回の第2集には作家のよしもとばななの帯コピーが付いているが、これに頼らずとも塀内夏子らしさが光る力のこもった作品なので、特に宣伝しなくても売れるだろう、と信じている。「この世に生きている」ということも、それを味わう方法も、読めばわかる、はず。

ただ、基本的に大好きなこの物語の展開にひとつだけツッコミを入れるすると、これや今年1~2月に放映されたテレビドラマ『氷壁』のように、ヒマラヤの高峰に下界からの男女の三角関係をずるずると持ち込んで、ある種“不純”な精神状態で山に挑む人なんてほとんどいないと思うのだが、どうなんだろう? そんな状態で本来の実力は存分に発揮できるもんなのかな?
まあこれは話を盛り上げるための作り話なのはわかるが、現実のヒマラヤ登山では天候の急変や高度障害によって精神的にかなりやられている状態になると、『氷壁』の北沢のように最後に思い浮かぶのは自分の好きな食べ物や人(家族や恋人)だったりすることは噂に聞くところによるとよくあるそうだから、そんな非日常の厳しい山を登る人といってもそういう日常と同様の俗っぽいことが思い浮かぶということは、山に向かう姿勢としては集中力が欠けた完全に“純粋”な状態ではないのかもしれない。

でも、僕が山を登っているときなんかにはそういう俗っぽいことはほとんど浮かんでこないから(ゼロではないけど)、どちらかというと“純粋”なほうだと思うんだけどなあ。
僕の場合、山での行動中には(山に限らず)次はどこを旅しようか、という先々の旅の構想がおおまかに浮かぶことが多い。自称“旅バカ”の僕にとっては、オンナなんて二の次三の次ですよ。
でもまあこれは、「登山が人生の第一義」という感じの強い気持ちで本気で山に取り組んでいる人からすると、人間の限界を否応なしに知ることになるそんな高峰にまだ登ったことのない、普段はちまちました登山しかやっていない者のきれいごとだ、と思われるのだろうけど。

だから、先々週にテレビ『NEWS23』に出演していた、現在マナスルの清掃登山を実施中の野口健が番組の取材に対し、山のベースキャンプには毎回女性モノの香水だか芳香剤だかを持参して、テント内でその臭いというか香りをかぐと心が落ち着く、と言っていたが、その感覚がよくわからん。
そんな俗っぽいモノに頼らずに山ならではの生活を楽しめないもんかね、と悪い意味でつい気になってしまう。まあでも清掃登山は基本的に楽しみの多い登山ではないし、停滞時にリラックスする方法は人それぞれあっていいとは思うけど、野口くんのあれはかなりヘンだよ。とても良い趣味とは言えないな。ああいうヘンテコな物言いや仕草がテレビの力によって一般登山者の総意というか平均値として受け取られるのは心外であるよ。

まあとにかく、そういった俗っぽいことは話半分に聞き流しておいて、マンガでも現実の登山でも、山に対する強い気持ちを前面に押し出した“純粋”な部分をもっと見てみたい。『イカロスの山』はそういう描写が今からおおいに期待できる、あらゆる意味で緩くなってしまった現代人を強く刺激する、骨太のマンガである。おすすめ。

古峰ヶ原高原ヒュッテ連れ去り事件と危機管理意識

2006-05-01 18:50:16 | 登山
4月30日の深夜に、栃木県鹿沼市西部の古峰ヶ原高原ヒュッテに寝ていた夫婦が男に襲われ、妻が連れ去られた事件が起こったが、これは登山好きとしては世間一般の人よりも数段衝撃的な事件である。

僕はここにはまだ行ったことがないので事件報道の情報だけでしか物事を判断できないが、報道の、特にヒュッテ付近の空撮映像を観ていて思った最大の問題点は、ここはすぐそばに舗装された道路が通っていることだ。
まあ深夜の時間帯はこういう山中の道路はいくらか手前の場所でゲートが閉まっていたり鎖が渡してあったりしてクルマやオートバイが簡単に進入できないようにしてあるだろうから、ヒュッテから2kmほど離れたところにクルマを停めてから歩いて登ってきた犯人は、クルマが入れるギリギリのところまで進入してからヒュッテに来て、妻を連れ去るにも歩いて下ってそこまで戻ってきたのだろう。
ここは常駐管理人がいない無人の避難小屋のようだが、襲った男は当然悪いが、そんな簡単にクルマで進入できるところにある近くの小屋に泊まったこの夫婦も悪い、と僕は思う。夫婦の登山歴がどの程度あるのかはわからないが、あくまで大雨や雷による荒天時の非難が主目的である鍵のかかっていないこの小屋で(まあ来る者は拒まない山小屋としては当たり前のことだが)、人が普段よりも多く訪れるであろう黄金週間中に泊まるということは、そういうヘンな人が来る可能性もほんのわずかでもあるかもしれない、という危機感は持つべきであった。そのへんの注意力が足りなかったように思う。

普段の生活による各種しがらみから抜け出して自然を愛でる登山でわざわざそんな俗っぽいことは考えたくないが、ここは人ひとりかふたりしか通れないくらいの幅の土道で、歩いてしか来れない比較的急傾斜の登山道というわけではなく、舗装路のそばにある小屋なので、車両を利用してあらゆる人が断然来やすい状況になっている。もしどうしても山小屋に泊まるのであれば、確率的には比較的安全というか、より本気で登山する人しか来ないであろう前者のような場所にある小屋で泊まったほうがよいし、野宿経験があれば人気のない場所を慎重に選んでテント泊またはツェルトビヴァークするという方法もある。そんなふうにして、今回のヒュッテのような場所を使わずに済む山行計画を立てるべきである。

もちろん、基本的には「登山が好きなヤツに悪いヤツはいない」と僕も信じているが、それでも(登山が好きか否かにかかわらず)山に来る人はすべてが善い人ではない、ということは頭の片隅に置いておいたほうがよく、僕もそうしている。僕がよく行く東京都西部の奥多摩でもここ数年、長沢背稜(東京都と埼玉県の県境)や、毎年10月に開催される山岳耐久レース・長谷川恒男カップのコース上にある御前山・鋸山あたりの避難小屋周辺に、強盗と言うほどではないが寸借詐欺のようなことを繰り返す怪しい男がいる、という悪い噂が立っていたりするので、その近辺に行く場合は自己防衛のためのナイフを携行して特に気を引き締めている。ただ、長沢背稜あたりは、今回の事件現場の古峰ヶ原高原ヒュッテよりもかなり山奥のほうにあって歩いてしか行けない場所なので、そこまで登り詰めてわざわざ犯行に打って出るというのは、相当魂胆が曲がっているのだなと思うとともに、よくやるわ、と少しは感心もする。
昨日の事件発生当時は夫婦以外に泊まっていた登山者はいなかったようだが、もしほかに誰かいれば助けを求められて誘拐なんていう大事にはならなかったのかもしれないが、残念ながらやはりこの夫婦が人が多く来そうなこのヒュッテに、しかもさらにその率が高まるこの時期に何の疑いもなく泊まる、という危機管理意識の低さからくる行動がまずかった。

山でも街でも、人気の多少にかかららずどこでも共通することだが、そういった悪いことを犯すヤツというのは基本的に、犯行後に捕まらないためにあまり目立たない黒っぽい格好をして、サングラスや帽子や目出帽でできるだけ顔を見られないように努めて、しかもクルマやオートバイのような速い逃げ足を持っているもので、そういう意味では今回の古峰ヶ原高原ヒュッテのような車両が近くまで入れる場所での、荒天時以外の宿泊は避けるべきだ。ただ、荒天時であれば、今回の犯人のようなアホなヤツもわざわざやって来ないだろうから、そんな非常時にはまあ泊まってもよいかもしれない。僕も悪天のときにその場にいれば利用するだろう。
僕は長野県・山梨県境の八ヶ岳や群馬県・新潟県境の谷川岳のような比較的登山者の多い山域以外の、山へアプローチするさいの交通がやや不便でそんなに登山者が来ない人気薄の山を登るさいは(僕は入山者が少ないこういう山が特に好き)、そこにクルマで来ていて、黒っぽい格好をして、頭や目のあたりを隠している人というのは基本的に疑うことにしている。まあ登山以外の、クルマの交通量の多い車道を進む徒歩旅や自転車旅でも、各ドライバーのハンドルの持ち方や歩行者・自転車に接近するさいの速度の調整の仕方などをよく疑っているけどね。

この事件に少しは関係するかもしれないこととしては昨日、僕が行った埼玉県日高市の白金平(しろがねだいら)付近にも、「防犯上夜間の利用は危険です」という日高市や飯能警察署の署名による注意喚起の看板があったが、ここまでの道もある程度舗装されていてクルマやオートバイでも容易に進入できるところで、たしかに真っ暗になる深夜では危ないかもしれない、と思った。現に、この展望台とその周辺にはタバコの吸い殻やロケット花火やエアガンの弾(BB弾)が散乱していた。良く言うとやんちゃな若者、悪く言うと集団になると恐いもの知らずのガキどもが多くやって来て、そういうものを散乱させながらたむろするのに最適の場所であった。
この事件報道によって、登山をたしなむ登山者としてはより気をつけなきゃならんよなあ、と気を引き締めることにはつながったかもしれないが、逆に今後なんらかの悪だくみを考えている者としては、この事件を真似る摸倣犯が今後増えるかもしれない、とも気になった。

まあ登山者の場合、山中で行動するさいは大概は調理や非常時に使うためのナイフや、熊が多い北海道や東北地方では熊対策の唐辛子入りスプレーを携行することがあり、もし人に襲われた場合でもそれらを使って自己防衛することはできるが、それらがない場合は大変だな。最近、街なかの防犯グッズとしてよく出回りつつあるスタンガンのようなもの山にも携行しなきゃならんのかなあ、自然を満喫するため登山でそんなことを気にしなきゃならんとは寂しい時代になったなあ、と思ってしまう。
ひと昔前の「山賊」とは少し質が異なり、動機や行動が幼稚で予測不可能なわけのわからん犯罪者が山でも増えるのは嫌だなあ。でも多くの人が生きる社会ではこういう事件が実際に起こってしまっている事実を受け止めて、今後は少しはそれらへの対策を練らなければならないのかもしれない。

結局、犯人にクルマに乗せられて連れ回された妻が事件発生から16時間後の16時頃に無事に保護されて何よりであった。ちょうどその頃僕は、妻が保護された東武東上線の武蔵嵐山駅付近の20km南の地域を歩いていて、この事件は帰宅してから知ったのだが、僕も白金平でちょうどそういう犯罪の臭いのする場所を見てきたばかりだったので、そんな事件があったとは、と驚き、それと同時にこの犯人に対しては腹が立った。こんなアホなヤツはとっとと捕まえて、奈良県・和歌山県境にある大峰山脈の荒行のようなものに強制参加させて即刻改心させるべきである。この事件報道を受けて、登山をバカにしやがって、と憤った登山好きの人は僕だけではないはずだ。
やはりこの世の中で最も怖いのは、自然の猛威でも大型の肉食動物でもなく、あらゆる道具を使いながらこんなふうに他人をおとしめながら暴走する人間なんだよなあ。

訳ありの、埼玉県の「富士山」ではなく「冨士山」登山 

2006-04-30 23:55:08 | 登山
2006年4月30日、埼玉県日高市の冨士山(ふじやま)の山頂。浅間(せんげん)神社の祠がある。青いTシャツ姿で写っている僕が右手で触っているのが三角点。標高は221.2mと低いが、これが設置されているということは立派な山頂ということだ。


今日は久々に登山に行こうと1か月前から決めていて、早起きして神奈川県の丹沢あたりにでも行くつもりだったが、寝坊して、結局近場に行くことになってしまった。
しかも、午前中は急に家の風呂掃除をやる羽目になり、結局家を発ったのは12時過ぎになってしまった。
で、もうこの時間では行く場所が限られてくるので、前々から気になっていた、埼玉県日高市の富士山に行くことにした。

東武東上線とJR川越線を乗り継いで高麗川駅に行き、ここから北西方向にある富士山を目指す。黄金週間が始まり、普段の休日よりもクルマが多い。高麗川の河原でバーベキューをしている家族連れを横目に川に架かる橋を渡り、北平沢へ北上。気温は24度と暑く、歩いていると全身からブワッと汗が噴き出す。24時間前にいた埼玉スタジアム2002では長袖の上着が手放せなかったのだが、今日はTシャツ1枚でも行動でき、その落差を面白おかしく感じながら、ひたすらアスファルトを踏みしめる。

このへんはゴルフ場がいくつかあり、そこから帰ってくるクルマとたくさんすれ違う。車種を見ると、クラウン、セルシオ、ランドクルーザー、シーマ、Z、外国車など、やはり比較的高級なクルマが多い。それらを見ると、「ゴルフ=成金」の図式を勝手に連想してしまう。
これは偏見なのかもしれないが、山や里を切り崩してゴルフ場を造り、できてからは芝の維持管理に使われる薬などで土壌が汚れ、さらにはゴルフ場の大半は交通が不便な山間部にあるために利用客もクルマで訪れることによって、排気ガスが余計増える。つまり環境によろしくないということだ。だから、ゴルフを嬉々とした顔でやっている人はどうも好きになれない。それよりは、身体ひとつで楽しめる登山のような行為のほうが数段健康的で環境を意識できることなのに、と歩きながら思う。
横峯良郎・さくら親子のようなマイクロバス生活で出費を抑えていた、という事例もあるが、やはり現在のゴルフ人口の構成者の大半は、お金にものを言わせて、自分さえ良ければそれでいい、というような人々が多い印象がある。それは細い路地ですれ違う高級車の、歩いている僕(歩行者)をまったく気にすることなく、減速せずにその人間の横を疾走していくような気遣いのなさからもわかる。そういう自分勝手な振る舞いが多い政治家や官僚が特に好むのも納得。
現在のゴルフ人口は多すぎる。プレーできるのはプロ選手や、アマチュア選手でもハンデなしで1ラウンドのスコアは90以下で回れたり、ティーショットでは毎回ドライバーで200ヤード以上飛ばせるような、ある程度の条件を満たせる限られた実力者に絞っていき、それができない下手なヤツはコースに入れないなどの措置を取って、もっと淘汰されていくべきだ。それに今後の高齢化社会を考えると、同じ球を扱うのであればゴルフよりもゲートボールのほうが需要は高まってくるはずだから、ゲートボール場の整備にもっと力を入れるべきである。

舗装路で、高麗川カントリークラブ手前あたりからー緩やかに登りになり、ゴルフ場を西側に回り込むようにある道を詰めていくと、浅間(せんげん)神社の鳥居があり、ここでやっと土の道になる。
この土道を200mほど登り、途中で御師岩(おしいわ)という富士講が盛んだった当時の言い伝えのある岩を経由し、鳥居からものの5分もかからずに山頂に到着。25000分の1地形図「飯能」ではこの山の標高は221.2mとあり、ちょっと遠目から見ると山とは言い難い山容かもしれないが、そんな低さでもちゃんと三角点(四等)があり、一応は立派な山頂である。
ここは市販の道路地図や地形図では富士山と記されているが、登山道にある指導標と解説板によると、厳密にはこの山は富士山(ふじさん)ではなく、冨士山(ふじやま)という名称で、漢字も微妙に異なっている。僕はてっきり「ふじさん」だと思っていたので、ちょっと拍子抜け。
周りに咲いているツツジの赤色が映える。眺望は南のほうしか開けていないので、あまり面白みはないかも。汗を拭いながら水分を摂ったり、山頂の祠付近のゴミ拾いをしたりする。また、4時間前は家の風呂掃除に没頭し、普段使っているタワシのみならず捨てる寸前の歯ブラシも駆使して1時間半もかけて隅々まで磨いていた光景と、一方4時間後にはこの自然の只中にたたずんている落差にも面白味を感じながら、45分ほど滞在した。

下山して、さらに400mほど南にあるの白銀平(しろがねだいら)にも寄る。ここには展望台があり、360度見渡せる。だから眺望を楽しむだけなら冨士山よりもここのほうが楽しめる。スカッと晴れた日には新宿や筑波山も見られそうだ。それにしても、ここが「埼玉の自然百選」に指定されているというのは知らなかったなあ。

そして来た道を引き返し、南東方向に歩を進める。再び高麗川を渡り、JR八高線の線路を渡り、日高市役所のそばにある太平洋セメントの工場へ向かう。
埼玉県内でも屈指の大規模工場を有する、セメント業界大手の太平洋セメントのこの工場はやはり大きい。外周を歩いて半周したのだが、それに30分以上かかったくらいにとても広い。しかも積み上げられた砂利などがたくさんあって、機械も稼動していると周囲は埃っぽく、やや息苦しい。だがこういう地道な仕事がこれまでの日本経済を支えてきて、今後も現代人が生き長らえるうえでは必要不可欠な仕事かも、と思うとそのくらいは我慢しないとな、と思う。そんなことを考えながら周り、引き込み線跡を見ながら今度はまた北に向かう。

クルマの交通量の少ない道を選びながら進み、再び高麗川を渡り、城西大学とそこに隣接する明海大学を経由して、さらには東武越生線の川角駅近くにある埼玉平成中学校と埼玉平成高校を見てから、川角駅で今回の行程を終える。この辺りに着いた頃には真っ暗になってしまった。
今回は太平洋セメントの工場からなぜ高麗川駅に戻らずに毛呂山町のここまで来たかというと、実は今回最後に訪れた埼玉平成高校は僕の出身校で、久々にこの近辺の様子を確認したかったから。
現在は付属中学校ができ、校名も変わったが、僕が通っていた「埼玉高校」当時はこの付近はもっと人工物が少なく、道脇の側溝から蛙が飛び出してきたりもしたくらいにのどかな場所であった。まあ現在も中学校ができて区画整理が少し進んだ以外はそんなに変化はなく、単線で運行している東武越生線のほぼ15分おきに電車が通過する様子も変わっていない。高校を卒業してからも2、3年おきに散歩しに訪れているのでそんなに深い感慨はないのだが、それでもここに来るたびに12~14年ほど前に3年間、毎日往復2時間40分かけて電車通学していた当時を思い出す。悪く言えばド田舎、良く言えば里山っぽい小規模の自然に囲まれたこの地は、僕にとっては今後も特に思い入れの深い場所であり続ける。

今回の登山の内容全体を振り返ると、登山と言うよりは平地を10kmほど歩いて、舗装路主体のウォーキングという感じになってしまったが、まあ一応は登頂目的で家を出て、僕の登山するさいの最重要装備であるヘッドライト(ぺツル・ティカ)、登山用腕時計(カシオ・プロトレック)、カメラ(コニカミノルタ・ディマージュX20)を携行して歩いていたから、まあ登山ということにしておこう。そうなると、実は2005年10月以来6か月ぶりの登山だったのよね。なんだかんだでこんなに登山から離れてしまったのは高校生の頃以来で、“山屋”と言うほどではないけれどもいっぱしの「登山者」を自称している身としては大失態である。反省。
本ブログでは登山に関するネタをいくつか挙げておきながら行動が伴っていないというのはヘンな話なので、再びガンガン登らないとな、と意を新たにした。今回の登山のきっかけとなった、日本最高峰のほうの富士山も、2年連続で登りに行ければ行きたいが、ほかにもまだ登っていない山もたくさんあり、そちらを優先するとなると微妙だな。まあ富士山登頂をより多く狙うことはいつも頭のなかで常に意識しているけどね。

ちなみに、僕は今日のように昼頃から夜にかけて出かけて、一般的な登山者よりも行動時間を4、5時間遅らせる“オフピーク登山”が好き。「早発ち早着き」の登山の基本からは外れてはいるが、飛騨山脈や赤石山脈のような高峰は別として、よく行く近場の低山であればこのようなほかの登山者とあまり会わないようにする登り方もアリではないかと思う。こうなると夜間の行動もあるため、特にヘッドライトまたはヘッドランプは超重要装備である。日曜日に日帰りする場合は、テレビ『情熱大陸』や『やべっちFC』が観られる時間までには帰宅することを意識しながら、こういう登山も楽しんでいる。

野口健の清掃登山は評価するが、「アルピニスト」と呼ばれる現状に物申す(後)

2006-04-18 19:04:25 | 登山
2005年7月20日、富士山頂(と言ってもお鉢のことね)の山小屋のそばに夏季限定で設置された自動販売機。これを設置すると、登山や自然体験の経験があまりない人に、「飲み終わった空き缶やペットボトルはここに置き去りにしてもいいんだ」と勘違いされるので、いいかげん撤去してもらいたいよな、といつも思う。こんなものに始めから頼ろうとしている人は富士山に登らないでほしいよな、とも思ってしまう。


最近の野口健の存在は世間一般の人から見ると、自ら率先して行動して環境問題に取り組んで、社会に貢献していて立派な人だな、と比較的良い印象で評価されている。またお偉方で言うと、小池百合子環境大臣や石原慎太郎東京都知事からの信頼も厚い。野口が(日本人の名誉のために?)個人的に始めた清掃登山は、現在では富士山の世界遺産登録を目指す運動を活性化させたりもして、もはや社会現象とも言うべきところまで拡充してきている。
だがその反面、
「山の清掃をするための登山で、自分の登山隊のゴミも排出されることによってゴミの量が余計増えるだろうが!」
とか、
「そんな独善的な行動によって登山を物資輸送・キャンプ生活・ルート工作の面で手伝う人々(シェルパ・コック・ポーターなど)の生活に余計な負担がかかることを考えたことはあるのか?」
とか、
「他人のゴミを拾うのはよいが、清掃登山を行なう以前の登山では、自分の登山で出したゴミは適切に処理していたのか?」
という感じの論調で、山を攀じ登ることを追求し続けている、登山にどっぷりハマッているいわゆる“山屋”の人たちからは野口の清掃登山などの活動を快く思っていないという批判的な見方もあるのが実情で、実は僕もこれらの言い分のほうに7割がた賛同している。
まあ野口が言うには自前で組んだ清掃登山隊のゴミは適切に処理しているし、登山隊のスタッフとして参加した人たちのその後の生活を支援する「シェルパ基金」も設立していると言うが、その言葉をどこまで信用できるか、ということ。
と言うのも、外国暮らしの長かった野口がそもそも登山を始めたきっかけというのが、高校生の頃にイギリスの学校でケンカ沙汰で停学になったさいに自由な時間ができ、そのとき偶然発見して読んだ昭和時代のかの偉大な冒険家・植村直己(故人)の本に感銘を受けたから、ということで、登山を始めた動機がやや不純。また、野口自身も講演会で白状していたが、エヴェレストでの清掃登山以前の七大陸最高峰登頂を世界最年少で達成すべくがむしゃらに登っていた自前の登山では、体力的にも経済的にも最大の難関であるエヴェレスト登山の前の特訓の意味で登ったチョー・オユー(8201m)登山で酸素ボンベやその他各種ゴミやらを高所に置き去りにしてきた経験があり、七大陸最高峰登頂達成後はそれを猛省したうえでここ数年の清掃登山に真摯に取り組んでいるそうだが(これは各種講演会で毎回ネタにしているらしく、喋り慣れている感がある)、これも僕としては完全に納得はいかない。

ふつうはどんな状況であっても、山にゴミは捨てないでしょう。高所登山においての、1gでも身を軽くして登りたい標高8000m以上のいわゆる“超高所”では、目の前の手が届きそうなところにある山頂に「登頂」するという自己満足のために、世間一般の人道的にはよろしくないそういう行為を正当化させたがる心境もわからなくはないが、僕が仮にその立場に立ったことを想像しても、そこまでして登りたくはない。我々人間が自然のなかにお邪魔して遊ばせてもらっている立場なんだから、そんな状況であっても100%自分の自己満足のみで物事を完結せずに、自分以外の様々な事象とその影響もできるだけ気にしながら自然と正直に向き合いたいものだ(こういうことを書くと、「きれいごと」と言う“山屋”もいるんだろうなあ)。ゴミをデポ(仮置き)して往復してあとできちんと回収するのはアリだけど、そのまま回収せずに置き去りにしていく、という行為はナシでしょう。

野口は(本ブログの登山話でも触れているが)僕のようにこの世に生まれる前から根っからの自然好きというわけではなく、自己改革のために登山を始めて、悪く言い換えると自己満足に突っ走るやや売名行為的な胡散臭さが漂っているから、100%は信用できないんだよな(そのため、野口の一連の活動を「売名行為だ」と言う登山関係者も多い)。
それに、他国の登山隊にゴミ残しなどの日本人の行動のずさんさを「日本人のマナーは“三流”」と指摘されて腹が立ったのが清掃登山を始めたきっかけだということだが、自分もそれを言われる前はゴミを置き去りにしてきたという過去の悪い実績? があると、現在は清掃登山をマジメにやっています、と言ってもやや説得力に欠ける。ふつうは街でも自然のなかでもゴミ処理は適切に行なうべきで、社会人であれば「ゴミは適切に処理する、そこらじゅうにポイポイ捨てない」という感覚は備わっているはずなのだが。

まあこれは野口に限らず、近年急に環境問題だスローフードだロハスだなんだと騒ぎ立てるようになり、しかも「僕はエコロジーやリサイクルを気にしていますよ」などと横文字言葉を有言実行しているという感じでわざわざ多用しながら、しかも「アウトドア○○○」などの最近の環境ブーム? に便乗した感じで取って付けたような横文字の肩書きを自ら名乗ったりもしている世間の一見(いちげん)さん、というかプチ自然派の人すべてに当てはまることだ。ホントに自然のことが好きだったり環境問題に気を揉んだりしている人は、野外においての自然への足の踏み入れ方や環境の変化やゴミの排出などを気にしていても、そんなしゃらくさい横文字をいちいち多用したり、ああだこうだと講釈をかましたりはせずに不言実行で行動するものだ。ホンモノの山男・山女は山にゴミは出さない、もしくはゴミが落ちていたら黙って拾うものだろう、と僕は思っている。まあ登山に携わっていない人でも、ヘンなゴミの捨て方はしないはずなんだけど(街なかにおいての一般ゴミの分別のみならず、山林への産業廃棄物の不法投棄なども含む)。

でもまあ、それでも最近は清掃登山を1、2回こっきりで終らせるのではなく毎年継続することによってこの活動も市民権も得つつあり、世界自然遺産に登録されている青森県・秋田県の白神山地に毎年足を運んでもいる野口の山や自然環境の悪化を憂慮する本気度もわかってきたから、僕のなかでの“野口株指数”もここ数年は上向きになっているけどね。
2、3年前にも彼がエヴェレストから持ち帰ったゴミの数々を東京都世田谷区二子玉川の百貨店で展示する催しを見に行ったのだが、そうやって実際に拾ってきた結果も生で見ると、そこそこは評価できる。
でも、そんな清掃活動自体は認めても、数年前のコーヒーのテレビCMではないが、野口および各種媒体の記者などの頭のなかではいまだに「登山家」と「アルピニスト」の違いはわかっていないと思う。信仰の対象でもあった山への日本的な登山と(江戸時代は娯楽や求道、税の厳しい取り立てから逃れるための現実逃避の意味合いもあったようだ)、ゴルフやスキーのように多くの選手がひとつの枠のなかで切磋琢磨する個人スポーツという感じで発達した欧州的なクライミングとの、歴史や文化も含めたその成り立ちの違いが。
これはおそらく、登山に興味のない方にとってはどうでもよい表現かもしれないが、「登山家」という漢字か「アルピニスト」という横文字かということは、僕のような登山に人一倍興味のある人間にとってはもっと突き詰めて、厳密に精査していくべきことなのだ。
「呼び方なんてどっちでもいいじゃん。どっちも山に詳しい人、という意味では同じことなんでしょ?」
と簡単に片付けるわけにはいかない大問題なのだ。言葉の意味が大きく異なるからね。

登山に無頓着な人が報道媒体に従事しているさい、茶色で横幅のある昔ながらのキスリングを背負って、チロリアンハットやベレー帽を被って、チェック柄のシャツを着て、ニッカボッカーを穿いて、皮革製の重登山靴を履いて、身体を横に揺らしながらフウフウ言いながら樹林帯を歩く、という感じのひと昔前の登山者の格好が連想されがちな「登山家」という日本的な野暮ったい表現よりは、最近目立っている登山・野外関連道具を生産しているメーカー名で言うとカリマー、グレゴリー、コロンビア、ザ・ノースフェイス、パタゴニア、マーモット、マウンテンハードウェアなどの現代的な機能と色使いをふんだんに採り入れたザックや衣服や靴を身に着けて、岩稜帯を颯爽と駆け登ったり岩壁をスパイダーマンのように軽々と攀じ登ったりする「アルピニスト」という横文字のほうが、言葉の響きが段違いに良くてなんとなくカッコイイ、という思い込みから、肩書きの付け方もつい横文字になってしまうのだろう。だから、各種媒体に携わる人に対しては、野口のような比較的著名な人物や現代の登山事情を扱うさいはもっと気をつけてほしいよな、と各種媒体で野口に「アルピニスト」の肩書きが付いているのを見かけるたびに、腹が立って激怒するとまではいかないが、他人事ながらいつも気に障る。繰り返しになるが、野口は「アルピニスト」ではない。
そういった横文字は、純粋に山や岩を攀じ登ることにのみ集中している(いた)山野井泰史や長谷川恒男(故人)や鈴木謙造(故人)のような人物にのみ向けられるべき言葉なんだけどなあ。ただ現役バリバリの山野井の場合は、自分のことは山に関する深い思索もするという静的な意味合いもある「アルピニスト」よりは、それよりももっと動的な攀じ登る行為にこだわって取り組んでいる「クライマー」と呼ばれることを好んでいると、数年前の雑誌の対談でも言っていたけどね。
まあとにかく、媒体で登山の事象を本気で扱うのであれば、もっと登山事情を勉強してほしいものだ。まあその最大の勉強法というのも、実際に自分の意志で野外に一歩踏み出したり、日本でもここ数年は環境への意識が徐々に高まってきた影響からか、ここ1~2年は応募者が殺到し、2005年は3000人以上の参加者が集まるようになった野口主催の清掃登山のような大々的な催しに参加しなくても、自分ひとりででもゴミを拾いながら山を歩いたりすることなんだけどね。
ちなみに、野口は2006年は5月にネパールのマナスル(8163m。日本隊が50年前に初登頂した山)と富士山の同時清掃登山を行なうそうだ。「登山家」という偉そうな肩書きはなく、ただ単に「いち登山者」である僕が近場の山で登山を楽しむさいの標準装備として、山歩き中にゴミを拾うためのゴミ袋(何回か使い古して、捨てる寸前のスーパーのレジ袋やジップロックのようなもの)が5、6年前から含まれている。

野口健の清掃登山は評価するが、「アルピニスト」と呼ばれる現状に物申す(前)

2006-04-18 18:10:46 | 登山

近年、各種媒体で世界最高峰・エヴェレスト(8848m)や日本最高峰・富士山(3776m)の清掃登山で活躍している野口健を紹介するさい、人物紹介欄などに「アルピニスト」という肩書きが付いていることが前々から気になっている。
ちょうど1か月前の3月18日、東京都千代田区飯田橋の東京しごとセンター(ハローワークの豪華版のような施設)の地下講堂(上の写真参照)で、登山関連のNPO団体である「山の自然学クラブ」の設立五周年記念講演会という催しがあり、その特別講演者として小泉武栄(たけえい。東京学芸大学教授)とともに野口が登場するとのことで、行ってみた。
僕は野外・登山関連の分野で活躍している人物の講演会や各種活動の報告会などの催しに行って実際にその人に会ったり話を聴いたりするのが好きで、有名無名問わずこれまでにかなりの人数にお目にかかり、テレビや新聞や雑誌などの有名媒体だけでは伝わりにくいその人たちの個性を生で確認することを好んでいる。これも趣味のひとつかな。だが、そのなかでは比較的有名人の部類に入る野口については、テレビ出演の様子を何度か観たことはあるし、著書も一応読んでいて彼の登山履歴もそこそこ把握しているつもりなのだが、これまでに彼を生で見たことはなかったので前々から興味はあった。で、今回やっと彼の生喋りを聴く機会が巡ってきた。それを踏まえたうえで、かねてから気になっていた今回の主題に触れることにする。

「アルピニスト」とは、本来は20世紀前半に欧州アルプス山脈において登山という行為が活気付くなかで、「より高く、より困難な山を目指す」という主義のもとに、他の登山者よりもより高いレベルの登り方を追求し実現する、いわゆるスポーツ(競技)的な登山を行なって自分をより向上させていこうという意識が特に高い、この地域で言うところの「アルピニズム」を志す人を指す言葉である。
だが、現在の野口が行なっていることは環境問題に取り組むという意味での清掃登山が主で、ただ単に、というか純粋に山を垂直方向に攀じ登るという行為を徹底追求しているわけではない。だから、野口に山を攀じ登る“登攀者”という意味合いの「アルピニスト」という肩書きを付けるのは不適切である、と僕は以前から思っていた。「政治家」や「建築家」と同様に、彼はただ単に「登山家」(登山に詳しい人、その道に関連することでメシを食っている人。登山行為のみで食っている「プロフェッショナル」とは少し違う)と表現するだけで充分ではないか。

野口がエヴェレストから継続している清掃登山は、登山にそんなに興味はなくても環境問題には興味はあるということから、テレビ『素敵な宇宙船地球号』や雑誌『ソトコト』などの環境系媒体を特に好んでいるような人々を主に巻き込んで、年々その規模も拡大させて、環境問題を語るさいの代名詞的な手法になってきている最近の傾向を僕はそんなに悪いことだとは思っていない。むしろ野口が世界七大陸最高峰登頂(通称“セブンサミッツ”)以降にそういう活動を思い描き、実行にこぎつけた行動力は評価できる。まあこれは、彼は外交官の父の影響で外国暮らしが長かったために世界各国の人々の価値観に触れる機会が他人よりも比較的多く、日本国民古来の良くも悪くも保守的な体質に染まりきっていなかったからこその日本人離れした行動力による賜物なのだろうけど。また、このような活動が全国各地に広まって環境保全に関心を持つ人がもっと増えてほしい、と僕も思っていて、野口の存在や活動自体が大嫌いということでもない。
だが、このような活動を見ただけで単純に野口に「アルピニスト」という肩書きを付けるのはおかしい。清掃登山も一応山に関係することではあるが、これはいかに山を自分の理想の登り方で攀じ登るかに主眼を置いている「アルピニズム」からは大きくかけ離れている行為である。だって、活動の舞台は山であっても、やっていることは人間なら誰でもやる(はずの)「清掃」なんだから。まあそのさいはヒマラヤ山脈の8000m峰という場所が場所だけに、登山の知識や経験はそこそこ必要ではあるけど。

清掃登山を行なうさいは資金面でも人員面でもそれなりに大がかりになるため、スポンサーの獲得や広報などの事務的な仕事も含めて活動を軌道に乗せて継続していくのは困難だな、ということは素人目に見てもわかる。日本でも諸外国でも基本的にお金になりにくい(儲けがないということ)環境問題に取り組むのは大変なことで、野口も2000年から富士山やその北麓の青木ヶ原樹海の清掃に当初はまだ認知度が低かったために100人ほどしかいなかった参加者と取り組むさいに、山梨県と静岡県の関係自治体に協力を呼びかけると、
「(清掃活動で拾った)そのゴミは他所の○○村で拾ったものなんだから、そちらに持って行ってくれないかな。ウチに来てもらっても困るよ」
という感じで邪険に扱われ、(隣接自治体同士の)横の関係の連携を取るのは難しい、と話していた(現在は連絡協議会のような組織も立ち上がり、該当自治体の職員の環境への意識も高まり、改善されつつあるようだ)。
そのため身体的にも精神的にもかなりの力が必要な清掃登山に取り組むことは、大量生産・大量消費の資本主義下にある現代の日本社会においてはこれまでに前例のない冒険的な行為であって、その困難さに登山者の視点からあえて立ち向かい続けていることは「アルピニズム」に関係すると言ってもよいかもしれないかな? とは少しは思う。
だがやはり「アルピニズム」とは、そんな世間一般の人間のみで帰結すべき社会活動なんかからは大きくかけ離れた思想・行動形態で、ただただ真っ白な心と身体で自然のなかに分け入って対峙して、山を、岩を、雪や氷のなかを攀じ登り、各種スポーツのように人間の体力・精神力とその可能性の限界を押し上げるほどに(ある種狂気的に)追求し、動物本来の「野性」を取り戻すことを純粋に楽しむような“登攀者”や“登山者”にのみ当てはめるべき言葉である。
良くも悪くも下世話な世間にも首を突っ込んでいる(年々重大事になってきたことにより、ある程度は突っ込まざるを得ないというやむなき事情もあるのだろうが)野口に当てはめるべき言葉ではない。

「なぜ山に登るのか」のわかりやすい回答例が、マンガ『イカロスの山』第16話に

2006-03-27 02:15:06 | 登山
週刊「モーニング」で2005年秋から連載している登山マンガ『イカロスの山』(塀内夏子)の第16話で(『とりぱん』が表紙の先週発売号。巻頭カラー)、山好きの人が一般のそうでない人々からよく聞かれる質問である、

「なぜ山に登るのか」

のわかりやすい回答例が、この回に凝縮されている。

平地では2本足で一歩一歩ふつうに歩けることを当たり前に思っていても、山では坂や岩や木の根や沢や雪などの様々な障害があり、そういった不整地を進む行為では平地のように簡単に、自分の想定通りには進めないことのほうが多い。
岩を、雪を攀じ登る一挙手一投足に命が懸かっていて、何かの拍子に一歩踏み外すと滑落・墜落して死んでしまう可能性も多分にあることは、大自然のなかでしか感じることができない。それこそ極限の登攀をやっているクライマーにとっては、手の指先(第一関節)や足の爪先を数mm単位の精度で引っ掛けたり乗っかったりしなければ身体を支えられずに墜落して死んでしまうかもしれない、というギリギリの状況をくぐり抜けていかなければならないこともあるだろう。そういった死への意識と生への執念が、携帯電話の画面を凝視したり鼻クソをほじったりしながらも歩けてしまう平地の普段の生活なんかよりも数十倍も露になるからこそ、登山という行為は、

「(この世に)生きている実感」

をより強く得られるのだ。
そういう意味で、生活の重心が登山になっている、これを命懸けで本気でやっている人というのは、自然のなかで「自分の思いどおりにならない」こと、最近流行っている言葉で言い換えると「想定外」のことを比較的多く経験していることから、一般の人よりも総じて我慢強い、自分以外の物事にもよく気付く、他者への想いやりのある人なのではないか、とは思う。というようなことを以前、あるテレビ番組で(最近はすっかり毎年のヒマラヤ通いが板についてきた)レーサー兼冒険家? の片山右京も言っていた。右京の各種媒体での“山屋”的な発言はあまり好きではないのだが、多くの登山者の心情を代弁したこれに限っては「たまには良いこと言うじゃん!」と拍手を贈った。
現代を生きていることを真に実感できる機会って、普段の街なかでの便利で安易な生活ではなかなかないのよね。やはり人間はある程度の曲折を経て生きていかないと成長しないものなのだな、と最近よく思う。

最近、他人の命を何の理由もなく無差別に奪うような悲しい事件が頻発しているが(まあいかなる理由があってもやってはいけないことだが)、大自然のなかで登山のような生死の境に立つこともよくある行為を真剣にやっていれば、そんな命を粗末にする愚かなことはできないはずなのに、と事件報道を見るたびに毎回残念に思う。
今の便利な時代だからこそ、ホントの現実世界での自分の小ささをわきまえることにつながる登山のような行為は、昔も今も誰が何と言おうが生きていくうえで大切な行為なのだな、とこのマンガを読んでいて改めて気が引き締まった。

この作者の塀内夏子というと、一般的には以前、週刊少年マガジンで長期連載していたサッカーマンガ『Jドリーム』の印象が強いのだろうが、高校時代はワンゲルで活動していたということから、『おれたちの頂』のような山マンガも描いていた。山に向かう人の事細かな心理や自然のたたずまいを経験則で描ける女性マンガ家は珍しいので、この連載の今後の展開はとても楽しみにしている。塀内以外に山のことをきちんと描けるのは、あとはくじらいいく子と藤臣柊子(しゅうこ)だけだな。まあ藤臣姉の場合は、自身の体験を綴ったエッセイマンガなんだけど。登山は男だけの世界ではないから、今後は女性目線も必要になってくるので御三方には期待したい。
先週、単行本の第1集が発売されたが、第16話はおそらく次回の第2集に収録されるだろうから、そちらを読んでみてもよいだろう。最近はマンガ喫茶でバックナンバーも読めるか。まあとにかく、この第16話だけでもより多くの人に読んでもらいたいですな。

で、この項の元ネタである、「なぜ山に登るのか?」といえば、ジョージ・マロリーが1923年にアメリカの新聞の取材のなかで、当時はまだ未踏峰だった世界最高峰・エヴェレストの登頂を狙っていた彼がなぜそれを登るのか、という質問に対し、

「Because It’s there.(なぜならそこにそれがあるからだ)」

と回答したことが有名。だが、この言葉のitの部分は、それ=エヴェレスト、と限定的で狭義の意味で答えていたようだ。しかし、後にこのやりとりが日本に伝わったさいにマロリーのこの回答を、

「そこに山があるからだ」

とitが「山」という広義の意味で拡大解釈されて、それがそのまま現在に伝わってしまっている。
最近でも、あまり登山のことを知らないであろう一般の人が「なぜ山に登るのか?」という問いに対して、「そこに山があるからだ」とこれ見よがしに言ったり書いたりしているが、元ネタの正解は「山」ではなく「エヴェレスト」ですから。残念!! 引用はちゃんとやりましょうね、と僕個人的にはこの誤解釈を見聞きするたびに落胆してしまう。この言葉だけひとり歩きしている現状には違和感を覚える。

ところでこのマンガを読んでいると、主人公のひとりの三上俊哉のように、一度は本気で取り組んで、ある種病気かというくらいまで熱中した登山を“降りた”けれども、後年にふとしたきっかけで再開した、という昔取ったナントカな人はどのくらいいるんだろう? と最近の中高年登山ブームをつい気にしてしまう。まあその想いを仕事やら家庭やら何らかの事情のために封印しておくか、きっかけはどうであれ再燃させるかは人それぞれだが、まあとにかく自分の心に正直になって判断してほしいものだな、とは思う。(本ブログの開設当初に書いたが)登山を「始める」とか「止める」という感覚がなく、これは人生のなかで当然続けていくものだと思っている僕としてはちょっと気になるところではある。

ちなみに、この「生きていることを実感」という概念は、本ブログのもう少し後のほうでじっくりと突き詰めていこうと思って温めていたのだが、このマンガに先を越されてしまった。でもまあ、登山のことがよく解っている塀内のマンガであればまあいいか、とこの回で僕が常々思っていることを代弁してくれて嬉しい。こういう僕の援護になるような明快は表現は、今後も見つけ次第随時報告していくことにする。僕のまわりくどい駄文よりはわかりやすいしね。

登山話の前に、その実力の話

2006-02-11 09:47:35 | 登山
2005年2月12日、南八ヶ岳・硫黄岳の頂上直下。左奥の山が八ヶ岳連峰最高峰の赤岳、その右が阿弥陀岳。このときは風が強かった。


このブログのカテゴリのひとつとして「登山」という言葉を設けて、登山についてのネタを取り上げていく前に、僕の過去から現在の登山の経緯と特徴ががわかっているほうが読者の方々も判断しやすいだろうから、ということで記してみる。

●登山歴について、野外活動歴について

自己紹介でも少し触れたが、両親が(特に父系の親族が)登山と旅が好きということで、幼少時から埼玉県とその近郊の山や観光地に家族で出かける、というか無理矢理連れて行かれることが多かった。例えば、奥武蔵、秩父、奥多摩、丹沢、日光あたり。埼玉県・川越や東京都・浅草や神奈川県・鎌倉のような一般的な観光地よりは、そういった自然味たっぷりの場所に行くことのほうが多かった。また、小学校低学年からボーイスカウト活動に参加していたのだが(現行の「ビーバースカウト」ができる少し前から。このへんの細かい話がわかる人って全国にどのくらいいるのかな?)、そのプログラムの一環として日帰りで標高は低めの山を登る機会も数回あった。
ただ、山に行く機会は少年野球・サッカーや塾通いにいそしむ同級生よりは数段多かったが、中学生頃までは登山という行為があまり好きではなく、それよりは山の麓や河原などでテントを張って、焚き火で食事を作って食べて、寝袋で寝て、というただ単にキャンプ(野外生活)することのほうが好きだった。その理由は簡単で、幼少時から肥満体型である僕は、体重があって身体への負荷があるため他の人よりも登るペースが遅く、足手まといになることがよくあり、山を登るという行為が苦手だったから。自然のなかに身を置くことは大好きなのだが、誰に頼まれたわけでもないのにわざわざ高みを目指すという行為には子ども心にもやや違和感があった。
しかし、中学2、3年頃のボーイスカウトの活動で、先輩が活動から抜けて自分が最上級生になったことで、班長になって後輩の面倒を見るようになってきたなかで(1級章か菊章の頃ね。このへんの言葉もややマニアックか?)、プログラムの計画・遂行に大きく口を挟める立場になってきた。そして、どこにキャンプをしに行くか、どの山を登るか、などと自分たちの年代が中心になって野外活動を進めていくようになり、そうやって自発的に意見して計画を練って行動するようになってからは登山という行為も俄然面白くなってきた。それ以前は両親に引っ張り出されたり先輩やリーダーが立てた計画に乗っかったりするカタチで受け身で参加していた状態とはえらい違いで、それまでに抱いていた違和感もいっぺんに払拭された。

「自分がやりたいことを、自分の意志で決めて、それを実行する」

という、遊びや勉強や労働にかかわらず限りある人生のなかで何事をするにしても最も大切なことを中学生という多感な時期に気づき、悟った。こんな楽しみを知ってしまったそれ以降は、登山にハマッていった。そして、高校に進学してからはワンダーフォーゲル部に所属し(それと同時進行で「シニアスカウト」でも活動していた)、自分で行きたい場所の希望を出して自発的に積極的に活動に参加するようになり、その後に大学に進学してからも続けてワンダーフォーゲル部で活動するようになった。
生徒が進路を決めるさい、一般的には自分の得意な科目や将来の進路に役立つ資格の取得に力を入れている学校で自分をより磨きたい! とか部活動が盛んな学校で全国大会を目指したい! ということが決め手になることが多いが(先々のことを考えて高偏差値の学校を目指したり、女子だったら制服のデザインの好みで決める、というのもあるな)、僕の場合は高校でも大学でも、「山岳部かワンダーフォーゲル部がある学校」というのが最大の決め手になった。本来重視すべき勉学の内容よりも課外活動を優先した。まあこれは、僕の得意科目である地理にも深くかかわる行為だからということもあるけど。
だから、自発的ではない野外活動歴は生まれてから現在まで30年近く、というか僕のこれまでの人生すべてに当てはまるが(つまり年齢と野外活動歴は等しいもの、※1)、登山歴に限っては、自発的に登山するようになった高校のワンダーフォーゲル部に15歳で入部したときからの年数で計算している。登山系月刊誌『山と溪谷』などのアンケートでそれを聞かれた場合は、その年数で答えている。つまり2006年1月現在、登山歴は15年になる。

●現在の登山の実力

この項では、登山の専門的な用語が続いて登山にあまり関心のない方にはつまらない内容になるかもしれないが、僕の現時点での登山の力量を厳密に記したい。
登山形態は、複数人でパーティを組むよりは、ひとりで山に入る「単独行」のほうが好き。山の登山口の案内板で「単独登山はやめましょう」という注意書きをよく見かけるが、自分の体力・精神力の限界をわきまえていて自分の行為を常に客観視できていれば、一般ルートの場合は問題ないと思う。そこからあえて外れるルート(ヴァリエーション・ルート。コンビ二エンスストアを「コンビニ」と呼ぶように、登山に詳しい人には「ヴァリエーション」だけで通じる)を行く場合はもしもの場合の連絡手段(携帯電話やトランシーバーやアマチュア無線)や救援体制を、一般ルートを行く場合以上に厳密に考えないといかんけど。
複数人で行くさいに他人に気遣うぶんの労力を、ひとりで行く場合には地形や気候や生物などの周りの自然の有様を感じることにそっくりそのまま使える。ひとりのほうがあらゆる物事を自分の納得いくまで体験できるのが良い。まあこれは登山に限らず、方々の土地を旅するさいにも当てはまる理由だけど。また、垂直移動の登山という行為も、水平移動の「旅」を形成する過程での行為の一部であると捉えている。
よく行く山域はやはり地元の埼玉県から近い奥武蔵・秩父・奥多摩・奥秩父が多い。奥武蔵・秩父であれば西武池袋線、奥多摩・奥秩父であればJR青梅線・五日市線・中央本線(東線)をよく利用する。ほとんどの駅で登山目的で乗降したことがある。また、山の標高は問わず、標高100~200mくらいの家族向けの(保育園児・幼稚園児でも歩ける)ぽてぽて日帰りルートを行く登山や山麓歩きも好きだし、飛騨山脈や赤石山脈のような標高3000m以上の寒風が吹きつける稜線上で体感気温が平地よりも10℃近く下がって常に鳥肌になって、この世に生きていることより強く実感することになる、「生きるために登るのだ! 登らなければ生き延びられないのだ!!」という感覚で行くやや厳しめの登山も好き。
また、登り方は基本的に起点と終点が異なるルートを一方通行的に行く「縦走」が好きで(この方法が旅っぽい)、起終点が同じになる往復・周回登山はなんとなく味気ない気がする。ヴァリエーションについては、一応、埼玉県・日和田山や神奈川県・鷹取山のゲレンデで岩登りの練習はたまにやるが、いわゆる“本チャン(本番)”ルートは単独では行かない(誰か一緒に行ってくれる奇特な人がいればやる気はあるけど)。あとは、年に1、2回は1級レベルの日帰りの沢登りもやる。ただ、これも基本的に単独行なので、ルートの選定と天候の判断にはかなり慎重になる(ルート図集で落差10m以上の滝がない沢を選ぶ。一応、懸垂下降で下れるように補助ロープは携行する)。複数人で行く難しいルートにも憧れるが、今は1級の沢でも満足できる。
ここまでは無雪期のことで、積雪期のほうはと言うと、これも基本的に縦走登山。雪山でもアイスバイルとアイススクリューを使うようなヴァリエーションは敬遠している。ただ、最近は少し興味を持ち始めたので、道端で凍った小滝なんかを見つけるとそこでピッケルの打ち込みやアイゼンの前爪の蹴り込みの練習をすることもある。でも、同行者がいないと積極的にはやらないかな。
雪山のわかりやすい事例で言うと、山梨県・長野県境の八ヶ岳では、北八ヶ岳の北横岳~東天狗岳間のような森林限界ギリギリくらいの場所の縦走が好き。文三郎尾根か地蔵尾根、つまり一般ルート経由で赤岳(2899m)に登頂することはできるが、硫黄岳~横岳~赤岳間の通過や赤岳主稜や阿弥陀岳南稜などのルートは単独行ではかなり怖い。複数人でロープを結んでスタカット(隔時登攀)かコンティニュアス(同時登攀)で行くのであれば行けるだろうけど、というレベル。これだけ書けば登山にハマッている人、いわゆる“山屋(ヤマヤ)”の人には僕の力量がわかってもらえるだろう。初級者から中級者の段階にそろそろ入れるかどうかというくらいの、客観的に見るとあまりたいしたことはないレベルかな。社会人山岳会に所属してレベルアップしてより困難な山を目指すという手もあるが、現状(無所属)のままでもそこそこ満足できる。こう書くと毎週末欠かさずに山に向かっているような真性山屋の人には怒られそうだが、この中途半端さでも楽しいことは楽しいのだ。
それに僕は元々は、植村直己(故人)や田中幹也のように、人跡まれな北極圏を犬ぞりで進んだりカナディアンロッキーを山スキーなどで踏破したりするような水平移動に興味があり、また、野沢井歩(故人)や栗秋正寿のように、旅の延長線上の遊びの一種という位置付けで登山を楽しみ、目標の山への過程やその周辺の歩きも重視した“山旅”が好きだ。登山以外にも徒歩で、そして自転車やスキーやカヤックなどを活用した旅もまんべんなくやっていきたい。よって、今後も山岳会には所属せずに、登山だけには偏らずにあらゆる手段で旅を続けると思う。基本的になんでもやっておきたい欲張りな性格なので。今後の登山話はこのくらいの力量をもとに記していくことにする。

●「日本百名山」で挙げると

それから、最近はおそらく登山にあまり興味のない人でも聞いたことのある、比較的わかりやすい「日本百名山(※2)」で僕の登山を補足してみる。
僕は最近の中高年登山ブームの一助となっている日本百名山巡りの風潮が嫌いで、山頂でたまに年配の人たちが、
「あんた、日本百名山はいくつ登った? オレは○○(数字)登ったよ」
という感じで山を収集物のように扱うのが大嫌い。「日本全国、ほかにももっと山はあるだろ!」とつい腹立たしく思ってしまうのだが、先月17日に最高裁判所でも死刑判決が出た宮崎勤被告が5800本近いビデオテープを逮捕当時に所有していた話ではないが、多くの日本人はあらゆるモノや事象を所有したがる収集癖があって、しかも新聞やテレビのような大きな媒体によって流布されているわかりやすい情報にも飛びつきすいので、ある程度はそういう傾向になるのは仕方ないのかなと落胆しつつ、その加熱ぶりを冷ややかに見ている。
だから、僕は山を登るさいには日本百名山に選定された山にこだわっているわけではないのだが、一応参考までにその100座のなかで僕が過去に登ったことのある山を以下に列記しておく。これも登山にはあまり興味のない、もしくは少しは興味を持ち始めた人が、僕が登山をやっていることを知ると、
「日本百名山はいくつ登った?」
という質問をしてくることが多いので、それに回答するカタチになる。「日本百名山」という言葉だけは一般的にも有名で、ひとり歩きしている感があるよな。
山名のあとの丸数字は登った全回数で、その次の数字は全回数のうち単独行で登った回数、さらに次の数字は全回数のうちアイゼンやピッケルなどを使ってあえて積雪期(11~4月くらい)に登った回数。

・北海道         利尻山    ①・1・0
・青森県         八甲田山   ①・1・0
・群馬・新潟県     谷川岳     ③・0・1
・栃木・群馬県     日光白根山  ①・0・1
・群馬県         武尊山    ①・0・1
・茨城県         筑波山    ②・1・0
・長野・富山県     白馬岳     ①・0・0
・長野・富山県     鹿島槍ヶ岳  ①・0・0
・富山県         立山      ①・0・0
・富山県         薬師岳    ①・1・0
・富山県         水晶岳    ①・0・0
・長野・富山県     鷲羽岳    ①・0・0
・長野県         槍ヶ岳    ①・0・0
・長野・岐阜県     奥穂高岳   ①・0・0
・長野県         美ヶ原    ①・0・0
・長野県         蓼科山    ①・1・0
・長野・山梨県     赤岳      ③・1・2
・東京都・埼玉県    雲取山    ④・2・3
・埼玉・山梨・長野県  甲武信ヶ岳  ②・2・0
・山梨・長野県     金峰山     ③・2・1
・山梨県         瑞牆山    ③・1・1
・山梨県         大菩薩嶺   ②・1・2
・神奈川県       丹沢山     ③・1・1
・静岡・山梨県     富士山    ②・2・0
・静岡県         天城山    ①・1・0
・山梨・長野県     甲斐駒ヶ岳  ①・0・1
・山梨県         鳳凰山    ①・0・0
・山梨県         北岳      ①・1・0
・静岡・山梨県     間ノ岳     ①・1・0
・鹿児島県       宮之浦岳   ①・0・0

各種媒体で頻繁に取り上げられている日本百名山の、しかも登りやすい一定のルートばかりに登山者が集中することによって、登山道とその周辺が踏み荒らされて裸地化が進んだり、ゴミが多く残されて景観が悪化したりすることが増え、ここ数年は山が徐々に傷ついている様子をよく見かける。
一般的なルートとは違うルートをあえて目指すとか、登山道への影響が比較的少ない積雪期に登るとか、登り方を工夫して、百名山以外の山にも向かうようにして、百名山に選定されている山をいたわるようにしないと、そのうち自然の猛威などによる何らかのしっぺ返しがその数倍の威力で来ると思う。
人間のわがままによる健康維持や社交の場や人生の目標としてそれらの山々が踏み台にされてむやみに消費されている現状は、生粋の自然好きの僕としてはやはり悲しい。登山が好きになるのはいいけど、自己満足で終らせるだけでなく、もっと広い視野を持って取り組んでほしいよな、と近年の中高年登山ブームを常に気にしている。


補足

※1 登山も、自発的ではない活動も含めた僕の野外活動歴を突き詰めて考えると、元々は両親は僕が生まれる以前からそういうことをやっていたので、DNAの段階から野外に出かけるものなのだ、とあらかじめ刷り込まれているというか遺伝している状態である、と思う。
それによって、僕は幼少時から野外で遊ぶことが当たり前のことになっていて、世間一般の人がよく言う、余暇時間に「趣味」としてキャンプや登山を楽しむ、という感覚とは違う感覚で捉えている。具体的には、多くの人はキャンプや登山を始めるさいは「始める」、止めるさいは「止める」と宣言することがあるが、僕にはそんなオンとオフの観念がない。始める、始めないとか、好き、嫌いとか言う以前に現世に生まれた段階、いや母親の胎内にいるとき、いやそれよりもっと以前から(これ以上詳述すると下ネタになるので控えておく)、そういうことを必ずやるものだと決定されていてすでに始まっていて、最期までそれを止めることはなく、食事・睡眠・排泄などの日々の生活のなかで必ず行なう行為と同様に野外で遊ぶことも生きていくうえで当たり前にやっていく行為である、と認識している。僕にはこんな観念が元々備わっているからこそ、このブログの序盤に書いたように旅も「仕事」である、という主張につながるのだ。
これは僕のように親が野遊びをやっていた人独特の感覚だろう。簡単に言い換えると、何らかの家業を先祖代々受け継いでいる家庭と同様に、僕が育った家庭では旅や登山のような野遊びが各種家業と同様に受け継がれているものになっている。現代社会においての社会貢献度は他人よりもかなり低くなるのだろうが、そんな家庭に育ってしまったのだから仕方ない。

※2 作家・深田久弥(故人)が、山の標高や個性・品格(富士山のような遠目からの外見の美しさ)、その周辺の歴史を重視して全国各地の無数の山のなかから100の山を選定した。ただ、その山名を見ると、大概はその地域で最も標高の高い山であることが多く、特に本州の中央部にある飛騨山脈・木曽山脈・赤石山脈の標高2800m以上の高峰はそのほとんどが挙げられている。
また最近は、数年前からNHKのテレビ番組を通じて中高年層を中心に一般に広く知られるようになった登山家・岩崎元郎が、自身が還暦を迎えたことを機に2005年に日本百名山とは異なる「新日本百名山」を選定した。これは47都道府県すべてから1山以上を選定するという条件を設けたうえで選定した。全国の人に地元での登山を楽しんでもらいたいということからの措置のようだが、近年、一般的に知名度は高く各種媒体での扱いも大きな日本百名山に登山者が集中して特定の山の特定の登山道がオーバーユース状態になっているのを分散させる、という目的もあるだろう。
『日本山名要覧』(武内正、白山書房)によると、日本国内には約1万8000もの山があるそうで、たかだか100の山だけにこだわっているようでは視野は狭くなってつまらなくなるし、僕も標高が高くて有名で登りやすい山だけが山ではない、もっと面白い山も多々あるはずだ、と常々思っている人なので、千葉県や大阪府や沖縄県のように標高の高い山がない地域からも山を選定しているその新基準には賛同できる。