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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 20 説経念仏大道人崙山上人之由来 ④

2013年05月13日 19時53分57秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ろんざん上人④

 さてその後、更に哀れであったのは、ろうれつ(金国)の老母でした。御台所と玉若

が、父を訪ねて旅立った事を、夢にも知りませんでしたが、その日の夢見が悪かったので、

その話をしようと、北の方を訪ねました。ところが、御台所も玉若も見当たりません。

あちらこちらと探しまわりましたところ、一通の文があるのを見つけました。一体どう

いうことかと、急いで開いてみると、こう書いてありました。

「私は、このまま朽ち果てても構いませんが、不憫なのは玉若です。朝夕に父のことを

思って嘆く姿を見るにつけて、心も乱れ、悲しみに暮れていましたが、不思議の霊夢を

見たのです。金国殿は、東路にあるとの瑞夢を頂いたのです。そこで、東を訪ねること

にいたしました。やがて、目出度く巡り会って、連れて帰り、母上を喜ばせる所存です。」

老母は読むなり、むせ返り、文を胸に当て、顔に当てして、声を上げて、泣き崩れました。

そこに、霜夜(しもよ)の局という、金国の乳母が様子を見に来ました。霜夜は、老母

の有様を見て、

「何があったのですか。」

と聞きました。老母は、涙ながらに事の次第を話すのでした。

「のう、嫁御前と玉若は、金国の居所を聞いて、右も左も知らぬ東路に旅立ってしまいました。

私はもう老い木。いつ果てるとも知れませんが、命も惜しくないので、後を追って、東

路へ参ります。」

聞いて局も、決心し、

「その様にお考えでありますなら、私もお供致しましょう。人に気が付かれない内に、

出立いたしましょう。」

と、早速に東路へ旅立ったのでした。

《短い道行き略》

やがて、二人は、小田原までやってきました。そこへ客僧が二人通り掛かりました。

その客僧は、こんなことを話しながら通り過ぎたのです。

「それにしても、哀れな話じゃな。所の者の話では、なんでも、旅人が、幼い子供を

残して、後ろの山中で死んだそうだ。人の命は、分からんのう。南無阿弥陀仏。」

客僧達は、山に向かって弔うと、去って行きました。これを聞いた老母は、

「のう、局。これはひょっとして、嫁御前のことではあるまいか。子供も居ると言うし、

遙々と下った甲斐も無く死んでしまったか。」

と泣き出しました。局は、

「広い世の中のことですから、御台様のこととはかぎりません。」

と、老母を慰めて、山中に分け入ってみますと、確かに新しい塚があり、高札が立てて

ありました。二人が駆け寄って見て見ると、こう書いてあります。

「ここで、二十歳ぐらいの女が、八歳の子供を残し、旅に疲れて亡くなった。子供に

尋ねても、国も郡も分からないので、ここに葬る。子供の名は玉若。所縁の者があれば、

在所の者にお尋ね下さい。寛永三年寅三月五日。」

老母も局も、はっと驚き、そのまま塚に抱き付いて、おいおいと泣くより外はありません。

「さても、さても、尋ねる夫にも逢えないままで、さぞや最期に思いを残したことであろう。

この母が、お前や孫の後を追って来たと言うのに、空しい塚を見る事になるとは。せめて、

孫若を形見と見ることができたなら、こんなに悲しまなくても済むのでしょうが、金国

には捨てられ、孫とは生き別れ、嫁御に先立たれるとは、後に残った老いの身は、どう

すれば良いのですか。」

 為す術も無く、泣き暮れていますと、在所の者が、玉若の手を引いて、三日目の塚詣

でにやって来たのでした。老母と乳母は驚いて、

「それなるは、玉若かあ。」

と、駆け寄って、互いの袖に取り付きました。喜びの余り、言葉もありません。只、泪、

泪の再会です。玉若は健気にも涙を抑えて、

「のう、母上は、冥途という所に行ってしまわれました。」

と、事の次第を語ると、安心したのでしょうか、そのままそこに寝入ってしまいました。

そうして居るところに、別の里人がやってきました。目を醒ました玉若は、

「この方が、母を埋めて下さいました。そして、所縁の人が現れるまで家に留まるよう

にと仰って下さり、これまで面倒を見ていただいていたのです。お礼を言って下さい。」

と老母に話しました。老母は涙ながらに、

「それはそれは、このように養育いただき、何ともお礼の言葉も有りません。有り難う

ございます。私たちも、この者どもの後を追って参りましたが、このような憂き目を

見ることになりました。」

と言うのでした。里人は、

「誠に、労しい限りですが、あなた方は、どうやら身分あり気なご様子です。宜しけれ

ば、子細をお話下さい。」

と尋ねました。老母は、

「この上は、隠すことは何もありません。私どもは、大和の国、葛城の下の郡から参りました。

但馬の守金国と申す者の母です。我が子は、三年前に、夢の中で頓死をして、不思議な

霊夢を体験しました。それから遁世してしまい、東に向かったと聞きました。嫁御前は

夫を探してここまで来ましたが、この様に、先立ってしまったのです。」

と、話すのでした。その時、里人は飛び上がって驚くと、

「さては、金国殿の御母上でいらっしゃいますか。私のことを知らないのも当然ですが、

私は、この辺の頭領で、稲垣與一と言う者です。私も、三年前に不慮の頓死をいたしまして、

三悪道へと堕罪しておりましたが、金国殿に助けられて、再び娑婆へ戻ってきたのです。

一刻も早く、御礼に参るべき所ですが、病があってままならず、又、人を遣わしても

みましたが、行方が知れませんでした。それで、お伺いすることができなかったのです。

そうですか、遁世されたのですか。まあ、しかし、こうして皆様方とお会いできたのは、

私の心底が通じたのでしょう。有り難いことです。さあ、我が家へおいで下さい。」

と、喜ぶのでした。その後、新しい庵を結んで、人々を手厚く持て成したのでした。

何とも頼もしい限りです。

つづく


忘れ去られた物語たち 20 説経念仏大道人崙山上人之由来 ③

2013年05月12日 19時58分01秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ろんざん上人③

 ここに、哀れを留めたのは、大和の国、葛城にいらっしゃる、金国殿の御台所と老母

です。

金国殿が、突然に居なくなってしまったので、死に別れたように、悲しみに沈んでいます。

家来の栗川は、主人を探し出そうと、旅立って行きました。御台様は、幼い玉若に向かって、

泪ながら、こう口説きました。

「如何に、玉若よ。お前も、もう八歳となりました。どうか、父の行方を捜し出し、母

の気持ちを安らげて下さい。」

玉若は、これを聞いて

「愚かな母上様。言われるまでもありません。八歳にもなって、父の行方を尋ねもしなければ、

来世の罪となります。それでは、早速に暇を頂きます。」

と言いますと、母上は、

「いや、これは恥ずかしいことですが、御身の父が居なくなった時は、火にも水にも入

って死のうと思ったのです。しかし、老母様やお前のことを考えて、甲斐も無い命を長

らえました。今、お前と離れ離れになってしまっては、私は、どうしたらよいのですか。」

と、さらに泣くのでした。玉若殿は泪を押さえて、

「お嘆きはご尤もですが、お暇を乞うのも、母上のお心を慰める為です。決して母の仰

せに背くのではありません。」

と慰めるのでした。母上は、これを聞いて、

「お前の志は、誠に唐土の「りゅうこう」(不明)にも勝ります。そこまで思い立つの

であれば、母も一緒に行きましょう。」

と決意したのでした。するとその時、何処からともなく老人が一人現れると、

「如何に、汝等、父が行方を尋ねるのならば、東国へ下りなさい。我は、長谷の観世音であるぞ。」

と言って、消え失せたのでした。親子は喜んで、有り難い教えに任せることにしました。

しかし、老母にこのことを告げれば、一緒に行くと言うに違い無いので、文を残して

そのまま旅の装束を整えたのでした。哀れな御台様は、夫の行方を尋ねる為に、住み慣

れた古里を、心細く後にしたのでした。この先の行方はどうなることでしょうか。

《道行き》

この手、柏の二つ面

とにもかくにも、我が夫の跡

懐かしき泪こそ

袖の柵(しがらみ)、暇も無く

一方ならぬ我が思い

誰に語らん年月の

思いを流せ、木津川に

便船乞うて、打ち渡り

西の大寺、伏し拝み(西大寺:奈良県奈良市)

この若が行方、如何にと、白露の

若も別れて、何方(いづち)とも

知らぬ旅路の思いの種

葉末の露は、曲水の

奈良の都を出でるにぞ

流石、故郷の懐かしく

後振り返り、御蓋山(奈良県奈良市:若草山)

見慣れぬ、身なれば、佐保の川(大和川水系)

涙ながらに、打ち渡り

早、山城に井手の里(京都府井手町)

玉水に掛け映す(木津川支流)

その面影は、隠れ果て

いとど心は、黒髪の

乱れて、物や思うらん

都の西に、聞こえたる

嵯峨野の寺に参りつつ(化野念仏寺カ)

四方の景色を眺むれば

花の浮き木の亀山や(京都市右京区嵯峨亀山町:「盲亀の浮木」(涅槃経)に掛ける)

雲に流るる、大堰川(桂川の別名)

誠に、浮き世の性(嵯峨)なれや


忘れ去られた物語たち 20 説経念仏大道人崙山上人之由来 ②

2013年05月11日 16時45分14秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ろんざん上人

 さて、これは冥途でのお話ですが、金国殿の館の人々は、そのようなことは、まった

く知りません。老母や御台所が、金国殿が見当たらないと不審に思って、女房達に聞い

てみると、

「昨日、西の御殿で、諸鳥をお眺めになっておられました。」

と言うので、早速、西の御殿に行ってみると、数々の美しい諸鳥ばかりで、金国殿の

姿は見えません。探し回る内に、四間の出居に、意識不明で倒れている金国殿を見つけ

たのでした。御台所と母は取り付きますが、ぴくりともしません。老母が、不思議に

思って、肌に触れてみますと、氷のように冷たく、温かいところは少しもありません。

いったいいつ死んでしまったのでしょうか。館の内は大騒ぎとなり、家来がいろいろ看

病しましたが、一向に回復の兆しもありません。老母も御台も抱き付いて泣くばかりです。

労しことに御台様は、金国殿のお顔をつくづくと、打ち眺めては、

「のう、金国殿。日頃より、人より勝る武辺を持ち、心も剛の方なのに、末期の一句も

お残しにならず、このように頓死されるとは、どういうことなのですか。私のことは、

さて置いて、母上様や玉若をこれから、どうして行ったら良いのですか。のう、我が夫(つま)。」

と、顔を顔に擦り付けて嘆き悲しむのでした。しかし、家臣栗川形部は、少しも慌てず、

金国殿の脈を調べると、

「北の方様。そのように嘆くことはありません。そもそも人間は、心、肝、腎、肺、

脾、五臓六腑が命門に通じております。さて、脈を見ました所、何れの脈も切れてしまって

おりますが、心の脈は、未だ確かに有ります。先ず先ず、もう少し様子を見て見ましょう。」

と言うのでした。すると、栗川の言う通り、しばらくすると、金国殿は夢から醒めて、

かっぱと起き上がったのでした。母上も御台も、今度は悦びの涙に濡れました。生き返

った金国殿は、

「私は、ここで微睡んでしまったのだが、さては、一度は死んだのか。

私は、まさしく冥途に行って来た。閻魔王に会い、殺生の罪を問われて畜生道に落とさ

れることになったのだが、長谷寺(奈良県桜井市初瀬)の観世音に助けられ、不思議にも

この娑婆に帰ってきたのだ。これよりは、殺生をやめ、弥陀の誓いを忘れないようにするぞ。

南無阿弥陀仏。」

と言って、涙を流して念仏するのでした。さらに、

「在郷の咎人、飼い鳥、残らず解放せよ。」

と栗川に命じました。それから金国殿は、

「私は、長い間、火宅に住んでいることにすら気が付かなかった。天人は、水を瑠璃と

楽しむが、餓鬼は水を火炎と恐れる。このような苦界を逃れて、未来の極楽を願うべき

である。そして、猛悪の輩を利益して、その功徳によって、成仏するのだ。」

と、菩提心を起こしました。

「このことを、老母や御台所に話すならば、止めることは治定である。よし、このまま

遁世いたそう。」

と思い立つと、細々と文を書き置いて、夜半に紛れて館を後にしたのでした。まったく

殊勝な心掛けです。

 金国殿は、急いで長谷寺に詣でると、観世音にお礼を言いました。

「冥途にてのお助け、誠にありがとうございます。未来成仏、極楽へお導き下さい。

これより、関東へ参ります。江戸霊巌寺の雄誉上人(おうよしょうにん)は、仏の化身

した念仏行者と聞きます。そこで出家することにいたします。」

そうして、金国殿は、東国を指して旅立ったのでした。

 江戸に着いた金国殿は、雄誉上人に弟子入りなされ、やがて出家をされました。雄誉


忘れ去られた物語たち 20 説経念仏大道人崙山上人之由来 ①

2013年05月11日 14時18分42秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

元禄時代には、説経は、浄瑠璃に後塵を拝することになる。説経太夫が、浄瑠璃に対抗

した作品のひとつに、高僧伝があった。既に紹介した「弘知法印御伝記」がそれである。

http://blog.goo.ne.jp/wata8tayu/d/20120714

この「崙山上人」も、同列の作品であるが、残念ならがヒットはしなかったであろう。

説経正本集第三(39)

天満八太夫座 天満重太夫作

元禄六年(1693年)大伝馬三丁目鱗形屋板(原刻推定)

ろんざん上人 

さて、往生や極楽へ行く為の経行は、この濁世末代にあって、最も大事なことである。

神も仏も皆、衆生利益の為にいらっしゃるのです。三界の衆生は、すべて仏の子であっ

て、生まれた時は清らかですが、生きていく間に、五欲の道に染まってしまいます。

一炊の夢であっても、善悪を悟るならば、仏となり、迷うのであれば、これを愚痴と言うのです。

 関東十八檀林第三、霊巌寺(東京都江東区)の開祖雄誉(おうよ)上人の弟子である

常陸国潮来村の大知者、念仏興行の名士である崙山上人の由来を詳しく尋ねてみますと、

生国は、大和の国葛下郡(奈良県葛城市一帯)、但馬の介金国(きんごく)殿という公

家でした。父左京の進殿が亡くなった翌年、金国殿は十八歳となり、中臣郡司兼盛の娘

を嫁に迎えました。やがて、子供ができ、名前は玉若殿といい、三歳におなりになります。

さて、家の家来には、栗川形部常春という、頼りになる勇士がおりました。

 この頃の金国殿は、常に殺生を好み、人々の嘆きも顧みずに、様々の罠を作っては、

鳥類畜類を捕らえて楽しむのでした。ある春の半ばのことでした。金国殿は、捕らえた

鳥を、籠に入れて、眺めておりました。

「なんとも良い眺めだな。先ず、春はウグイスが梅の小枝に羽を休めてさえずる声は、

ほうほけきょと、法華経の妙の大事を表す。ホトトギスは、冥途の鳥。山雀、小雀、

四十雀、これは、勧農の鳥と聞く。その外、諸鳥の声までも、皆これ諸経の肝文に聞こ

えて来る。このような利益の声に、善人であれば目を醒まし、悪人であれば暗闇に迷う

のであろう。」

と、言う内に、金国殿は、強い眠気に誘われて、眠り込んでしまったのでした。すると、

籠の辺りから、人のような形の物が顕れ、金国殿に近付きました。

「如何に金国。おまえは、正に仏の化身であるのに、どうして悪を好み、栄華を誇るのか。

朝顔よりも脆い命なのに、殺生を楽しむとは。過去の業(ごう)によって、現在の悪業

も深く、未来の業も浮かぶことが無い。我こそは、諸鳥の精であるが、おまえの悪心

によって、このような憂き目に遭うのだ。この上は、おまえの来世での有様を見せてやろう。」

と言うなり、その精は消え失せたのでした。すると不思議にも、金国殿の胸の中から、

突然、黒日の精が輝き出でて飛び上がると、庭の軒先で赤い鳥となり、虚空を指して飛

び去って行ったのでした。そして、金国殿は、刹那の間に六道の辻に落とされ、気が付くと、

只、呆然と佇んでいるのでした。

 やがて、見目童子(みるめどうじ)が飛んできました。金国殿を見るなり、

「呵責、呵責。」

と、怒鳴ります。すると、さも恐ろしげな獄卒どもが飛んで来て、金国殿を掴むと、

火の車に乗せて、虚空に舞い上がりました。気が付くと今度は、仄暗い広い野原に連れ

て来られて、火の車から下ろされました。それから、十町(約1Km)ばかり歩かされ

鉄の門までやってきました。外にも連れて来られた罪人が、沢山いるようです。

そこで、獄卒たちが、

「件の似非者来る。」

と言うと、罪人を責めるための、様々の責め道具が用意されました。やがて、背が高

く、真っ赤な色の大男が立ち出でて、鉄の板に何やら書き留めながら、次々と罪人の処

断を始めました。

「南閻浮提、奈良の都のぜかいどうしという罪人。親を殺せし大悪人。無間奈落へおとすべし。」

「相模国、もばら村(不明)の罪人。人を殺せし咎。修羅道へ落とすべし。」

「同国、小田原の稲垣與一介盛は、大焦熱へ落とすべし。これは、娑婆に居た時、人を

中傷し、その外数え切れない悪事をした不道の者である。」

「さあ、それにて、罪人共を悉く責め、その後、地獄へ落としてしまえ。」

と言うと、獄卒どもは、よってたかって罪人を責め立てました。その有様は、身の毛も

よだつばかりです。金国殿は、これを見て、


忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ⑥終

2013年04月10日 21時04分45秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ⑥終

羅仙国は、人が住む国ではないので、通りかかる者もありません。中納言はたった一

人で、話しかける相手もありません。たまに聞こえてくるのは、浜の千鳥が友を呼ぶ声

だけです。州崎に寄せてくる浪の音があまりにも凄いので、中納言は、漢竹の横笛を取

り出すと、音も澄みやかに吹き始めました。

 鬼の大王である破羅門王は、この中納言の笛の音を遠音に聞きつけて、

「なにやら、浜辺の方から、良い笛の音が聞こえてくるが、いったに何者か。連れて参れ。」

と言いました。眷属どもが、浜辺に出てみると、修行者が笛を吹いています。いきなり

取って押さえると、中納言を破羅門王の前へと引き据えました。破羅門王は、

「如何に、修行者。この国は、三界を隔て、人が来るような国ではないのに、どうやっ

てやって来たのだ。」

と、言いました。中納言は、大王の姿を見ると、

『南無三宝。これは、梵天国から逃げ出した罪人に違い無い。ここで、日本の者と言っ

ては、まずいな。』

と、考えて、

「私は、遙か数万里も離れた契丹国(けいたんこく:モンゴル)の者です。仏法修行に

出ましたが、悪風に流されて、ここに流れ着きました。どうか、哀れと思し召し、御慈

悲を下さい。」

と、答えました。大王は、しばらく中納言をしげしげと眺めると、

「お前の姿を、よくよく見ると、梵天国の婿となった中納言に良く似ておるな。お前は、

嘘を言っているのではないか。」

と、言うのでした。中納言は、にこにこと笑いながら、

「このような賤しい修行者を、比べようも無い、梵天国の婿とご一緒になされるのですか。

私は、五戒を守る僧ですから、一念五百生、懸念無量劫。梵天王の姫宮など、目に見る

ことすら、禁じております。」

と、答えました。すると、大王はこう言いました。

「それであるならば、苦しゅうない。実は、頼みがあるのだが、先ほど吹いていた横笛

とやらを、ちょっと聞かせてもらいたい。」

中納言は、早速に腰から漢竹の横笛を取り出すと、女子が男子を恋いし、男子が女子を

偲ぶ曲である、想夫連(そうふれん)という曲を、半時余り吹いたのでした。あまりに

素晴らしい笛の音であったので、大王を始め、鬼の眷属どもも皆、聞き惚れたのでした。

その笛の音は、御簾の内にいた天女御前にも聞こえてきました。天女御前は驚いて、

「おや、いったいどういうことでしょう。この笛の音は、妾が夫の中納言の笛。夫は、

ここに、どうやって来たのでしょうか。」

と、気もそぞろに、懐かしさの余り、声も上げずに忍び泣くのでした。その様子を見て

いた女房で、蛇骨の夜叉女という、心の獰猛な女は、

「姫君、あの修行者が吹くものを聞いて、涙をお流しになるとは、いったいどういこことです。」

と、言うのでした。天女御前は、これを聞いて、

「あなた方は、知らないであろうが、あれは、私が梵天国に居た時に、いつも吹いてい

た横笛というものなのですよ。久しぶりの笛の音に、故郷のことが懐かしくなって涙が

こぼれました。」

と、ごまかすのでした。

 そんな折、破羅門王の所へ、隣国からの使者が訪ねて来ました。それは、隣国で起こ

っていた戦争の応援の依頼でした。やがて、破羅門王は、天女御前の所にやってきて、

「如何に姫君。隣国に合戦があり、三日の間、加勢に行って来る。すぐに帰るが、寂し

くなったなら、あの修行者に横笛とやらを吹いてもらうがよい。」

と言うと、出陣して行きました。さて、中納言も天女御前も、互いにそれと分かったも

のの、うかうかと近寄るわけには行きません。しかし、破羅門王が帰らぬ内に、なんと

かしなくてはなりません。そこで、天女御前は、酒宴を催すことにしたのでした。夜に

なると、女房達を集めて酒宴を開き、中納言には、隣の部屋で笛を吹かせました。自ら

酌に回って、酒を勧めました。やがて、夜叉女を始め女房共は、酔いつぶれてしまいま

した。時分を見計らって、天女御前は、抜け出すと、中納言の所へ行きました。こうし

て、ようやく二人は、再会を果たしたのでした。二人は、互いの袖にすがりついて、言

葉もありません。しかし、いつまでもそうしては、いられません。天女御前は、

「早く、葦原国へ帰りましょう。」

と言いました。しかし、中納言は、こう言うのでした。

「しい、声が高い。この島は、三界から隔たった島。私には帰る手立てが分かりません。」

これを聞いた天女御前は、

「それでは、鬼が秘蔵している千里を駆ける車を奪いましょう。」

と言うと、中納言を連れて車に乗り込んだのでした。そうして二人は、あっという間に

葦原国へと帰ることができたのでした。

 やがて、夜叉女は、笛の音が聞こえないことに気がついて、かっぱと起きあがってみ

ると、天女御前も修行者も姿が見えません。驚いた夜叉女は、万里に響き渡る合図の

太鼓を叩いて、破羅門王に異変を伝えました。これを聞いた破羅門王は、何事かと、急

ぎ帰国しますと、姫君がおりません。

「さては、あの修行者めは、やはり中納言であったか。刹那に攻め入って八つ裂きにしてくれん。」

と、万里を駆ける車に飛び乗って、葦原国へ行こうとしました。ところが、その時、

梵天国より、四天王が飛んで来て、破羅門王の車を木っ端微塵に蹴破ったのでした。

 さて、中納言と天女御前の二人は、無事に五條の館に戻ることができました。そして、

中納言は、梵天王の自筆の御判を、帝へと献上したのでした。帝は、

「日本の例しにしよう。」

と仰って、父の大臣高藤を勧請して、梵天の自筆の御判を添えて、五條の西の洞院に

「天使の宮」(五條天神:京都市下京区松原通西洞院西入天神前町)を祀り、国土を納

め、仏果をお守りになったのでした。

 それから中納言は、本国の丹後・但馬を安堵されて、国に戻り、棟門を立ち並べて、

富貴の家と栄えたとのことです。その後、中納言殿は「切戸の文殊」、天女御前は「成

相の観音」として勧請され、今の世に至るまで、衆生を済度し、国土を守っていただい

ております。

誠に、上古も末の世も

例し少なき御事と

上下万民、おしなべて

尊っとかりともなかなか

申すばかりはなかりけり

おわり

Photo


忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ⑤

2013年04月10日 17時05分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ⑤

 その時、梵天国の大王は、清涼殿に出御なされて、華鬘や玉で飾られた黄金の玉座に

お座りなり、中納言にこう言いました。

「中納言よ。汝を婿に取ったのは、親に孝行ある故であったが、今、逃げ出した罪人

は、汝にとっては、敵であるぞ。羅仙国の大王、破羅門王と言う者は、姫を七歳の時

からつけ狙い、奪い取ろうとしてきたのじゃ。これを、四天王の力によって捕縛して、

今日か明日の内に、八つ裂きにしてやる所だったのだ。逃がしてしまうとは、不覚であ

あった。汝に与えたその米は、梵天国においても、そう簡単に手に入るものではない。

忝なくも、寂光の池の水際に生える米なのだ。一粒食べれば、千人の力を受け、千年の

寿命を手に入れることができるのだぞ。汝が、大成して、梵天国にやって来たからこそ、

与えたその飯を、破羅門王に食べさせてしまうとは。その飯を食べて、通力自在の力を

得たからは、今頃はきっと、葦原国に居る姫を奪っていったことであろう。誠に残念なことじゃ。」

と、有り難くも両眼に涙を浮かべるのでした。驚いた中納言は、

「故郷の妻の行方が、心配です。どうか、自筆の御判をお与え下さい。」

と、願いました。梵天王は、

「姫が奪われてしまった今となっては、自筆の判が、何の役に立つ。」

と、言いましたが、中納言が、重ねて頼み込みますので、梵天王は、自筆の判を賜ったのでした。

梵天王の自筆の御判を手にした中納言は、三度押し頂いて、別れを告げると、三日三夜

をかけて、葦原国の五條の館へと戻りました。

 五條の館に、中納言がお戻りになると、館の人々の喜びようは言うまでもありません。

しかし、中納言の乳母は、飛んで来ると、

「我が君様。天女御前様は、一昨日の夕暮れ時に、魔王が現れて、さらわれてしまいました。」

と、袂に縋り付いて、嘆くのでした。これを聞いた中納言は、肝も冷え、魂も消えるば

かりです。

「ああ、南無三宝。やはり、羅仙国の破羅門王が、姫を奪い去ってしまったのか。ええ、

なんとも口惜しい。」

と嘆く外ありません。中納言は、姫の部屋に行くと、姫の小袖を胸に当て、顔に当てて、

姫を偲んでおりましたが、やがて、

「会者定離、盛者必衰は、世の理であるから、何も驚くことでは無い。これを、菩提の

種として、噸世をいたそう。」

と思い切ると、そのまま近くの寺へ行き、上人様に、

「如何に、上人様。妻の菩提の為に、出家させてください。」

と頼んだのでした。これを聞いた上人様は、奇異に思って、

「未だ、亡くなっていないお姫様の菩提とは、どういうことですか。」

と、聞きました。中納言は、

「ご不審は、ごもっともです。幼少の頃に父母を失い。今は、我妻に生き別れました。

浮き世の望みも、財宝も、もう関係無いのです。どうか、髪を剃って出家させて下さい。」

と、重ねて頼むのでした。これには、上人も断れず、中納言を出家させたのでした。

 墨染めの衣を着け、黒檀の数珠を襟に掛けた中納言は、竹の杖一本を頼りとして、

妻の行方を捜そうと、京の都から彷徨いでました。

〈以下道行き〉

筑紫下りの物憂さを

幻(うつつ)と更に思ほえず

涙は、幾たび道芝の

露、深草の里荒れて(京都府伏見区北部)

人、放ぶり(はぶり)に、錏(しころ)なれや

軒も籬も形ばかり

折からなれや、薄墨の

桜は今ぞ、紅葉の秋

鳥羽(鳥羽離宮:京都市南区・伏見区)に恋塚(恋塚寺:京都市伏見区)、桂の里(桂離宮:京都市西京区)

都を隔つる山崎や(京都府乙訓郡大山崎町)

東に向かえば有り難や

石清水を伏し拝み(石清水八幡宮:京都市八幡市)

昔語りを今の世に

試しに引けや(謡曲:弓八幡に掛ける)

男山の女郎花(おみなめし)の一時(とき)を(謡曲:女郎花に掛ける)

くねると書きし水茎の(?)

跡懐かしき関戸の院(京都府乙訓郡大山崎町)    

日も呉竹の里にて

猪名(いな)の笹原、吹く風に(猪名川:大阪府と兵庫県の境)

露袖招く、小花が叢(兵庫県川西市小花町)

松風に煙り担ぐ尼ヶ崎(兵庫県尼崎市)

早、大物に着いたよな(尼崎市大物町)

海辺に出た中納言は、四国や西国の方へ行って、妻の行方を尋ねようと思いました。そ

こで、便船を探しましたが、一人法師は禁制と言って、乗せてくれる舟はひとつもあり

ませんでした。中納言は、なすすべもなく、呆然と立ちすくんでいますと、何処からと

もなく、白髪の老人が舟を寄せて来ました。老人は、

「これ、修行の方。この舟にお乗りになりませんか。行きたい湊に、送り届けてあげましょう。」

と言うのです。喜んだ中納言は、老人の舟に飛び乗りました。

〈以下道行き〉

波路、遙かに漕ぎ出す

後、白波の寄る辺なく

浮き寝の床の楫枕(かじまくら)

都に帰らん夢をさえ見ようさん

須磨の関の戸を(神戸市須磨区)

明くる明石の浦伝い(兵庫県明石市)

筑紫下りの途次(みちすがら)

兵庫の浦とは、あれとかや(神戸市兵庫区:大輪田泊)

州崎に寄する浪の音

物凄まじき、岩伝い

譲葉ヶ岳(ゆづりはがたけ:淡路島の論鶴羽山)を弓手になし

播磨の国(兵庫県西南部)なる室山降ろしに誘われて(兵庫県たつの市御津町付近)

揺られ、流るる釣り船

思わん方へも流れ行け

浪に揺られて漂えり

風に任せて行く程に

男鹿(たんが)、クラ掛、打ち過ぎて(家島諸島の島:兵庫県姫路市)

海上、俄に景色変わって

白波、青海(せいがい)を洗いつつ

多く見えつる舟どもも

皆、十方に吹き流され

行き方知らず、なりにけり

中納言が乗り込んだ舟も、強い風に吹き流されて何処へ向かっているのかも分かりません。

やがて、日本の海を離れて、鬼満国(きまんこく)も過ぎて、羅仙国(らせんこく)へと

流れ着いたのでした。すると、老人はこう言いました。

「修行者よ。只今の強風によって、なんなくここまで、送り届けたぞよ。我を誰と思う

か。汝の氏神、清水の観世音であるぞ。お前を妻に逢わせるために、五海の龍神となって、

ここまで送って来たのだ。これからの行く末も守護するであろう。」

そう言い残すと、二十尋(はたひろ:約30m)余りの大蛇となって、虚空に飛び去っ

て行くのでした。とは言うものの、いきなり知らない浜辺に置き去りにされた中納言は、

頼る者も無く、只一人、途方に暮れて泣き明かすしかありませんでした。中納言の心の

内は、哀れともなかなか、申し様もありません。

つづく


忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ④

2013年04月06日 13時56分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ④

 それから、帝は、公家大臣を集めて、こう言いました。

「五條の中納言が、色々の難題を叶えたことは、大変、神妙なことである。五條の中納

言が、本当に梵天王の婿であるならば、梵天王の自筆の御判を持って来るように命ずる。」

これを聞いた中納言は、早速、天女御前に相談しましたが、今度ばかりは、そう簡単に

は行きません。天女御前は、

「それは、本当ですか。なんと情けないことでしょう。それは、下界に下って五濁の塵

に汚した身では、叶わないことです。」

と、泣き崩れるのでした。中納言は、

「それであれば、神、仏に祈るのが、日本の習い。氏神、清水の観音に祈誓をすること

にしよう。」

と言うと、多くの供を連れて、清水寺に籠もることになりました。中納言は、

「南無や、帰命頂礼(きみょうちょうらい)。清水の千手観音のご利益は、どの仏様よ

りも勝ります。願わくば、梵天王の自筆の御判をお与え下さい。」

と、十七日の間、祈祷を続けました。すると、馬に跨って、天上に昇る霊夢が訪れたのでした。

喜んだ中納言は、五條の館に戻ると、清い流れの水で、身を清めて、南面の広縁に立ちました。

やがて、どこからとも無く、龍馬(りゅうば)が現れ、前膝を折って、跪きました。

中納言は、天女御前に向かって、

「のう、姫君。あれをご覧なさい。清水の観世音より、龍馬を給わりましたよ。あの馬

に乗って、天上まで行って来ます。」

と言うと、天女御前は、

「私のせいで、帝より色々の難題を出され、片時も気が休まる暇も無いのに、今度はまた、

行ったこともない雲井の旅にお出になるとは、行く先が思いやられます。」

と、袂に縋って泣くのでした。中納言は、

「必ず、生きて帰って来ます。」

と言うと、しっかりと結び合った手を、ふりほどいての涙の別れです。中納言は、龍馬

に跨ると、

「目を塞ぐ 心ばかりや 思い切れ 知らぬ旅路の 一人寝をのみ」

と一首を詠じ、姫は、

「旅立ちし 君を見る目の 涙川 深き思いを 如何にせんとは」

と返しました。やがて、中納言が、目を閉じると、龍馬は、梵天国へと昇り始めました。

 三日三晩、飛び続けると、ようやく陸地に着きました。中納言が、目を開いて見ると、

十丈もある閻浮樹(えんぶじゅ)が茂っているのが見えます。やがて、十町ほど、馬を

進めて参りますと、一人の天人がやって来るに会いました。中納言が、

「ここは、なんという国ですか。」

と聞きますと、天人は、

「梵天国です。」

と、答えました。帝の御所を尋ねますと、さらに東の方だと言います。そこで、中納言は、

さらに東へと進んでいきました。五町ほどやって来ると、今度は、赤栴檀(しゃくせんだん)

の林が現れました。無数の花が咲き乱れ、香しい香が、辺り一面に漂っており、うっと

りとする音楽まで聞こえてきます。更に進と、黄金の橋があり、その橋の下には、弘誓

の舟が浮かんでいました。橋を渡ると、今度は、右側には、黄金の山が聳え、左側には、

白銀の高山が見えました。この山の光によって、御所は、夜昼の区別もなく、眩しいば

かりに明るく照らされているのでした。中納言は、うきうきと、内裏の東門をくぐり、

やがて、清涼殿に着いたのでした。一人の天人が現れると、

「おや、これは珍しいお客人ですね。こちらへどうぞ。」

と、招き入れてくれました。中納言は、臆することなく、堂々と御殿に入りました。

しばらくすると、天人が何かを持ってきました。

「これは、天の甘露の酒です。」

と言って、中納言の前に置くと、下がりました。中納言は、

「梵天国では、飲み食いをするときは、自分で手ずから食すると聞く。これは、飲まな

くては。」

と思って、三献を自ら汲んで、飲み干しました。そこに今度は、三寸に盛られたご飯や

数多くのご馳走、八十二色のお供え物などが並べられました。中納言は、これらのご馳

走にも次々と与かりました。

 天のご馳走に夢中になっていた中納言は、やがて、近くに牢屋があるのに気が付きました。

中には、罪人が入っています。その手足は熊のようで、八方から厳しく縛られて、身動

きもできないようにされているようです。そして、牢屋の中から声が聞こえてきました。

「ああ、浅ましい。その飯を、一口くれ。」

と言うのでした。良く見てみると鬼が黄色い涙を流しているのです。中納言は、慈悲

第一の人でしたから、これを聞いて、

「これこそ、法華経に、三界無安猶如火宅(譬喩品)説かれているそのことであるな。

このような目出度い国ですら、咎を許すことは無いのか。咎はなんであれ、何か食べ物

を与えてやろう。」

と考えて、天のご飯を、笹の葉にくるんで、牢屋に投げ入れました。ところが、この鬼は、

その飯を食うや否や、通力自在の力を受けて、八方から縛り付けられた鎖をねじ切る

と、牢屋を蹴破って飛び出して来たのでした。あっと言う間も無く、この鬼は、葦原国

へと飛んで降りると、五條の天女御前を奪い取り、羅仙国(らせんこく)へと帰ったのでした。

昔より、恩を仇で返すというのは、こういうことを言うのです。前代未聞の曲者と、憎

まない者はありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ③

2013年04月06日 11時10分23秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ③

 さて、帝から、難題を突きつけられて、困り果てた中将殿は、天女御前に相談をしま

した。姫君は、これを聞くと、

「それは、簡単なことですよ。では、呼び寄せてあげましょう。」

と言うなり、南面の広縁に出ると、扇を開いて、虚空に向かって、三度煽ぎました。す

ると、迦陵頻伽と孔雀の鳥が、さっと内裏に舞い下りたのでした。宮中の人々は、尊い

鳥の舞楽のような美しい囀りに、七日の間、酔いしれました。七日が経つと、ふたつの鳥

は、梵天国へと帰って行ったのでした。

 さて、帝は、これで満足したわけではありませんでした。

「次は、鬼の娘の十郎姫を七日の間、内裏に上げよ。それが、できないなら天女を上げよ。」

と、またまた難題を突きつけるのでした。中将は、また困って、天女御前に相談をしました。

「それも、簡単なことですよ。その十郎姫と言いますのは、梵天国では、下で使われる

只の下女ですから、何よりも簡単なことです。それでは、呼び寄せましょう。」

と言うと、南面の広縁に出て、虚空に向かって、扇で三度煽ぎました。鬼の娘の十郎姫

は、直ぐに五條の館に舞い下りて来ました。天女御前は、

「お久しぶりです。十郎姫。汝をここに呼び寄せたのは、外でもありません。七日の間

内裏に上がって下さい。」

と、言いました。早速、十郎姫は、帝の勅使と共に内裏に上がったのでした。

 さて、また宮中では大騒ぎです。初めて見る十郎姫の姿は、さながら菩薩の様に美しく、

我も我もと、公家大臣がつめかけました。十二人の后達も、着飾ってやってきましたが、

十郎姫の前にでれば、月夜に星の光が薄れるように、とても敵うものではありません。

口惜しがった后達は、

「いくら姿が美しくても、和歌の道は知らないでしょう。」

と、馬鹿にして、それぞれ歌を詠んで、十郎姫に掛け合いましたが、十郎姫はそつなく

返歌をするのでした。更に琵琶、琴を奏でれば、その妙なる音色に、感歎するばかりです。

帝は、十郎姫に向かい、

「如何に、十郎姫。お前は、それ程まで姿も美しく優れているのに、何故、天女の姫に

仕えているのか。」

と、聞きました。十郎姫は、

「これは、愚かな宣旨ですね。あの姫様について、いちいち申し上げるのも憚られます。

忝なくも、梵天国と言いますのは、高さは八万由旬(ゆじゅん)もあり、須弥山をかた

どって、国の数は、十万七千と七百。このような大国の王のご息女なのですから、ご意

向に逆らうなどということは、あり得ません。さて、七日が過ぎましたので、帰ります。」

と言うと、梵天国に帰って行きました。帝は、

「あの十郎姫は、梵天国では、只の下女というのに、あれほどの美しさである。それな

ら、天女は、どんなにか美しのだろうか。」

と、ますます天女御前に憧れるのでした。そして、帝は、またまた難題を出しました。

「下界の住むという龍神を、七日間、内裏へ上げよ。」

天女御前が、いつものように扇で煽ぐと、晴天が、俄に掻き曇って、稲妻が走り、ごう

ごうと雷が鳴り響き始めました。その凄まじさは、帝の御殿を震わし、崩れるかと思う

程でしたので、宮中の人々は、この世の終わりが来たと、大騒ぎになりました。これに

は、さすがの帝も慌てて、五條の中将を呼び出すと、

「如何に、中将。この神は、あまりに凄まじ過ぎる。鎮めてくれ。」

と頼みました。中将は、桑原左近の尉に、龍神を鎮める様に命じました。桑原左近が、

四尺八寸の「雲払い」という剣を抜き放つと、虚空を三度切り払って、

「鎮まり給え、龍神達。桑原これにあり。」

と叫ぶと、忽ち龍神は鎮まって、青空が広がったのでした。それからは、天に雷が鳴る

ときには、「くわばら、くわばら」と言うようになったということです。帝は、これに

は感服して、五條の中将を中納言に任じたのでした。天下の聞こえも世の覚えも、例の

少ないこととして、感激しない者はありませんでした。

つづく


忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ②

2013年04月05日 09時38分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ②

 さて、帝は、(年代からすると淳和天皇となる)公家大臣を集めると、

「本当に、五條の中将は、梵天王の婿になったのか。」

と問い質しました。それが本当であることが分かると、帝は、

「我、十全の位を受けて、四海を掌に知るとはいえども、未だかつて、天の与える后は

持たぬ。急いで、中将の館に行って、その天女を連れて参れ。」

と、言うのでした。急いで勅使が五條の館へと立ちました。これを聞いた中将は、

「帝の宣旨とあるならば、命をも差し上げようとも思います。しかしながら、夫婦の仲

を引き分けて、后に召し上げようというのは、如何なものでしょうか。それは又、この

中将の恥辱です。このことにおいては、どうかお許し下さい。」

と、返事をしたのでした。これを聞いた帝は、武士に命じて無理矢理にでも、天女を召

し上げようとします。

 出兵を命じられた松王兵庫の守正重は、五條へ押し寄せて、中将の館を取り囲んで、

鬨の声を上げました。中将の館は、突然の寄せ手に、上を下への大騒ぎとなりましたが、

郎等の桑原左近の尉は少しも騒がず、表櫓に走り登ると、

「只今、ここに押し寄せて、鬨の声を上げるのは何者か。名を名乗れ。」

と、呼ばわりました。寄せ手の大将正重は、馬に跨り飛んで出ると、掘りの端に馬を止

め、鐙を踏ん張り立ち上がり、

「只今、ここに押し寄せて、鬨の声を上げるのは、誰有ろう、松王兵庫の守正重である。

五條の中将は、帝の宣旨に背いた罪人であるぞ。すぐに、天女を渡されよ。出さねば、

攻め入って、奪い取る。」

と、大音声を上げました。桑原はあざ笑って、

「何々、正重が、寄せて来たというのか。ではでは、手並みを見せてやろうか。」

と言うと、櫓を飛んで降り、敵味方が入り乱れての戦いとなりました。しかし、多勢に

無勢、中将方の兵も残り少なくなってしまいます。桑原は、中将の御前に出ると、

「我が君様。この合戦は、天下を敵とする戦いですから、勝つ戦とも思えません。最早、

御自害なされませ。」

と進言しました。これを聞いた中将も、もうこれまでと思い切り、腰の刀に手を掛けて、

自害しようとしましたが、その時、天女御前は、

「私一人を残されても、風に脆い露の身を隠す所もありません。先ず、私を刺し殺して

から、どのようでもしてください。」

と、袂に縋って泣くのでした。意を決した中将は、右手で姫の手を取り、左手抜き身の

刀を持って、表櫓へと上りました。桑原左近の尉も付き従って、櫓に上ると大音声を上げて、

「如何に、敵の軍兵ども。物を語らば、確かに聞け。只今、中将殿も天女御前も、御自

害なされるのを、侍の鏡として、手本にせよ。」

と言いました。しかし、大将兵庫の守を始めとし、寄せ手の軍兵どもは、初めて目にする

天女御前の姿にうっとりとして、

「誠に、輝くばかりの天女御前。理由も無い事で自害するのは、もったいない。」

と、溜息をつくのでした。大将正重は、

「如何に、中将殿。先々、これより某は、帝に上り、なんとか申し開きをすることにする。

勅使が来るまで、御自害は、思いとどまり下さい。」

と、言うなり、内裏に飛んで帰って行ったのでした。正重は、中将が天女御前諸共に自害し

ようとしていることを奏聞して、様々と申し開きをしました。しかし、帝は聞き入れず、

「兎に角、天女を連れて来い。」

とばかりです。さすがの正重も、やりきれなくなって、嘆きの一首を詠みました。

「雲井より 降ろす嵐の 激しくて 糸にも露の 塵も止めなん」

これには、とうとう、帝も、折れましたが、諦めはしませんでした。

「それならば、迦陵頻伽(かりょうびんが)、孔雀の鳥を、七日間、内裏に上げよ。そ

れができないのなら、天女を上げよ。」

という難題を突きつけたのでした。正重は、急いで五條の館に戻ると、宣旨を伝えて陣

を引いたのでした。

この人々のお命の危ういこと、なかなか、申すばかりはありません。

つづく

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この挿絵は、宝永の頃の鱗形屋孫兵衛板(赤木文庫)です。


忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ①

2013年04月04日 16時33分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ケンブリッジ大学が所蔵している「山形屋新板」のこの正本は、元禄十年(1697年)

に再版されたものであるが、学者の推定では、その一回り前の貞享二年(1685年)

の鱗形屋の板であろうとのことである。太夫は不明であるが、天満八太夫系であろうと

推定されている。この「梵天国」は、かなり古くからあった物語であり、古活字版も残

されている。また、御伽草子本、奈良絵本、古浄瑠璃にも採用される程、人気を集めた

物語であったようである。

説経正本集第三(37)

ぼん天こく ①

 さて、およそ父母への孝行というものは、当世来世の二代に渡って、仏の御加護を受け

るものです。三千大千世界の導師である釈尊も、その昔は只の人であり、悟りを開くき

っかけすらなかったのです。しかし釈尊は、十九歳で、父母孝養の為に出家なされ、終

には、一乗妙典(法華経)の悟りに辿り着き、三千大千世界の導師となられたのでした。

これこそ、孝行ということの大切さを示すものです。

 日本での例を言うならば、国は、丹後の国。成相(なりあい)の観音(成相寺:京都

府宮津市)と、

切戸(きれど)の文殊(智恩寺:京都府宮津市)の由来を、詳しく尋ねますと、これも

その昔は、人間であったということです。

 人間であった頃の名前は、五條の中将高則(たかのり)と言い、父は、大臣高藤(たかふじ)

と言いました。この中将高則は、父の高藤が、清水の観世音に祈誓を懸けて授かった子

でありましたので、そのお姿に、仏の慈悲哀愍(じひあいみん)が宿り、三十二相を

供えておられました。詩歌管弦に至るまで、学び残した道は無く、人々は皆、中将殿を尊敬

して、大事にしたのでした。

 しかし、世の中の有為転変は、どうすることもできません。やがて、父も母も亡くな

ってしまい、悲しみに沈む毎日を過ごしていました。そこで、中将殿は、父母孝養の為に、

七つの伽藍を建立したのでした。七間四面の金堂には、諸仏薩埵を安置し、三間四面の

輪塔では、沢山の僧を招いて、転法輪(てんぽうりん)の供養をしました。さらに四十

九の楼閣、十二の欄干は珠玉で飾り上げ、五十の塔の高さは、雲に届くほどでした。さ

ながら、極楽浄土を見るようです。経典を千部も万部も奉納しましたが、それでも、ま

だ父母孝養には足らないと、自ら、水を汲み、香を焚き、花を供えて、日夜、御経を唱

え続けるのでした。

 ある時、中将殿は、十畳敷きの壇を構えると、十七日間、笛を奉納しました。その楽

の音のすばらしさは、言葉には表せません。伶人(れいじん)が笛を吹く時は、大河の

魚が天に昇り、天人に袖を翻して、十悪五逆の罪も消え、たちまちに九品蓮台に乗るこ

とができるという有り難さです。この笛の音は、梵天国にまでも届きました。

 突然、音楽が鳴り響き、異香が漂い、花が舞い下りました。そして、雲に乗った気高

い老人が、天下ったのでした。

「我は、梵天国の大王である。汝が、父母孝養の為に吹く笛の音は、大変殊勝である。

我には、一人の娘があり、その婿を捜していたが、この三千世界に、汝ほどの親孝行の

者はいない。我が娘を、十八日に、汝の妻に与える。」

と、約束をすると、梵天王は、雲に乗って、天へと帰って行きました。中将は、夢かと

も思いましたが、いよいよ御経を怠らず、山海の珍物を取り揃えて、その時を待ちました。

 時は、天長二年(825年)三月十八日。異香が漂い、花が降り下る中、雲の中から、

玉の御輿が現れて、五條の中将の館に入りました。降りてきたのは、輝くばかりに美し

い姫君です。二八の春、花盛りのそのお姿は、音にのみ聞く、毘沙門天の妹、吉祥天女

にも勝るばかりです。さて又、中将殿も、観世音のご方便により、嬋娟(せんけん)な

る眉墨は、例えれば蝉の羽。宛転(えんてん)たる相好は、円山に昇る月の如し、とい

ったところでしょうか。この美しいお二人の有様を、原文では、次のように書いています。

何れを、春の花とせん

何れを、秋の月とせん

更にだに、呉竹の

飾れる衣(きぬ)の羽衣に

自ら成せる顔(かんばせ)は

春の風のさらさらと

降りかかりたる花の雪

としは散りなん萩の花(?)

としは消えなん玉笹の(?)

霰、踏む足、ほたほたしく(たどたどしく)

心ならずも、幻(うつつ)かと

思い乱るる、玉葛

掛けてぞ、祈る誓いの末

天にあらば、比翼の鳥

地にあらば、連理の枝

偕老同穴の語らい

互いに、見えつ、見えられつつ

執愛恋慕と聞こえける

とにもかくにも、かの人々の

その有様、目出度さよとも

中々、申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ⑥ 終

2013年03月06日 21時48分20秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ⑥

 一方、もう一人梅若殿を捜し続けていた粟津の二郎利光は、四国九国と尋ね巡りまし

たが、とうとう梅若殿の行方を知ることはできませんでした。ある時、利光は、大津の

辺りを捜そうと考えて、江州(滋賀県)へと向かう途中、四宮河原(京都市山科区四宮)

を通りかかりました。すると、松井定景に組みした山田の三郎が、小鳥狩りをしている

ではありませんか。利光は、

「これは、天よりの授かりもの。」

と喜ぶと、猛然と谷に駆け下り、山田の細首をあっという間に切り落としました。

ところが、大勢の山田の家来達に追い詰められてしまい、最早これまでと思った時のこ

とです。どこからとも無く、山伏が一人現れたかと思うと、利光を引っ掴んで、虚空に

舞い上がったのでした。山伏は、飛ぶに飛んで、相模の国の大山不動まで来ると、利光

を降ろしました。(神奈川県伊勢原市)山伏は、

「我は四国よりの使者であるぞ。この神に祈誓を懸けよ。」

と言うと、煙のように消え失せました。利光は、ありがたやとその跡を伏し拝むと、

大山不動に向かいました。

「梅若殿の生死を、教えて下さい。教えて下さらないのなら、この利光の命を取って

下さい。」

初めの七日間は、その場を少しも動かずに立ち行をし、次の七日間は水行をしました。

更に、七日間の断食行をして、渾身を籠めて祈り続けました。すると、二十一日目の明

け方に、山も草木も振動を始め、愛宕山の太郎坊(京都市右京区:太郎坊は天狗)、讃

岐の金比羅、大峯山の前鬼(奈良県吉野郡下北山村:前鬼は役小角の従者で天狗となる)の一党

等の大天狗、小天狗が現れ、かつて行方知れずになった松若殿を連れてきたのでした。

「如何に、利光。お前は、主君に孝ある者であるので、松若を返すことにする。母も梅

若も武蔵と下総の境にある隅田川で、既に亡くなった。お前はこれから、松若の行く末

を、守護するのだ。」

天狗は、そう告げると、再び虚空に飛び去りました。松若殿は、利光から事の子細を聞

いて、大変悲しみました。利光は、

「先ず、これより都へ上り、日行阿闍梨を頼みとして、帝へ参内いたしましょう。松井

源五の仇討ちを果たし、それから、母上、梅若殿の菩提を弔うことにいたしましょう。」

と諭したのでした。こうして、松若殿と粟津利光の二人は、都を指して急ぎました。

 都に着くと、早速に日行阿闍梨の所へと行きました。日行も阿闍梨も事の次第を聞くと

涙を流して嘆かれました。

 さて、日行阿闍梨の計らいで、参内が叶うと、帝はこのような宣旨を与えました。

「この度の浪人は、さぞや無念であったろう。褒美として、四位の大将是定に任じ、下

総の国を与える。又、松井の源五は成敗いたせ。」

そして、屈強の兵、約五百名まで下されたのでした。

 松若殿は、早速に、利光を大将として、北白川に押し寄せて、鬨の声を上げました。

突然のことに驚いた松井は、戦いもせずに逃げ出しましたが、やがて捕縛されて、首を

斬られました。

 さて、松若殿はそれから、多くの家来を従えて、下総の国に入りました。そして、父

母の為、梅若殿の為に、篤く菩提を弔ったのでした。それから数々の館を建て並べた松

若殿は、栄華に栄えたということです。なんとも目出度いとも、なかなか申すばかりは

ありません。

おわり

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忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ⑤

2013年03月06日 13時33分50秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ⑤

 御台様は、梅若殿の行方を探しながら、とうとう隅田川の辺りまで辿り着いたのでした。

ここに、渡し船がありました。御台様は、

「のう、舟人。私を舟に乗せてください。」

と頼みました。舟人は、

「言葉を聞くところは、都人そうじゃが、姿を見れば狂人。それでは、面白く狂って

見せよ。そうでなければ、舟には乗せぬ。」

と言いました。御台はこれを聞いて、

「のう、如何に、渡し守。例え東の果ての国であっても、名所に住む者ならば、心もあ

るでしょうに。水面に映る月を見てごらんなさい。風が吹いて波が立てば、見えなくな

りますが、本物の月は決して曇ることはありませんよ。姿だけを見て、狂えとはなんと

物憂いことでしょう。馬にも乗らないで歩いて来たこの狂女は、もう疲れ果てているのです。

ここは、名所の渡し場。もう日も暮れようとしているのに、舟に乗れとは言わずに、狂

えと言う田舎人の心は、なんと辛いことでしょうか。狭くはなるかもしれませんが、ど

うか舟に乗せてくだされや。」

と更に頼みました。これを聞いた舟人は、

「おお、これは、誤った。狂女には似合わぬ上品さよ。さあ、乗り給え。」

と、舟を寄せると御台様を舟に乗せてくれたのでした。

 さて、舟に乗ってしばらくすると、向かいの川岸では、木の回りに沢山の人々が集まって

いるのが見えてきました。御台様は、これを見て、

「のう、渡し守。あれに、大勢の人々が集まっているのは、私を待ち受けて、狂わせよ

うとしているのですか。」

と聞きました。舟人は、

「いやいや、あれは、大念仏をしているのです。外のお客さんも、知らない人が多いこ

とだろうから、この舟が向かいの岸に着くまでに、あの大念仏の由来を聞かせてあげま

しょう。よく聞きなさい。皆さん。昨年の三月十五日。ちょうど一年前の今日のことです。

歳の頃は、十二三歳の幼い者が、重病となってこの岸辺に倒れて居た所を、近所の人々

が助けて、様々に看病しましたが、とうとう亡くなってしまいました。今際の際に何処

のどういう者かと聞いてみると、その幼き者は、苦しい息をつきながら、

『私は、都北白川の吉田何某の嫡男、梅若丸です。人商人に拐かされ、こんな姿となりました。

都に母が一人で居りますが、私のことを捜しに来る者があれば、このことを伝えてください。

その為に、どうか、道野辺に塚を築いて、印に柳を植え、高札を立ててください。』

と、大人しく念仏を唱えて亡くなったということです。さて、船中にも都人がおります。

逆縁とはなりますが、皆々念仏を唱えください。」

と、言うのでした。対岸に着くと人々は、

「さてさて不憫なことじゃ、逆縁ながら、念仏をいたしましょう。」

と舟から降りて行きましたが、労しいことに御台様は、船端にしがみついて泣き崩れて

います。舟人はこれを見て、

「心の優しい狂女じゃな。今の物語にそれ程、涙を流すのか。さあさあ、もう着いたか

ら、舟より降りなさい。」

と言いますが、御台様は、顔を上げて、

「舟人よ。今の話しは、いつ頃の話しで、名をなんと言いましたか。」

と聞き直しました。舟人は、

「吉田の何某、梅若丸。さあさあ、あなたも都の者ならば、岸に上がって念仏しなさい。」

と答えました。御台様は、

「のう、舟人よ。これまで、親類も親も尋ねて来なかったのも当たり前のこと。その子

の母は、私なのですから。」

と、又泣き崩れるのでした。これを聞いた舟人も人々も、それはそれはと、袖を濡らさ

ない人はいませんでした。舟人は涙ながらに、

「今までは、他所の嘆きと思っていたが、あなた様の身の上のことだったのでか。さあさあ、

今はもう、帰らぬことですから、弔いをなされなさい。」

と勧めるのでした。御台様は、泣く泣く舟より上がると、塚の前に平伏して、哀れに口

説くばかりです。

「梅若よ。お前に会う為に、此処まで遙々と下って来たのに、今はもうその姿もこの世

に無く、その印だけを見なければならないとは、なんと無惨なことでしょうか。前世

からの因縁とは言え、死んで東路の土となり、この塚の下に我が子が居るのですね。

どうかもう一度、この世の姿を、この母に見せてくだされや。ああ、なんと儚い浮き世

なのでしょうか。」

と、声をあげて泣きました。人々はこれを聞き、

「とにかく、念仏を唱えなさい。死者も喜んでくれるでしょう。」

と言うと、御台様に鉦鼓(しょうご)を持たせて、念仏を勧めました。御台様は、よう

やく起きあがると、

「逆縁ながら、我が子の為に。」

と、鉦鼓を鳴らして、声を上げ、南無阿弥陀仏と唱えれば、人々も共に唱和するのでした。

御台様は、鉦鼓を止めると、

「のう、皆様。幼い声の念仏が、この塚の中から聞こえます。もっと、念仏してください。」

と言えば、人々は、

「いやいや、我々は遠慮して、母上だけが念仏なされなさい。」

と言うのでした。御台様はその言葉に従って、更に鉦鼓を打ち鳴らして南無阿弥陀仏

と唱え続けました。すると、また塚の中から、幼い声の念仏が聞こえ、やがて、柳の木

の陰から、梅若殿が姿を現したのでした。御台様は、あまりの嬉しさに、鉦鼓も撞木(しゅもく)

も放り出して、抱きつこうとしました。しかし、抱きつこうとすると消え失せ、また現

れます。

「おお、我が子か。」

「母上様。」

と、声は交わしますが、まるで、陽炎か稲妻、水の月の様に、捕まえようとすれば消え

去り、又現れ、見えつ隠れつしている内に、夜は明けて、そこには、柳の木だけが立っ

ているのでした。御台様は、柳の木に抱きついて、

「この世の名残に、今一度、姿を見せなさい。梅若よ。梅若よ。私も一緒に連れていきなさい。」

と叫ぶと、塚の上に倒れ伏して号泣するのでした。そこに、一人の僧が近付き、

「お嘆きは、もっともですが、菩提をお弔いなされませ。」

と、御台様を慰めます。御台様は、涙を堪えて、

「お坊様の教化は、大変有り難いことです。今はもう嘆いても、仕方有りません。梅若

の後世を弔う為に、どうか私を出家させてください。」

と頼みました。僧は、願いを引き受けました。御台様は、その場で髪を剃り落とすと、

妙亀比丘尼(みょうきびくに)となり、浅茅が原(東京都台東区花川戸)に庵を結んで

梅若の菩提を弔ったのでした。妙亀比丘尼は、花を摘み、香を焚いて、念仏を唱える毎

日を過ごしておられましたが、ある日、浅茅が原の池水にお姿が映るのをご覧になると、

「これこそ、明鏡円噸(えんどん)の悟りである。」

と、只一筋に思い切られて、西の空に傾く月を見ながら、

「いざや、私も連れて行ってください。」

と言うと、鏡の池にその身を投じたのでした。かの母上様の最期は、哀れともなかなか、

申すばかりはありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ④

2013年03月05日 18時52分16秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ④

 さて、梅若殿が亡くなった後、在所の人々は、遺言の通りに、道野辺に塚を築き、

柳の木を植えて、大念仏を行い、梅若殿の菩提を篤く弔ったのでした。今でも、三月十

五日には、沢山の人々がお参りにやって来るということです。(東京都墨田区堤通:木母寺)

 ところでまた邪見な者といえば、御台所が落ちた先の権の大夫です。権の大夫

は、粟津利兼の叔父に当たり、利兼の頼みによって、御台様を匿っていたのですが、こ

んなことを考えていたのでした。

「さてさて、吉田是定殿へのご恩は深いものがあるが、春は花、秋は紅葉と遊んで暮ら

す我が身にとっては、頼りにもならぬ御台所じゃ。この際、追い出してしまおう。」

と思って、御台様に向かって、

「如何に、御台様。そのうちにきっと、白川から追っ手がやってくるにちがいありません。

この家に御台様が匿われていることが知れ渡っては、恐ろしい事になる。今夜の内に

闇に紛れて、どこへでもお行きくだされ。」

と言って、情けなくも、御台様を追い出したのでした。頼む木の下に雨も堪らぬとは、

このことです。(諺:当てがはずれる事:正しくは、「雨漏る」)

御台様は、泣く泣く館を後にしました。権の大夫の女房は、余りに労しいので、御台様

の後を、逢坂の関まで追い掛けました。女房は、

「のう、御台様。こんなことになってしまいましたが、私の心は変わりません。」

と泣いて縋るのでした。御台様も、お前の心は分かっていますよと、さめざめ泣く

外ありません。それから、女房は、御台所の手を引いて、逢坂の関から山科を過ぎて、

日の岡峠(京都市山科区日ノ岡)までお供をしたのでした。ここで女房は、

「ここより、都はもうすぐです。若君の行方をお探し下さい。」

と言うと、名残惜しげに戻って行ったのでした。

 それからというもの、御台様は、都の中を彷徨い、梅若殿の行方を捜したのでした。

醍醐(伏見区醍醐)、高雄(右京区高雄山付近)、八瀬(左京区八瀬)、大原(左京区北東部)、

嵯峨(右京区嵯峨野)、仁和寺(右京区御室)まで、くまなく捜し回りましたが、分かりません。

そうこうしていると、五人の旅の僧と出合いました。御台様が、

「我が子、梅若の行方をご存じありませんか。」

と尋ねると、旅の僧達は、

「それは、いつ頃のことですか。」

と聞きました。御台様が、

「昨年の二月の末頃に、行方知れずになりました。」

と答えると、旅の僧達は、

「おお、それなら、その頃、大津三井寺の辺りで、東国の人買いらしい者が、子供を

連れていた。その子供を捜すのなら、東の方を捜しなさい。」

と教えて通り過ぎて行きました。これを聞いた御台様は、

「ええ、まさか、東の国に売られたのか。なんという情けない事になったのか。」

と、倒れ伏して号泣するのでした。涙ながらの口説き事も哀れです。

「それ、誰でも、何人子供が居ようとも、分け隔てをする親は居ない。まして、私は、

たった二人しか居ない可愛い息子に、二人とも生き別れ、母親として、助けてあげるこ

とが何も出来ないとは、情けない。ええ、もう年を取った身ではあるが、女であること

には変わりは無い。これより先は、狂女に扮して、東路の旅に出ることにしよう。」

と、決心すると、髪を四方へ振り乱して、笹の葉に四手(しで)を下げて、これを肩に

振り上げて、旅の仕度をしたのでした。

「真如の月は 曇らねど 狂女とや 人の言うらん。それも、これも、我が子の為と思

えば、何の恨みもありません。」

と独り言を言うと、御台様は、東国を指して歩き始めました。

(以下道行き)

八重一重(※桜:春)、八重九重(※都のこと)を立ち出で

四条五条の橋の上

王城の鬼門(※北東)に当たり、比叡山

これなる林は、祇園殿(東山区八坂神社)

祇園囃子の群烏

浮かれ心か、うば玉の(※黒い:祇園祭と関連づける)

早、立ち出ずる峰の雲

実りの花も開くらん

やがて、我が子に、粟田口(京都市左京区:※逢うた)

聞くさえ、ここに頼もしや

逢坂の関の明神、伏し拝み(滋賀県大津市)

打出の浜に、誘わるる

三井寺辺を尋ねんと

初夜より後夜の一天まで

御経の声は、有り難や

鐘楼堂(しゅろうどう)を打ち見上げ

この鐘、つくづくと(※鐘を撞く)

浪に響きて、磯千鳥

誰を松本(※待つ)を早や過ぎて(大津市松本)

尚も思いは、瀬田の唐橋を

とんどろ、とどろと、打ち渡り

大江の野に、鳴く鶴は(大津市大江)

子を思うかと、哀れなり

この下、露に袖濡れて(?)

裾に玉散る、篠原や(滋賀県野洲市)

見てこそ通れ、鏡山(野洲市・竜王町)

御代は目出度き、武佐の宿(滋賀県近江八幡市)

愛知川、渡れば千鳥立つ

小野の宿とよ(滋賀県彦根市小野)摺り針峠の細道

涙と共に急がるる

寝ぬ夜の夢は、醒ヶ井の寝物語(滋賀県米原市)

早や過ぎて、美濃の国に聞こえたる

野上の宿に着き給う(岐阜県不破郡関ヶ原町)

 美濃の国は、御台様の生まれ故郷であり、夫の吉田の少将と出合った土地でありました。

労しいことに、御台様は、とあるお寺に立ち寄って、

「人は、故郷へは、錦を着て帰るというのに、私は、子故に闇に迷い、このような浅ま

しい姿で、故郷を見ることになるとは、なんとも情けない。いったい、三千世界の仏様

や、八相を悟られたお釈迦様も、子を持つ親としての迷いの闇があったと聞く。又、

訶梨帝母(かりていぼ:※鬼子母神)と言う方は、千人の子をお持ちでしたが、一人の

子供と別れる時に、皆の子供と別れるのと同じく悲しまれました。人間というものは、

沢山の子供を持ったとしても、何れに分け隔ての心は無いもの。私は、たった二人の可

愛い子供と生き別れ、どうして行ったらよいのでしょうか。この世の中には、神や仏は、

無いのですか。今生で、もう一度、我が子梅若に巡り会わせてください。」

と、深く祈誓をすると、四方を何度も礼拝して、やがて泣き崩れるのでした。

(以下道行き)

美濃ならば(※実のらば)花も咲きなん杭瀬川(くいせがわ:岐阜県揖斐川支流)

夏は、熱田の宮とかや(※暑い)

涙の露は、岡崎の(愛知県岡崎市:※置く)

ようよう今は、浪の鼓(※浪の音が聞こえる)

竹のささら、ざざんざ(※波音の擬音)、浜松(静岡県浜松市)

風は袋井の(静岡県袋井市:※ふくらませる)

神に祈りを金谷の宿(静岡県島田市:※叶う)

憂き目を流せ、大井川

島田(静岡県島田市)、藤枝(静岡県焼津市)早や過ぎて

尋ねて聞けば、丸子川(まりこがわ:安倍川水系:※?)

三保の松原(静岡県清水区)細見し

のう、我が子の梅若を

夢になりとも、三嶋の宿(静岡県三島市:※見る)

足柄(静岡神奈川県境)、箱根、打ち過ぎて

恥ずかしながら、姿をば、

相模の国に聞こえたる(※さがみ:かがみ?)

大磯(おいそ)と聞けばよしなやな(※おいそ:老蘇森=不如帰=冥途の鳥なので良くない)

早や、藤沢に着き給う(神奈川県藤沢市)

片平宿(神奈川県横浜市保土ヶ谷区)を来てみれば

今は、夏かと覚えたり

秋には、やがて、保土ヶ谷の(※程もなく秋)

渡りかねたる、金川宿(神奈川宿:横浜市神奈川区:※「かね」の音を重ねるカ)

川崎に六郷の橋

世の中の悪しき事をも、品川や(※しない)

遠離(えんり)、江戸の

武蔵と下総の境なる

隅田川に着き給い

此処や彼処に佇み給う

御台所の御有様

儚かりともなかなか

申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ③

2013年03月05日 15時46分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ③

 無惨にも粟津利兼は、がんじがらめに縛り上げられて、松井の前に引き出されました。松井が、

「やあ、利兼。俺の味方に付けば、こんなことにはならなかったものを。さて、梅若は、

どうした。自害したか。落ち延びたか。正直に申せ。」

と言えば、粟津利兼は、

「ええ、定景。おのれは、主君の恩も忘れ、このような悪逆をするなら、因果は忽ちに

報うぞ。」

と言い放ちました。腹を立てた松井は、

「ふん、そんなに早く死にたいか。」

と言うと、白川の河原に引き出して、首を刎ね、晒し首にしたのでした。その上、高札

に、『この者、悪心を企むにより、斯くの如く行うものなり』と書かせたのは、まった

く情けないことです。

 松井が、首実検にやって来ました。すると、なんとも不思議なことに、粟津利兼の首は、

目を開いて、こう言いました。

「如何に定景。私に悪心など微塵も無いのに、よくもこんな高札を立てたな。三年の内

には必ず、お前達も晒し首にしてやるから覚悟せよ。」

そうして、粟津利兼の首は、天高くに飛び上がって行ったのでした。これを見た松井は、腰

を抜かし、ぶるぶると震えながら館へ逃げ帰ったのでした。

 これはさておき、落ち延びた梅若殿は、粟津の二郎利光に連れられて、坂本へと山道

を歩いていましたが、闇夜のことで道に迷ってしまいました。だんだんと夜が明けてきました。

しかし突然、粟津利光の具合が悪くなり、木の根本に倒れ伏してしまったのでした。驚

いた梅若殿は、

「どうしたのだ。利光。お前の父、利兼は、現人神と言われた人ぞ。その子ともあろ

う者が、どうしてこんなところで倒れてしまうのだ。母上のいらっしゃる所まで、何と

してでも連れて行けよ。お前が。ここで死んでしまったら、私はどうすればよいのだ。」

と、流涕焦がれて泣くばかりです。もう既に夜も明けてしまいました。梅若殿は、谷に

下ると、袂を清水に濡らして、利兼に与えようとしました。しかし、今度は帰り道を失

ってしまいました。獣道に迷ってしまったのです。あちらこちらと踏み迷って、どうし

ても粟津利光の元に帰ることができません。そうこうしている所に、奥州の人買いが通

りかかりました。人買いは、梅若殿を見つけると、

「おやおや、若殿。どうされましたか。私が助けてあげましょう。」

と言い、東国へと、梅若殿を連れ去ってしまったのでした。

 さて、粟津利光は、長いこと倒れていましたが、やがてかっぱと起きあがると、梅若殿

が見あたりません。

「さては、お一人で坂本へお行きになったか。」

と思い、急いで坂本へ走りました。しかし、坂本に着いてみると、御台様は、

「どうして、梅若丸は居ないのか。」

と言うではありませんか。粟津利光は、

「はっ、白川より御供をいたして、山を越えて参りましたが、途中、私の具合が悪くな

り、道端で倒れてしまいました。気が付いてみると、既に若君の姿がありませんでした。

お一人でこちらに向かわれたとばかり思っておりましたが、きっと獣道に迷われたに違

いありません。探しに行って参ります。」

と、そのまま立ち上がると、山々谷々を尋ね回りましたが、梅若殿の行方は、分かりませんでした。

粟津利光は、

「このまま、手ぶらで帰るのなら、御台様はさぞかし私を恨むことだろう。この上は、

どこまでも探し続ける外はない。」

と考えて、諸国修行をしながら、梅若殿を探すことにしたのでした。

 さて、特に哀れであったのは梅若殿でした。梅若殿を連れた商人は、大津の打出の浜

から、瀬田の唐橋を打ち渡り(滋賀県大津市)、東の方向へと足早に進みました。さす

がの梅若殿も、これはおかしいと思い、

「いったい、何処へ連れて行こうというのですか。私は、山中に家来を残して来ています。

坂本へ連れて行って下さるのでは無いのですか。」

と問い質しました。ところが、商人は、

「何、小賢しいこと小僧め。つべこべ言わずに早く歩け。」

と、引っ張ります。梅若殿は、

「さては、お前は、人拐かし(かどわかし)だな。とんでもないことになった。」

と、やっと事態に気が付くと、腰の刀に手を掛けましたが、あっという間に商人に取り

伏せられてしまいました。商人は、刀を奪い取って、梅若殿を散々に打ち打擲しました。

梅若殿は、

「お願いです。私は都の者ですよ。平にご容赦して、都に連れて帰って下さい。」

と泣きながら懇願しましたが、商人は、

「口のうまい小僧だ。」

と言って、更に打ち叩き、引きずって、歩け歩けと責め立てました。その有様は、まる

で、阿傍羅刹(あぼうらせつ)が、罪人を引っ立てて、懲らしめるが如くです。そうし

て、梅若殿は、隅田川の辺まで連れて来られたのでした。

 可哀相に梅若殿は、馴れぬ旅に重ねて、杖で強く叩かれ、足は切れて血潮に染まり、

もう一歩も歩けない状態です。川岸にどっと倒れ伏すと、もう立ち上がれませんでした。

商人はこれを見て、

「何で歩かぬか。急げ、急げ。」

と、引きずりますが、労しいことに梅若殿は、叫び声も出ずに、横たわったままです。

商人はいよいよ腹を立てて、死んでしまえとばかりに、杖で打ち叩き、やがて一人で東

国へと去って行ったのでした。まったく情けも無い次第です。

 そこに、在所の人々が集まって来て、声を掛けました。

「どうやら、由緒のある方とお見受けしますが、どちらからいらっしゃたのですか。

お名前は何と言うのです。」

梅若殿は、これを聞くと、苦しい息の下より、こう答えました。

「おお、情け深い人達ですね。私は、都、北白川、吉田の少将、是定の嫡子で、梅若

丸と申します。人商人に拐かされ、こんなことになってしまいました。都にいらっしゃ

る母上様が、さぞかしお嘆きになっていることでしょう。ああ、もうこうなっては、仕

方ない。私が、ここで死んだなら、道の辺に塚を築いて、印に柳を植えて下さい。そうして、

事の次第を高札に書いて立てて下さい。御願いします。ああ、お懐かしい母上様。」

梅若殿は、これを最期の言葉として、御歳は十三歳、三月十五日に、お亡くなりになっ

てしまったのでした。梅若丸の御最期は、なんとも哀れな次第です。

つづく

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忘れ去られた物語たち 18 説経角田川 ②

2013年03月04日 13時15分19秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

すみだ川 ②

 それから、3年が過ぎました。梅若殿は十三歳となり、明け暮れに父是定の菩提を弔

う殊勝さです。ところが、梅若が元服するまで、吉田家を任された叔父の松井源五定景

は、この頃こんなことを考えていたのでした。

「梅若が、十五歳になったら家督相続の為に参内しなければならないが、このまま、梅

若の下で仕えるだけというのも口惜しいことだ。いっそのこと、梅若を殺してしまい。

この俺が、吉田の家を継いでやろう。」

と、世にも恐ろしい企みを企てたのでした。松井は、山田の三郎を呼んでこう言いました。

「安親殿よ。お前に頼みたい事があるのじゃが、引き受けてくれるならば、話してやろう。」

山田三郎安親は、

「何でもお聞きいたしましょう。」

と言うので、松井は喜んで、恐ろしい計画を話したのでした。

「話しと言うのは、別でもない。実は、梅若を殺して吉田の家を俺が継ぐならば、山田殿

にも、過分の恩賞を取らせるという話しじゃ。どうじゃな。山田殿。」

山田はこれを聞くと、

「しぃ。声が高い。私が一味すれば、対する敵もありませんな。粟津の六郎利兼をなん

とかせねばなりませんが、奴は、元より大酒飲み。沢山酒を飲ませておいて、何とか

話しを付けましょう。もし、うんと言わなければ、その場でばっさりやってしまえば良

いでしょう。」

と話しに乗ったのでした。松井は、

「よしよし、それなら、お前は一旦戻っておれ。俺は、これから利兼を呼び出す手筈を

調えよう。」

と言うと、様々な肴を用意して、粟津六郎利兼に急ぎの使いを送ったのでした。何事か

と利兼は、急いで駆けつけて来ましたが、酒宴が準備されていて、ただ酒を勧められる

ばかりです。やがて、松井は人払いをすると、梅若殺害計画を切り出しました。

「かようかようの企てじゃが、おぬしも乗らぬか。」

粟津は、これを聞いてはっとしましたが、さらぬ体に聞き流して、

「おや、これはお恥ずかしいことを。私の心を引き計ろうとされるのですか。」

と答えました。松井は更に、

「いやいや、これは偽り事ではないぞ。山田殿も既に一味に加わっておる。おぬしもこ

の計画に加わらぬか。」

と誘いました。粟津は、座り直すと、

「のう、松井殿。梅若殿は、あなたの甥ではありませんか。この粟津六郎利兼は、その

ようなことに聞く耳はもちませんぞ。」

と、言うなり太刀を抜いて松井に斬りかかりました。松井は、危うい所をかわすと、飛

んで逃げ出しました。粟津は、追っかけて討ち殺そうとしましたが、

「いや待てよ。うかうかしていると、一味した山田が、梅若殿を殺しに向かうかもしれぬ。

ここは先ず、御台様や梅若殿に事を知らせ、お守りせねば。」

と思い直して、館に急行したのでした。粟津は、御台様の前で、涙ながらに報告をしました。

「松井源五、山田三郎の両名は、結託して、若君を殺して吉田の家を乗っ取ろうと企て

ております。私にも、一味せよとありましたので、座敷を蹴ってここに急行いたしました。

きっと、連中はこれより夜討ちに押し掛けて来ると思われます。さあさあ、直ぐにここ

から落ちますぞ。ご用意を。」

粟津が、大息ついで申し上げると、御台様も梅若殿もどうして良いか分からずに、ただ

泣くばかりです。粟津は、

「そのように、心が弱くてはいけません。とにかく先ず、御台様をお助けいたします。」

と言うと、御台様を坂本(滋賀県大津市坂本)の叔父、権の太夫の館に匿いました。

(※原文では、「西坂本」とあるが、西坂本は比叡山の西側地域修学院付近を指し、北

白川に近接しており、又後段の記述に照らしても地理的な矛盾を生じる。従って本稿で

は、これを比叡山の東側の「東坂本」に読み替えることとする。)

それから、粟津は東白川へ取って返し、約百人程の侍、中間(ちゅうげん)を集めると、

松井の夜襲に備えて、館の守りを固めたのでした。

 一方、松井は、粟津に切り掛けられて、ほうほうの体で逃げ延びましたが、足の震え

はまだ納まりません。山田を呼び出して、事の次第を語ると、山田は、

「時刻を移してはなりませんぞ。」

と、約三百の軍勢を揃えると、一気に北白川へと押し寄せ、鬨の声を上げたのでした。

待ち受けていた粟津は、櫓の上に駆け上ると、

「寄せ来たるは、松井の軍勢と覚えたり。無用の戦はやめ、その陣を退け。」

と言いましたが、一人の武者が進み出て、大音声に名乗りました。

「只今、ここに進み出た者を誰と思うか。松井源五定景の郎等に、兵五の介とは俺のことだ。

侍の身分は、渡り者だ。そっちこそ、今の内に降参せよ。」

これを聞いた粟津は、

「おのれ、三代相恩の主君を忘れ、主に弓引くとは、野干というより外はない。」

と言うなり、ぐっと弓を引き絞ると、びゅんとばかりに弓を放ちました。無惨にも矢は、

兵五の胸板にはっしと突き立ち、ばったりと事切れました。これを戦の初めとして、

敵味方が入り乱れての合戦となりました。しかし、多勢に無勢。やがて、粟津の勢は、

悉く討ち殺されてしまいます。粟津は、梅若殿に急いで、落ち延びるようにと勧めました。

梅若殿は、

「絶対に自害するなよ。お前も落ち延びて、早く合流せよ。」

と言い残すと、粟津の二郎を供として裏門から脱出しました。それから、粟津六郎利兼

は、櫓に上り、

「やあやあ、寄せ手の奴輩。鳴りを沈めて、よっく聞け。梅若殿は自害なされた。ここ

で、剛なる者が腹を切る所を見せてやるから、手本にしろ。」

と言うなり、鎧の上帯を切って捨てると、腹を切る振りをして、裏門へと脱出を計りましたが、

敵勢が大勢打ち寄せて、無念にも絡め取られてしまったのでした。

つづく

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