猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ⑤

2013年06月12日 09時56分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇⑤

 可哀想に花照姫は、一人寂しく泣きながら、まんじりともできません。あまりに悔しいの

で、夜中にとうとう、榊の前の寝屋の前まで来てしまいました。嫉ましくも、榊の前の囁き

声が聞こえてきます。花照姫は、

『私の肌は、葛城の宮にしか許さないのに、榊の前と契りを結ぶとは、なんと腹立たしいこ

とでしょう。もう、こうなる上は、今宵、忍び出て、磯部の海に身を投げ、この心の炎を

消す外は無い。』

と決心して、書き置きをすると、海に向かって彷徨い出たのでした。

 そうとも知らずに、葛城の宮は、望みもしない床の中で、花照姫のことばかりを思い詰め、

涙を流すばかりです。榊の前は、葛城の宮がふさぎ込んでいるので、榊の前が、様々口説き

ますが、葛城の宮は苦し紛れに、

「仰ることは分かりますが、私は大神宮(内宮)に百日の大願があるのです。それが終わる

までは、待っていただけないでしょうか。」

と言うのでした。榊の前は業を煮やして、

「さては、私を嫌っているのですね。そんなに嫌なら、焦がれ死んでも、生まれ変わり、

死に替わり、必ず思いを遂げますよ。」

と、寝屋から飛び出しました。妻戸(つまど)を開いて、別室に走り込むと、榊の前は、

書き置きがあるのに気が付きました。開いてみれば、花照姫の書き置きです。これまでの

経緯が書かれていました。これを読んで榊の前は、得心し、

『そうであるなら、宮様の心が、私に靡かないのも当たり前なこと。私の恋心が、花照姫

の命を奪ってしまった。どうしましょう。こうなったら、私も後を追う外は無い。』

と思い詰め、そのまま、花照姫の後を追って出るのでした。

 しばらくして、葛城の宮は、榊の前が居なくなったことに気が付きました。ほっとして、

寝屋から出てみると、書き置きがあります。取って見ると、花照姫の書き置きです。これは、

大変なことになったと、葛城の宮も磯部の海へと急行したのでした。

 葛城の宮が、海岸まで出て、あちらこちらを探し回っていると、とある柳の木に、小袖が

掛かっているのを見つけました。花照姫の小袖と、榊の前の小袖の二枚です。葛城の宮は、

「ああ、既に遅かったか。二人とも身投げをして死んでしまったのか。」

と、突然の惨事に、声を上げて泣く外はありません。騒ぎを聞きつけた采女もやってきました。

我が子の小袖を見るなり、泣き崩れておりましたが、小袖の端に、何かが書き留められています。

榊の前は、入水の前に、こう書き置きをしたのでした。

『此の度、私が縁組みをした、葛城の宮様は、勿体なくも、舒明天皇の第二の宮様です。

帝位をお継ぎになりましたが、逆目の皇子の悪逆によって、ここまで落ちられて来られたの

です。探索の目が厳しく、花照姫様と、兄妹であると仰っていましたが、本当は夫婦の間柄

です。私が、そうとも知らずに、祝言を挙げてしまったので、花照姫様は、それを怨んで

入水なされました。私も、後を追って償います。どうか、葛城の宮様を宜しくお守り下さい。』

これを読んで、采女は驚き、

「ええ、そんなこととは知りませんでした。大変失礼なことを致しました。それなら、そうと、

言って下されば、こんな可哀想な事にはならなかったのに。」

と涙に暮れました。葛城の宮は、

「こうなった上は、もうどうしようも無い。生きていても仕方ない。私も、姫の後を追います。」

と、駆け出すのを、采女が飛びついて止めるていると、正装の老人が三人、どこからともな

く現れて、

「待て、その二人の者共。私が、方便によって、助けることにする。それでは、会わせて

あげよう。」

と言うと、海から二人の姫を返したのでした。葛城の宮も采女も、走り寄って、喜びの涙

に咽びました。三人の翁は、

「我等は、天照神、春日神、住吉神の三社であるぞ。お前の行く末、百王百代に至るまで

守るであろう。」

と、新たな神託を残すと、忽ち姿を変じて、雲井遙かに昇って行くのでした。驚いた人々は、

空に向かって、三度礼拝し見送りました。まったく有り難いともなんとも、尽くす言葉も

ありません。

つづく


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