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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記③

2012年07月17日 14時41分13秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人二段目 その2

さて、その頃館では、柳の前が、事の次第がどうなったと、そわそわとしていました。

柳の前は、千代若を抱いて、館を出たり入ったりしながら、義父秋弘が弘友を、無事に

連れて帰って来るのを待っていたのでした。居ても立っても居られなくなった柳の前は、

やがて、館を忍び出でました。そんなところを通りかかったのは、弘友の装束を着せら

れた馬子でした。馬子は、途中で秋弘に咎められていたので、びくびくしながら馬に乗

っていました。柳の前は、馬上の小袖羽織に夫の紋を見つけて、走り寄りました。

「のうのう、そこを行くのは、弘友殿ではありませんか。お待ち下さい。」

と言うと、馬の尾筒に縋り付きました。またまた呼び止められた馬子は、飛び上がって

驚くと、いきなり刀を抜いてばっさりときりつけました。そして、後ろも見ずに一目散

に走り去って行ったのでした。

労しいことに、柳の前は、肩先から脇腹に切り下げられて、そこにばったりと倒れ伏しました。

哀れな柳の前は、もう虫の息でしたが、千代若に乳を含ませると、微かな声で口説くのでした。

「ああ恨めしい、我が夫よ。五百生の奇縁によって夫婦となった私を、何でこのように

切り捨てるのですか。例え、私との縁が切れて、私を憎んでいたとしても、三歳のこの

子は、あなたの御子ではありませんか。母が死んで、誰が育てて行くのですか。

 今になって言うことでもありませんが、

『五月雨かや不如帰 鳴り鳴く里の多ければ』(足利義輝辞世を引いて:涙のような五月雨がふる里で、沢山の不如帰が鳴いている:世の中の人々の弘友への嘲り)

『胸の炎(ほむら)を押さえつつ 色には出でぬ埋火(うずみび)の 底に焦がるる我が思い』(胸の炎を押さえて、見えない埋火のように焦げている私の思いがわかりませんか)

父上様との間に立って、陰となり仲立ちして、うまく行くようにと取りなしして来て、

この度、遣いを出したのも、恨みながらも我が夫を悪くは思っていないからこそ。陰な

がら、忠はしても、一度も仇になることをしていない私を、よくも刀に掛けて命を奪い

ましたね。

 千代若よ。母の最期の言葉をよっく覚えて、もし生き延びて成人し、父に巡り会う時

は、母が思いを詳しく語って恨みなさい。千代若よ。成人したのなら出家となり、必ず

母が菩提を弔ってくださいね。ああ、名残惜しい我が子よ。」

と言うと、まだ十九歳だというのに、とうとう息絶えました。まったく哀れなことです。

 すると突然、胎内の嬰児(みどりご)が、忽然と生まれ出てきて、産声を上げたのでした。

 

 さて、弘友は、父から勘当されて面目も無く、知人へ頼ることもできずにおりました。

季節は長月(旧暦9月)の夕方、麻の単衣(ひとえ)も肌寒く、行く末も知れない心細

さのまま彷徨っていますと、草むらから幼い子供の泣き声が聞こえてきました。どうや

ら、一人ではなく、二人の子供が泣いているようです。いったい何事かと近づいて見て

みると、なんと一人は千代若、一人は生まれたばかりの産子(うぶこ)です。そして、

傍らに死んでいるのは、妻の柳の前ではありませんか。弘友は、これは夢か現かと、死

骸に取り付いて嘆き悲しみました。死骸を良く見てみると、左の肩より脇の下に切り捨

てられています。

「これは、いったい何者の仕業か。譬えこのように身を落としていても、敵(かたき)

を取らずに居られようか。ええ、千代若、幼いとはいえ、母の敵を教えられないとは恨

めしい。また、この生まれ出でた子は、どうして胎内において、湯とも水とも成らずに

生まれてきて、嘆きをさらに重ねるのだ。いったい何の因果の報いであるか。」

産子を懐に入れ、左手に千代若を抱き上げて、右手で妻の死骸を押し動かして、悶え苦

しむ弘友の有様は、まるで幽鬼のようです。弘友はつくづくと無常を感じて、

「これは、すべて自分の煩悩、色欲の迷いより起こった事だ。親子夫婦の嘆きの原因は、

何一つとして外から来たものは無い。煩悩即菩提とは、まさしくここだ。」

と悟ると、忽ちに発起すると、涙を押しとどめて、

「如何に妻よ。これを菩提の種として発心し、堅固に修業して、後世を弔うぞよ。おま

えは、私にとっては、法身仏(ほっしんぶつ)である。」

と、三度礼拝すると、穴を掘り、

「それでは、仮の色相を返すぞ。我妻よ。上の小袖は私に貸してくれ。」

と言うと、妻の小袖を羽織り、死骸を埋めて印を立てたのでした。

『さて、この子供達はどうしたものか。一人ならば何とか手立てもあるものを。二人も

居ては育て様も無い。仕方ない。やはり産子を捨てるしかない。』

と思った弘友は、産子を懐から取り出すと、道端に捨て置きました。しかし、嬰児の泣

き声に心引かれて、また戻っては抱き上げて、涙ながらに言い聞かすのでした。

「先に生まれた者を兄と言い、後から生まれた者を弟と言うが、いずれも同じ父の子で

あるから、差別があってはならないが、兄を取って弟を捨てることを、どうか恨まない

でくれよ。兄とても父の手で育てるわけでは無いからな。」

と、まるで知恵のある者に言う様に、嬰児に言い聞かす弘友の心の内は、いかばかりで

しょうか。嘆きながらも弘友は、懐中より鬢鏡(びんかがみ)を取り出すと二つに割り、

嬰児にその半分をくくりつけました。

「もし、仏神のご加護があり、人に拾われて成人して、兄と巡り会うことがあるのなら、

その時の印として、ここに添えておくぞ。」

と、弘友は言うと、その半分を千代若にくくりつけて、その場を離れました。ところが、

その時突然に巨大な狼が一匹現れ、嬰児を咥えると、忽然と山の中へと消え去ったのでした。

弘友は、驚いて走り戻りましたが、もう既に遅く、ただただ、呆れ果てているしかありません。

なんということでしょう。自分のせいで、幼い命が奪われたと悔やみながらも、南無阿

弥陀仏と回向するほかありません。千代若を抱いてその場から去っていく弘友の心の内

程、悲しいものはありません。

 さて、その夜も既に丑三(午前2時頃)の頃のことです。弘友は、自宅の門外に、千

代若をそっと寝かすと、自分は、傍らに身を隠して様子を窺いました。

 やがて、暁方になって、番犬がしきりに吠えるので、番の者が出てみると、捨て子が

あるではありませんか。抱き上げてみると、弥彦のお守りを身に付けています。はっと

思った番人は急いで、秋弘に伝えました。秋弘が門に出てみると、疑いも無い千代若です。

「どこへ連れて行ったのかと思っていたが、さては、この祖父に孫を育てよと、母が置

いて行き、母は、身を投げ死んだのであろう。むう、尤も尤も。どうして粗末にあつか

うことができようか。」

と秋弘は、御乳(おち)乳母(めのと)を沢山つけて、大切に育てるのでした。

 弘友は、この様子を立ち聞いて安心すると、大変に喜びました。

この人々の有様は、哀れとも中々申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記②

2012年07月17日 13時57分06秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人二段目 その1

 荒王は在所の者達に介抱されて、ようやく弘友のもとに戻りました。荒王は、

「我が君におかれましては、御怪我はありませんか。私は、命には別状はありませんが、

足の筋を切られて足腰も立ちません。命があってもお役にも立てませんので、只今、自

害致しますが、君は、何事も無かったように館へお戻り下さい。」

と言うと、自害しようとしましたが、人々がこれを押しとどめて、

「これは不覚ですぞ荒王殿。御用には立たないとしても、命を永らえて菩提の道に入り、

君の御行く末を見守るのが本意ではありませんか。死んで、どんな益がありますか。い

つまでも我々、在所の者がお世話いたしますので、ここは平に平にお留まりください。」

と、道理を尽くして説得をしたので、思いとどまったのでした。そうこうしている所に

館から、しりべの惣次(そうじ)が遣いとして駆け込んできました。

「柳の前様からの遣いです。父上様のご立腹が甚だしく、只今、ここへ向かっておりま

すので、君におかれましては、早くお隠れください。」

これを、聞いた弘友が、どうしようかと慌てると、宿の亭主や遊女達も、大殿(おおと

の)がやってくるとは一大事と右往左往するばかりです。じっと思案していた荒王が、

良い手立てがあると、人々に下知すると、人々は言われた様に、駄賃馬を一匹引き出しました。

人々は、弘友の衣装を馬子に着せて、大小を差させ、馬に乗せて遊郭から先に送り出すと、

今度は、弘友が馬子の衣装を着て、切れ編み笠で顔を隠して逃げ出したのでした。

 さて、父の秋弘は遊郭の近くまでやって来ていましたが、馬に乗って来る弘友を見つけて、

「そこを通るのは弘友だな。しばし止まれ。」

と声をかけました。馬子は突然声を掛けられて驚くと、鞭を打ち当てて逃げ去ってしまいました。

秋弘は、これを見て、

「やあ、おのれ弘友。どこへ逃げるか。待て、待てえ。」

と追いかけましたが、馬に老人の足が追いつくはずもありません。馬はどこへともなく

走り去って行方知れずとなりました。仕方なく戻って来たところに、今度は馬子の衣装

を来た弘友がやってきました。こともあろうに、編み笠で顔を隠して、俯いて逃げてき

た弘友は、ばったりと父秋弘にぶつかってしまったのでした。驚いた拍子に、弘友の笠

は、はらりと落ちました。秋弘はこれを見て、

「やあ、おのれの有様は何事だ。」

と歯がみをして、怒りは益々煮えたぎります。弘友は赤面して俯いているしかありません。

呆れ果てた父秋弘は、

「只今ここで討って捨てようと思ったが、流石に親の手で討つのも忍び無い。恩愛の慈

悲によって命は助ける。今日より勘当じゃ。これより何処へでも行け。館へ帰ることは許さぬ。」

と言い残すと、怒りながらも涙ながらに館へと戻って行ったのでした。弘友は、なすす

べも無く、父の後ろ姿を見送るのでした。哀れな親子の別れです。

つづく


忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記①

2012年07月14日 17時13分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人初段

 さて、つくづく、人間界の善悪を観察してみると、「色声香味触法」(しきじょうこう

みそくほう)と言って、六つ穢れた世界に迷って、六根に作る罪咎が輪廻の連鎖を引き

起こしている。いったいいつになったら、この輪廻から逃れることができるのであろう

か。しかし、一念を転じて、捉え直してみれば、煩悩そのものが、菩提生死であり、煩

悩故に、忽ちにして涅槃となることもあるのである。

 本朝五十八代光孝(こうこう)天皇の時代、越後の国のお話です。

大沼権之太夫秋弘(おおぬまごんのたゆうあきひろ)という長者がおりました。その家

は、大変の裕福で、弥彦山の麓に住んでおりました。去年の春に妻を亡くしましたが、

権之助弘友(ひろとも:後の弘知法印)という二十四歳の長男がおります。また、その

嫁は、渡部(わたべ)の刑部重国の娘で柳の前と言い、歳は十九歳、その子に三歳にな

る千代若という孫もありました。なんの不足も無い暮らしをしておりましたが、身分の

高い低いに限らず、色香に迷うのが人の心というものでござります。若くて美男であっ

た弘友は、世間の嘲りも顧みずに、遊郭に通い詰める生活をするようになってしまった

のでした。父の秋弘は、常日頃からそんな弘友を正してきましたが、一向に改める気配

もありません。そもそもこのことが、これからの嘆きの発端となったのでした。

 さて、大沼家には、数多くの郎等がおりましたが、既に亡くなった家老職、弥彦の藤

太信時の息子である荒王信竹(あらおうのぶたけ)という十八歳の若武者が、家老職と

して、弘友に仕えております。大力の荒物で、若年ではありますが、常に弘友に付き従

う義理者でもあります。

 その頃、越後の国の柏崎と言う所は、北陸道七カ国どころか、秋田、酒田に至るまで、

回船運送の拠点港として繁盛し、海路陸路共に往還の宿場として栄えました。沢山の旅

人がやって来ましたので、遊君や白拍子を目白押しに立たせて旅人を慰めたものです。

しかしそこで、色事に耽る人々は、風気、秩序を乱して、親の勘当を受けたりしました。

柏崎と言うところは、まさに悪所とも呼ぶべき所でした。

 

 さて、今日も権之助弘友は、荒王を連れて柏崎へと向かっていました。元より好みの

色小袖をはおり、編み笠を目深に被って顔は隠す風情ですが、その姿は人目に余る派手

さです。その心の内は情けない限りです。

 さて一方、館では父の長者秋弘は、嫁の柳の前を近付けると、

「お前は、今まで知らないはずは無いが、あの権之助弘友めは、我が子とはいえ、親子

夫婦の道も分からず、親の忠告も聞き入れない。まったく不義千万の奴だが、これまで

のことは、親の慈悲によって堪忍することとする。しかし、昔が今に至るまで、嫉妬心

の無い女など居ない。夫の不義を諫めないのは、かえって妻の不覚であるぞ。その上、

親の身としては言いにくい事もある。いかがじゃ。」

と言ったのでした。柳の前はこれを聞いて、

「恥ずかしながら、父上様の仰せがありましたので、全てをお話いたしましょう。私と

してもどうして妬みが無いなどということがあるでしょうか。しかし、お考えにもなっ

て下さい。父上の忠告さえ聞き入れないその人が、私の言うことなど聞くはずもござい

ません。夫が浮き名を流すのをご覧になって、父上様のご立腹も重なれば、夫の為、自

分の為、風聞を知りつつも、せめて人目を忍んで、胸の炎(ほむら)を押し包み、色に

も出さない私の心を御推測下さい。」

と、涙を流すのでした。秋弘は、

「むう、それは賢い心である。お前のような賢女は、又二人と居るまい。しかしながら、

このまま放っておいては、悪所で身代を遣い尽くし、家を失うだけでなく、末代までの

恥辱となる。きゃつめを勘当して、親子の縁を切るべきか。よし、あまりにも許し難い

ので、この上は、自ら悪所に行って、諸人の前で恥をかかせてくれる。もしもそれでも

従わないのであれば、切って捨ててくれる。」

と、言うなり、座敷を立つと、悪所を指して出かけて行ったのでした。

 その頃、柏崎には、越前敦賀の津より酒田へ下る回船が着岸しました。上方では有名

な有徳人の風流者である篠原右源次(しのはらうげんじ)の船でした。右源次は、荒川

団蔵を初め、大勢を打ち連れて新町に上がると、遊君を集めて酒盛りをして遊びました。

丁度そこへ、大沼権之助弘友が、荒王を連れてやってきました。右源次が派手に遊んで

いるのを見ると弘友は、

「いかに荒王。あの座敷を通らず、日頃より馴染みの遊女どもから、臆病者と思われて

は、いかにも無念である。どうするか。」

と、言いました。本より血気盛んな荒王は、

「何ほどのこともありません。少しも異論はありませんよ。どうぞお任せください。」

と、言うなり、主従ともに編み笠をぱっと投げ捨てると、御免とばかりにずかずかと座

敷に上がり込んだのでした。二人は、脇差しの鞘で右源次と団蔵の頬下駄をしたたかに

打ち当てると、どうだとばかりに居直りました。突然の乱入でしたが、右源次は慌てずに、

「おやおや、これは珍しい。この座敷に、刀を差した目明きに似た盲目が来たぞ。それ

それ、道を空けて通してやれ。」

と、相手にしません。団蔵が、

「眼(まなこ)も無くて、大小は何の用にたつのやら、まったくおかしな生き物よ。」

と、からかうと、荒王は、

「ほうほう、それは、我々のことですかな。眼が見えませんので、どなたとも分かりま

せん。許してくだされや。まずまず、ご知人になりましょうかな。」

と、盲目の真似をして団蔵の傍へと探り寄ったのでした。荒王は、団蔵に飛びかかるや

いなや、両腕を引っつかんで、

「この野郎は、口が悪過ぎるので、座敷を塞ぐ邪魔者だ。取って捨ててくれるわい。」

と言うなり、遙かの庭先へと投げつけました。物凄い力です。団蔵は、築山の立て石に

ぶち当たると、木っ端微塵になってしまいました。狼藉者を取り押さえようと大騒ぎに

なりましたが、荒王が太刀を抜いて暴れ回るので、右源次もこれは敵わないと、逃げ出

しました。船頭達も我も我も船に逃げ帰り、ほうほうの体で海へと漕ぎ出しました。

 荒王は、大勢を追い散らすと、どうだとばかりに立ち戻ろうとしました。しかしその

時、空き船の陰から一人の男がつつっと忍び寄ると、いきなり荒王の両腿に切り付けま

した。薄手ではありましたが、筋を切られた荒王は、ばったりと倒れてしまいました。

この男は、荒王の首を掻き切ろうと近づきました。ところが、荒王はこの男を引っつか

むと、その大力で、男の首をねじ切ってしまったのでした。それから、荒王は、なんとか立

ち上がろうとしましたが、さすがの荒王でも立ち上がることはできませんでした。そこ

に、在所の者達が集まってきて、荒王を助けました。荒王の働きに感ぜぬ者は無かったのです。

つづく

1


忘れ去られた物語たち 12 説経王照君 ⑥

2012年05月29日 14時59分41秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

おうしょうぐん ⑥

 さて、胡国の兵は、輿に乗せた木人形を、誠の王照君と思って、息も付かずに走り帰

りました。ケンダツ王は喜んで、

「そもそも、漢朝の奴輩(やつばら)が、この国に踏み込んで、王照君を奪おうなど、

蟷螂が斧(とうろうがおの:無謀の例え)というもの。漢朝の奴輩の耳、鼻切り落とし、

生きながらに追い返して、末代までも見せしめにしてくれん。」

と言えば、皆々、一度にどっと笑いました。それでは、王照君を輿から出して休ませよ

と、声を掛けますが、返事もありません。ケンダツ王は耐えかねて、輿のそばに立ち

寄ると、

「如何に、王照君。最早、漢朝のことは、ふっつと思い切りなさい。どうして出てこな

いのです。姿は夷だが、心の花は劣ったものではありませんよ。」

と、抱き上げて出して見てみれば、なんとしたことでしょう。人ではなくて木人形です。

「これは、物言わぬも当然。さても無念や。漢朝の奴輩に謀られるとは、口惜しい。最

早、生きる甲斐も無い。おのれ漢朝。」

と、自ら兵三百万騎を率いて、漢朝へと押し寄せる有様は、凄まじいばかりです。

 一方、漢朝では、思いのままに王照君を奪い取っての凱旋に沸き立ちました。ハンリ、

両将軍には厚く恩賞が下されました。しかしゲンシリョウは、これで終わった

訳ではないと、次のように言いました。

「まずまず、天下太平。目出度くは思いますが、今度は胡国のケンダツが直々に、攻め

て来ると思われます。今度は、私が一人で出向き、今後、漢朝へ仇をなさぬ様に、しか

と仕置きをいたしましょう。ちょっと持たせたい物があるので、人夫を少しお貸し下さい。」

光武帝はこれを聞いて、

「むう、あなたは只の人では無いので、何かお考えがあるとは思いますが、目に余る胡

国の大軍に、あなた一人では心許ない。せめて、五万十万の軍勢を連れて行きなさい。」

と心配しましたが、ゲンシリョウが、

「いやいや、万事、それがしにお任せを。」

と言うので、帝も諦めて、自分の黄金の具足と明陽剣(みょうようけん)という宝刀を

ゲンシリョウに与えて、万事を頼まれたのでした。

 さて、ゲンシリョウは、賜った金の鎧兜を身につけ、明陽剣を帯びると、人夫を集め、

猪や兎、鶏や犬、牛馬など、色々な生贄を用意させると、白雲山の麓の草原に祭壇を祀

り、四方に旗を立て、清き酒と生贄を献げました。すると、不思議なことに、どこから

ともなく、老人が一人珍しい馬に乗り、また恐ろしげな顔の二人の男が近づくと、供え

た酒や生贄を、むしゃむしゃと食べ始めました。やがて、口を開いて、

「この老人は、前漢高祖の頃、帝に一巻の巻物を与えたクホウセキコウという者である。

さてまた我等は、チョウリョウ、樊 噲(ハンカイ)と申す者である。兵法の奥義を究

め通力を得て、今は仙人となる。王照君へも力添えをしてきたが、今、この祀りに合い、

御味方いたさん。もうすぐ、夷どもがやってくるぞ。」

と言うのでした。案の定、しばらくしてケンダツ王が、白雲山の麓に到着をして、陣を

張って休憩しました。すると、どこからとも無く現れた土民らしい者が、立て文を竹に

結い付けてケンダツ王の陣の前に立てて、立ち去りました。ケンダツ王がこの文を開いて見ると、

『漢朝の大臣ゲンシリョウがこの文を書く。さてこの度、ケンダツ王は、三百万騎の軍

勢で漢朝を攻めようとなさっておりますが、このゲンシリョウと、クホウセキコウ、チ

ョウリョウ、樊 噲の三人で、あなた方の首を頂きに行きます。笑止ながら、三百万騎

の人々は、白雲山の苔に埋もれてしまいますがいいのですか。よくよくお考え下さい。』

と書いてありました。ケンダツ王は、いよいよ腹を立て、

「ええ、おこがましい。ゲンシリョウと言う痩せ男め。前漢の幽霊と共に向かうなど、

大嘘に違いない。三百万騎を三手に分けて、攻め立てて、漢朝の種を根絶やしにしてくれる。」

と、怒濤の如くに白雲山から出陣しました。ところが、その途端に辺りは霧に包まれ、

夜のように真っ暗闇となってしまいました。そして手足が竦んで動くこともできません。

そんな中でも、チクリトウとケンカイランは、もがきにもがいておりましたが、怒鳴っ

ても叫んでも、手足は縛られたようにピクリとも動かせないのでした。

 そうこうしているところに、ゲンシリョウの一行が、日月を刻印した旗を靡かせて

動けない両将軍の前を通りかかりました。

「やあ、これなる二人は先駆けの大将か。こうなると思ったので、予め(あらかじめ)

お知らせしておいたのに。これから、ケンダツ王も引っ捕らえてくるので、暫く待っていなさい。」

と、言い捨てると、一行はどっと笑って通りすぎました。二人は、口惜し、無念とばか

りにいきり立ちますが、道の端にころがったまま、どうにも動けません。

 やがて、ケンダツ王以下三百の大将達が、同じようにして捕らえられてきました。す

ると、ようやく霧が晴れてきたのでした。しかし、胡国の人々の身体はピクリとも動き

ません。ゲンシリョウが、

「悪逆を企んだ科(とが)により、只今、斬首いたす。臨終、良くたしなめよ。」

というと、チョウリョウ、樊 噲は、剣を構えてすり寄ります。しかし、その時ケンダ

ツ王は、はらはらと涙を流して、

「これまでの事、誠に誤りでした。この上は、御慈悲に命ばかりは助けてください。

これよりは、長く漢朝の家来となり、貢ぎ物も献げます。二度と仇はいたしません。」

と言うのでした。しかし、クホウセキコウは怒って、

「今はそんなこと言っても、やがて、約束を変じるに違いない。さあ、早く切ってしまえ。」

と言うのでした。チョウリョウ、樊 噲両人が、剣を振り上げるところを、ゲンシリョ

ウは、押し留めて、

「ここは、それがしに免じて、助けあげて下さい。」

と、命乞いをしたのでした。ゲンシリョウは、ケンダツ王に近づき、

「それでは、命は助けることにするが、最前に奪い取った漢朝の百余州を返還し、さら

に毎年の貢ぎ物を欠かさず、今後、漢朝に弓を引かぬと、固く誓うか。」

と言いました。ケンダツ王は涙を流し、

「命さえ助けていただければ、長く漢朝の家来となります。」

と誓うのでした。その時ようやく呪縛も解かれ、胡国の軍勢は、氷の解けるように元通

りになったのは、まったく稀代の有様でした。

 その後、都へ戻ったゲンシリョウは、帝に事の次第をお話になると、暇を賜り、元の

庵に立ち帰り、水草清い山の中で、光武帝の繁盛を祈ったということです。

目出度きとも中々に例えぬ方もなし。

寛文九年巳酉年陽月吉日(1669年)鶴屋喜右衛門板

おわり

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忘れ去られた物語たち 12 説経王照君 ⑤

2012年05月28日 21時48分09秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

おうしょうぐん ⑤

 このようにして、異国の夷「チクリキ」と「ヘンカイ」は、万里の嶮岨を乗り越えて、

ようやく胡国へと戻ったのでした。ケンダツ王の悦びは限りも無く、王照君の花のよう

な姿をご覧になって、

「さてもさても、世の中にこのような美人が居るとは、驚いた。かの漢朝には、このよ

うな美人が山のように居るのであろうのう。」

と感歎しましたが、王照君が、漢朝でも千人第一の美人で有ると聞いて、更に悦びました。

ケンダツ王は、姫君を慰めようと、様々の鳥を集め庭に放し、様々に気を引こうとしましたが、

王照君の心は晴れません。ただ、都のことだけを思って、沈み込んでばかりです。ケン

ダツ王は、この様子をご覧になり、

「いやいや、そのように心が弱くては困ったものだ。よし、これより野狩り、山狩りを

行うこととする。ちょうどケンリ山の花も盛りであるから、心の慰めにちょうど良い。」

と王照君を輿に乗せ、ケンダツ王を始めとして、一門の公卿大臣は、早速にケンリ山へ

と向かうのでした。

 さて、漢朝では、臣下大臣が集まり、評定の最中です。シバイリュウ、シバユウの両

将軍が言う事には、

「先日の胡国との戦いでは、味方が沢山討たれたために和睦して、王照君を胡国に遣わ

しました。万人の死に替えて一人の后を犠牲にすることは、万民には有り難い限りであ

り、後の世にも、女を惜しまぬ誠の聖王と、書き記されることでありましょう。

 

 しかし、我等両将軍は、大軍を率いて出陣したにもかかわらず、何の功も残せず、た

だ后を敵に渡しただけです。これを、知略などと澄ましていては、後の世の名も恥ずか

しいばかりです。ですから、我等両人が、手勢を率いて、王照君を取り返し、最前の恥

辱を雪ぎたく思います。」

と、奮い立っています。これを聞いたゲンシリョウは、

「ご両人の仰ることもごもっともです。しかし、胡国は多勢であり、かつ統率が取れて

いますから、いくらあなた方に、知謀、勇力があったとしても、簡単には行きませんよ。

よくよくお考えあるべきです。」

と言いました。しかし、両将軍は聞き入れません。

「もっともとは思いますが、最早、我々には生きる甲斐もありません。十死一生と思い

切ったからは、再び戻るつもりもありません。もし、后を救い出すことができたなら、

またお目に掛かりましょう。」

両将軍は、死をも厭わないと断言します。決意が固いと知ったゲンシリョウは、

「そうであれば、何よりも先ず、姫君を助け出してから、合戦に及ぶようにお願いしたい。

兎角、戦が先立っては、姫君を救い出すことが難しくなります。私の考えを聞いて下さい。

例えば、心が強く知恵の深い侍一人に、国中より大力の者を三十人選びだし、商人に仕

立てて胡国に遣わし、時間をかけて商売をさせるのです。又、王照君に良く似た人形を

作り、両将軍は時節が整うまで山に隠れて居て下さい。胡国の風習では、春になれば花

見という狩りを行い、后を伴って野山に出ます。その機会を狙って、一文字に駆け入って、

王照君を奪い取るのです。それから、人々が代わる代わるに背負って逃げなさい。途中

にかの人形を輿に乗せて置き、守ると見せて暫く戦い、その間に姫を落とすのです。道々

に兵は配置して、交代交代に姫を運んで行きなさい。それから、人形の輿を打ち捨てて

逃げれば、胡国の兵は、これを誠の王照君と思って取り返して帰るでしょう。その後の

戦いは、それがしに任されよ。如何か。」

と提案すると、両将軍を始め諸大臣は、あっとばかりに感じ入ったのでした。早速に

ゲンシリョウの提案通りに、王照君奪回の準備が整えられました。まず、ハンリを頭領

として、大剛の者三十人を商人に仕立てて胡国に送り込むと、両将軍は、三百騎を伴っ

て、胡国の山中深くに忍び込んだのでした。

 これはさておき、ケンダツ王は、王照君を伴ってケンリ山へとやって来ました。麓に

大幕を張ると、ケンダツ王は、犬や鷹を放して、波のように勢子を立たせ、鶉(うずら)、

雲雀(ひばり)、猪、兎などの獣を追い回し、日が暮れるのも忘れて、あなたこなたを

駆け回りました。幕内には、王照君と女房達、下働きの人々が残るばかりです。その

隙を狙って、ハンリは一気に幕内へ駆け入り、雑人をおっ散らすと、王照君の前に畏まり、

「それがしは漢朝のハンリと申す者、帝の嘆き深き故、君を奪い返しに参りました。

ゲンシリョウ、両将軍の謀(はかりごと)はか様か様。」

と言えば、王照君は夢とも弁えず、ハンリの背中に背負われました。ハンリは、ここを

先途とばかりに、飛ぶ鳥の如くに走り出しました。

 おっ散らされた雑人達は慌てて、ケンダツ王の所へ走り行き、王照君が奪われたと告

げました。聞いたケンダツ王が、怒り狂って、

「やあ、それ、追っかけ追いつき、引き裂いてしまえ。」

と言えば、胡国の兵は、我も我も怒濤の如くに追いかけ始めました。ハンリは、あっと

いう間に十里(約40Km?)程逃げましたが、獅子の如くに猛る胡国のテッケン、ヘ

ンカイは、もうすぐそこまで追っかけて来ています。その時、ハンリは、例の木人形

の輿を出させておいて、自分は王照君を背負って、脱兎の如くに逃げて行きます。胡国

の兵は、輿を見つけて、叫き(おめき)叫んで迫ります。輿を掻いていた漢の兵は、暫

く応戦していましたが、やがて輿を捨てて逃げ去りました。これを見て、テッケンとヘ

ンカイは、大きに喜んで、

「先ずは、この輿を掻いて王照君を君のお目にかけよ。我々二人は、どこまでも追っか

けて、一人一人、首を引っこ抜いてくれる。」

と言うなり、また漢軍の後を追っかけ始めました。しかしこの時、岩陰に隠れていた両

将軍が飛び出して、二人にむんずと抱きつくと、続けざまに刺し殺したのでした。こう

して、両将軍も王照君に追いついて、目出度し目出度しと、悦びの声をどっと上げて、

意気揚々と都を目指して帰って行ったのでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 12 説経王照君 ④

2012年05月10日 17時03分57秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

おうしょうぐん ④

 光武帝は、王照君を手放さなければならなくなってしまったことを大変悔やみました。

その夜、大臣を呼び御愛用の琵琶を取り出すと、

「この琵琶は、先帝より形見に下されてよりこれまで、片時も離さず大切にしてきた宝

である。この度、照君が一人赴く旅の空は、さぞや辛いことであろうから、この琵琶

を道すがらの慰みにするようにと渡しなさい。また、この琵琶を弾けば、鬼神の祟りも

防ぐことができるだろう。」

と、王照君に琵琶を渡すように言いました。誠に有り難いことです。王照君は、大臣か

ら琵琶を受け取って、

「ああ、有り難いことです。罪に沈んだ私の行く末までもご心配いただき、申し上げる

言葉もありません。」

と嘆かれるのでした。そうして、早くも夜が明け始め、出発の時刻が近づきました。涙

ながらに旅の装束を整えると、お供の官人に前後を囲まれて、輿に乗り込みました。先

頭に異国の夷が立って、思うも遠い万里の旅に出たのでした。その心の内こそ哀れです。

 振り返り振り返り見れば、名残も尽きない都の空、住み慣れた楼閣も、やがて遙かの

後ろとなり、木々の梢も霞んで、時を告げる太鼓の音も最早微かです。もうこれで、二

度と都へは戻れないかもしれないと、王照君は輿の中で、悶え焦がれて泣きました。

 一方、夷狄の人々は、目的を達して意気揚々たるものです。一刻も早く胡国へ帰り着

こうと、先へ先へと進みます。やがて一行は、天人峡(てんじんきょう)に差し掛か

りました。さすが異国の道ですから、野を過ぎ山を分け入り、行き交う人もありません。

王照君は、こんなところでは、都へ言づてしようにも誰に頼んで良いのか分からないと、

さらに嘆き悲しんだため、顔も姿もやつれ果て、しゃべる元気もなくなり、お命も危う

いのではないかと思われる有様となってしまいました。

 先を急ぎたい夷達でしたが、夷は王照君を慰めようと、白雲山の麓で輿を停めると、

形見の琵琶を取り出して、王照君に渡しました。懐かしい光武帝の形見の琵琶を抱きし

めると、王照君は、撥を取り直し、はらはらと弾き鳴らしました。その曲は、別れを慕

う曲「離乱別隔」(りらんべつくはく:不明:当て字です)でした。遠い都に思いを馳

せて弾いたので、その調べは大変哀れに響きました。第一第二の弦の音は、颯々(さつ

さつ)として雨音のようです。第三第四の弦は、静々として私語(ささめごと)にも似

ています。王照君は、あれやこれやと思い出してしまったのでしょう。やがて琵琶を置

くと、また泣き沈むのでした。夷狄の夷達は、初めて聞く琵琶に聞き入って、

「素晴らしい音色です。我等、夷の者にも、このように面白く聞くのであるから、聞き

知る人が聞いたなら、もっと感心することでしょう。もう少し、弾いて下さらぬか、お

願いいたします。后様。」

と、前進することも忘れて、惚れ惚れとしています。王照君は、

「この曲を初めて聞く夷なのに、感心なことです。では弾いてあげましょう。」

と、琵琶を取り上げると、月澄み昇る秋の夜の曲、「秋風楽(しゅうふうらく)」を弾き

始めました。

 すると不思議なことに、四方の嵐の音が琵琶の調べに乗り移り、空の様子も一変して

香しい風が吹き、大変良い香りがあたり一面に立ち込みました。人々が、何が起こった

のかと不思議に思っていると、空より五色の雲がたなびいて、だんだんに降りてくるのでした。

その雲には、天女が二人乗っていました。一人は、孫仙人(まごせんにん)一人は、西

王母(せいおうぼ)です。今度は、西の方から雲が降りて来ました。その雲からは、人

とも思えない凄まじい顔容の大の男が二人、飛び降りると、

「我々二人を誰と思うか。これは、前漢高祖の臣下樊 噲(はんかい)、我は長良(ちょうりょう)

と申す者である。我々は、通力自在を得て仙人となった。この度、姫君の琵琶の音色が

神妙であるので、守り神となるため、孫仙人、西王母と伴にこれまで参った。」

と告げました。二人の天女は、

「さああさあ、音楽をして姫君を慰めましょう。」

と言うと、笙(しょう)、篳篥(しちりき)を吹き始めたので、王照君もそれに和して

琵琶を奏でました。その有様は、まるで極楽世界を見るようでした。今度は、二人の天

女が、迦陵頻伽(かりょうびんが)の声で歌を唄い始めました。

『げにや誠に雨露の身に

何嘆くらん浮き雲の

しばしは月を隠すとも

ついには澄まん世の中の

今少しの苦しみを

さのみ嘆き給いぞよ

行方久しき久方の

光和らぐ春の日の

君が恵は尽きせしな』

天女達は、心配しなくても大丈夫ですよと言い残すと、再び雲に乗って空へと舞い上が

りました。長良、樊 噲も、

「そもそも我々は、浮き世にあったその時は、義を重んじて命を軽んじ、外へは五常(ご

じょう:仁義礼智信)を乱さず。内には誠を尽くしたので、通力自在の身となりましたが、

君恩を忘れたことはありません。姫君の嘆きがあまりにも労しいので、お慰めのために

二人の天女を連れて来たのです。只今の歌の文句も、姫君はよくご存知のことと思いますが、

どうか、ご心配なさらずとも、直に都へお帰しいたしましょう。」

と懇ろに慰めると、今度はずんどと立ち上がりあがりました。腰の釼をするりと抜くと、

二回三回と振り回し、夷狄の人々を睨み付けました。

「我々は、天上に住み、人間界に下ることもついぞ無いが、この度は、この姫君があま

りにもお労しいので、このようにやって来たのだ。姫君に少しでも辛く当たるような

ことがあれば、おのれらを八つ裂きにしてくれるぞ。」

と言い捨てると、雲に紛れて天上へと戻って行ったのでした。

 夷狄の者達にとっては、まったく怖ろしい限りです。人々は、震え上がり戦慄いて、

見ることさえ出来ない有様でしたが、おっかなびっくり王照君を輿に乗せると、胡国へ

向けて出発したのでした。かの天女仙人の有様は、不思議であるとも何とも、例え様

もありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 12 説経王照君 ③

2012年05月04日 20時50分36秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

おうしょうぐん ③

 こうして、漢朝の両大将は、胡国の使節を伴って、都へ戻ったのでした。早速に参内

し、両将軍は、戦の次第を帝に報告しました。光武帝は、本より慈悲第一の名王でした

から、停戦になったことを大変喜んで、

「よくぞ和睦に持ち込んだ。予めその様な望みと知っているならば、何も合戦などせず

に済んだものを。后一人の苦しみと万人の命を引き替えにできるものでは無い。この度

の戦で、亡くなった者達の供養をいたせ。」

と、両大将には、恩賞として、一階級の特進と、国を拝領させたのでした。

 さて帝は、ゲンシリョウを呼んで今後の対応について相談しました。シリョウはこれ

を聞いて、あれこれと思案すると、

「この夷狄の望みは、漢朝には幸いです。国王が国を奪われる原因の第一は、色に耽り、

政を怠ることです。ですから、今、彼らの望みに従って、后を一人遣わされば、夷は

朝夕淫乱に耽り、国の規律も弛み、上を真似る民であるので、下々まで女に耽ることで

しょう。その荒廃につけ込んで夷狄を討ち取り、又后も取り返せば良いのです。急いで、

后をお遣わしください。」

と助言しました。これを聞いて、帝ももっともとは思いましたが、さて、いざ后一人を

選ぶといっても、誰を選んでも恨みを買うことは間違い無い。どうして選んだものやら

とお悩みになりました。そうこうしていると、夷狄の使者達は、やいのやいのの催促です。

困った光武帝は、こう言いました。

「千人の后の顔を一人一人覚えている訳ではないので、誰と言う事も出来ない。そこで、

以前、ゲンシリョウの絵を描かせたモウエンジュを呼び、千人の后の絵を描かせよ。

紫宸殿に掛け並べて、そこから選んで遣わすことにする。」

 后達は、誰かが怖ろしい夷狄の国へ送られることを聞いて、戦々恐々たる有様です。

その中で紅梅と言う后は、知恵賢い女でありましたが、こう考えました。

「これは、千人のその中で、一番見目の悪い醜い后を選んで送るのに違いない。絵描き

に宝を取らせれば、見目良く描いてくれるはずだ。」

この話を聞いた后達は、我も我もと、贈り物を持ってモウエンジュの所へ押しかけまし

た。

「のう、如何にモウエンジュ殿。どうかお願いですから、目元口元しおらしく、とても

可愛らしい笑顔に描いてくださいよ。」

と、エンジュの袖を引き、頭を撫でて頼むのでした。エンジュは、嬉しくて嬉しくて、

お任せあれと、どれもこれも実物以上の美人に描いたのでした。

 さて、ここに王照君という后は、千人の中で一番の美人でしたが、

「この度の絵図は、一人も漏らさず描くとは言いますが、どうして私まで絵図にしなけ

ればならないのですか。御前から遠い人々なら分かりますが、帝が私のことを忘れるは

ずがありません。それにしても、誰かが異国へ送られるのですね。可哀相に。」

と、他人事のように考え,貢ぎ物をしませんでした。

 そうこうしている内に、千人の后の絵図ができあがり、紫宸殿に飾られました。帝をはじ

め、ゲンシリョウ、臣下大臣が集まり絵図に見入りました。どれもこれも大変良く描け

ています。これを物に例えて言うならば、

春待ち顔なる梅の花

雪の内より咲き染めて

誰が袖触れし匂いぞと

風の香も懐かしき

これは又、海棠(かいどう)の

雨を帯びたる風情

眠れる姿の花の色

濡れてや色を深見草

松に掛かれる藤なみや

岸の山吹岩躑躅(つつじ)

桃花は紅にして艶やかなり

李花(りか)は白うして潔し

蓮(はちす)は君子の類かや

紫苑(しおん)竜胆(りんどう)萩の花

桔梗(ききょう)苅萱(かるかや)女郎花(おみなえし)

厚菊(こうきく)紫蘭(しらん)様々の花色

あまりの美事さに、言葉もありません。しかし、その中で八番目の絵が少し劣って見え

たので、帝はよく確かめもせずに、

「これを、胡国に遣わせよ。」

と、八番目の絵を選んだのでした。人々がこの絵を良く見てみると、名前に王照君とあります。

人々は驚いて、光武帝に、これは王照君ですぞと申し上げると、帝ははっと驚いて、

立ち戻ると、確かに王照君とあります。

「これは、絵描きの間違えであろう。」

と、気色も失せて呆れ果てていると、ゲンシリョウは、

「綸言汗の如し。一度発せられた言葉は戻りません。王照君を急ぎ送らせください。」

と、諫めました。がっくりとした帝は、仕方なく王照君を呼びました。

「この絵を見てみなさい。お前の名前を書いたこの絵は、絵描きの誤りとは思うが、こ

れも前世の宿業。どうぞ恨んでくれ。ああ、悲しや。」

と、涙ながらに、胡国行きが決したことを伝えるのでした。他人事と思いこんでいた王

照君は、この晴天の霹靂に泣き崩れ、

「どんな罪の報いなのでしょうか。千人の中で私だけを描き誤るとは。聞くだけでも

憂鬱な荒夷へ取られて行くなど考えられません。胡国などへは絶対に行きません。」

と悶え焦がれるのでした。ゲンシリョウは照君に近づき、

「この度、図らずも、写し絵の間違えで、夷の手にあなたを渡すことは、我々皆、不憫

と思っております。しかしながら、万人の命を救うためには、あなた以上の方はおりません。

私は、必ずや身を捨てて、すぐに取り返しに参りますので、どうかご安心下さい。」

と、説得すると、照君も勇気付いて、

「我が君の御為ならば、命を捨てることも惜しくはありません。」

とは、思い切りましたが、王照君の有様は、哀れとも中々、何に例えようもありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 12 説経王照君 ②

2012年05月04日 17時16分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

おうしょうぐん ②

 さてここは胡国と呼ばれる国。ケンダツ王は、一族の諸侯の主だった大将である、テ

ッケンバク、バクリケツを近付けると、

「さて、面々はどう思われるか。この国は、夷狄(いてき)の夷(えびす)と言われ、

漢朝では卑しまれているが、国は広く、人は幸せに暮らし、万事につけて貧しいことも無い。

しかし、この国に、美人というものが居ない。漢朝の美人を一人奪い取り、一の后とし

たいものだが、どうじゃ。」

と、漢朝に攻め入る相談をしたのでした。早速に、軍勢を調えることになり、国一番の

大力である、チクリトウ、ケンカイランを先陣の大将として、三十八万騎の大軍が、唐

土を目指して出軍していったのでした。まったく夥しい限りです。

 一方、漢朝の大将達も、夜を日に継いで進軍し、胡国との国境であるジンダイ江とい

う大河の辺りまでやって来ていました。漢朝軍は、ここで夷狄の軍勢を迎え討つことと

して、ここに陣を張りました。それは、霜月(11月)二十日の頃のことでしたが、折

から、非常に強い寒気が来て、川が凍り付き、いっぺんに川面は鏡のように輝きました。

漢朝軍の両大将はこれを見て、

「胡国の奴らは、馬の達者であるから、きっと氷の上を渡って攻めて来るだろう。我々の

作戦としては、熱湯を沸かして、こちらの岸から流し入れ、氷を溶かしてしまえば、

敵の軍勢は水没して溺れ死ぬであろう。」

と、軍議をすると、早速に準備にかかり、上から下まで熱湯を沸かしにかかる有様は、

由々しいばかりです。

 やがて、胡国の軍勢が対岸に現れました。胡国の大将チクリトウは、凍結した川を見て、

「さても、厚い氷である。これほど厚ければ渡るのは簡単なこと。」

と、どっとばかりに軍勢を氷の川に降ろしました。先駆けの二万騎が、我先にと雪崩込

んで来ます。漢朝軍はこれを見ると、早速に熱湯を流し始めました。厚い氷とは言え、

夥しい熱湯で氷は薄くなり、胡国の軍勢は、次々と氷を踏み割って、川に吸い込まれ行

きます。胡国の大将は、

「さても、無念なり。そもそも舟も通わぬ川であるから、ここを渡ることはできない。」

と、無理な進軍を諦めると、三十里(約120Km)上流の万里山(まんりさん)に迂

回して進軍させることにしたのでした。胡国軍は、囮(おとり)の軍勢を河岸に残して、

漢朝軍を引きつけて置いて、密かに三万騎を率いて山の迂回路へと向いました。

 

 さて、そのころ、漢朝の都では、大将シバイリュウが、まだ東雲の早朝に役所回り

をしていましたが、遙か向こうの山から、猪、兎などの様々な獣が群がって逃げ下りて

来るのを見つけました。

「これはおかしい。人を恐れる獣が、山を離れて都へ向かって逃げ来るとは。さては、

異国の軍勢が、万里山を回って攻め寄せて来たな。」

と、気が付くと、急いでシバユウと共に防御の手立てを考えました。万里山の手前五里

の所にある鉄山という山に軍勢を集結させて、石弓を大木に設置し、夷狄の襲来に備え

たのでした。案の定、胡国の軍勢がどっと攻め入ってきましたが、守る漢朝軍が見あた

りません。胡国軍は、さては漢朝軍は恐れをなして逃げたかと、更に勢いついて進軍し

た所に、漢朝軍の石弓が炸裂しました。先陣を切った胡国軍は悉く討ち滅ぼされてしま

いました。けれども、胡国の軍勢は、後から後から、入れ替え引っ替えて攻めて来たの

で、今は既に、互いに火水の如くに混戦となりました。その戦いの有様は凄まじいばか

りです。

 中にも胡国軍の万力(まんりき)という大力の者は、黄楊(つげ)の棒に鉄の鋲を打

った一丈余りの(約3m)棍棒を、軽々と振り上げて漢朝軍をなぎ倒します。これに対

して、漢朝側は、リクシという豪の者が、手鉾を持って応戦します。しばらく二人は、

渡り合って戦いましたが、互角の戦い。やがて互いにむんずと組み合うと、万力は、怖

ろしい力で、リクシの首をふっつと引き抜き、五町(約500m)ばかりも投げ捨てま

した。これを見たシバユウが、一矢報いて万力をようやく仕留めましたが、多くの味方

が討たれて、漢朝軍は劣勢です。胡国の軍勢は、切っても切っても押し寄せてきます。

そこで、シバユウは、

「このままでは、味方が危ない。この度は和睦をして、さらに軍勢を整えてから、次の

機会に討ち滅ぼしてやろう。」

と、提案しました。そこで、前漢の高祖の臣下であった樊 噲(はんかい)の子孫、ハ

ンリという一騎当千の兵(つわもの)が選ばれ、使いに立つことになったのです。

 ハンリは、一人、敵陣へと向かいました。胡国の大将の前に出るとハンリは、

「この度、このような大軍をもって押し攻め入ること、漢朝の帝王においては、少しも

覚えの無いこと。こちらは、防衛のために両将軍を差し向けたに過ぎない。意趣あるな

らば、詳しくお話下され。」

と、正々堂々と言いました。胡国軍の将軍は、感じ入って、

「この大軍の中に一人でやって来て、言葉も鮮やかに申すとは、なかなかあっぱれ。

それそれ、引き出物を与えよ。」

と言えば、畏まったと若武者七八人が、ようやく大の鉄棒を運んできて、ハンリの前に

置きました。ハンリは、これを軽々とおっ取り、二三度打ち振って、

「あっぱれ、究極の鉄棒かな。」

と、にっこり笑い、

「さて、ご返事は。」

と、差し向けました。胡国の両大将は、

「されば、この度の出陣は、国の望みではない。また、帝への宿意(しゅくい)でも無い。

ご存じの如く、我が韃靼国(だったんこく)には、見目良き女が居ないので、良い女

を奪い取り、我が国王の后とするためにやって来た。漢朝の后の中で、美人の女を一人

いただければ、軍を引き、和睦いたそう。」

と、言うのでした。漢朝側は、この和睦を受け入れました。喜んだ胡国の将軍は、使い

として、ヘンカイとチクリキの二人を漢朝軍とともに都へと送ったのでした。

誠に荒き夷だに

女に心優しける次第

ことわりとも中々例えぬ方も無し

つづく

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忘れ去られた物語たち 12 説経王照君 ①

2012年05月03日 16時52分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ
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日暮小太夫

寛文九年巳酉(1669年)

二条通鶴屋喜右衛門板

※中国を舞台とする物語である。登場人物の固有名詞に関して、漢字の用法が明確で無いものは、すべてカタカナ表記とする。

おうしょうぐん ①

 唐土の政治を考えてみると、一天の主である帝(みかど)が邪険で、人民を苦しめるならば、

必ずその国は滅び、仁義に厚い王化(おうか)は、長い間続くものです。誠に、仁者

には敵無しと言わる通りです。後漢の光武帝というお方は、古今無双の帝でいらっしゃいます。

常に政徳を以て、万民のことを考えたので、吹く風は木の枝を鳴らさず、降る雨は土塊

(つちくれ)を動かさず、国は豊かに栄えました。誠に目出度いことです。

 そして、光武帝の一千人の后達の美しさは、月も妬み、花をも欺くといった風情でした。

その后の中でも、第一の美人は、「王照君」でした。管弦の道を得意として、琵琶の名人でした。

この光武帝を支える武将に、シバイリュウ、シバユウという文武両道に秀でた者がいま

した。その外の諸侯、大名、日々に参内して、天下の政道を正しく行い、君を守護した

ので、都は活気に溢れて賑わっていました。しかし、光武帝は、これに満足せず、ある

時四大将を集めるとこう言いました。

「如何に皆の者。私は、帝位に就いて以来、悪政を行って来たとは思わないが、これで

完璧であるとも思えない。一天の主たる身でありながら、確かな師範が居ないというのは、

心許ないものだ。私が未だ匹夫であった頃の親しい友人に、ゲンシリョウという者がい

る。彼は誠の賢人であり、彼を天下の執権としたいのだが、今は遁世して、恐らくは名

も変えて、行方も知れない。そこで、いろいろと思案したのだが、ゲンシリョウの絵を

描かせ、それを持って山中を探させ、似ている者があるならば召し出したいと考えたが

どうであろう。」

これを聞いた人々は、

「この様に国が治まり、何の不足も無いのに、更に賢人を求めて教えを乞おうと成されるとは、

偏に、尭舜(ぎょうしゅん:中国古代の伝説の帝王)の御代にも負けない仁政である。」

と、謹んで感激したのでした。

 やがて、モウエンジュという絵描きの名人が召されました。帝が、これこれこういう

面体であると詳しく話しをすると、エンジュは、忽ちに絵を描き上げました。帝は、そ

の絵をつくづくとご覧になると、

「誠に良く描けている。まだ会ったことも無い者を、言葉だけで写すとは、美事である。」

と、お喜びになりました。

 そうして、沢山の勅使がこの絵を持って広い国土を隅々まで、くまなく探し回りましたが、

似ている人物を捜し出すことは、そう簡単ではありませんでした。

 ここは、蜀の国の辺りです。人倫から遙かに隔たったこの地は、山巒(さんらん)は

塵を払い、光瑞(こうずい)が穢れを濯ぐといった美しい所です。さて、ある勅使が、

ここを尋ねてみますと、水草も清らかな川で、釣り糸をたれている人がおりました。こ

れが、尋ねるゲンシリョウでした。勅使が、近づいて絵図と照らし合わせてみると、そ

っくりです。勅使は喜んで、

「帝よりの宣旨です。さあさあ、立ちなさい。」

と、引っ立てようとしますと、シリョウは、

「ええ、囂しい(かしましい)。田を作って飢えを凌ぎ、井戸を掘って乾きを潤す。そ

れ以上に何の望みがあって、都へ行かねばならんのだ。そこどきなさい。」

と、釣り糸を垂れたままです。勅使は益々喜んで、

「これぞ、誠のゲンシリョウに間違い無い。」

と、かの絵図を指し示すと、

「もしも、あなたがゲンシリョウ様でいらっしゃるなら、帝が探しておいでです。ど

うか、帝の御後見として、天下の執権に備わり下さい。これは、ひとつには君の為、二

つには万民のためでございます。どうか、我々に従って都へお上り下さい。」

と、理を尽くして懇願しました。すると、シリョウは、なんとも返事もせず、流れる水

を手ですくうと、耳を洗って澄ましています。勅使が、不思議に思って、

「それは、どういうことですか。」

と、尋ねると、シリョウは、

「先ほどからの話、余りに穢れているので、耳を洗ったのじゃわい。」

と、答えました。これには、勅使も呆れ果ててしまいましたが、帝からの厳命ですから、

諦める訳には行きません。勅使はさらに詰め寄ると、

「只今の漢朝の主(あるじ)光武帝様は、昔、あなた様と親しき友人であったと聞いて

おります。昔馴染みの印に、一度は都へ御出仕なされて、皇帝とご対面の上、様々お話


忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ⑥ おわり

2012年04月04日 09時59分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ⑥ おわり

大臣帰国、並びに別府兄弟、討たるる事

 壱岐の漁師に助けられた百合若大臣は、ようやく日本に帰ることができました。さて、

壱岐の漁師が、玄海嶋で拾ってきた風変わりな者を使っているという風聞は、すぐに広

がり、別府の耳にも届きました。これを聞いた別府は、一度見物してやろうと、漁師に

連れてくるように命じました。やがて、漁師に連れられて来た大臣を見て、別府は、

「これは、不思議の生き物じゃ。人かと思えば人でなし。鬼かと思えば鬼とも見えず。

これこそ餓鬼とも言うべきか。よし、これをしばらく我に預けておけ、都へ連れて行き、

笑いものにしてやろう。」

と言うと、漁師達は帰して、大臣は館に留め置きました。別府は、自分の主とも知らず

に、身体全体があまりにも苔むしているので、「苔丸」と名付けて、見せ物にしては、

笑いものにしておりました。

(以下欠頁のため幸若のストリーを補う)

 かくてその年も暮れ、新年を迎えました。別府の館には、九州の各長官が、新玉の祝

いに参上し、新年の弓取りを行っております。苔丸は、矢取りの役を命じられて弓場の

片隅におりましたが、ここが絶好の機会と、突然こんなことを言い出しました。

「なんと、あそこの殿は、弓立ちが悪い。ああ、ここの殿は、押し手が震えてみっともない。」

と、さんざんの悪口です。これを聞いた別府は、

「おまえは、いつ弓を習って、そのような生意気な口をきくのか。そんなにもどかしく

思うならば、ひと矢射てみよ。」

と言うと、苔丸は、

「弓など射たることはありませんが、あまりに皆さんの弓が醜いので言ったまでです。」

と澄まして答えました。別府は、

「弓も射ぬのに、知った口をききよって。今すぐに射てみよ。射なば、ここで切って捨

てる。さあ、早く射よ。」

と怒りだしました。苔丸は、

「仰せのように射てみたいとは思いますが、弓がありません。」

と答えると、別府はせせら笑って、

「なんの容易いこと、強い弓がいいか、弱い弓がいいか。」

と言いますと、苔丸は、

「どうせなら、強い弓をお願いします。」

と言いました。そこで別府は、筑紫に聞こえる強弓を十張ばかり持ってこさせると、苔

丸の前に並べて、どれでも好きなものを選べと言いました。ところが、苔丸は、二、三

張の弓を束ねて持ったかと思うと、はらはらとへし折って、

「どれも弱くて、使い物になりませんね。」

と澄まして言ったのでした。これを見て驚いた別府は、

「こいつは曲者、ならば、大臣殿の鉄の弓矢を射させよ。」

と、怒鳴りました。さて、大騒ぎなことになりました。宇佐八幡の宝物殿に奉納されて

いた鉄の弓が運び出されて、苔丸の前に置かれました。百合若大臣は、自らが作らせた

鉄の弓を懐かしげに軽々と手に取ると、懸かりの松に押し当てて、ゆらりゆらりと素引

きしてから、鉄の矢をうち番えると、時は今よとばかりに、別府目掛けて引き絞り、

「いかに、九州の在庁ども、我を誰と思うか。かつて、嶋に捨てられた百合若大臣が

今、春草と萌え出ずるぞ。道理に任せて我を見よ。非道に任せて別府を見よ。」

と大音声を上げました。これを聞いた、大友諸卿、松浦党は、はっとばかりに畏まり、

懐かしの御主様と、駈け寄りました。驚いた別府は、これはこれはと逃げ回りましたが、

高手小手に縛り上げられ、懸かりの松に吊されてしまったのでした。

 (以下、本文に戻る)

 ようやく名乗りを上げた百合若大臣は、早速に都へ上りました。内よりの宣旨には、

「大臣、不思議にも命助かり、再び参内いたすこと神妙なり。これより日本の将軍に

なるべし。また、別府兄弟の処分は任せた。」

と、御土器(かわらけ)を下されたのでした。意気揚々と都の館へ戻ると、そこへ翁と

忠太に連れられて御台所が到着しました。百合若大臣と御台所は抱き合って喜び合いま

した。別れてよりこの方の尽きせぬ物語を涙ながらにしておりましたが、御台所が、

翁と忠太の情けによって助けられたことを話すと、百合若大臣は、翁、忠太に、九州の

総政所を与えことにしました。さらに、壱岐の漁師を呼び、数々の恩賞を与えた後、

別府兄弟の首を刎ねたのでした。

 その後、百合若大臣は、緑丸の供養として神護寺(京都市右京区高雄)を建立しました。

鷹のために建てたので、今でもこれを高雄山と言うのです。その外の人々にも、皆々

恩賞を賜る大臣の御威勢は、誠に千秋万歳、目出度しとも中々、申すばかりはなかりけれ。

寛文二年壬寅二月吉日太夫正本なり

おわり

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ⑤

2012年04月02日 17時52分34秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ⑤

藍子(あいし)の姫、大臣の御台所の身代わりに立つ事

 さて一方、別府の刑部貞澄は、九州の国司を預かって、上を見ぬ鷲とばかりに傲って、

百合若大臣の北の方へ、恋文を送り続けていましたが、御台所は、手にも取らず破り捨

てておりました。別府は、無念に思っていましたが、所詮叶わぬことならば、いっそ殺

してしまえと、家来の河野の忠太を呼びつけると、こう言いました。

「如何に忠太。豊後の庁に行き、御台所を謀り、連れ出して、密かに満濃が淵へ沈めよ。」(地名不明)

これを聞いて、忠太は情けなく思いましたが、主命とあれば逆らう事も出来ず、豊後へ

と向かいましたが、なんとかならないものかと、庁屋(ちょうや)には行かずに、先ず

門脇の翁という叔父の館を密かに尋ねました。事の次第を聞いた翁は、

「これは浅ましき次第。よくぞ知らせた。ここは、なんとか知略を巡らせて助けなけれ

ばならん。」

と、しばらく考え込んでおりましたが、やがてこう言いました。

「我が子の藍子の姫は、見た目も容姿も御台所と劣らぬから、夜ならば、それと疑われ

ることもあるまい。不憫とは思うが、藍子を御台所の身代わりに立てて、御台所をお救

いいたそう。」

と、頼もしくも、只一筋に思い定めると、翁は藍子の姫の帳内(ちょうだい)に入り、

「如何に藍子の姫。御主様に一大事の難儀が起きておる。そのことについて、お前に頼

みたい事がある。庁屋におられる御台様は、お前にとっては三代相恩の御主であるよな。

その御台様を、別府殿が暗殺せよと忠太に申しつけたが、御台様は、忠太にとっても御

主であるから、わしの所へ相談に来た。さて、これにはわしも困ったが、お前を御

台所の身代わりに立て、御台様を助ける以外に方法がないと考えた。この様に言うから

と言って必ず父を恨みと思うなよ。親の身として、子に命をくれと言わなければならな

い心の内を察してくれ。藍子の姫。」

と、涙ながらに話すのでした。姫を父の話を聞いて、

「ご安心下さい、父上様。御主様の為にどうして命を惜しみましょうか。侍は戦場に出

て、互いに討たれるのも御主の為、過去世の業因が拙くて女に生まれて来ましたが、心

は、男子に劣りませぬ。今、そのように御主様の身代わりに立てることは、自らの果報です。

そうして、末代まで名を残すことが出来るのなら、心ある人々は、きっと私を羨ましく

思うことでしょう。」

と、気丈にも答えたのでした。翁はこれを聞いて、

「ああ、よくぞ言った。藍子の姫。お前がそこまで思い切るならば、父も決心したぞ。

夜になったなら、最早、最期。これより、母上に御暇乞いをしなさい。」

と、言えば、藍子の姫は、

「仰せのように、暇乞いとは思いますが、子を先立てて年寄りが後に残って、思い煩わ

ぬ親はいません。お暇乞いもせずに参りますが、これを形見として渡してください。」

と言うと、髪の毛を少し切り取って、涙と共に渡したのでした。これを受け取った翁は、

涙ながらに、

「ああ、それにしても、我が子の形見を受け取るとは、まったく逆さまの世となってしまった。

伝え聞く釈迦牟尼如来は、子供の羅睺羅尊者に密行を説き、また、孔子は、子供の鯉魚

(鯉伯魚)を先立てたとはいえ、今を陽春と輝く我が姫を先立てて、後に残って何を頼

りに生きて行くのか。ああ、恨めしい我が身じゃなあ。」

と嘆くのでした。その時、忠太は、

「御嘆きは道理ながら、それ、人間の命は電光朝露(でんこうちょうろ)、夢の幻。また

北州の千年すら今は跡形もありません。殊に人間五十年は夢現(ゆめうつつ)。時刻も

移りました。そろそろ参りましょう。」

と、声をかけました。翁は、いよいよ思い切って、

「今は、いくら嘆いても仕方ない。私も一緒に行くべきところだが、これより、庁屋へ赴き、

御台所をお慰め申すことにする。姫をよろしくお願い申す。」

と言いました。藍子の姫は、

「されば、これまでなり、父上様。必ず後世にてお待ちしております。さらば、さらば。」

と、別れを告げると、忠太に連れられて満濃が淵へと向かったのでした。

 池に着くと、忠太は、小船一艘捜してきて、藍子の姫を乗せると、沖を指してこぎ出しました。

やがて、忠太は、

「只今こそ、御最期です。念仏申されよ。」

と、言いながらも、目が眩み心も消え失せんばかりです。しかし、御主のためには、

心弱くては叶わないと、念仏を唱える藍子の姫を、かっぱとばかりに突き落としたのでした。

 これはさておき、壱岐の浦の漁師達は、沖の漁に出ていましたが、強い南風に吹き流

されてしまい、玄海が島に漂着したのでした。漁師達は、取りあえずこの島で一休みし

ようと、上陸しました。これを見た百合若大臣が、久しぶりに見る人影を懐かしく思っ

て近づきました。すると、漁師達は、化け物が出たと恐ろしがって逃げ回ります。大臣

は、これを見て、

「ああ、浅ましいことじゃ。我は生も変えずに鬼となってしまったのか。」

と、涙を流して悲しみました。涙をながしている大臣を見た漁師達は、やがて近づいて

来て、何者かと問いました。百合若大臣は、名乗るべきか名乗らぬべきか迷いましたが、

名乗っては恥と思い切り、

「私は、昨年、百合若大臣殿が蒙国(むこく)へ向かわれた時の水夫ですが、その時に

この島に取り残されてしまい、このような姿となってしまいました。一樹の影、一河の

流れを汲むも他生の縁とありますから、お情けに日本へ帰してくださらぬか。」

と言ったのでした。漁師達はこれを聞いて安心し、大臣を乗せて帰ることにしました。

喜んだ大臣が、潮を汲んで手水として、

「南無諸神菩薩。再び日本の地に帰してください。」

と、虚空に向かって祈誓すると、仏神三宝も、さすがにこれを不憫と思われたのでしょう。

たちまち、順風に変わると、帆柱の蝉口(せみぐち)に八大龍王が現れ、船の舳先には、

不動明王が、カンマンの二つの目を光らせ、降魔の利剣をひっさげて、守護に立たれた

のでした。さらに、艫(とも)では、広目天、増長天、伊舎那天、大光天、羅刹天、風

天、水天、火天などが、雨、風、波を沈めるためにずらりとお並びになられたのでした。

こうして、難無く三日の後には、筑紫の博多に船はお着きになり、百合若大臣は、よう

やく帰国なされたのでした。有り難きとも中々、申すばかりはなかりけり。

つづく

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ④

2012年03月29日 11時12分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ④

緑丸死する件、ならびに大臣、嶋にて御なげき

 去るほどに、物の哀れを留めたのは、豊後の国にいらっしゃる大臣殿の北の方です。

大臣の形見の品を眺めては、物憂い日々を送っていらっしゃいましたが、見る度に心が

乱れるので、形見の中でも、御着背長(きせなが)と鉄の弓矢を宇佐八幡(大分県宇佐市の宇佐神宮)

に奉納されました。家来達は、主が居なくなってしまったので、浪人となり、またある

者は、出家して大臣の菩提を問う者もありました。また、大臣が飼っていた十二羽の鷹

も、世話する人もいないので解き放たれました。しかし、その鷹の中で、主君に名残惜

しいのか、緑丸という大鷹は、一向に飛び去る気配がありません。御台所はこれを見て、

「あれは、御君が秘蔵されていた緑丸ですね。疲れているのでしょうか。餌を与えてあ

げなさい。」

と、言いました。女房達は、鷹の餌については何も知らなかったので、ご飯を丸めて

鷹の前に置きました。すると、緑丸は、嬉しそうに、この飯を咥えると、大空に飛び上

がったのでした。

 雲井遙かに飛び上がった緑丸は、飯を咥えて、大臣が取り残された玄界島へと飛んで行ったのです。

やがて、嶋に飛んできた緑丸は、咥えてきた飯を、とある岩間に置くと、羽を休めておりました。

大臣が気配を感じて、岩間の宿から出てみると、岩の上に一居(ひともと)の鷹が居る

のをみつけました。急いで駈け寄ってみると、それは、手飼いの緑丸ではありませんか。

夢か現かと、抱き取ると、

「あら、懐かしの緑丸。この大臣がこの嶋に居るということを、どうやって知ったのだ。

まったく、鳥類には五通(神通力)あるというが、利口な奴よ。さて、この飯は、御台

所が送ってよこしたのか。飯などよこさずに、何故、文を使わさぬのだ。未だ豊後にお

るものやら、はたまた都へもどったやら。淵瀬となる世の中(変わりやすいの意)よのう。」

と、声を上げて泣き悲しむのでした。優しくも緑丸は、主君との再会を喜び、涙を浮か

べているように見えました。大臣は、

「なんと名誉な鷹であろうか。いくら鳥類とは言え、この鷹の前で、落ちぶれた姿を曝

して、この飯を食うのも恥ずかしい。」

と、食べるのをためらいましたが、せっかく緑丸が、万里の波を越えて、ここまで運ん

で来たこころざしの優しさを思い、飯を食べました。これを見た緑丸は、羽を広げて喜

びを表しました。しばらくして大臣は、緑丸に、

「お前が見ても分かるように、木の葉も無い嶋であるので、文を書き送る手立ても無い。

どうしたものかのう。」

と、話しかけました。すると、緑丸は、すっと飛び去ってしまったのでした。驚いた

大臣は、

「おお、もう行ってしまうのか、まてまて、戻って来い。」

と、叫びました。また独りぼっちかと大臣は涙を流しておりましたが、しばらくして、

緑丸は、楢の葉を咥えて戻って来たのでした。誠にいにしえ、蘇武(そぶ)が胡国の玉

章を雁の翼に言づてしたのも、こういうことだったのでしょう。大臣は、我も思いは劣

らないぞと思うと、左の小指を食いちぎって、岩間に血を溜めると、その葉に一首の歌

を書きました。

『飛ぶ鳥の 跡ばかりをば頼め君 上の空なる 風の便りに』

大臣は、葉を緑丸の「鈴付け」(尾羽)に結び付けると、

「早く、帰れよ緑丸。必ず便りを待つぞ。」

と、涙と共に緑丸を放しました。緑丸は、嬉しげに飛び上がると、虚空高くに舞い上が

りました。三日三夜を飛び続け、再び豊後の御所に戻ったのでした。緑丸は、御台所の

前に降り立ちました。御台は、

「また、来たのか、緑丸。お前を見ていると、夫(つま)の面影が思い出されて悲しく

なります。今でも淵瀬に身を投げて、夫のお供をしたいとも思いますが、夢に見る夫の

面影は、死んだ人には思えません。もしかのことを頼みとして、再び会うまでは命が惜しい。

これ、緑丸や。おまえは大空を飛び回ってきたのじゃろ。大臣殿がどこに居るのか分からぬか。

この世にいるのか。教えてくださいな。緑丸。」

と、はらはらとお泣きになりました。緑丸は、優しくも、御台所に近づいて、鈴付け

を盛んに振り上げて見せます。御台所は、鈴付けに結んである木の葉に気が付きました。

急いで取り上げてみると、それは紛れもない我が夫の筆跡です。これは夢かと、驚いて、

「女房達、これを見てください。大臣殿は生きていらしゃいます。確かに死んではいないのです。」

と、喜び叫びました。女房達も俄に浮き足立って、涙を流して喜び合います。

「これをご覧なさい。これこそ命ある証拠の印。紙も無い所にいらっしゃるので、木の葉

にものを書いたのでしょう。それに、硯も筆も無いので、血で書かれたのですね。

 さあ、硯を届けて思いの丈を書いていただきましょう。」

と、御台が言うと、女房達は、紫硯(むらさきすずり)に油煙の墨と筆を、紙を五つ重

ねにして巻き込みました。その上、御台を初め女房どもが、我も我もと文を書き、取り

集めた巻物は、仕方がないとはいえ、とんだ重い荷物となりました。これを緑丸の鈴付

けに無理矢理結びつけると、

「必ず、必ず、早く帰れよ。」

と、緑丸を放ちました。緑丸は、嬉しげに雲井遙かに舞い上がりましたが、この大荷物は、

やがて、露を含んでさらに重くなり、次第次第に力尽きて、とうとう緑丸は、海に落ち

てしまったのでした。無惨というより外に言葉もありません。

 労しいことに、嶋に一人居る大臣は、なかなか緑丸が帰って来ないので、空しく時を

送っていましたが、ある日、海蘊(もずく)取りに磯に出てみると、鳥の羽が打ち寄せ

られているのを見ました。不思議に思って近づいてみると、それは緑丸の死骸でした。

あまりのことに、肝も魂も消え失せて、膝の上に抱き上げ、悲しみに暮れていましたが、

よく見ると、なんと、最早にじんで読めない沢山の文に、墨硯まで結び付けてあります。

こんなことをしたら、沈んでしまうのも当たり前だと、歯がみをして、

「これぞ、女性(にょしょう)の浅ましさ、紙、筆、墨だけあれば物を書くことが出来

るのに、硯まで付けるとは何事ぞ。まったく情けない。

 ああ、なんど無惨な。この鷹が死しても、鬼界ケ島や高麗、契丹に流れ着かず、また

この島に流れ着くとは、魂は冥途へ赴けども、魄はこの世に残ればこそ。

 我が命もこれまで。冥途の道しるべして連れて行ってくれよ、緑丸。」

と、声を上げて泣きました。

緑丸が最期の体、大臣殿の御情け

世の中のものの哀れはこれとて

皆、感ぜぬ者こそなかりけれ

つづく

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ③

2012年03月28日 16時23分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ③

別府兄弟、大臣を嶋捨て、帰国の事

 さて、そのままご帰朝あれば、何事も起こらなかったのでしょうが、百合若大臣は、

日本を背負っての長期にわたる戦いに疲れたのでしょう。別府兄弟を近付けると、

「この辺りに嶋が有れば、ひとまず上陸して、休みたい。」

と、命じました。兄弟は、端船(はしぶね)を降ろして、百合若大臣を乗せると、玄海

島(福岡県福岡市)に上陸させました。百合若大臣は、敷き皮の上にどうと横になると

岩角を枕として、忽ちに眠り込んでしまいました。剛の者の常と言いますか、一度寝入

り込むと、そう簡単には起きません。大臣は三日経っても起きませんでした。

 さて、別府兄弟は、することもなく傍らに付き添っていましたが、諸々おしゃべりを

して居る内に、弟の貞貫(さだつら)が、こんなことを言い出しました。

「さて、この君は、御帰朝なされれば、日本国をいただくことになるのでしょうね。

私も、この君のような果報を得たいものです。」

兄の貞澄(さだすみ)はこれを聞いて、

「もっとも。君は左様に富み栄えるが、我々は大して変わりもなく、そのまま朽ち果て

るのがおちじゃ。まったく無念よの。しかし、お前はどう思うか。今なら、この君を討

って、主無き後を、我々で知行できるかもしれんぞ。」

と、いいました。貞貫は、

「声が大きい、兄じゃ。我ら兄弟が心を合わせて、密かに殺してしまえば、誰にも分か

りませんが、我が手で殺せば、天罰が下るかもしれません。どうでしょうか、この嶋に

置き去りにするというのは。人里離れたこの嶋ですから、十日と命はもちますまい。こ

こに、打ち捨てて帰朝してしまいましょう。」

と、策略しました。貞澄はこれを聞いて、

「おお、それは、よい考えじゃ。」

と、賛成して、百合若大臣の太刀、刀を奪い取ると、さっさと端船に乗り込んで、母船

に戻ってしまいました。別府兄弟は、陣に戻ると、

「我が君様は、蒙古が大将、梁曹と組合いになり、そのまま海に没してしまわれた。」

と、嘘をつきました。軍勢みなこの嘘の報告にがっくりと力を落としましたが、兄弟の

命令に従って、日本へ向けて帰国することになりました。日本軍の大船団が、一度に

どっと動き出しました。

 この船音に、百合若大臣は、目を醒まして、辺り見回しましたが、誰もいません。か

っぱと起きあがって見てみれば、最早、我が船団は、遙かの海上に帆を上げていました。

「ええ、さては、別府兄弟め、心変わりをしたな。やあ、その船戻せ。」

と、声を限りに叫びましたが、船音高く、届きません。百合若大臣は、海に飛び込んで

泳ぎ着こうとしましたが、風を受けた船に追いつくことは出来ません。とうとう仕方な

く、元の嶋に泳ぎ戻りました。磯に立ち上がった百合若大臣は、茫々たる海を眺めて

呆れ果ててしまいました。

「ああ、口惜しや。それにしても、かつて、早離速離(そうりそくり:継母によって離

島に遺棄されて死んだ兄弟の話:早離は観世音菩薩:速離は勢至菩薩)が、捨てられた

時もこのような惨めさであったか。」

それにしても、早離速離の兄弟は慰め会うこともできましたが、百合若大臣は只一人、

草木も稀な小島に取り残されたのでした。蒼天は広々と無辺で、月の出る山もなく、朝

日が海から昇り、夕日は海に沈み、たまたま聞こえる声は、海鳥ばかり。明け行く夜は

遅く、暮れゆく日影は長く、ようやく、なのりそ(ホンダワラ)を摘んで飢えをしのぎ、

悲しみに暮れる日々を過ごすのでした。

 これはさておき、別府兄弟は、帰朝後に、まず豊後の御所へ行き、百合若大臣が戦死

したと嘘の報告をしました。

「君は、蒙古(むくり)が大将梁曹と組み合ったまま海に落ちました。我々は、形見の

品を持参いたしました。」

と、嘆くふりをして、太刀や刀を渡しました。これを聞いた御台所は、声を上げて泣き

崩れましたが、よくよく考えてみると、変な話しです。御台は、

『おかしな話しだ。敵と組んで海中に落ちたのに、どうやってこれらの形見を残すこと

ができたのだろうか。』

と、別府兄弟の報告を疑い始めました。御台は兄弟を捕らえて、拷問して責めれば、本

当のことを言うかもしれないとは思いましたが、死んでは居ないという証拠も無く、あ

まり騒ぎ立てて、狂乱したと言われても困るので、半信半疑のままに別府兄弟を帰して

しまいました。

 別府兄弟は、これで先ずは、首尾良く言ったと、兄弟揃って、都へと向かいました。

早速に参内した兄弟は、まことしやかに、帝に奏聞しました。

「この度の筑紫での合戦は、敵の蒙古(むくり)手強く、数度の合戦に及び、大臣も手

を焼きましたが、敵の大将、大臣を狙ってひっ組み、ついに両将諸共に海中に没しました。

詰めの戦いを我々兄弟で下知し、苦戦しながらもようやく、蒙古を退治して参りました。

とはいえ、大臣が討たれましたことは、帰国の甲斐も無い次第です。」

帝は、

「それは、無惨な次第である。大臣が無事に帰国あれば、日本の主としようと考えてい

たが、残念である。それでは、別府兄弟には、九州の国司を預けおくので、大臣の御台

所に仕えて、その上、大臣を懇ろに弔うように。」

との宣旨を下されました。兄弟は、ははっとばかりに下がりましたが、兄弟顔を見合わ

せて、

「いやいや、予想に反して、ありきたりの恩賞であったな。日本国をいただけると思っ

て、君を置き去りにしてきたのに。」

と、不平たらたらで、筑紫へと戻ったのでした。兄弟の心中は、はかなかりけりとも中々

申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ②

2012年03月28日 09時25分12秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ② 

蒙古の梁曹(りょうそう)、百合若大臣に討たるる事

 蒙古(むくり)の大将梁曹は、二相を悟る神通の者でありましたので、百合若大臣が

攻めて来るのを既に悟り、

「敵の軍勢を近寄せてはならない。潮境まで打って出て、即時に勝負を決してくれん。」

と、四万艘の軍船に多くの軍勢を乗せて、唐と日本の潮境、筑羅(ちくら:巨済島)の

沖に陣取りました。同じ頃、百合若大臣の軍勢も筑羅の沖に到着しました。海上で両軍

は対峙して、互いに太鼓を打ち鳴らして鬨(とき)の声を上げました。これこそ六種振

動(ろくしゅしんどう)を見るが如くの凄まじさです。やがて、鬨の声が静まると、蒙

古の大将梁曹は、天地も響かす大声で、

「我らが、いくさの吉例には、霧降りの法がある。いざ、霧を降らせよ。」

と、下知しました。すると、キリン国の大将が船端に突っ立ち上がって、青息をほうと

つくと、なにやら術をかけて、辺りは一面の霧に包まれたのでした。この霧は、一日や

二日では消えず、百日百夜続きました。日本の強者どももこれには閉口して、呆れ果て

るばかりです。百合若大臣は、無念と思い、潮(うしお)をすくって手水(ちょうず)

を使うと、

「南無日本六十四州の大小の神祇(じんぎ)、この霧を晴らせよ。」

と、深く神仏に祈誓をかけたのでした。すると、仏神三宝もこれを不憫と思われて、俄

に神風が吹き、霧を吹き散らしたのでした。百合若大臣は、これを見て喜ぶと、蒙古

に多勢をかけるのも無駄なことと思い、僅か十八人の強者どもを率いて、一気に攻め込

みました。蒙古軍は、これを「蟷螂(とうろう)が斧」(※弱小の者が自分の力量も弁

えず強敵に向かうこと)と見下して、鉾を飛ばし釼を投げつけ、火花を散らして応戦し

ました。しかし、有り難いことに、百合若大臣の船の舳先に金泥で書かれている「尊勝

陀羅尼(そんしょうだらに)」の文字が、三毒不思議の矢となって、蒙古の眼を射潰し

不動の真言のカンマンの二文字が釼となって飛びかかり、観音経の「於怖畏急難(おういきゅうなん)」

の文字が黄金の盾となって、蒙古の矢を防いだので、味方を失うことはありませんでした。

力を得た百合若大臣以下十八名は、ここぞとばかりに鉄の弓矢を射かけます。やがて

接近戦となり、鉾、鉄杖ひっさげて互いの船に乗り込んで、入り乱れて火花を散らしました。

そうこうしているうちに、誰が射たのかは分かりませんが、白羽の矢が虚空より飛んで

きて、蒙古の大将梁曹の眉間を貫きました。そのまま狂い死にした梁曹をみた蒙古の軍勢は、

途端に怖じ気づいて、撤退を始めたのでした。百合若大臣はいよいよ勇んで、唐と日本

に戦いに勝ったぞと、勝ち鬨を上げたのでした。

百合若大臣の手柄の程、由々しかりとも中々申すばかりはなかりけれ

つづく

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忘れ去られた物語たち 11 説経百合若大臣 ①

2012年03月25日 17時56分48秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ゆりわか大じん ①

日暮小太郎

寛文二年壬寅二月吉日

八文字屋八左衛門

日暮小太夫は、万治~寛文の頃(1600年代後半)に活躍した説経太夫である。

本稿は、寛文2年(1662年)刊行の正本を用いる(説経正本集第2-27)

なお、この底本には欠頁があるため、同じ説経正本集第2に収録されている幸若小八郎正本「大臣」(慶長14年)を用いて、話を補う部分がある。

 いかに、完全な謀略といえども、神を欺くことはできません。ついには、神明がこれ

を罰するのです。正直は、その時は自分に不利であっても、必ず日月の哀れみを受けるものです。

ここに、本朝五十二代、嵯峨天皇の御代のことです。(786年~842年)四條の左

大臣公満(きんみつ)卿のご子息、百合若大臣公行(きんゆき)という方がおりました。

大臣は、和漢の道は言うに及ばず、文武両道を兼ね備え、天下に肩を並べる人はありま

せんでした。そもそも大臣は、大和の国長谷寺(奈良県桜井市初瀬)の申し子でいらっしゃいます。

夏の半ばにお生まれになったので、百合若殿と名付けられました。七歳にして元服され、

十七歳には正一位右大臣に補されて百合若大臣と号されたのでした。御台所は、三条壬生

の大納言章時(あきとき)卿の姫君です。その夫婦仲の睦まじさは、世に浅からずと聞

こえておりました。

 ある時、帝より、九州の国司を命ぜられ、豊後(大分県)の国に赴任されました。

民を哀れみ慈悲をもって治めましたので、領民の信頼も厚く、平和に暮らしておりました。

 さてその頃、蒙古国の蒙古(むくり)どもが、我が朝の仏法を妨げ、魔王の国にしよ

うと蜂起したとの知らせが、続々と都に届きました。公卿大臣が集まり、善後策を協議

しますが、まとまりません。その時、源享(みなもとのとおる)大臣は、

「それ、我が朝は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)よりこの方、神国として仏法

王法一体無二であり、車の両輪のようなものである。されば、イザナギ、イザナミの尊

は、伊勢渡会(わたらい:三重県中東部)の郡、山田(伊勢市宇治)に跡を垂れ、衆生

の済度をなされた。これこそ、慈悲の眦(まなじり)が三千世界を照らす、天照皇大神

宮(てんしょうこうだいじんぐう)である。大神宮へ勅使を立てられ、蒙古が有様を神

託に任せてはいかがか。」

と、故事を用いて申し上げれば、帝ももっともとお思いになり、直ちに大神宮へ勅使

が立ったのでした。

 さて、宣旨を受けた伊勢神宮では、さっそくに神楽を奏で、占いますと、有り難い事

に、神明(天照大神)は、七歳になる乙女の袖に乗り移り、鈴を振り上げて、神託が

下されました。

「蒙古が日本に向かった日より、神々は、高天原(たかまがはら)に集まって、いくさ

評定を様々行ったが、蒙古の大将「りょうそう」が放つ毒矢が、住吉明神が召したる

神馬の足に突き立ったため、この傷を治すために、神いくさは、一時延期となっている。

その為、九夷(きゅうい)どもは、力を得たりとばかりに攻め入って来るが、それも、

風が吹かぬ間の花のようなものである。急ぎ、凡夫も戦いの準備を調え、諸神もこれを

応援し守るべき。今度の大将には、左大臣が嫡子、百合若大臣を遣わし、鉄(くろがね)

の弓矢を用意せよ。急げ、急げ。」

この神託を聞いた勅使は、奇異の思いをしながらも、いよいよ深く礼拝すると、都へ戻

り、神託をつぶさに奏聞しました。

 これを聞いた帝は、早速に勅使を、豊後の百合若大臣へ送り、蒙古征伐の総大将を命じたのでした。

大臣は、勅命を受けると、先ず家の家臣である別府兄弟を召されると、

「如何に兄弟。蒙古征伐の勅諚(ちょくじょう)が下った。先ず、軍勢を集め、船を用

意せよ。それから、鉄(くろがね)の弓矢を作ることができる鍛冶の名人を捜すのだ。」

と言いました。やがて、伯耆(ほうき:鳥取県中西部)の国から名鍛冶が招かれ、一所

を清めて仕事を始めました。その鉄の弓の長さは八尺六寸(約2.8m)、矢柄(やが

ら)は三尺六寸(約1.2m)羽周りは六寸二分(約20cm)、その矢数三百六十三本でした。

根には、八つ目の鏑(かぶら)を入れ、弓も矢も鉄なので、人魚の油を差して仕上げました。

思いのままの鉄の弓矢ができあがったので、大臣は大変喜んで、数々の恩賞を与えました。

そこで、百合若大臣は、御台所を近付けると、

「この度、帝よりの宣旨に任せて、蒙古征伐に参ることになった。無事に戻る事

ができたなら、またお目にかかりましょう。もし、討たれたならば、後世の供養を頼み

ます。名残惜しい事じゃ。」

と言いました。御台はこれを聞いて、

「これは、恨めしいことを。蒙国(むこく)とやらに遙々攻めて行かれて、後に残った

私は、どうしたらよいのですか。どうか一緒に船に乗せて行って下さい。」

と、悶え焦がれて泣き崩れました。百合若大臣も心が揺れましたが、涙を抑えて、

「その嘆きは尤も至極ではあるが、勅命であるから仕方無い。又、船艫(ふねとも)には

既に諸神を斎い奉ってあるので、女人を乗せることは思いもよらぬこと。どうか、この

御所で、心強く待っていて下さい。」

と、慰めるのでした。御台も道理に詰められて、

「この上は、何と慕うとも、叶わないのですね。必ず無事にお帰り下さい。」

と、さらばさらばと涙ながらの別れは、哀れなる次第です。かくて百合若大臣は、心弱

くては叶わないと、振り切るとやがて出陣しました。

 その勢は三万余騎、大船は百余艘、小船は数えきれぬ程、総じて船の数は、八万余艘もありました。

中でも大将の御座船は、錦を飾り立て、艫舳(ともえ)に五色の幣を切り、日本六十四州の

大小の神祇(じんぎ)を、斎垣(いがき)、鳥居、榊葉に斎い込めました。さらに、雲

をも照すのろしを焚き、太鼓を鳴らして、弘仁(こうにん)七年(816年)卯月

(4月)半ばに、艫綱(ともづな)を解き、順風に帆を上げて出陣していったのでした。

その百合若大臣の勇ましさは、由々しかりともなかなか、申すばかりはありません。

つづく

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