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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ⑤

2012年12月20日 11時45分07秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ⑤

 これはさて置き、弾正左衛門国光の一子、形部の介国長は、幼少の時に父国光を豊春

に討たれたので、親の敵討ちを念願としていました。この頃、国長は、郎党六人を連れ

て、敵の行方を探索していましたが、その行方もつかめずに、無念の毎日を過ごしてい

ました。国長達は、ある時、摂津に来ていましたが、堺にいる蓮花坊という僧が、敵の

一子であることをつきとめました。国長はこれを聞いて、大変喜びました。血気無謀の若武者は、

「長年、探し回ってきた親の敵である豊春の一子が、和泉の国、貝塚の寺に居ることは

間違いない。(※浄土宗孝恩寺の可能性がある:大阪府貝塚市木積798)これより、早速

そこへ行き、奴から豊春の居場所を聞きだそう。もし、豊春の行方が分からなかったら、

せめて、奴を討ち殺し、日頃の恨みを晴らすぞ。」

と、貝塚へと急行したのでした。

 一方、蓮花上人は、堺での逗留を終えて、沢山の修行僧と共に、都を目指して北上し

ておりました。やがて、南下してきた国長一行は、大勢の僧と行き会いました。国長は、

「これは、何処に向かう僧の皆さんですか。貝塚の寺までは、まだ遠いですか。」

と、尋ねました。蓮花上人は、これを聞いて、

「さて、それは、何のお尋ねですか。」

と聞き返しました。国長は、こう答えました。

「その寺に居ると聞いた、蓮花坊という僧に、少し用があって、向かっているところです。」

蓮花上人が、

「その蓮花坊というのは、愚僧のことです。」

と、答えると、国長は喜んで、

「やあ、お前が、梅垣権太郎豊春の一子か。ここで会うと、はなかなかよ。如何に若僧

(にゃくそう)、俺を誰だと思うか。お前の父、豊春に討たれた弾正左衛門国光が嫡子

形部の介国長だ。お前の父を敵として、長年討ち殺そうと探し回ったが、とうとう会う

ことができなかった。貝塚の寺にお前が居ると聞き、豊春の行方を聞くために来たのだ。

もし、豊春が既に死んでいるのなら、せめてお前を討って、恨みを晴らさん。因果は巡

って、ここで会うとは、嬉しい限り。さあ、法師だからといって容赦はしない。覚悟しろ。」

と、息巻いて怒鳴りました。同行の僧達は驚きましたが、

「それは、如何にも無道過ぎます。例え、敵であろうとも、今は法師の身になった者を

殺そうとは、あまりも乱暴で邪見です。」

と、我も我もと前に出て、蓮花上人を守ろうとしました。中でも、大力の法師、観智坊は、

「ええ、よっく聞け。無道の者ども。髪を丸めた解脱の導者にして、仏の再来と言われ

るお方を殺そうとする大悪人め。木っ端微塵にしてくれん。」

と、飛んで掛かりました。蓮花上人は、

「やあ、騒がしい。皆さん静かにしなさい。」

と、人々を押し鎮めながら、思い出していました。

『いつか、母上が、仰っていたことが現れた。因果が巡り、敵が命を取りに来ても、

命身を少しも惜しむなと仰られていたことは、まさにこのことだな。妄語戒を破っても

父の代わりに討たれることこそ、我が身の喜びである。』

そこで、蓮花上人は、

「おお、あなたは、愚僧が父豊春を狙っている方ですか。あなたの父を私の父が討った

頃は、私はまだ幼かったので、様子の子細は分かりませんが、私の父は、その後、発心

されて出家し、山に籠もって修行なされていましたが、病を得てお亡くなりになりました。

愚僧はまさしく、あなたの敵の子です。人の為に命を捨てるのは、出家の役目。殊に、

自分の親の代わりに討たれるというのなら、これは、喜びの中でも最上の喜び。少しも

命は惜しくはありません。さあ、どうぞ。」

と言うなり、その場に端座しました。国長は、

「おお、どうして、許してやろうものか。父の代わりに、その命いただく。さあ、念仏

申せ。」

と、怒鳴ります。蓮花上人は、

「どうぞどうぞ、望む所です。皆さん、どうか心して嘆かないようにしてください。只々

念仏を唱えてください。」

と言うと立ち上がり、師匠から拝受した御開山御自筆の紺紙金泥の名号を取り出すと、

傍にあった松の木に掛けました。蓮花上人は、

「南無阿弥陀仏。一向専念無量寿仏。討たれ討たれつ、敵、味方の霊魂。成仏せよ。南無阿弥陀仏。」

と、深く回向すると、共の僧達と共に、合座(馬蹄形)に座し、合掌を胸に当てました。

「さあ、早く切りなさい。」

と、蓮花上人が言うと、国長は、太刀を抜き放ち、さっと蓮花上人の後ろに回りました。

「父の幽霊も、草場の陰で、きっと喜んでくれているだろう。」

と言うと、ちょうどとばかりに、蓮花上人の首を討ち落としたのでした。首は、あえな

く落ちました。

 ところが、次の瞬間、その首は不思議にも宙に舞い上がりました。そして首から、た

ちまち蓮華の花を開いたかと思うと、その中から「南」の一字が空中に浮かんだのでした。

皆々、はっと気が付くと、蓮花上人の首は、元通りに戻っており、名号の「南」の一字

が消えているではありませんか。国長は、

「むむ、なんと不思議な。首は確かに切り落としたと思ったが、切り損じたのか。」

と言うなり、再び太刀を振り上げると、再びはったと切り付けました。またもや首は、

ばらりと落ちましたが、やはり同じように、宙に舞い上がると、今度は、「無」の一字

に変じ、蓮花上人は何事も無かったように念仏し続けているのでした。名号からは、

「南無」の二字が消え失せて宙に浮いていました。さすが、邪見の国長達も、このよう

な奇跡を二度も見せられ、あまりの不思議に驚いて感歎すると、太刀を投げ捨てて、

「さても、さても、これほどまでの仏道の奇瑞は、夢でも見ることは無い。このような

尊い上人様に、刃を当てた我が身の咎を許してください。この上は、あなたの弟子にし

てください。」

と、涙ながらに願い出るのでした。その時、「南無」の二字は、金色の光を放って、虚

空へと飛び去りました。やがて、蓮花上人は、こう言いました。

「それは、殊勝な事です。悪心も懺悔することによって、善心菩提の縁となります。さて、

今の世に至るまで、「身代わり名号」といって、見る人も聞く人も礼拝してきたのです。

国長よ。人間の首を切るということは、例えて言えば、仏の袈裟を切って落とす事に等しいことです。

名号の奇瑞を見て、得道できたとあれば、誠に殊勝です。それでは、出家なさい。」

 やがて、国長達は剃髪しました。国長は、「南無」の二字を切って善人の心に至った

ので、蓮切坊(れんざいぼう)と名付けられました。残る六人の共達は、「切」の字を

上に付けて、切なん、切こん、切たん、切うん、切しゅん、切りんと、それぞれ名付け

たのでした。今は蓮切坊となった国長は、

「悪人の友を振り捨てて、善人の敵を招けとは、あなたのことだったのですね。有り難

いことです。ああ、有り難や、有り難や。今宵は終夜(よもすがら)、懺悔話をいたし

ましょう。」

と、喜ぶのでした。仏果(ぶっか)の縁に引き入れた蓮花上人の法力は、今の世でも、

言い様も無い程、有り難いものです。

つづく

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忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ④

2012年12月18日 16時34分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ④

 さてそれから、時は過ぎ、蓮花丸は十五歳となりました。老母は、既に永禄の頃(1558年~1570年)

にお亡くなりになられました。母が亡くなった頃に、豊春夫婦も出家の願いを持ちましたが、

蓮花丸がまだ幼少であったので、しんよ上人は、出家を止めました。蓮花丸は、日夜、

学問に励みました。元より仏の再来でありますから、その賢さといったら、まったく如

来の御化身かと、誰もが皆、尊敬するのでした。

 ある時、蓮花丸は、勉強にも疲れたのでしょうか、ついうとうとと、眠り込んでしまいました。

さて、その枕元に母上が姿を顕しました。

「如何に、蓮花丸。昼夜の学問を怠らず、仏道に専心し、如来の報恩を尊むことは、大

変嬉しいことですよ。私は、あなたの母親ではありますが、本当は人間ではありません。

あなたの父、豊春は、幼少の時に父を討たれ、明け暮れ敵討ちの願いを、私に祈願しました。

あなたの父の親孝行の心に感心して、その本願を助けることにしたのです。私は、仮の

人間として現れて、あなたの父と夫婦になりました。願いの通りに仇討ちを果たさせたのは、

仏の道に引導するための方便です。さて、老いた母上も極楽往生されました。父豊春も

仏道に入り、修行することを望んでいます。これは、他力本願の力なのですよ。あなたは、

いよいよ出家をして、一門の眷属を引導しなさい。しかし、因果応報からは逃れること

はできません。敵の一子は、父豊春を討ち殺そうとやって来ますが、その罪は、父に来

るのではなく、あなたに巡って来ます。敵が、あなたを打ち殺そうとしても、少しも

身命(しんみょう)を惜しんではいけません。阿弥陀仏の本願の為に命を捨てるのなら、

あなたも敵も、共に成仏の一蓮托生となり、出離決定(しゅつりけつじょう:解脱すること)

は疑いありません。私は、この因果の道理を知らせるために、これまで仮に現れていたのです。

誰にでも容易くできる他力念仏の行を、更に広く人々に勧めなさい。そうすれば、又

会うこともあるでしょう。」

蓮花丸の母は、そう言うと、不思議にもたなびく白雲の上に乗り、

「夢ではありませんよ。決して母の言葉を疑ってはいけません。」

と、言い残して、空高く舞い上がりました。蓮花丸は、驚いて飛び起きると、虚空を飛

んで行く母上の姿を、有り難く拝みましたが、さすがに突然の母との別れを悲しみました。

 そこへ、父豊春が、駆け込んで来ました。蓮花丸が、事の次第を話すと、豊春も、

「おお、私にも同じ事を告げて、妻が虚空に飛んで行く夢を見た。目覚めて、妻を捜し

たが、どこにも居ない。あまりにも不思議なので、お前に知らせに来たところだ。それ

にしても、こんな珍しいことは無い。先ずは、上人様にお知らせいたそう。」

親子が、事細やかに次第を上人に語ると、上人はこれを聞いて、

「おお、そんなこともあるであろう。大慈大悲(観世音菩薩のこと)の誓願には、無仏

の衆生を救うため、妻となり子となり、様々な利益(りやく)をお与え下さるのだ。菩

薩が様々に化身して、人々を救う事は、沢山の経文に明かである。あなた方の信心が深

いので、疑いもなく、仏、菩薩が付き添ってくれているのです。そのうな奇跡があった

のなら、少しも早く、親子共々、出家するべきでしょう。」

と、言うと、早速に豊春親子に受戒を授けたのでした。やがて、剃髪し、豊春は善浄坊、

蓮花丸は蓮花坊と名付けられたことは、有り難限りです。善浄は、上人に、

「このように、有り難い身分となった上は、少しも早く諸国修行に出発し、どのような

山にも籠もって、ますます未来を願うことといたします。」

と、言うと、早速に暇乞いをして、念願であった修行の旅に旅立たれたのでした。まっ

たく有り難い次第です。

 さて、上人は、蓮花坊に、こう問いました。

「蓮花坊よ。そなたは、仏菩薩の胎内より生まれ出た者であるから、衆生を引導するこ

とのできる善知識であることに間違い無い。これから、どのような法味(ほうみ:教え)

を説いて、往生の関門を越えさせるのか。真の道理とは何か。さあ、どうだ、どうだ。」

蓮花坊は、

「私は、卑しくも、上人様に助けられて、御哀れみを深く被りました。そして、有り難

い仏法を、聴聞して参りました。その中で、最も尊きものは、阿弥陀如来の御本願です。

何故なら、無量寿経四十八願の第十八番目に、念仏の信心のみを勧めて、他の修行を勧

めてはいません。又あるいは、十回でも念仏を唱えれば、必ず往生すると説かれるのです。

一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)と言うより外に、別の方法は

ありません。往生の肝要は、ここに極まっております。」

と、鮮やかに答えたのでした。上人は、大変感心して、

「まだ年端も行かないのに、たいした悟りである。きっと立派な高僧になることだろう。

決定往生(けつじょう)往生の関門は、念仏に過ぎたるものは無い。さて、ここで修行

を重ねるのか、また諸国修行に出るのか。そのどちらでも、望む方にしなさい。」

と言うと、蓮花坊は、

「まず修行に出たいと思います。世間の憂い、無常を経験し、衆生を誡め、念仏を勧め

たいと考えます。これより、暇申し上げ、旅の仕度をいたします。」

上人は、蓮花坊の志しを殊勝に思い、

「何ひとつとして、実を結ばないという事はない。幸い、修行を望んでいる僧が多数いるので、

この人々と一緒に、諸国巡礼に出かけ、無仏の人々を、菩提の道へと引導しなさい。

さて、それでは、形見を取らせることにしよう。」

と、言うと、紺紙金泥(こんしこんでい)の名号を取り出して、

「これは、我が門の御開山様自筆の霊宝である。これを、御身にお譲りいたそう。奇特

不思議の名号である。よくよくこれを、信心しなさい。今から、御身を蓮花上人と名付

ける。よいな。」

と言うのでした。蓮花上人は、喜んで形見を拝受すると、同行の僧達と修行の旅に出たのでした。

 《以下、道行き》

さぞや仏陣三宝も

いかで哀れみ無かるらん

修行の縁を頼まんと

熊野に参り、三つの山

補陀落や、波打つ浪は、三熊野の(熊野三社)

那智の御山に、響く滝つ瀬と

心静かに、伏し拝み

これや牟婁(むろ:和歌山県から三重県)

浦山かけて遙々と

の岬を打ち眺め(那智勝浦町宇久井半島)

いつか、我が身も極楽の

台(うてな)の縁に大崎の(三重県志摩市浜島町大崎半島)

里をも越えつつ塩津浦(和歌山県海南市下津町塩津)

向かいは、和歌の浦山や(和歌山県北部)

月の夜船に頼り得て

光も差すや玉津島(和歌山県和歌山市和歌浦中)

その古は父上の

母諸共に年を得て

ここぞ、妹背の山住まい

今は、大日の誓いにて

親子諸共、出家して

菩提の岸に至る身の

頼めや頼め、弥陀の為

人は、雨夜の空なれど

雲晴れぬとも、西に行き

仏の教え、有り難し

水底澄みて、明らかに

流れも清き、紀ノ川の

渡し守さえ心地して

関の戸、あくる山口の(和歌山県日高郡印南町山口)

里、離れたる山中(大阪府南市山中渓谷)

下は、吹飯(ふけ)の浦とかや(大阪府泉南郡深日(ふけ)海岸)

父御に何時か、大川の(旧淀川)

宿にも今は和泉なる

住み慣れ給いし貝塚を(大阪府泉南地域)

修行の身なれば、他所ながらもや、打ち眺め

大鳥五社の大明神を伏し拝み(大鳥大社:大阪府堺市西区鳳北町)

信太の森の恨み葛の葉

北は、住吉、こうこうたり(住吉大社:大阪市住吉区住吉)

西、蒼海、満々と

沖より浪の打つ音は

物凄まじき、風情かな

巡り巡りて、今は早

堺の港に着き給い(大阪湾)

旅の休息、晴らさるる

かの上人の有様

殊勝なりとも、なかなか、申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ③

2012年12月17日 16時45分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ③

 敵の首を討ち取った、豊春親子夫婦の喜びは、この上も無いものでした。しかし、喜

んでばかりは居られません。何時追っ手が来るとも知れないと、夜半、仮の住まいを捨

てると、若を妻に抱かせ、自らは母を肩に掛けて、逃亡の旅に出たのでした。

 女子供連れで目立つ為、人目を忍んで夜になると歩き、日数を重ねて、和泉の国佐野

の里(大阪府泉佐野市)あたりにまでやって来ました。しかし、もともと、貧乏な豊春

には蓄えも無く、とうとう食べる物もなくなり、飢えに疲れ果ててしまいました。

 もうこれ以上は歩けないという所に、荒れ果てた辻堂を見つけました。とりあえず、

今夜は、ここで休むことにしようと、この辻堂を一夜の宿とすることにしました。親孝

行の豊春は、自分の疲れは露にも出さずに、母を労り、

「のう、母上様。年来の願いも叶った上は、本国に帰り、父の本領を安堵して、母上様

にも安楽に暮らせるようにと思っておりましたが、本望を遂げた甲斐もなく、食べ物も

無くなってしまいました。ここで、飢え死ぬを待つとは、恨めしい世の中です。」

と、涙を流して謝りました。母上は、

「おお、嬉しい事を言ってくれるのですね。私は、もう老木。老い先短いのですから、

飢え死にしようと、構いません。ただ、本領を安堵したお前達の姿を見られないことだ

けが心残りですが、私に構わずお行きなさい。」

と、夫婦に気遣って、自分を捨てるように言うのでした。有り難い母の心遣いに、若の前は、

「大変有り難いお心。なんとか、母上にご奉公する方法はないものでしょうか。ああ、

そうです。思い出しました。天竺のしょうえん女(不明)という方は、年老いた母が

飢え死にしそうになった時、自らの乳を与えて親孝行をしたと聞きました。私も、母上

様に乳を与えるならば、少しは飢えを凌ぐことができるでしょう。」

と、豊若を豊春に抱かせると、老母の傍に立ち寄って、

「せめて、乳をお飲みいただいて、空腹を癒してください。」

と、母乳を勧めました。まったく、これ以上の親孝行は、ありません。母は、若の前

の母乳を有り難く飲みましたが、

「ああ、嬉しいことです。嫁としてのこれまでの親孝行、返す返すも感謝しておりますよ。

この度は、御身の切なる願いであったので、乳を頂きましたが、そのようなことは、二

度としないで下さいよ。不憫の上にも愛おしい孫の食事を、どうしてこの婆が奪うことが、

できますか。こんな老木は捨てておいて、孫子を労ってやりなさい。」

と言って、それからは、母乳を飲もうとはしませんでした。それから夫婦は、老母を

休ませると、二人で密かに、身の成り行きを相談しました。豊春は、

「如何とも、運命尽き果てた。女房よ。あと、四、五日あれば、本国に帰り着くという

所だが、どうしようも無い。この有様では、その前に飢え死にしてしまうだろう。私や

お前は、一日二日、食べなくてもなんとかなるだろうが、母上様はもう限界である。

お前の乳を飲んでくれれば、なんとか本国に帰り着くこともできるだろうが、豊若を

気遣って飲んでくれそうに無い。この子が居なければ、母に母乳を与えることもできる

だろうが、流石にこの子を捨てることもできない。お前はどう思うか。」

と、涙を流して話します。若の前は、

「ごもっともです。母乳を飲んでいただければ、死なずに本国に帰ることができます。

この子のことを心配して、飲んでいただけないのです。お心の優しい母上様です。

不憫な事ではありますが、幼い子を何とでもして、老母に乳を与えてお連れいたしましょう。

行きとし生ける物、子の死を悲しまない物はありませんが、命長らえれば、又、子には、

恵まれる事もあります。しかし、親に別れたなら、二度と会うことはできません。恨め

しい浮き世ではありますが、母上様を労ることの方が大事です。」

と、泣き崩れました。豊春も涙ながらに、

「さても頼もしい言葉。私には実の親であるから、この身諸共失っても惜しくはないが、

お前にとっては、舅(しゅうと)であるのに、そこまで深く孝行してくれるのか。まったく、

唐土(もろこし)のとう夫人(不明)にも勝る賢女だな。また、郭巨(かっきょ:中国故事)

という者は、貧乏のため食い詰め、口減らしをしようとしだが、老母を助け、一人の嬰児

を、山の中に生き埋めにしようとしたという。その時、掘った土の中から、黄金の釜

を掘り当て、再び長者になったとか。そのような天の哀れみがあればよいが、私は、ど

の様な因果で、たった一人の子供を殺すはめになるのだろうか。しかし、私も一人しか

居ない親の為にそうするのであれば、これが天命と諦める外ない。」

と、消え入る様に嘆く外ありません。無惨にも、幼い子供は、これから殺されるとも知

らずに、父や母の顔を撫でて、戯れ遊んでいるのです。若の前は、

「ああ、世の中で、親の恩程重いものはありません。今日まで、三年の間育ててきた

幼気(いたいけ)盛りのこの子を、親の為に殺すのなら、仕方のないことです。それに

しても豊春殿。見てください。今から殺されるとも知らないで、無惨にもこの子は、無

心に遊んでいます。ああ、不憫な子です。これまでの旅の苦労も、この子が居るから耐

え忍んでこれらましたが、この子が亡き後は、どうやって心の憂さを晴らしたら良いの

でしょう。このような薄い親子の縁であったなら、なんで生まれてきたのですか。」


忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ②

2012年12月14日 12時46分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

れんげ上人伝記 ②

 さて、ここに哀れを留めたのは、豊春の妻、若の前でした。今は、三歳になる嬰児が

一人おりました。夫の豊春が、山において、討ち殺されたと聞き、涙に暮れておりましたが、

『二世の誓いを立てた夫が討たれ、帰らないことを嘆いているよりも、女の身であろうとも、

なんとかして、敵を騙して、恨みの一太刀を報い、夫の供養としよう。』

と、乱れる心の中で思い立ちます。しかし、後ろ髪を引かれるのは、老いた母と幼い

若君のことでした。しかし、心強くも思い切ると、思いの丈を文に書き記し、たった一人

で、敵の館を目指したのでした。

 敵の館にやってきた若の前は、門番に近づくと、

「私は、人に騙されて、都から拐(かどわ)かされて来た者です。哀れと思し召して、

下の水仕の奉公にでも、雇っていただけないでしょうか。」

と、誠しやかに言いました。門番は、若の前をじろじろと見て、こう言いました。

「これはまあ、美人な女だな。当家に女房は沢山おるが、こんないい女はいないぞ。い

ったい、何処の者だ。話してみろ。」

と、丁度そこに、外出していた弾正国光が帰宅してきました。国光は、若の前を見るなり、

その美しさに、心奪われて、めろめろになってしまいました。国光は番人に、

「そこの女は、何の用があって、ここに来たのか。」

と、問いました。番人が、

「はい、当家へ宮仕えをしたいと、参った者でございます。」

と答えると、国光は喜んで、

「由緒正しい者であるならば、それそれ、今より直ぐに奉公いたせ。」

と、にこにこして言いました。若の前は、しめしめと心の中で

『よしよし、計略通りに、入り込めた。このまま騙し通して、きっと討ち取ってやる。』

と、勇みました。

 さて、それから、国光は、仲居の女房を呼んで、

「さっき参った、旅の女を、急ぎ奥へ通せ。」

と命じました。やがて、女房が、若の前を連れてきました。国光は、入ってきた若の前が、

臆することもなく普通で居る様子を、うっとりと見惚れてしまいました。

「如何に、女。旅の者と聞いたが、生国は何処であるか。」

若の前は、都の者であると答えます。国光は、

「おお、我が故郷も都に近い所だが、いろいろ子細あって、この土地に住んで、もう長い。

今は、こんな所で無為に暮らしておるが、心は都人に劣ることはないぞ。今日は、用事

で出かけて、かなり飲んで来た所だが、せっかくの都の女。今宵は、お前を花と眺めて

酒盛りをすることとしよう。さあそれそれ、酒の用意じゃ。」

と言うと、盛大に酒宴を始めたのでした。やがて、夜も更け、家の人々も皆、寝所へと

下がりました。そこで国光は、若の前に膝枕をすると、

「まったく縁とは不思議なものよ。今日、偶然にも会ったばかりではあるが、どうも他

人とも思えない。これこそ、深い縁というものであろう。情けを掛けてくれよ。」

と、すっかりその気になって、優しい言葉を掛けるのでした。若の前は、

「もったいないお言葉です。私のような卑しい身の上の者を、召し抱えていただき、そ

の上、優しくしていただけるとは、身に余る喜びです。しかしこのようなことは、神仏

の前では、あってはならぬことです。」

と、わざと萎れて言うのでいた。その露を含んだ花の様な顔の、例えようも無い妖艶さです。

国光は、うっとりとしながら、酔いも回り、

「何を、余計なことを考えておるのだ。情けの道に、神も仏もあるものか。その様に、

他人行儀では、互いに心も打ち解けぬではないか。さあ、お前の心に任せるが、もっと

心を打ち解けてくだされ。」

と、言いながら、正体無く寝入ってしまいました。若の前は、

『さて、いよいよ機会がやって来た。その太刀を取って、胸元を突き刺して、夫の敵

を取ってやる。』と思いましたが、

『いや、もう少し待とう。失敗したら一大事だ。まだ、夜も半ば。家内の人々も、まだ

寝入ってはいない。もう一時(いっとき)も待てば、門番ども、きっと寝入るに違い無い。』

と、いろいろ知略を巡らせ、手筈を慎重に考えながら、はやる心を押し静めて、じっと

時の過ぎるのを待つのでした。

 一方その頃、豊春は、慈悲心が天に通じて、危うい難儀を鶴に助けられ、宙高く運ば

れたのでしたが、虚空を飛んで気が付くと、知らない森の中に降ろされて、呆然と佇ん

でいます。

「おお、鶴に助けられ、再び地上に戻ったとは、嬉しい限りだが、ここは、いったい何処なのか。」

と、つぶやきながら、辺りを見回すと、どうやら近くに家があるらしく、灯火の光が

見えました。豊春は、その光を頼りに、進んで行きました。忍び忍び近づいて、障子の

隙間より、そっと中を覗いた豊春は、びっくりしました。中に居たのは、疑いも無き敵

の国光が、なんと妻の膝枕で寝ているのです。

「これは、いったいなんたることか。ここは、敵の館か。それにしても、なんで、妻が

ここに居るのだ。よりによって、敵に取り入るとは。」

 さて、その時、若の前は、そろそろ良い頃だろうと、国光の太刀を取ろうとして、膝

を少し動かしました。すると国光は、目を醒まし、

「やれ、上﨟よ。最前の情けの言葉の返事はどうなったかな。さあさあ。」

と、迫るのでした。若の前は、はっとしましたが平然として、

「どうして、あなた様の仰せに背くようなことをしましょうか。しかし、今夜は、少し

お召し上がりが過ぎました。もう少しお休みになって、酔いをおさましください。」

といなすのでした。しかし、国光は、答える様も無く、またぐっすりと寝入ってしまいました。

 これを、じっと見ていた豊春は、

「ええ、悔しいことだ。俺が討たれたと聞いてあの女、自分の難儀を逃れるために、母

や若を振り捨てて、敵に所で、身を立てる気だな。くそ、憎っくき女め。この所へ、落

とされたのも天の恵み。駆け入って、女房諸共に切って捨ててくれる。」

と、いきり立ちましたが、

「いや、待てよ。俺はまだ後手に縛られたままだ。このまま駆け入っても、返って返り

討ちに遭うだけだ。年来の敵とふしだらな女を目の前にして、討つことができないとは、

天道にみすてられたか。」

と、その場で、涙にくれるしかありませんでした。

 その時、若の前は突然、太刀を取り、さっと抜いて、国光の胸に突き立てると、

「如何に、左衛門国光。私こそ、お前が討った豊春の妻女である。報いの程を知れ。」

と、一気に刺し通そうとしました。国光は反射的に起きあがり、太刀をはね除けましたが、

夢うつつのまま正体無く、若の前の突き刺す太刀を避けながら、あちらこちらとはいずり回りました。

やがて、障子に追いつめられた国光が、

「しばし、しばし。」

と、言う所で、外に居た豊春は、すかさず障子をはったと蹴倒し、国光諸共踏みつけると、

「俺だ、豊春だ。女房よ。よくぞやったり。さあ、早くこの縄を解いてくれ。」

と、大声を出しました。驚いた若の前が駈け寄って、縄を切り落としました。豊春は、

ばっと敵を取り伏せて、

「如何に国光。巡る因果を思い知れ。年来の本望、今、遂げん。」

と、国光の首を、討ち落としたのでした。

 それから豊春は、若の前を肩に担ぐと、塀の上を乗り越え、飛び越えて、家に帰った

のでした。これは、石山寺の観音様を信仰したからこそであると、人々は皆、感心したのでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 15 説経石山記(蓮花上人伝記) ①

2012年12月13日 11時40分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天下一石見掾藤原重信(天満八太夫)正本

延宝から元禄頃

つるや板

 この説経では、大津にある石山寺の十一面観音の本地を、蓮花上人の生涯を通して説

く物語である。しかし、石山寺の本尊は、如意輪観音であって、十一面観音では無く、

蓮花上人なる人物の存在も確認することはできなかった。同じ近江の中で、十一面観音

は数多くあり、例えば渡岸寺等が有名であるが、この話しの中では、他の具体的が寺の

名称は出てこない。従って、この説経の設定は、かなり架空の設定であるということに

なりそうだが、内容的には、念仏「南無阿弥陀仏」の奇瑞を通して、浄土教の思想を語

りかける点で、十分古説経の演劇的世界を感じることができる。また、「身代わり名号」

の説話は、日本各地に残されている点からも、当時はかなりポピュラーな題材であった

と言えるだろう。

れんげ上人伝記 ①

 それ、一切の衆生は、無碍光(むげこう)を発する阿弥陀如来のお名前を聞き、生死の

苦界から脱して解脱に至ることは、ひとえに、念仏往生の一道にあるのです。

  ここに、「身代わり名号」の高僧、蓮花上人の由来を詳しく尋ねてみると、人皇百

一代、後小松天皇の世、明徳(1390年頃)の頃のことでありました。紀州の藤白(和歌山県海南市藤白)

というところに、下河辺弾正左衛門国光(しもこうべだんじょうさえもんくにみつ)と

いう猛悪無道の荒くれ者がおりました。元はといえば、近江の国高嶋郡(滋賀県高島市)

の杉山兵衛の尉(ひょうえのじょう)と言う者でしたが、志賀郡を治めていた、梅垣監

物豊重(うめがきけんもつとよしげ)を、たいした理由も無く討ち殺したので、近江の

国に居ることが出来なくなったのでした。杉山は、母方の叔父を頼って、国光と名前を

変えて、紀州の国に潜伏していたのです。それから、年月は流れ、十七年が経ちました。

弾正国光には、形部の介国長(ぎょうぶのすけくになが)という男の子が一人おりますが、

元より大酒飲みで好色、人の情けも顧みぬ、悪逆深き傲り者でした。

 

 これはさて置き、討たれた豊重の一子、梅垣権太郎豊春(うめがきごんたろうとよはる)

は、その時七歳。豊春は、幼少にもかかわらず、敵を捜し回りますが、敵の行方は知れません。

無駄に年月をすごしていましたが、十九歳の春に、敵が名を変えて、紀伊の国に潜伏し

ていることをつきとめ、母上を連れて、和歌浦(和歌山県北部)へとやってきました。

明け暮れ、敵を捜しますが、なかなか、敵の居所がつかめません。とうとう、生活にも

困窮して、賎の手業に身を落としていましました。親孝行の豊春は、七十歳になる老

母を、土車に乗せて浜辺に出ては、潮を焼いてその日を過ごしていたのでした。

 さて、浜では、沢山の海女達が、潮汲みに出ています。海女達は、豊春親子を見ると、

「さてさて、あの人は、毎日、老母を土車に乗せて浜にやって来て、仕事の合間に母を

労る、その様子は、まったく奇特なお方であるな。私たちも、そんなふうになりたいものだ。」

と、話すのでした。そんな海女達の中に、若の前という大変優しい女がおりました。若

の前は、汲んだ潮を下ろして、豊春の傍に立ち寄ると、

「あのう、私は、この浦の潮汲み海女ですが、あなたのお姿を見ていると、卑しい賎の

仕事をするような方には見えません。特に、毎日、老母を乗せて土車を曳く、その孝行

深いお姿に大変、感心しています。」

と、優しげに声を掛けました。豊春は、

「ああ、そのような、お優しいお言葉掛けは、どのようなお生まれの方でしょうか。

私はと言えば、かつては、知る人は知る身分ではありましたが、ある事件によって、国

を出て、只一人の母上に、貧苦の苦しみを遭わせることになってしまいました。このこ

とが、なんといっても、一番の悲しみです。」

と、力なく答えたのでした。若の前は、これを聞くと

「まったく、世の中というものは、どうなるか分からないものです。私も、元は卑しい

身分の者ではありませんでしたが、父にも母も死んでしまい、住むところも無くなり、

頼むところも無いままに、仕方なくこのような仕事をするようになったのです。

 ところで、あなた様は親孝行で、お情け深い心がおありのようです。私を哀れとお思

いになり、もらっていただけるなら、私も一緒に働いて、老母の面倒を見たいと思います。

あなたが、山へ行き、私は浜へ出て、あの母上を自分の母と思って、一緒に孝行させてください。」

と、言うのでした。豊春は、これを聞いて、

「先ほどよりの情け深いお話。特に、老母を共に労ってくれるという志しは、大変嬉し

いことです。しかし、母上のお気持ちを尋ねなければ、お答えできません。母上のお心

次第にしたいと思います。それでは、こちらへ。」

と、母の傍に連れて行き、事の次第を母に語ったのでした。母はこれを聞いて、

「さてもさても、姿と言い、心といい、由緒ありげに見受けます。このような、世にも

浅ましい婆の面倒を見ようとは、これも前世の縁の結びかもしれませんね。

 のう、豊春よ。このような優しい女性こそ、末頼もしい奥方になるでしょう。一緒に

庵に連れて帰りましょう。さあさあ、早く早く。」

と、言いました。こうして、仮初めながら、浜路において、親子夫婦の契約をなされると庵に帰り、

三人で、仲睦まじく暮らし始めたのでした。

 さて一方、ある時、弾正左衛門国光は、一族郎党を連れて藤白峠に陣を張って、狩り

を行いました。岩代(和歌山県日高郡みなべ町)の山谷に入り、狩りに興じておりました。

そのうちに、関山という大変険しい山中の松の大木に、鶴の巣を見つけたのでした。

勢子達は、


忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ⑥

2012年11月28日 10時27分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ⑥

 さて、浄海は、人柱を沈める様子を見物しようと、輪田の岬の観音堂に、一族郎党の

者共と、お出ましになられました。一方、この占いをした博士の安氏は、渚で悲しむ人々

の姿を見て、このようなことになったのは自分のせいだ、なんとかしなければと思い、

観音堂の浄海の前に畏まり、次のように進言しました。

「あれをご覧下さい。人々の嘆きは、阿鼻叫喚地獄の罪人が、熱鉄の炎にあぶられてい

るが如くです。教主釈尊は、難行苦行の末に、実相(真実の本性)を悟られて、さまざ

ま御思案なされ、法華経を経王(きょうおう)となされました。どうか、一万部の法華

経を書写なされて、三十人の人柱の名前を書き記すようにお願いします。そして、沈め

の石には、年号、日付、『竜神納受ましませ』と書き付け、海底に沈めるならば、五十

転伝随喜の功徳(ごじゅうてんでん:法華経随喜功徳品第18)は、八十億劫(おっこ

う:ほぼ無限の時間)の生死の罪を消し去ります。竜神が、納受するならば、必ず嶋は

完成することでしょう。我が君様。」

これを聞いた浄海は、顔色を変えて睨みつけましたので、御一門の方々も安氏も、それ

以上何も言う事も出来ずに、黙っていると、丹波の家包が、妻と乳母を引き連れて、観

音堂にやってきました。家包は、

「なんと情けない。父の命をお助け下さい。我々夫婦二人と父一人を取り替えるのに、

何の不足があるのですか。どうか、我々夫婦と国春を取り替えてください。」

と、天を仰ぎ、地に伏して、流涕焦がれて嘆願するのでした。浄海はこれを聞いて、不

憫に思い、

「さらば、国春一人は、あの女に渡し、残りの二十九人を、すぐに沈めよ。時間が経て

ば経つほど、悲しみも増す。」

と言いましたが、そこに、家来の松王丸が進み出て、

「申し上げます。三十人の人柱を立てたとしても、人々の嘆きによって、嶋が完成する

ことは無いでしょう。君の願いを無駄にしては、家来としての使命が果たせません。やはり、

博士の言う如く、一万部の法華経と三十人の代わりに誰かが一人、人柱となれば、嶋の

完成は成就して、いつまでも消えること無く残るでしょう。」

と進言すれば、上古も今も末代も、試し少ない次第であると、人々は涙を流して感動したのでした。

有り難いことに、浄海も、随喜の涙を浮かべて、松王の進言を受け入れました。

 国春を始めとし、人柱の人々は、直ちに解放され、それぞれの国へと帰って行きました。

浦島太郎が、その昔、七世の孫に会った時の嬉しさも、この喜びにはかなわないでしょう。

 さて、次の吉日は、七月十三日と決まりました。一万の法華経の書写を、寺々に命じたので、

程なく兵庫の浦に、一万部の法華経が集まりました。これを受け取った安氏は、御幣を

切り立てた舟に法華経を積み込んで、海へと漕ぎ出し、御経を沈めました。そして、代

わりの人柱に立ったのは、松王丸です。沈めの石を首に掛けると、さも嬉しそうな様子で、

一心に念仏を唱え、やがて海に身を投じました。安氏は、船上で御幣を振り上げて祝詞

を唱え、巫女の舞が行われました。浜では、沢山の僧達が読経する有様は、有り難いと

もなかなか、申し上げ様もありません。

 この御経の功力によって、嶋の完成は成就しました。その嶋の大きさは十四町(約1.5Km)。

嶋の上には社を建て、松王殿とお祀りしたのでした。かの松王は、大日如来の化身、明

月女は、吉祥天の化身でした。人柱を助ける為に現れたのでした。

 その後、家包には、褒美として、能勢八千町(大阪府能勢町:府道4号に明月峠がある)

が与えられ、数の館を構えて繁栄したということです。

千秋万歳(せんしゅうばんぜい)

目出度きとのなかなか

申すばかりはなかりけり

おわりPhoto


忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ⑤

2012年11月27日 17時03分25秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ⑤

 翌日、家包は、明月女を近付けると、

「私は、これから入道様の所へ行き、父上の助命嘆願をする。このことが叶わなければ、

その場で腹を切って、冥途の閻魔の庁で、お前を待っている。」

と、言い捨ててそのまま内裏に馳せ向かったのでした。家包は内裏に上がると、事の子

細を聞いたのでした。浄海は、重ねてこう言いました。

「三十人の人柱、十八人は男で、十二人は女と聞いておる。男十八人は、沖の方に沈めよ。

女十二人は、磯の方に沈めよ。それぞれの嘆きを、脇から眺めるのも不憫であるから、

一度にさっと沈めるように。」

 これを聞いた家包は、一度は思い切ったものの、肝も魂も消え果てて、いつ申し立て

をしようかと、まごまごしていましたが、いよいよ震える声でこう言いました。

「多くの人々の嘆きを押し分けて、申し立てることは、恐れ多い事ではありますが、三

十人目の人柱として召し捕らえられた修行者は、摂津の国難波入り江三松の形部左衛門

国春という者です。去年の秋、妻子に離れ、高野山にて遁世し、諸国修行をなされてお

りましたが、この浦を通って、三十人目の人柱となりました。この修行者の娘は、この

家包の妻ですが、父の最期を知って、父の命に替わろうとこれまで参っております。し

かし、流石に御前に上がることもできませんので、この家包が代わりに参って、申し上

げる次第です。」

浄海はご覧になって、

「何、あれはなんという訴訟であるか。人柱の行方を案内した者は、すべて人柱にすると

定めたはずじゃ。誰が、お前を手引きしたのか。おい、お前も考えてみよ。三十人の

人柱、一人を哀れみ取り替えたなら、末代までの恨みをどうするつもりか。そのような

ことをしては、治まりがつかなくなる。とはいえ、お前がこの浄海にじきじきに申し立て

することを不憫にも思うので、人柱の最期の時に会うことを許す。」

と、言い残すと、簾中に入られました。最期の瞬間に望みを託した家包は、面目を施し

て、宿所へと戻ったのでした。

 さて、とうとう人柱が沈められる日がやってきました。やがて三十人の者達は、一人

一人、牢輿に入れられて、浜へと運ばれ、一人一艘の舟に乗せられました。人柱に取ら

れた者の妻子、親類縁者が、近国他国より大勢集まって、あれが我が子か、我が父か、

兄弟かと、牢輿に縋り付いて嘆き、悲しみます。しかし、邪見な武士共は、笞を振るっ

て人々を追い払うのでした。今を限りのことですから、言いたいことは山ほどあります

が、近づく事も出来ずに、嘆き悲しむ姿は、目も当てられぬ光景です。

 さて、国春はといえば、二十九人の人柱とは別に厳重な警護に囲まれて牢を出ました。

家包が、軍勢を揃え、国春を奪還するかもしれないと考えたからです。姫君は、父は

何処と、心乱れて泣くばかりでしたが、乳母が後からやって来る国春に気が付きました。

「只今、参られるのが、父国春様ですよ。」

聞いて、明月女は、笠を放り投げると、諸人を掻き分けて一散に父の牢輿に駈け寄りました。

「のう、明月が参りました。私も一緒に沈めてください。」

と言おうとすれば、武士達は、笞を振り上げて追い返します。家包が、追い立てる杖に

縋り付いて、

「やあ、情けもない武士達よ。その人、一人は、面会が許された人であるぞ。」

と言うと、時の奉行上総の守は、

「やあ、静まれ。その人一人ばかりは、訴訟のある方である。少しの間、籠を置き、名

残を惜しませよ。」

と、取りなしてくれたのでした。やがて、牢籠は下ろされました。親子は互いに取り付いて、

さめざめと涙を流しました。束の間の対面ではありますが、念願の対面が叶い、喜びも

またひとしおです。ややあって、父国春は、涙ながらに、

「お前にもう一度会いたいという、志しがあったからこそ、あちらこちらを回って、こ

こまで来たのだよ。親が子を思う心と、子が親を思う心とは違うというが、このような

憂き目に会ったのは、子を思う親の心故のこと。まったく『子は三界の首枷』とは、よ

く言ったものだ。母は、お前への思いが深くて、終に死んでしまった。私も後を追おう

と思ったが、生きていれば又、お前に会えると思って、諸国修行の旅に出たのじゃ。

今、このような憂き目に会うのも、元はといえば、お前にせいなのだ。子は敵か宝かと、

善悪の二つを勘案するに、他人の子は宝であるが、お前は親の敵だな。そうは言ったも

のの、深く恨んでいる訳ではない。この年月、仏神に祈誓をしてきた利生(りしょう)が

あって、生きている内に、お前に会うことができたのだから、何より持って、嬉しいことだ。

このような運命を辿ると分かっていたのなら、母と一緒に長らえて、一緒に会うことができたなら、

どんなにか嬉しかったことか。しかし、このような浅ましい最期の姿を見せなければな

らないのは、なんと言っても恥ずかしいことじゃわい。まあ、それも運命、菩提を問う

て下され。それにしても情けない乳母であるな。このうように近くに居ながら、今まで、

便りのひとつもよこさないとは。」

と、掻き口説いて、流涕焦がれて悶えるのでした。いたわしくも姫君は、

「まったくその通りです。許してください、父上様。私も同じ海へとお供します。御手を

携えて、三途の川を渡り、死出の山を越えて、閻魔の庁へのお供をいたします。

 のう、いかに武士達。私も父上と一緒に、海に沈めてください。みなさんお願いします。」

と悶え焦がれて泣き崩れました。さらに、父国春が泣いては口説き、恨んでは泣く姿は、善知鳥(うとう:善知鳥安方の故事)が、流す血の涙に、勝るとも劣らない労しさです。

 それを見ている人達も、涙を禁じ得ません。このような哀れなことは見たこともないと、

流石に荒ぶる武士達も、皆、涙を流したのでした。上総の守は、この様子を見て、

「御嘆きはごもっともであるが、とても叶わぬことである。どうか、そこをおどき下さ

い、姫君。やあ、武士共。時刻が遅れてはならぬ。気を入れ直して、急げ。」

と下知すると、おうとばかりに、再び牢輿が持ち上げられました。明月女は、更に取り付いて、

「のうのう、情けもない人々よ、のう、しばし」

と、叫びますが、武士達は、姫を引き分けて、浜へと下りて行きました。

この人々の有様、哀れともなかなか、申すばかりはなかりけり。

つづく

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忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ④

2012年11月26日 17時14分27秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ④

 ※以下の記述には、権藤次重元が、一段目の後半で家包を攻めて、明月女を奪還しよ

うとした筋との不一致が見られる。この戦の場面は幸若には無いものであるので、八太

夫が金平風に筋を付け加えたものであると推測される。しかし、ここ四段目においては、

幸若の記述をそのまま受け継ぎ、筋の齟齬を修正していない。家包との戦いに敗れて落

ちた重元が、家包の館と知らずに家包の館に現れるという不自然さを、当時の人達は、

何とも思わなかったのだろうか?逆に、筋はどうあれ、派手な合戦場面を設定しなければ、
興行的人気が出なかったという当時の事情も汲んで取れる。そういう点では、この

作品は、古説経の崩壊を物語る作品とも言えるようである。

 ここに神崎の住人、権藤次重元という優しい人がおりました。(※幸若では、ここで

初めて登場する)

この方も、かつて住吉神社で、明月女を見かけて一目惚れをし、数々の恋文を明月女に

送ったのでした。しかし、明月女が行方不明になってしまったので、思い悩んだ末に出

家して諸国修行の旅に出たのでした。どういう機縁でありましょうか、やがて重元は、

丹波の能勢にやって来ました。そして、探し求めている明月女が居るとも知らずに、家

包(いえかね)の門外で、一休みをしました。重元は、国春禅門(くにはるぜんもん)が、

兵庫の浦の人柱に取られたことを浅ましく思って、何気なく一首の歌を口ずさみました。

『浮き世ぞと 思い捨てても 一筋に 人の上にも 憂きにとぞ聞く』

その時、明月女は、この歌を耳にして、胸騒ぎがしたので、家人を出してこの修行者を

呼び止め、何者であるかを聞かせました。重元は、

「浅ましい修行者が、現世に存在しているように、故郷のことなどをいうべきではあり

ませんが、また、隠してどうなるというものでもありません。 私は、摂津の国、神崎の者。」

と、答えました。物陰から様子を窺っていた明月女と乳母は、神崎と聞いて、吹く風も

懐かしくなり、飛んで出ると、修行者に話しかけました。

「のう、修行者。先ほどの歌に、人の上にも憂き事ぞ聞くと、口ずさんだのは、どうい

うことですか。」

答えて重元は、

「人の上と申すのは、ある法師もこと。この法師の由来をお話しすれば、摂津の国、難

波入り江三松に形部左衛門国春という人がおりましたが、一人の姫がありました。この

姫は、大変美しくなられましたが、ある日行方不明となってしまわれました。父母のお

嘆き、悲しみは大きく、母は、昨年の秋のころに亡くなられ、父国春は、高野の峰に遁

世されました。その後、諸国修行の旅に出られましたが、兵庫の浦の人柱に取られて、

六月二十三日には、海中に沈められると聞きました。なんという浅ましい世の中である

かと、何気なく下手な歌を詠みました。」

と、言いました。明月女も乳母も驚いて、さらに夢とも弁えず、

「それは、ほんとうですか。修行者よ。」

と、呆然としています。重元は、

「かく言う私も、このように諸国修行をしているのは、その姫君のせいなのです。」

と、言い残すと何処へとも無く立ち去りました。これを聞いて明月女は、

「さては、今の修行者は、私を恋していたあの方か。私のせいで、あのような修行者に

なってしまわれたのですね。今となっては、なんともしようの無いことです。」

と、簾中に入って、どうしよも無い自分の運命を思い、さめざめと泣きました。しかし、

父の行方を知った明月女は思い切って、どうにかして父の命の代わりになろ

うと思い立ったのでした。

 ちょうどその時は、家包は狩り場に出て留守でしたので、これを良い機会と思い、

明月女は、事の次第を細やかに文に書き置くと、乳母を呼んで、

「この人が、帰って来るなら、父を助けることが出来なくなります。少しも早く、急い

で行って、父の命に替わりましょう。」

と、言うと、乳母も嬉しげに旅の用意をするのでした。

 かくて、二人は兵庫の浦を目指して旅立ったのでした。人目を忍ぶ旅なので、菅笠で

顔を隠し、頼みといえば、竹の杖だけです。しかし、足に任せて辿っていく道は、こ

こがどことも知れない山道です。やがて、二人は道に踏み迷って、山中で一夜を明かしました。

その夜が明けて、涙ながらに峰に上がれば、猿の声しか聞こえません。谷に下れば、6

月の激しい水音がごうごうと響くばかりです。心ははやりますが、行く道はなかなか

見つかりません。太陽が出てきたので、東の方向は分かりましたが、なんとしても南下

する道が見つからないのでした。疲れ果てて休んでいると、そこに一人の山人が現れ、ました。山人は、

『あれ、不思議なことだ。この人は、秋を待つ桔梗、苅萱、女郎花の花が、露が重いと

身をくねるようだ。また、時雨に染まる紅葉葉と、籬(まがき)の八重菊に野干の畏れ

を憚って、打ち萎れる様にも見える。いったい何を標(しるべ)にこのような人倫稀な

深山までやって来たのだろうか。なにやら怪しい。』

と、変化の物かもしれないと怪しんでいます。お互いに咎めることも、問いかけること

もせずに、その場で休んでいましたが、やがて乳母は山人に近づいて、

「如何に山人。尋ねたいことがあります。私たちは東国八箇の郡(埼玉県の辺り:身を偽って言った)

の者です。ここにいらっしゃいます姫君の父上様が、兵庫の浦の築嶋の奉行に参りまし

たが、父上様の居ない間に、継母が姫を殺そうとしますので、宵に紛れてこれまでお供

して参りました。しかし、ここまできて道に迷って困っているところです。どうか、兵

庫までの道を教えて下さい。」

と、まことしやかに嘘をつきました。山人はこれを聞いて、

「そうであれば、早く言ってくだされば良かったのに、さあ、こちらへお出でください。」

と、言うと、谷川を渡り、細い道を掻き分け掻き分け案内してくれたのでした。やがて、

小高い所に辿り着くと、山人は、

「ここは、その昔、『兵庫への追分け』と言いましたが、今は、『一松(ひとまつ:人待)峠』

と呼んでいます。あれ、あれをご覧なさい。西への道が見えますが、あれは高砂へと

下る道。よく気を付けて、そちらへ行ってはいけませんよ。辰巳(南東)の方に少し行きますと、

一段高い所から東の方を見れば、湊川が見えます。さらに、雀の松原(神戸市東灘区魚崎西町付近)

御影の森、布引(神戸駅付近)、神崎(尼ヶ崎市)、天王寺、住吉神社まで見渡せます。

西の方は、明石、大蔵谷。南の方向に見える渚こそ、兵庫の浦ですから、東西に分かれ

る道に迷わずに、真っ直ぐに下りて行って下さい。名残惜しい夕映えの空ですが、私は、

ここでお暇申し上げます。」

と言うと、山人は又山の中へと消えて行きました。明月も乳母は、

「この恐ろしい山中で、道案内をしていただけるとは、有り難いことです。これは、き

っと人間ではなく、長年、願を掛けてきた鞍馬の大悲多聞天が、山人となって現れたの

に違いありません。ありがたや、ありがたや。」

と、語り合いながら道を急ぎ、ようやく摂津の国、兵庫の浦に到着したのでした。

 兵庫の浦についた二人は、ある浦人に、人柱の行方について尋ねましたが、浦人は、

「人柱の行方をしゃべった者も人柱にすると、高札に書かれておりますから、とてもお

話することはできません。」

と、逃げて行ってしまいました。哀れな二人は、父の行方も知れぬまま、その日は、空

しく、とある庵に宿を取ったのでした。

 一方、丹波の家包は、三日間の狩りを終えて戻って来ると、身内の者が走り出て、

「大変です。姫君が居なくなりました。行方も知れません。」

と言うのでした。家包は、不思議に思って家に入りましたが、確かに姫の姿は見えません。

姫の部屋を見てみると、床の間に置き文があるのを見つけました。いったい、どういう

ことだと、さっと開いて見てみると、こう書いてありました。

『今生ならぬ、花の縁。かように散り果つるべしとは、ゆめゆめ、思わざりしに、

父母の御行方、風の便りに聞きぬれば、身の咎、業の恐ろしく、御身の咎も恨めしや

労しや母上様は、去年の秋、空しくならせ給う。父国春は、高野の峰にて遁世し、諸国

修行なさるるとて、兵庫の浦の人柱に取られ給うと承る。明日とも、御最期を定めぬ由

を承り、情けの縁の尽き場こそ、御身の恨みもおわせめ、少しも急ぎ、疾く行きて、

父の命にかわるべし。自らなからぬその後に、如何なる花に慣れ給うとも、思し召し忘

れずば、菩提を問うてたび給え。かえずがえず。』

家包は、これを読んで、

「兵庫の浦の人柱は、他所の嘆きと思っていたが、我が身の上に降りかかってきたか。

されば、私も兵庫の浦に行こう。」

と思い立ち、直ちに馬を引き出すと、鞭を打ち当て、兵庫の浦に急行しました。兵庫

の浦で家包は、姫の姿をあちらこちらを探し回りましたが、その契りはまだ尽きてはい

なかったのでしょう。探し回る家包の姿を見つけた明月が、するすると走り出て、家包

の袂に取り付いたのでした。再会した二人の喜びは限りもありません。かの家包の志し、

嬉しきともなかなか、申すばかりはなかりけり。

つづく


忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ③

2012年11月25日 10時03分01秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ③

 何事も、隠し通せる事はありません。壁に耳、岩がものを言う世の習いです。行方知

れずの人々は、兵庫の浦の人柱に取られたということが知れ渡り、人々は、内裏に押し

かけました。これは、丹波の輪田の者、我は播磨の明石の者、また、交野(かたの)の

禁野(きんや)の者、あるいは伊賀、伊勢、尾張の者、口々に、助け給えと叫ぶ有様は、

まるで、冥途へ赴く罪人が、閻魔大王の前で冥官(みょうかん)の裁きを受けているようです。

これはまさに、現世の地獄と、関係のない人々も涙を流して悲しむのでした。これを

見たご一門の人々も

「例え、この嶋ができなくても、何の不足がありましょうか。沈む者も残る者も、深い

悲しみに包まれております。また未来の業ともなりますから、命を助けてください。」

と、嘆願しましたが、浄海は、

「何を言うか。一門の者共。この浄海の大願を妨げる無駄な詮議。

 国綱、庭にひれ伏す奴らを追い出し、固く錠を下ろせ。簡単に人を入れるでない。」

と、内心では腹を立てていた訳ではありませんが、その様に見せかけて立ち上がると、

床板を踏み鳴らして、

「この嶋を無益と思う者は、私の前から消えよ。浄海に教訓できる者など、この天下

にはおらぬ。」


と言い捨てて、音を立てて障子を閉めました。人々は、この様子を見て、厄神天魔が

来ても、この人を止めることは出来ないと諦めました。

 早く三十人の人柱を集めよとの厳命でしたが、二十九人を集めて後、恐れおののいた

人々は、誰も生田辺りに近づかなくなったので、最後の一人を残して、日が過ぎて行きました。

 さて、修業の旅に出た国春は、高野山で修業をした後、熊野、四国、九州と巡り、我

が子明月女の行方も捜しながら旅を重ね、やがて故郷近くまで戻って来たのでした。

とうとう、娘と会う事も出来ませんでした。何も知らない国春は、涙ながらに昆陽野の

辺りに差し掛かったのでした。これを見つけた平家の武士達は、これ幸いと、有無も言

わさず国春を絡め取ったのでした。かくして、人柱が三十人揃ったのでした。

 三十人の人柱の思いは、どの人も劣るということはありませんが、殊に哀れを留めた

のは、国春でした。

「このような事になると分かっていたならば、高野の峰に骨を埋めるべきだった。浮き

世に長らえていれば、いつかは姫に会えると、諸国修行を志したばっかりに、このよう

な憂き目を見ることよ。こんなに薄い親子の縁であるならば、どうして生まれてきたのだ。

せっかく子宝を授かったというのに、かえって敵(かたき)となるとは、なんと恨めし

い浮き世であることか。神も仏も無いのですか。今一度、我が子に会わせてください。

南無阿弥陀仏」

と、消え入るように泣くのでした。かの国春の心の内は、何に喩えるということもできません。

つづく
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忘れ去られた物語たち 14 説経兵庫の築嶋 ②

2012年11月23日 15時03分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ②

 それはさて置き、浄海(平清盛)は、陰陽師安倍晴明の流れである安倍安親、安則の

三代の後胤、安氏という天下の吉凶を占う博士を御前に召して、

「如何に安氏。輪田の岬を筋交いに、海上を三町(約300m)ばかり埋めさせ、嶋を

造り、舟の泊まりを造らせようと思うが、この勧請が成功するか否か占い、また、吉日

を占って、明国の水夫に任せて嶋成就の祈誓を行うように。」

と、命じたのでした。安氏は承って、干支、五行、宿曜、十二道、六明、算術と、あり

とあらゆる王相(おうそう:占星術)を極めて占いました。

「間違いは無いと存じますが、占いにひとつ、不審な点がございます。この嶋は、一度

には、成就はいたしません。占いによりますと、吉日は、三月十八日。辰の一点と出ております。」

これを聞いた浄海は、国綱に奉行を命じて、輪田泊の工事に着手したのでした。

 

 大和、山城、伊賀、伊勢、播磨、摂津、丹波の七カ国から人夫を集め、「武庫山」(宝塚付近)の

岩、岩石を、くわっくわっと引き崩し、輪田の泊まりへと運び出されました。しかし、

潮が速く、埋めても埋めても、翌日には流されて、まるで、蟻が砂を運ぶようなものでした。

五万人の人夫が、十日がかりで、昼夜埋め続けましたが、まったく効果がありません。

国綱が、この有様を浄海に報告すると、浄海は大変に腹を立て、博士の安氏を呼びつけて、

「未だ、ひとつの嶋もできていない。水夫を潜らせて見てみれば、埋めるところには石も

無く、あちらこちらに散らかるだけ。そこには、波も無く、ことの外静かであるという。

いったい、どうしてこのようなことが起こっているのか。まったく無念なことだ。何か

よい方法は無いか。」

と言いました。安氏は、承りましたが、本当のことを言うべきかどうか、迷いに迷って

ようやくこう言いました。

「実は、占いのままに申すならば、我が身の仇となり、言わなければ天子の権威を失墜

させてしまうことになるでしょう。どちらにしても罪を受ける身となりました。

 さて、人間に限らず、生を受けたものには、命以上のい宝は有りません。ですから、

仏の五百戒のその中でも、殺生戒を第一に守れと教化されたのです。

 恐れながら、この大願に咎があると思われます。これは偏に、この安氏の業となるかと

思われますが、人柱を立てなくては、この嶋の成就は無いと占いに出ております。誠に

由々しき罪業となります。しかも、この人柱は、一人ならず二人ならず、全部で三十人

の人柱を立てなければなりません。」

これを聞いた浄海は、手にした扇で、畳の表をちょうどと打つと、

「やあ、このこと、外部に漏れぬようにせよ。何としても、この嶋を完成させなければならない。

堂塔伽藍を建てるにしても、一時は、民の心を悩まし、善も悪を先とする。つまり、善

悪の二法は、裏と表の関係だ。今、この人柱に取られる者にも、必ず過去の宿縁があるのだ。

しかしながら、一気に人柱を集めようとすれば、民の知る所となり、人々の行き来も途

絶えることになろう。少しずつ、気づかれぬように人柱を集めよ。」

と、言うのでした。

 さて、武士達は、生田や昆陽野(こやの)の辺りの草原に身を隠し、京より下る人、初めて京に

上る人を、取って押し込めては、獄中に投じる有様は無惨な次第です。

 突然に投獄された人々が、故郷を恋し懐かしむ有様こそ哀れです。人柱に取られると

わかっているのなら、老いたる親に暇乞いをし、名残惜しい妻子には形見を取らせてき

たものをと、牢の扉に取り付いて、悲しみ合って泣き明かしております。いつまで、こ

うしているのかすら分かりません。突然の行方不明で、捜しようも無いでしょうから、

いくら助けを待っても仕方ありません。自分の運命も尽きて果ててしまったと嘆く様子

は、見るに耐ない有様です。

 一人、二人に留まらす、二十九人を拉致したので、生田、昆陽野の辺りでは、妖怪変

化のものが、道行く人を宙に取ると、巷の噂となりました。

 やがて、親を取られた者、一人持った子を取られた者達が、丹波、播磨、伊賀、伊勢

など近国より、生田の周辺に集まってきて、行方知れずの者達の行方を捜し始めました。

例え魔物が、我が父、我が子を取ったとしても、せめて死骸を見せてくれと、消えた旅

人を探し求める姿は、野飼いの牛が夕暮れに、子牛を捜すが如く、まったく哀れとも、

なかなか喩え様もありません。

つづく


忘れ去られた物語たち14 説経兵庫の築嶋  ①

2012年11月23日 12時42分45秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ひょうごのつき嶋 ①

天下一石見掾正本(天満八太夫) 日比谷横丁又右衛門板 寛文期(1600代後半)

(説経正本集第二 29)

平清盛が行った大輪田泊竣工に関する物語。室町時代の幸若を下敷きとしている。
不明な文言は、永禄三年写本の「築島」を参考とした。(説経正本集第二 付録9)

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、奢れる者久しからず。

ただ、春の夜の夢の如し。猛き人もついには滅びぬ。偏に、風前の灯火。光有りと言えども

悪風に消えぬ。政をも究めず、天下の乱れをも覚らずし、民間の嬉しかる所知らざりしは、

久しからず。

 桓武天皇の第五皇子、一品(いちぼん)式部卿葛原(かずらはら)親王の九代の後胤である

讃岐の守清盛は、御出家されて、浄海(じょうかい)と申されました。天下の政を我が

儘に取り仕切り、津の国(摂津)、兵庫の浦に内裏を建て、福原の新京と呼んで、ここ

に住まわれました。

 これはさておき、難波入り江の三松には、形部左衛門国春という者がおりました。

明月女という娘を持ち、豊かな生活を送っておりました。明月女は、父母の愛情を一身

に受けて、美しく成長しました。明月女、十四歳の春のことです。乳母を伴って、芦屋

の野辺に遊山に出かけました。

 折しもそこに、丹波の国、仁和寺の蔵人兼家の子である藤兵衛家包(とうびょうえいえかね)

は、小鳥狩りに来ていて、偶然に明月女の姿を見かけました。家包は、姫の姿を一目見るなり、

そのムラサキ草のような可憐な姿に魅せられてしまいました。供人を遠くに控えさせると、

ススキの原に身を隠して、姫の姿を追いました。

 それとも知らず、姫君は、コマツナギの一房を手にして、一首の歌を詠じました。

『春はまず こまつなぎにぞ 若葉さす 古葉の色も 見え若葉こそ』

すると、隠れていた家包は、すかさず、

『春の野に 主も見えざる 離れ駒 蜘蛛の糸(い)にても 繋ぎとめばや』

と、強引な歌を返したかと思うと、飛び出して、乳母諸共に奪い取って、丹波の能勢へと

飛んで帰ったのでした。
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 ここに哀れを留めたのは、難波入り江三松の国春夫婦でした。突然の姫君の失踪に嘆き悲しみ、

御台様は、心労から病の床に伏してしまいました。驚いた国春が、いろいろと看病を

尽くしましたが、その甲斐も無く、御台様は、

「これは人間の習いではありますが、他人の良い子よりも、自分の悪い子の方が愛おし

く思われるものです。まして我が子は、仏神に祈誓を掛けて只一人持った子ですから、

世に類も無いと思っていたのに、行方知れずになった今、私はどうしたら良いのでしょう。

人の子は宝でも、我が子は親の敵(かたき)になってしまいました。こんなことを言って

いますが、恨んでいるわけではありません。ああ、恋しい明月姫よ。」

と、言い残すと、三十三歳の若さで亡ってしまわれました。国春は、死骸に取り付き

嘆き悲しんでいましたが、やがて、

「姫には生き別れ、夫には死別し、我が身はなんとするべきか。」

と、妻の野辺送りをすると、出家して、諸国修行の旅に出たのでした。

 さて、一方、神崎(兵庫県神崎郡)の住人で重元(しげもと)という者は、以前より

明月女に気がありましたが、この事件を聞きつけると、郎等の石山源五に、

「如何に源五。かの国春の娘が、仁和寺の家包に奪われたことは、誠に無念なことである。

押し寄せて、きゃつと討ち死にするぞ。」

と言いました。石山も、尤もと、総勢三千余騎の軍勢で、家包の城郭を取り囲むと、鬨の

声を上げました。城内より、桂の左衛門が進み出でて、

「何者だ。名乗れ、名乗れ。」

と言うと、寄せ手の陣から、武者一人が進み出でて、大音声に名乗りました。

「神崎の住人。権藤次重元(ごんとうじしげもと)が郎等、石山源五とは某なり。

難波入り江三松の姫君を奪い取ること、奇っ怪である。今すぐに、姫君を渡せ。さも

なくば、腹を切れ。」

これを聞いて、左衛門は、

「何、権藤次が寄せて来たのか。若君に先を越され、重ねて恥を掻く前に、その陣を退け。」

と、言い返しました。石山は、相手にもせずに、いきなり出陣を下知しましたので、合

戦が始まりました。我も我もと、戦の花を散らしましたが、残念ながら、権藤次、石山

主従、二騎ばかりを残すだけとなってしまいました。重元が、最早自害とするところ、

石山は押しとどめ、重元を落ち延びさせました。石山は、重元を無事に落とすために、

小高き所に立ち上がると、

「重元が郎等、石山が最期、これ見たまえや、人々。」

と、腹を十文字に掻ききって果てたのでした。

かの石山が最期の体、無念なりともなかなか、申すばかりはなかりけり

つづく

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記⑦終

2012年07月24日 16時13分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人六段目

 その時、弘嗣は法印に近づき、

「今まで、師匠様とばかり思っていましたが、本当は父上様だったのですね。」

と大喜びです。弘知法印ははこれを聞いて、

「もっと早くに名乗って、喜ばせようとは思っていたが、恩愛の執着は大変強いもの

であるので、菩提の障害であると思い、これまで名乗らなかったのだ。この上は、更に

修業を怠るなよ。修業さえ熟すれば何事も心に叶わないことは無いぞ。」

と言えば、これを聞いていた馬子が、

「これは、これは、大変有り難や。実は、あの馬は、私が飼っていた馬というわけでは無

いのです。ついこの間、どこからとも無く、親子馬がやって来たので、持ち主を捜しま

したが、見つかりません。馬主が現れるまでと思い世話をしておりました。普通の馬と

思って居ましたが、このような奇跡を目にしたからは、一念発起して、私も髪を剃り、

弘嗣様に付いて御奉仕申し上げたく思います。」

と言うと、弘知法印は、そのように思うなら兎にも角にもと、早速に髪を剃ると、「弘

りん坊」と名付けました。

 これはさて置き、かつて柏崎で怪我をした弥彦の荒王信竹は、足の傷も治ったので、

君の行方を尋ねようと、あちらこちらを尋ね回りました。荒王は、弘知法印の所在を

聞きつけると、急いでお目にかかろうと、道を急いでおりました。すると、途中で、三

十歳程の女が、七つほどの男の子の手を引いているのと出合いました。女は、荒王に、

「あなたは、弘知法印の所へ行かれる方とお見受けしました。この幼いは、法印のお子

さんです。子細はまたお話しいたしますが、私も共に弘知法印の本に連れて行って下さい。」

と言えば、荒王は、

「さては、千代若様ですか。」

と聞きました。女は、

「いいえ、千代若の弟君です。」

と答えました。荒王が、

「おお、確かその時分、柳の前様は御懐妊なされておりました。母君はどうされましたか。」

と聞くと、女は、柳の前が死んだことを話すのでした。

 そうして、荒王は、二人を連れて、弘知法印の所へとやってきたのでした。弘知法印

は、懐かしい荒王をご覧になり、

「これは、珍しい。荒王、傷は癒えたか。さて、誰を連れて来たのじゃ。」

と言いました。その時、かの女は、

「これは、御失念ですか、法印殿。この者こそ、千代若の弟君。あなたのお子様ですよ。」

と言うのでした。法印が、首をかしげて、

「なるほど、確かに弟はいたが、生まれてすぐに、狼にさらわれてしまった。狼に食わ

れて死んだ子が、どうしてここにおるのじゃ。」

と言うと、女は、

「さすがの法印様でも、変なことを仰るのですね。獅子、熊に育てられて大きくなった

話しは、内外の書伝にいくらでもあります。証拠はこれです。」

と言うと、かの半分に割った鏡の片割れを出したのでした。驚いた法印が、千代若に与

えたもう半分を合わせてみると、疑いもない兄弟です。その時、女は、

「私を誰と思うか。氏神弥彦権現である。その時の狼も、私である。」

と言い残して、消すが如くに消え失せたのでした。人々は、有り難し有り難しと虚空を

礼拝しました。弘知法印は、

「やれさて、これは、我が子に間違いない。兄の千代若は出家であるから、お前は、大

沼の家を継ぎなさい。」

と言うと、千代松と名付けたのでした。

「このことを帝に報告すれば、必ずや帝より所領を給わるであろう。そうしたら、荒王

は、家の家臣として勤めよ。今年は、お前達の母、柳の前の七年忌。忌日はちょうど、

今月の今日である。さあ、母の墓に参詣して、回向をいたしましょう。」

と、法印は、人々を連れて、妻の墓参りをしたのでした。法印は、高らかに御経を読誦

すると、

「如何に、柳の前の霊魂よ。兄は出家し、弟じゃ先祖よりの家を継ぐであろう。その上、

この弘知も、すぐに往生して、お前と共に一仏乗の蓮台に座るであろう。本当の悦びと

は、その時に訪れるぞ。」

と、回向すると、有り難いことに、虚空より音楽が聞こえ、花が降り、二十五の菩薩が

顕れたのでした。そして、墓がぱっかりと二つに割れると、柳の前が顕れました。

「有り難や、私の夫よ。仏法を成就なされて、私を弔う功徳によって、只今極楽世界へ

と引導されて行きます。懐かしの兄弟達よ、母が成仏する姿を、しっかりと拝むのですよ。」

と言い残すと、たちまちに仏体を現し、紫雲に打ち乗り、虚空に舞い上がりました。大

変有り難いことです。その時、仏法僧(ぶっぽうそう)が鳴きながら空を渡りました。

弘知法印は、これを見て、

「人々よ、聞きなさい。只今の鳥は、高野山の鳥であるぞ。この鳥は、こう告げた。

高野山は我等が胸の内にあり、知れば浄土、知らねば穢土(えど)。私は、高野山へ上

って往生を遂げようと思っていたが、どうして場所にこだわることがあるだろうか。只

今、ここで往生いたす。

 愚僧が誓った大願は、この身をそのまま現世に留め置いて、永遠に即身仏の証拠を、

末世の衆生に示すことである。千万年の時が経っても、朽ちもせず腐りもせず、鳥類

畜類にも荒らされず、まるで自然石然となるのだ。

 千代松は、本領を安堵して、御堂を建てよ。兄の弘嗣は住職なり、即身仏となった私

を安置して、衆生に拝ませなさい。」

と、委細を仰せ付けると、人々に念仏を唱えさせ、自らは数珠を手に禅定へと入りました。

そして、まるで眠っているように往生したのでした。有り難いこと限りありません。近

郷近在は言うに及ばず、生き如来を拝もうと群がった人々は、上下貴賤を問わず、夥

しい数だったということです。

 その頃、かつて弘知の身代わりとなって、柳の前を斬り殺した馬子は、出雲崎で羽振

り良く暮らしておりましたが、弘知法印の噂を聞いてやって来ました。

「何、悪所に狂って、親の勘当を受けた大悪人が、なんで成仏などできるものか。狐

や狸の仕業であろう。ほんとの生き仏なら受けてみよ。」

と、言うやいなや、手にした矛で、即身仏の左の脇腹を、ぐさりとばかりに突き立てた

のでした。ところが、その瞬間、馬子の目が潰れてしまいました。馬子が、矛を捨てて、

立ちすくんでいると、神光雷電、夥しく鳴り響き、悪鬼が現れました。悪鬼は、馬子を

鷲掴みにすると火の車に乗せて、あっという間に無間地獄をさして飛び去ったのでした。

まったく恐ろしいことといったらありません。

 さて、こうした奇跡を聞き及んだ都から、勅使として二条の中将がやってきました。

勅諚はこうでした。

「弘嗣を、権大僧都(ごんだいそうづ)とし、千代松は、大沼権之助弘親(ひろちか)

と名を改め、越後の領主とする。急いで御堂を建て、即神仏を安置せよ。」

早速に、御堂を建立すると、弘知法印の尊体を移し、弘嗣が住職を勤めました。弘親は、

昔の館を復興し、末繁盛に栄えたのでした。光孝天皇の仁和七年九月三日

(※仁和は五年までしか無いので架空の設定と考えるべきか:この記述からすると、寛

平2年(891年)のことになるが、805年前では無い。貞享2年(1685年)か

ら逆算すれば、元慶4年のことになる(880年))

に弘知法印は、往生され(史実上の入定は、貞治2年(1363年))貞享2年まで

805年間、今も越後の国柏崎に、そのお姿を拝むことができます。前代未聞のありが

たさに、言うべき言葉もありません。

おわり

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記⑥

2012年07月21日 18時32分08秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人五段目 

 それから、弘知法印は、弘嗣の手を引いて高野山を目指しました。しかし、遙かなる

越路は、幼い足には、つらい旅です。やがて法印は、弘嗣を負ぶって歩きました。

 あるところまで来ると、弘嗣はこう言いました。

「のう、お師匠様。お話したいことがありますので、降ろしてください。」

法印は、

「言いたいことがあるならば、そこで言いなさい。」

と、先を急ぎます。しかし弘嗣は、

「負ぶわれたままで、お師匠様にお話する事などできませぬ、下へ降りてお話いたしま

す。降ろしてください。」

と、身体をくねって暴れるので、法印は仕方なく弘嗣を降ろしました。すると弘嗣は跪いて、

「外でもありません。七尺下がって師の影を踏まずと申しますのに、如何に幼いとはいえ、

お師匠様の背中に負ぶわれていては、天の仏神がご覧になって何と思われるか。時間は

かかっても、自分で歩いて行きます。お師匠様。」

と言うのでした。父、法印は、我が子の知恵の深さに驚いて、嬉しさが込み上げて来ました。

あまりに愛おしく、父を名乗って喜ばせたくも思いましたが、ようやく思い留まって、

「おお、大人びた弘嗣じゃの。幼い時は、天の許しもあるのだぞ。その上、弟子子と

言えば、師匠は親も同然。幼いうちは、親が抱き育ててこそ人となれるのだから、お前

の言うことも正しいが、幼いうちは親を頼るものだ。ささ、早く負ぶわれなさい。」

と優しく諭せば、弘嗣は、

「おじいさまが、常々仰られていたことは、『鷹は死ねども穂を摘まず。鳩に三枝の礼あり』

と言うことです。鳥類さえも礼儀を知っているのに、師匠と頼みながら、礼儀を失して

は、鳥類にも劣ることになります。負ぶわれるわけにはいきません。どうか手を引いて

いって下さい。」

と、頑なです。これには、法印もほとほと困って、仕方なく手を引いて歩き始めたの

でした。

 先を急ぎたい旅ですが、今年九歳の幼子の足が耐えられるような道ではありません。

やがて、弘嗣の草鞋は血潮に染まって、もう一歩も歩けなくなりました。弘嗣は、足の

痛みに耐えかねて道端に倒れ伏してしまいました。法印は、あまりの労しさに心を痛め

ましたが、負ぶうと言っても聞かず、さりとてもう歩くこともできず、途方に暮れておりました。

 そんな時に、辺りを見回すと、馬が草を食べているのが見えました。近くには今年生

まれたらしい子馬も居ます。土手には、馬子と思しき男が昼寝をしていました。法印は、

この馬を借りて、次の宿まで乗せて行こうと思い立ちました。

「これこれ、あなたはこの馬の持ち主ですかな。次の宿までこの子を乗せていただきた

い。駄賃は望みの通りに払います。いかがですかな。」

と、声を掛けると男は目を醒まして、起きあがると、

「いかにも、私はこの馬の持ち主です。駄賃の仕事でもあれば酒代にでもなろうと、こ

こでお客を待っていました。しかし、見ての通りの駄馬で、子もあるので、遠くへ行く

ことはできません。次の宿までなら駄賃貸し致しましょう。」

と言うので、法印は喜んで、弘嗣を馬に乗せました。法印が、

「我等は高野山へ上る沙門である。まだまだ先の長い旅であるので、道を急いでもらいたい。」

と言うと、馬子は、心得ましたと口を取り、先に立って歩き始めました。ところが、

子馬が急にいななき出すと、母馬も共にひと声いなないたのでした。六根清浄なる弘知

法印は、そのいななきを、こう聞いたのでした。

『子馬が乳を飲みたいと言えば、母馬は、この旅の僧達は高野山へ上る僧。私たちの

菩提に縁ある僧達で、先を急いでいるので、次の宿まで我慢をしなさいと言っている。

さても鳥類畜類に至るまで、人に変わらぬ志し、殊に恩愛の情には変わりは無い。』

と法印は思って、こう言いました。

「しばらく、ここで休むことにしましょうか。子馬に乳を飲ませなさい。」

弘知は、弘嗣を降ろすと、傍らに腰を掛けて休みました。子馬は喜んで母馬の乳を飲ん

でいます。

 すると、不思議なことに、親子の馬はそろって、ばったりと倒れてしまったのです。

いったいどうしたことでしょう。親子の馬はぽっくりと死んでしまったのです。馬子は、

呆れ果てていましたが、法印は少しも驚かず、親子馬の死骸に向かい、尊勝陀羅尼を

読誦しています。やがて、

「如是畜生地獄。到来生死、到来生死。」

と高らかに唱えると、陀羅尼の功徳が現れ、不思議にも親子馬の死骸はかっぱと二つに

割れたのでした。驚いたことに、母馬の死骸の中からは、父、秋弘が、子馬の中からは、

亡くなって久しい法印の母親が現れたのでした。

「珍しや弘友、お前が弘知法印となって、我々を助ける事は、前世よりの因縁と定まっ

た事。又、お前の妻、柳の前が死んだことも、七月半で生まれ出た産子と別れたのも

同じ事。仏の方便は無量であるから、やがて不思議なことが起こるであろう。さて、

我々は、不慮の悪縁によって、たちまち畜生道に落ちてしまったが、お前を子に持った

ことで、二人とも今、兜率天(とそつてん:須弥山の頂上)に生まれ変わろうとしているのだよ。

お前は、本当は観音菩薩であるのだが、衆生済度のためにこの世に生まれたとも知らず、

唯、我が子とばかり思い違いをしておった。お前は、永く即身仏となって、末代まで

衆生に拝まれることになるだろう。有り難し、有り難し。」

と、言いながら、二人は忽然と天人となり、虚空へと昇って行ったのでした。弘知親子

は本より、近郷近在の人々まで、前代未聞の出来事に、拝まない者はありませんでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記⑤

2012年07月21日 09時52分46秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人四段目 

 弘知法印が高野山に上ってから、既に七年の年月が流れました。弘知法印は、修業を

積んで、六根清浄の大知識となりましたが、さすがに望郷の念断ちがたく、修業がてらに

越路へと足を向けました。加賀と越中の国境である倶利伽羅峠(石川富山県境)に差し掛かると、

道の辺の死人に熊や狼が群れ集まって、死体を食い争っている所に出くわしました。

弘知上人は、このままでは成仏できないと、哀れに思って、回向をしてあげようと思い、

死体に近づくと、熊、狼が、怒り狂って襲いかかって来ました。法印はこれを見て、

「おお、不憫な獣どもよ。そんなに飢えているのなら、この法印がお前達の餌になって

やるぞ。さあ、早く食え。如是畜生。」(発菩提心が略されているカ)

(諸仏大慈悲方便力、普利法界群生類、尽未来際無疲倦、汝当得四無尋智:空海の四句の文を補う)

と四句の文を唱えると、

忽然と弘知上人の身体から光明が発し、辺りを隅々まで照らし出した。すると不思議な

ことに、死人がかっぱと起きあがり、畜生諸共に天狗と姿を変えたのでした。天狗共は

「弘知を魔道に引き入れてくれる。」

と、襲いかかって来ます。しかし、弘知は少しも騒がず、

「本来、お前達は護法神であるはず。何を血迷っているのか。」

と一喝すると、天狗共は頭を地に擦りつけて、

「倶利伽羅不動よりの仏勅にて、弘知の法力を現し、末世の衆生に拝ませる為、我々に

襲わせたのです。我々の好んですることではありません。」と言うなり、ほうほうの体で

退散したのでした。そこで、法印は、不動尊を参詣して、越後の国へと進まれたのでした。

 さて、無常は世の習いというもの。越後の国では、大沼長者秋弘は、弘友を勘当した後、

孫の千代若を大切に養育して月日を送っておりました。光陰は矢の如し、千代若も九歳

となりました。しかし、どういう宿世の因果からでしょうか、年ごとに財宝は消え失せ、

今はもう、召し使う者もなく、年寄りは九つの孫を力とし、千代若は七十を越えた祖父

を頼りとするばかりです。麻の単衣を身に纏って、秋弘は鍬を担いで野に出で食べ物を

探し、千代若は籠を背負って松の落ち葉を掻き集める毎日です。まったく哀れな次第です。

ある日、千代若が木の葉を集めていると、落ち葉の中から突然に大きな蛇が現れました。

蛇は、

「おお、懐かしの千代若よ。私はあなたの母ですよ。」

と、這い寄って来たのでした。飛び上がって驚いた千代松は、

「のうのう、おじいさま。大きな蛇が、物言って、這い寄ります。」

と、悲鳴を上げて逃げ回りました。蛇は、

「そんなに恐れることはない。千代若。」

と言って、懐かしげに千代若を追い回します。これを見て驚いた秋弘は、走り寄って鎌

で追い払いますが、

「このような蛇は、頭を切り落とすのが一番じゃ。」

と、鍬を思いっきり打ち込んだのでした。ところが、地面に岩でもあったのでしょうか。

蛇はするりと逃げて、自分が打ち下ろした鍬が跳ね返って、秋弘の眉間に突き当たって

しまったのでした。ばったりともんどりを打った秋弘は、そのまま息絶えました。

 千代若は、祖父の死骸に抱きついて泣くばかりです。いったいどんな因果の報いでしょうか。

やがて、事故を知った近所の人々が集まって、千代若を慰めている所に、今は弘知法印

となった父の弘友が通りかかったのでした。人々は、旅の僧を見かけると、引き留めて、

「この死人は、大沼長者秋弘と申す者。昔は大福長者でした。権之助弘友という子がありましたが、

勘当されて行方知れずになり、孫の千代若を育てて月日を送っておりましたが、どうい

う因果からか、次第に財宝を失って、今はこのようにお亡くなりになってしまいました。」

と、詳しく説明をすれば、弘知法印は、我が身の上のことと、はっと驚き、凍り付く涙

を抑えつつ、震える声で、

「それは、不憫なこと。それでは弔いいたしましょう。」

と言いながら近づいてみると、紛う事なき父の秋弘です。傍らに呆然と立っているのは、

間違いなく我が子の千代若です。見れば幼いころの面影が思い出されます。今は亡き妻


忘れ去られた物語たち13 説経弘知法印御伝記④

2012年07月19日 17時02分44秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

弘知上人三段目 

 その後、弘友は、心に懸かることはもう無いと、高野山を目指すことにしました。その

途次、弘友は、柏崎にある越後の高野山と言われる国分寺の五智如来にやってきたので

した。この如来と申すのは、四十五代聖武天皇の勅願によって、行基菩薩が開眼した日

本屈指の霊仏です。秋弘は、

「私にはもう浮き世に望みはありません。発心堅固に成就して、六根清浄の身となり、

現に即身仏にさせて下さい。」

としばらく願念し、その夜は、そこに泊まることにしました。そこへ諸国行脚とおぼし

き六十歳ぐらいの老僧がやってきました。老僧も仏に礼拝すると、後ろの格子の近くに

座ると、座禅をして観法を始めました。既に、その夜も更けて、無常を示す寺の鐘の音

が澄み渡ります。漆黒の闇の中で弘友は、自分の身の上も身体も肌寒い限りです。磯に

寄せる波に驚いて、鳴き交わす浜千鳥の声を聞くにつけても、昔のことが恋しく思い出

されて、心細さは限りありません。その時のことです、浦風が一陣に吹き渡り、身の毛

もよだつと思うところに、どこからともなく一人の女が現れました。女は、

「お久しぶりです弘友殿。人の恨み、世の嘲りをも弁えず、色に耽って頓着の想いに身

を沈め、夢現とも分からずに暮らしたその人の昨日の姿とは見違えるようなお姿ですね。

浮き世の夢から覚める時が来ましたね。目を醒ましなさい。弘友殿。」

と言うのでした。驚いた弘友が、

「これは、この世の物とも思えぬ声音で、弘友と言うのはどなたですかな。このような

夜中に、女の声とは覚えもありませぬ。」

と答えると、女は、

「覚えもないとは恨めしい。二世と契った睦言を、早くもお忘れですか。私は、あなた

に斬り殺され、その恨みが尽きることはありません。生死は無常とは言いながら、女の

身で、冥途に落ちる罪障は、どれ程のものとお思いですか。魂は冥途で苦しみ、魄は未

だに娑婆で彷徨っているのです。その恨みを語るその為に、こうして仮の姿を現したのです。」

これを聞いて弘友は、

「さては我妻の柳の前か。お前を殺したのは私では無い。今、分かったぞ。いつぞやそなたが、

惣次を遣いにして父の事を知らせた時に、忍び逃げる為に、馬子と衣装を取り替えて、

つまらぬ謀をしたために、お前が、馬子を私と間違えたのも無理は無い。又、その馬子

もお前を知らないから、逃げるために誤ってお前を切り捨てたのだろう。お前を切った

刀は、私が馬子に貸した刀であるから、手には掛けなくとも私が切ったと同じこと、凡

夫の身では知る由もないことだが、このように深く謝るので、これ皆、前世の因縁と思

い、恨みを残すなよ。私も、このように親の勘当を受け、お前を殺した罪咎を発端とし

て発起して、菩提心に目覚めたのだ。どうか恨みを残すなよ。」

と深々と頭を下げれば、柳の前の霊はこれを聞いて、

「それは、嬉しいことです。その心があるならば、最早、恨みを残すことも無いでしょう。

しかし、凡夫の身の悲しさは、火に遭っては水を求め、水に遭っては火を求めるものです。

その時々の苦しみによって、変わり易いのが凡夫の心です。只今のあなたの道心は、親

の勘当を受け、妻子とも別れた悲しみのあまりに起こったことですから、これは皆、色

相の迷いから起こったことです。執愛恋慕の迷い、煩悩のおかげなのですよ。」

と言うのでした。弘友は、これを聞いて、

「安心しなさい柳の前よ。三千大千世界は滅びても私の発心が揺らぐことは無い。おお、

忘れていたことがある。千代若は、父秋弘に預けたので、ちちの跡を継ぐことに間違い

無い。千代若のことは心配せずとも良いぞ。」

と言えば、柳の前は、

「やれ、それこそ凡夫の心。どうして仏になった者に愛着心というものがあるでしょうか。

娑婆においては、色身に隔てられて分からぬことですが、今は私には色身はありませんから、

千代若と慣れ親しむようなことはもう無いのですよ。」

と話していると、座禅をしていた老僧が怒鳴りました。

「やあ、そこに居るのは何者であるか。先ほどよりここで聞いて居れば、事の子細は

分からぬが、このような尊い仏前において、若い男女が密会のていたらく。言語道断である。

逢い引きならば、御堂を出て、どこででも密会せよ。早く出て行け。」

その時、柳の前の姿は忽ちに消え失せたのでした。弘友が、

「私は旅の者。菩提心を起こして高野山に向かう途中、幸いにもこの如来堂に立ち寄り、

通夜をいたしますが、女人と逢い引きとは解せません。」

と言えば、老僧は、

「今まで、若い女と話して居ながら、そうでは無いと争うは曲者。盲語戒を破っておいて、

高野山を目指して何になるか。」

と恫喝しました。弘友が、

「しかし、ここに女などおりません。こちらへ来て見てください。」

と言うので、老僧が近づいてみると、成る程、女の姿はありません。老僧は、あっけに

とられて、

「先ほどは、確かに女がいた。今ここに居ないのも確か。しかしお前が羽織る小袖は、

女物。どうやら何か訳があるようじゃが、子細も知らずにとやかく言うのも盲語戒である。

本より愚僧は、高野山の奥院の者であるが、思うところあって、北陸道を行脚する者、

懺悔は罪を滅ぼす。有りの儘に話してみなさい。」

と言うと、弘友はこれを聞いて、これまでの事の次第や、妻の霊魂の現れたことを、有

りの儘に話しました。そして、老僧に向かい、弟子にして欲しいと手を合わせて願ったのでした。

老僧は、

「おお、それは誠に哀れな話。親子夫婦のことは前世よりの因縁であるから、良きにつけ

悪しきにつけ、善行を積むしか輪廻を断ち切り法は無いが、見性して道を悟ることができれば、

善悪共に生滅して、永久に生死の迷いから解脱する。だが、迷っている間は、六道の輪

廻から逃れることは永久に出来ないのだ。よろしい、望みであれば、愚僧の弟子になりなさい。」

と答えました。やがてその夜も明ければ、剃髪し「弘知」と改名しました。後の弘知法

印です。

老人は、弘知にこう言いました。

「如何に弘知。仏法を成就して、六根清浄になりたいと思うならば、我が身を我が身と

思ってはならない。我が身を我が身と思わなければ、一切衆生は我が身である。自他の

区別など存在しない。自他の区別をしなければ、天地の全ては、一仏一心である。そし

て、天上天下唯我独尊となる。」

弘知は、大変喜んで、夢から覚めた心地です。感激した弘知が、

「今までは うきよの夢に迷いつつ 醒むればひとり 月ぞさやけき」

と詠じれば、老僧も喜んで、

「夢も無き 世を我からと夢にして 醒むる見れば 夢にても無し」

と一首を連ねると、

「我をば誰と思うか。我こそ弘法大師であるぞ。」

と言い残して、忽然と消え失せたのでした。弘知は有り難い有り難いと、三度拝むと、

高野山を目指して、更に行脚の旅を続けたのでした。

 さて、高野山への旅も、紀州路となった頃のことです。近づいて来た女が声を掛けてきました。

「もしもし、お坊様。頼みたいことがあります。」

弘知は、女の声と聞いて、無視して通り過ぎましたが、女は更に追いすがって、

「これは慈悲も無い沙門殿。事の子細も聞かないで、修業者とは言えないでしょう。」

と言いました。弘知はそれも尤もと思って、何事であるかと、近づいて見ると十六ばか

りの美しい姫が、黄金の釜を抱えて立っていました。女は、縋るようにしてこう言うのでした。

「のうのう、お坊様。私は、幼くして父を失い、母に育てられましたが、その母も先日

亡くなりました。その母が末期に、黄金の釜をある所に埋めてあるので、それを

掘り出して、誰でもよいから夫婦となって、世過ぎの足しにしなさいと言ったので、この

ように黄金の釜を掘り出して来ました。あなたに出合ったのも他生の縁。私をどこにでも

お連れいただき、この黄金で一緒に暮らしてください。どうか宜しくお願いいたします。」

女は、馴れ馴れしく迫ってきました。驚いた弘知は、思わず跳びし去って、

「これは、とんでもない事を。そのようなことに、返答も必要ない。」

とその場は足早に立ち去ると、女は更に追い縋ると、

「我こそ第六天の魔王なり、お前の修業を邪魔するために来たのだ。」

っとばかりに、忽ち悪鬼となって襲いかかって来ました。しかし、弘知は少しも騒がずに、

手にした数珠を投げつけました。すると、数珠は般若の利剣となって悪鬼を切り払いました。(※弘法大師が「般若心経」を解説した「般若心経秘鍵」に「文殊の利剣は諸戯を断つ」とあり、これを引用したものと思われる)

魔王はとても敵わず、有り難き法力であると虚空に飛び去ると、利剣は本の数珠に戻って

弘知の手に返ったのでした。さて、それから弘知は高野山の奥院に閉じこもって修業を

重ねたのでした。弘知法印の法力は、有り難い限りです。

つづく

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