幸田文に『水』と題する文があります。
はい。好きな文です。そこからの引用。
「父(幸田露伴)は水にはいろいろと関心を寄せていた。
好きなのである。私は父の好きだったものと問われれば、
躊躇(ちゅうちょ)なくその一つを水と答えるつもりだ。
大河の表面を走る水、中層を行く水、底を流れる水、
の計数的な話などはおよそ理解から遠いものであったから、
ただ妙な勉強をしているなと思うに過ぎなかった。
が、時あって感情的な、詩的な
水に寄せることばの奔出に出会うならば、
いかな鈍根も揺り動かされ押し流される。
水にからむ小さい話のいくつかは実によかった。
・・・・」
はい。ここから思い浮かぶ、梅棹忠夫の言葉がありました。
「水がながれてゆくとき、
水路にいろいろなでっぱりがたくさんでている。
水はそれにぶつかり、そこにウズマキがおこる。
水全体がごうごうと音をたててながれ、
泡だち、波うち、渦をまいてながれてゆく。
こういう状態が、いわゆる乱流の状態である。
ところが、障害物がなにもない場合には、
大量の水が高速度でうごいても、音ひとつしない。みていても、
水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
この状態が、いわゆる層流の状態である。
知的生産の技術のひとつの要点は、できるだけ
障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、
日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだと
いっていいだろう。
精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。
努力によってえられるものは、精神の安静なのである。」
(p95~96「知的生産の技術」岩波新書)
ここに、『水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
この状態が、いわゆる層流の状態である。』とあるのでした。
ここから、梅棹忠夫の文章論が出来そうな気がします。
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)で、
『遅筆の梅棹さん』をとりあげた箇所に、
「原稿がなかなかすすまなくて困っているとき、
先生は苦笑しながら、こんなことをもらされた。
『ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
すらすら読めるし、わかりやすい。だから、
かくときもさらさらっとかけると思っている人がいるらしい』
・・・」(p240)
はい、ここまできたら最後は、
小松左京氏の梅棹忠夫文章論を紹介。
「梅棹さんの文章は、一見きわめてとっつきやすく、
肩の力のはいらない平明達意のスタイルでいながら、
短いセンテンスの中に重要な新しい論点、コンセプトが
ぎっしりつまっていて、おのずとそれを丹念にときほぐし
展開していけば、一篇の論文で優に一冊の本ができるほど
問題が豊富にもりこまれている場合が多い。」
ここで、小松さんは、層流の状態を『文章密度』として
指摘されておりました。
「梅棹さんの、特に初期の論文は、きわめて『文章密度』が高い。
一つの単語、用語が、両義的というわけではないが、
二つのちがう方向性を持つ意味をふくんだ、
裏表貼り合わせのような構造を荷っていて、
そこを出発点として、微妙にちがう二様の
文脈(コンテキスト)がのびていく。
一方だけを性急に追っていくと、いつのまにか行きどまりになったり、
とんでもない所にほうり出されたような感じになる。
だが、もう一方の文脈を同時に追うことになれると、
二つの意味の流れのたどりつく次の結節点は、相互に補完的
ないしは意味強勢的な新しい立体的パターンを描き出す。
・・・・・・
私のような締切に追われて書きとばしながら構成を考えるといった、
忙しいジャーナリズム流の文章の書き方になじんできたものにとっては、
結節点になる一つ一つの単語や概念がきわめて厳密にえらばれ、
文章の進行は非常に簡潔で反復の印象をあたえないのに、
『ぬりかさね』のような効果によって対象領域の立体性や、
問題の多面的な厚みが浮かび上がってくる。
こういった梅棹さんの論文は・・・」
(p716 ~ 717 「梅棹忠夫著作集 第14巻」)
うん。小松左京さんが指摘される
「『ぬりかさね』のような・・多面的な厚みが浮かび上がって」
という言葉に出会うと、つい私は幸田文さんの言葉が浮かびます。
『大河の表面を走る水、中層を行く水、底を流れる水』
あっ、そうそう。こんなエピソードも忘れずに引用しておきます。
『知的生産の技術』を担当した編集者小川壽夫さんが、
督促にでかけた際でした。
「原稿はあらたに書き下ろす形になったが、
なかなかスタートしない。
お宅にうかがうと、先生は
トイレの水の流しかたをどう書いたら
お客さんにわかってもらえるか、苦悶されている。
できるだけ短く、ひらがなで二行。
何度も書き直す。
その日は、督促のしようもなかった。」
(p102「知的先覚者の軌跡梅棹忠夫」国立民族学博物館・2011年)
はい。私も『開き直り』のタイプです。