ついで元亀元年11~12月、志賀の陣和談交渉時の状況。
従来説は「雪によって越前への通路が遮断されるのを恐れた義景が、将軍義昭に和睦の仲介を依頼す る。信長は同意しなかったが、義昭がわざわざ三井寺まで出向いて信長を説得したので、しかたなく和睦の話し合いに応じることにした」とするものだったらしい。和睦を申し入れたのは朝倉義景で、調停を担当したのは足利義昭。信長はしぶしぶこれに応じた。
従来説は「雪によって越前への通路が遮断されるのを恐れた義景が、将軍義昭に和睦の仲介を依頼す る。信長は同意しなかったが、義昭がわざわざ三井寺まで出向いて信長を説得したので、しかたなく和睦の話し合いに応じることにした」とするものだったらしい。和睦を申し入れたのは朝倉義景で、調停を担当したのは足利義昭。信長はしぶしぶこれに応じた。
しかし近年の研究により、この時期信長は足利義昭のために忠実にはたらいていたことが明らかとなった。和睦を申し入れたのは信長のほうで、調停を担当したのは関白・二条晴良であったらしい。
「11月28日に晴良は、義昭と一緒に三井寺に下向している。晴良はまず義昭との打ち合わせを行い、 朝倉の陣に使者を遣わして説得することから始めた。義景は晴良の使者を3、4日陣にとどめ、浅井長政および延暦寺の意向を尋ねている。つまり、晴良の使者は、信長の出した条件を持って朝倉陣に向かったのである。将軍義昭を動かして調停をさせたのは、信長のほうであることは明らかである。」
そしてこの和談に難色をしめしたのは延暦寺であったようだ。
「晴良の出した調停案に対して、最後、朝倉義景も浅井長政も妥協してくれた。しかし、一方だけ、まだ異議を唱える者がいた。延暦寺である。将軍や関白の調停だけでは承知しなか ったのである。晴良は急遽天皇に綸旨を出してもらい、ようやく延暦寺を納得させた。12月9日付けの綸旨には、延暦寺領の安堵について明記されている。この和睦交渉が12月1日から始まりながらも最後12日まで延びたのは、延暦寺がなかなか承知しなかったせいである。」
(参考文献:谷口克広『信長と将軍義昭』)
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