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三方ヶ原 32

2023-05-29 20:45:00 |  戦国群雄伝
元亀3年3月5日、信長は北近江に向けて岐阜を出陣した。小谷城を囲み、周辺を放火して挑発したけれど、浅井長政は一兵も出さず、信長は空しく囲みを解き、12日に京都に入った。


3月21日、義昭は信長の京都邸を建設するよう、幕臣や公家たちに命令をくだした。24日には鍬初が盛大に行われた。

4月、三好義継・松永久秀の軍が、畠山の将、安見新七郎の守る交野城を包囲した。4月16日、信長の部将、柴田勝家・佐久間信盛らが交野救援のため京都を出陣した。南方へ向かったのは、彼ら織田軍ばかりではなかった。細川藤孝・明智光秀・三淵藤英・上野秀政といった幕府奉公衆、摂津の守護である伊丹忠親・池田勝正・和田惟長も一緒だった。

信長の軍勢に幕府軍も加わった大軍に攻撃されては、三好・松永の軍勢などひとたまりもない。義継は若江へ、久秀は信貴山城へと逃げ帰った。

(参考文献:谷口克広『信長と将軍義昭』)




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三方ヶ原 31

2023-05-28 16:07:00 |  戦国群雄伝
明智光秀「焼いちゃえばいいんですよ」


元亀2年2月10日、朝倉側は「
横山城を浅井氏に返還すること」「佐和山城の包囲を解くこと」の2点について信長の約束不履行を詰り、義昭が仲介者として努力してくれるよう求めた。

この直後に佐和山城は開城し、城将磯野員昌は身柄を高島郡新庄に移された。横山方面では、5月、江北の一揆の協力を得て、浅井軍が攻勢に出たものの、木下秀吉の軍の反撃を受けて退却を余儀なくされるという攻防戦があった。


9月、江南方面に信長自らが出陣した。そしてまず、一揆の拠点である金森城を攻撃する。金森城には本願寺の援軍が入っていたが、あっけなく降参した。約3万の織田軍はさらに進んで三井寺近辺に布陣、12日、そこから突然坂本の町と延暦寺および日吉社に攻め込み、放火、殺戮を敢行したのである。

延暦寺および日吉社の遺領は義昭の家臣である明智光秀に配分された。

(参考文献:谷口克広『信長と将軍義昭』)



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三方ヶ原 30

2023-05-27 10:08:51 |  戦国群雄伝
ついで元亀元年11~12月、志賀の陣和談交渉時の状況。


従来説は「雪によって越前への通路が遮断されるのを恐れた義景が、将軍義昭に和睦の仲介を依頼す る。信長は同意しなかったが、義昭がわざわざ三井寺まで出向いて信長を説得したので、しかたなく和睦の話し合いに応じることにした」とするものだったらしい。和睦を申し入れたのは朝倉義景で、調停を担当したのは足利義昭。信長はしぶしぶこれに応じた。

しかし近年の研究により、この時期信長は足利義昭のために忠実にはたらいていたことが明らかとなった。和睦を申し入れたのは信長のほうで、調停を担当したのは関白・二条晴良であったらしい。

「11月28日に晴良は、義昭と一緒に三井寺に下向している。晴良はまず義昭との打ち合わせを行い、 朝倉の陣に使者を遣わして説得することから始めた。義景は晴良の使者を3、4日陣にとどめ、浅井長政および延暦寺の意向を尋ねている。つまり、晴良の使者は、信長の出した条件を持って朝倉陣に向かったのである。将軍義昭を動かして調停をさせたのは、信長のほうであることは明らかである。」

そしてこの和談に難色をしめしたのは延暦寺であったようだ。

「晴良の出した調停案に対して、最後、朝倉義景も浅井長政も妥協してくれた。しかし、一方だけ、まだ異議を唱える者がいた。延暦寺である。将軍や関白の調停だけでは承知しなか ったのである。晴良は急遽天皇に綸旨を出してもらい、ようやく延暦寺を納得させた。12月9日付けの綸旨には、延暦寺領の安堵について明記されている。この和睦交渉が12月1日から始まりながらも最後12日まで延びたのは、延暦寺がなかなか承知しなかったせいである。」

(参考文献:谷口克広『信長と将軍義昭』)





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三方ヶ原 29

2023-05-27 09:43:21 |  戦国群雄伝
近江方面、両軍のセットアップについて考えてみたい。参考文献は谷口克広『信長と将軍義昭』(2014年、中公新書)。


元亀元年6月には織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が姉川をはさんで対峙した。人数については諸説あり不明。ちなみに『信玄上洛』ゲーム上では(元亀3年の状況であるが)織田軍の総戦力は84、徳川軍19戦力、朝倉軍20戦力、浅井軍8戦力だが、これではとても合戦にはならないだろう。




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三方ヶ原 28

2023-05-21 17:55:37 |  戦国群雄伝
反織田陣営の命運は武田軍の戦闘結果次第であると言っていいだろう。遠藤珠紀「武田信玄への三通の綸旨」(『戦国史研究』第64号、2012)によると、武田信玄は元亀3年9月5日までに遠江への出陣を決意し、「ある人物」に起請文を差し出したらしい。この「ある人物」とは、これまで足利義昭であると考えられてきた。

甲州信玄、当廿日以前、至遠州表出馬相究候、誓詞等被相越、厳重之様子候、可御心安候、
(9月5日付浅井長政書状より抜粋)


これを受けて四辻季遠(大納言)の甲斐下向が検討されたらしい。

今度叡山炎上之事、被歎思食処、法性院僧正為再隆、既企入洛由、被及聞召候、随而 朝家之盛興可被励忠勤由、可令直談給者、依 天気言上、如件、誠恐謹言、
(元亀3年9月20日付勧修寺晴豊書状より抜粋)

つまり、武田信玄は正親町天皇の綸旨によって、延暦寺の再興を名目として、入洛することを約束していたということになる。正親町天皇は覚恕法親王(延暦寺座主)の実兄にあたる。







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