乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

片岡仁左衛門 昼夜の仇討 二月大歌舞伎 夜の部『盟三五大切』   鶴屋南北作

2011年02月14日 | 歌舞伎










     片岡仁左衛門 昼夜の仇討 

          二月大歌舞伎 夜の部『盟三五大切』   鶴屋南北作












『盟三五大切』   鶴屋南北作





 7日のこと。ひとりで通し狂言の『彦山権現誓助剱』(ひこさんごんげんちかいのすけだち)を見ましたが、未記録。

 数日後(12日)、家族と二人で通し狂言の『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)を観劇。

『盟三五大切』は好きな演目のひとつで、歌舞伎ではもちろんの事、以前は花組み芝居でもパロディパロディとして楽しんだことがある。

『盟三五大切』は忠臣蔵のパロディ的な作り替え芝居。

 上手く練られており、最後は切なさで考えさせられる。

 人生はこんなものなのかな、皮肉だな…って。




 昼の部の『彦山権現誓助剱』幕間でお話させていただいた関東のご夫人の話では、仁左衛門丈が相当調子が悪いとのことだったので心配していた。

 押さえたチケットが12日だったので、数日間は気になって仕方がなかった。

 そしてわたしが見た12日の仁左衛門丈は前半はそつなくこなされ、後半は魂を入れ込んでおられた。

 若干痩せておられ、また前半の八右衛門(若党六七八右衛門)の名を六衛門などと混乱されてはいたが、会場は気がつかれない程度。

 難なくスムーズに舞台進行がなされていた。

 仁左衛門丈の二幕目と大詰めの場での引き締まった表情と見得は今も思いだされる。

 今回の芝居はよほどおもしろかったらしく、芝居後家族は話すわ食べるわ飲むわ……。

 いつもにもまして芝居の余韻の美味しさが加えられ、一層の楽しい時間を過ごす。

 帰宅後

 夫は娘を相手に話し込んでいたのでいつものわたしのお役御免で、娘を解放してあげた。

 翌日もわたしに話し込んでいた。

 なんだかわたくしのお株をとられたような、妙な気分(^^)

 楽しいことはいいことだ。





 実際に今回の仁左衛門丈の『盟三五大切』は完成度が高く、一月藤十郎丈の『吉田屋』程のおもしろさだった。

 二月の昼の部の出来もよく、もう一度見たいと思わせる芝居だったが、『盟三五大切』は『女殺油地獄』程のできばえ。

『女殺油地獄』は三度通った事を覚えている夫は、
「僕は忙しいけれど『盟三五大切』はもう一度見てもいいよ。」 
とすすめてくれる。

 見たい気持ちは山々だが、今年の五月頃までは缶詰の家族を考えると、一人芝居で遊んでばかリもいられない。

 ここはひとまず ぐっとこらえる。





 二月大歌舞伎出の愛之助さんは前に前に出ておられ、表情も見得も見応えがある。

 愛之助さんのこの素晴らしさは、彼の演じた『伊勢音頭恋寝刃』も同様だったと感じる。

『伊勢音頭恋寝刃』のすごみは素晴らしいものだったし、感動もした。

 あのままの表現で演じ続けて欲しいと思っていたが、その後は少しようすが違った。

 とても上手い役者さんだが、いつもまわりを気にされ、気の毒な感じさえする。

 お家芸的な要素は歌舞伎の長所とも言えるが、欠点でもあると常に感じる。

 今回の彼は花咲いておられた。





 芝雀さんの歌舞伎的な言い回しと品の良さが好きで、この役者さんが出ていると嬉しいわたし。

 ただ、今回の役柄から考えて、品が良すぎる感じも否まない。

 芸者小万役はやはりわたしの好きな時蔵さんなどが気になる。

 



 吉原に対しての深川という意味合いを某書物で読んだことがあるが、『盟三五大切』では深川芸者を上手く描き上げている。

 笹野屋三五郎や芸者小万の人情が裏目に出て、忠義心が悲劇を呼ぶ。

 歌舞伎では忠義を取り上げた演目が多いが、『盟三五大切』の筋書きの単純で複雑さは見終わって複雑な気持ちの陥らせる。

 流石 鶴屋南北はすごいなと、見る度に感じる。





 松竹株式会社 歌舞伎美人より ▼

夜の部

通し狂言

  盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)

  序 幕 第一場 佃沖新地鼻の場
      第二場 深川大和町の場
  二幕目 第一場 二軒茶屋の場
      第二場 五人切の場
  大 詰 第一場 四谷鬼横町の場
      第二場 愛染院門前の場

                薩摩源五兵衛  仁左衛門
                  芸者小万  芝 雀
                笹野屋三五郎  愛之助
                  芸者菊野  松 也
              若党六七八右衛門  薪 車
              船頭お先の伊之助  猿 弥
             家主くり廻しの弥助  彌十郎
                富森助右衛門  段四郎





 松竹株式会社 歌舞伎美人より ▼

夜の部

通し狂言
  盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)

 文政8(1825)年江戸中村座で初演された『盟三五大切』(かみかけてさんごたいせつ)は、『東海道四谷怪談』の続編として、また『仮名手本忠臣蔵』の外伝として著された四世鶴屋南北の作品で、関西では初めての上演となります。

 芸者の小万に入れ揚げている塩冶家(えんやけ)の浪人不破数右衛門(ふわかずえもん)は、御用金を紛失したことから、大星に勘当された身。討入りの仲間に加わろうと、薩摩源五兵衛と名を変え、金策に奔走しています。

 ある日、源五兵衛のもとに伯父の富森助右衛門が工面した百両の金が届きます。それに目を付けたのが、旧主のために百両が必要だと父親に頼まれた、小万の情夫三五郎。三五郎は仲間たちと、源五兵衛を騙してその百両を巻き上げます。騙されたことに気付いた源五兵衛は復讐の鬼と化し、三五郎夫婦の家で仲間の五人を惨殺します。

 逃げのびた三五郎と小万は、偶然に入手した討入り先の高家(こうけ)の絵図面を、百両とともに三五郎の父に渡します。しかし、百両を必要としている父の旧主とは、不破数右衛門、即ち源五兵衛だったのです。そうとは知らぬ源五兵衛は、小万を見つけ斬り殺します。全てが明らかになり、絶望した三五郎は、源五兵衛の罪を被ろうと切腹。源五兵衛は三五郎夫婦に感謝しながら、絵図面と百両を持ち、討入りへと向かうのでした。

 赤穂浪士のひとりである男が巻き起こす悲劇を描いた作品で、五人斬りなどの陰惨な場面を、南北独特の歌舞伎ならではの様式美で表します。仁左衛門が勤める源五兵衛の葛藤と悪の魅力が眼目となる、趣向に満ちた大南北の傑作をご堪能下さい。






 最後までおつきあい下さいましてありがとうございました。

 今回も記録のみにて失礼申し上げます。

 二月大歌舞伎 昼の部 『彦山権現誓助剱』は後日記録したいと思います。

 拙い記録ブログではございますが、よろしくお願いします。





                 大阪 松竹座にて










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White Valentine Day  雪が降り、積もってきました。(8景)

2011年02月14日 | お出かけ



         White Valentine Day 

          
          2011年2月14日  
       雪が降り、積もってきました









 今日また雪が降ってきました。

 午後一時過ぎに牡丹雪が降り始め、二時半頃につもり始めました。

 


 まだ固い蕾のふきのとう




 雪で寒そうです




 ああ…

 わたしのとても好きなシャガにも雪が……




 トキワマンサクにも……




 遅咲きの梅の木にも雪がつもっています。





 トグサは首たれ、かわいそうです。




 写真中央右の刃物のような雪

 容赦なく降る中、




 垣根の山茶花だけは馬鹿程咲き誇っています。





       斑桃所望の山茶花まっかっか

       きゃはは はは は ちーん






            写真写すは三時前

            現在四時 さらに雪がつもり、真っ白になってきました。

            2011年2月14日  雪降る日に…






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大和文華館  特別講演「江戸の人気蒔絵師・原羊遊斉」

2011年02月14日 | 民俗考・伝承・講演



    大和文華館  特別講演「江戸の人気蒔絵師・原羊遊斉」







  

 





  




 大和文華館 「開館50周年記念特別展 特別企画展 2」大和文華館の日本工芸を楽しんだ後、特別講演「江戸の人気蒔絵師・原羊遊斉」を聞く。






 聴講すると蒔絵師の原羊遊斉と下絵師の酒井抱一の話を交えながら、どちらかというと酒井抱一の話を軸に講演は進められた。




 原 羊遊斎 (はら ようゆうさい) 1769~1845



 酒井抱一  Wikipediaより ▼

 酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。浮世絵師としての名は、杜陵あるいは屠龍、狂歌での名は、尻焼猿人、また俳号は白鳧、濤花、杜陵。

 略歴

神田小川町の姫路藩別邸にて生まれる。父は姫路藩主酒井忠仰であり、その次男(第四子)で酒井雅楽頭家の出自。母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)。姫路藩主・酒井忠以の弟。
17歳で元服して1,000石を与えられる。当時の大手門前の藩邸は、茶人として知られた兄忠以の庇護の下で文化サロンのようになっており、抱一も若い頃から俳諧や狂歌、浮世絵等に才能を発揮し、30歳で句集「軽挙館句藻」を刊行する。絵は狩野高信や宋紫石に学んでいる。兄の没後、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家した後は尾形光琳に私淑する。光琳の事績の研究や顕彰に努め、彼の没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に百回忌記念の光琳展覧会を催した(その時の縮小版展覧図録である『光琳百図』上下は、当時の琳派を考える上での基本資料である。また、この図録は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与えた)。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ、琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派(えどりんぱ)の創始者となった。さらに谷文晁とも親交があった。また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃、浮世絵師の歌川豊春に師事して、これを模した肉筆美人画「松風村雨図」(細見美術館所蔵)なども描いている。この作品の落款は、「楓窓杜陵画」で、「天明五年乙巳晩春」の年紀がある。抱一の肉筆浮世絵は、10点ほど現存するとされる。
「夏秋草図屏風」の通称でも広く知られる代表作の銀屏風 「風雨草花図」は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである。現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている。本作は、風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。
門人に鈴木其一、池田孤邨らがいる。また、大田南畝・谷文晁・亀田鵬斎・市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
下谷根岸の庵居、雨華庵で死去。享年68。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)。法名は等覚院殿前権大僧都文詮暉真尊師




  




 江戸時代 蒔絵師の原羊遊斉と下絵師の酒井抱一の組み合わせによるブランド蒔絵は、人気があった。

 当時團十郎が六十両かけ舞台で印籠や、帯締め、根付けをあつらえた。

 有名人か使うことにより、人気に拍車がかかったという。

 特に櫛のような手に入れやすいものは、原羊遊斉の師事は軽く、また 弟子につくらせた場合もあった。

 一方入魂の一品は、蒔絵の素材にいたりまでを細かく指示。これにより、酒井抱一も絵を描いたという。





 お話が進む中で、わたくしは蒔絵師の原羊遊斉と下絵師の酒井抱一の構図に興味を持った。


 下絵師の酒井抱一

   斜め構図

   空間美

   空間の流れに置ける花や実のあしらい

   箱の立ち上げの散ったいを利用した構図

 蒔絵師の原羊遊斉

   素材による遠近

   光琳風作風

   外は黒で、中に品の良い光り物の工夫





 尚、原羊遊斉作品としては、大和文華館には次の二点が展示されていた。



   『竹製蒔絵椿柳文茶入』酒井抱一図案 原羊遊斉作

   『螺鈿蒔絵梅文合子』緒方光琳・乾山 原羊遊斉模造


  



 今回、お聞きしたお話の主たる興味深い部分だけを記録しました。

 間違いやおきづくの点などがございましたら、教えていただければ嬉しいです。

 みなさま、最後までおつきあい下さいまして ありがとうございました。

 感謝しています。







           2011年2月13日

           奈良 学園前  
           
           大和文華館にて








          
コメント (2)
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