奈良の苑池から大量の木簡が出てくることがあったという。
博物館では木簡というものを見る機会に恵まれる場合が多いが、この木簡を読むと当時の様子がわかる。
何のなにがしがなにがしに何々しかじかを献上しただの、こまごまとした記録が記されている場合が多い。
そういうと奈良の長屋王に献上したという薬草
薬井という奈良の地から蕪などの薬になる植物を長屋王に徒歩で運んだ際にも、木簡も一緒に献上されたという。
この事から考えると、昔 貴族や氏族を意識した人間がなにがしをもらったといった記録を付けることは普通の行為だったのではないだろうか……。
であるならば、紀貫之は女々しいとも言い切れないかも知れない。
掃除をしながら、ふとそんなことを思い浮かべた。
『土佐日記』に出てくるような細かな記録は、当時多くの男性が個人的にも記録していたのでしょうか?
わたしは歴史が苦手ですので、どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、教えていただければうれしいです。
なにとぞよろしくお願い申し上げます。
余談ですが上に書いた薬井は北葛城郡の王寺の近く。
今も井戸が残り、その水は目にいいと言い伝えられていますが、実際には重曹?濃度が強く使用することはできません。
昔から薬になるとされる野菜などを育てられていた土地です。
武田薬品工業株式会社の社長さんは、確か薬井の出身だったように記憶しています。